父は庭が好きだった、花や樹木を愛していた |
季節はまさに秋爛漫、青い空に、初老の私は吸い込まれてゆきそうな気持ちよさである。そんなことを感じるわが体は、徐々に回復している。が油断大敵、じっと我慢、家の中から我が家の庭の秋を愛でている。
愛でる嬉しさ悦び、秋を感じる微妙な移ろい。若いころには心を揺らさなかった細部に眼がようやくにして向かうようになってきた。
日本という風土と 、(私の場合は宮崎だが)自分が深く深く結びついているのだということが、歳を重ねるにしたがって実感するようになってきた。(わが体は空や水、森羅万象と密につながっている)
だからなのだ、五十鈴川だよりを書くようになり、年に数回どうしても故郷に足が向かうのは。こないだ帰京したのは6月、こうもお天気がいいと、わが心は五十鈴川周辺の景観にいざなわれる。
体調がもどったら、お墓参りもかねて、そろりとわが体はきっと故郷に向かうのだろう。それは帰巣本能だから、私自身にも止められないことなのだから、摂理にゆだねるしかない。
歳を重ね親としての務めも徐々に減るにしたがって、小さい頃のほとんどこの数十年思い出しもしなかったようなことを、風邪の功名で思い出した。
私が小学4年生のくらいの頃の記憶。ある秋の晴天の日、父が下半身が不自由になっていた祖父を、外に散歩に連れてゆくといい、私と二人の兄の3人で祖父をリヤカーに乗せ、町内散歩に出かけたことがある。
我が家から、海が見える港まで直線距離で500メートルくらい。恵じいちゃんのその時のうれしそうな顔がいまだ私の顔にくっきりと瞼に浮かぶ。サトばあちゃ んの笑顔も。
わが父は、小学生の私にとっては鬼と仏が同居しているかのような存在であったが、息子3人がリヤカーを引っ張ると、こころから満面の笑みを浮かべた。
きっと、戦後引き上げてきてから、人生でもっともうれしい幸せな瞬間だったのではなかろうかと、愚息の私は今にして、父の内面を推し量ることができる。
父と祖父との関係は、激動の時代、明治人と大正デモクラシ―人、多々相克があったと思うが、晩年体が不自由にになった祖父を、父は口にこそ出さなかったがいたわっていた。
いざという時の行動でその人間の真価が決まると父はよく言っていた。祖父をリアカーで散歩に連れ出した、あの秋の日の一日は今となっては、穏やかで平和で夢のような一日の出来事として私の脳裏に刻まれる、宝の映像。
姉兄弟5人、一番下の弟はタイにいるのでなかなか会えないが、皆歳を重ね 元気で再会できる幸福は、きっとちいさ頃の共有原体験があるからだと思う。
お酒が入り、両親の話になるといまだ俄然盛り上がる。頑固一徹、不器用、愚直そのものの、(そのDNAがいかんともしがたく私にも流れている)私にとっては、立ちはだかる大きな壁そのものだった父。
私が家族を持ち、安定した暮らしをするようになってから、娘たちを連れて帰郷するころから穏やかに話ができるようになってきたのに。(もっともっと戦前の個人的な話を聞いておけばよかったと後悔している)娘たちにはなんとも優しかった。
娘たちの脳裏に、父と母の生きていた晩年の姿が記憶に残ってくれたのが、いまとなっては、それが一番私にはうれしい。
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