ページ

2015-11-07

S氏からコメントをいただきました、感謝。

竹韻庵のオーナーであるS氏から昨日のブログに対してコメントが寄せられている。

私は可能な範囲で、日々揺れ動く己の動的平衡感覚を(かなり自己愛的に)確認するために、五十鈴川だよりを書いている。(自分で自分を奮い立たせるかのような面持ちで)

五十鈴川だよりは、夢が原退職後から書き始めた。コメントの少なさ 、開いてブログを読んでくださっている方はいるものの、その顔が見えないことに関して時折ある種の虚しさを覚えないでもなかった。

が、たった一人であれきちんと読んでくださり、接点のあるかのような部分だけでも、なにがしかの反応があると、(以前も書いたが)うれしいものである。

どんなに蟄居しているかのような暮らしではあれ、人は人あればこそ世界とつながって存在している。そのことに関する気づきと感謝は年々私の場合深まっている。

私の下の娘が、お父さんは夢が原を やめて変わったよね、との直接コメントを誕生日に文字でもらった。(大切に書評ノートに張り付けた)そのことが私には最近の暮らしの中では、特筆に値するくらいうれしかった。

話はあれこれするが、遊声塾を立ち上げたのも、きっとこれまでの岡山にやってきて身についた、勤続疲労のようなものを洗い落としたいという 衝動に駆られたからに他ならない。

畑だってそうである。土に触るリアルな手ごたえは、バーチャルリアリティーではなく、リアル感覚そのものである。あらゆる微生物と共に土は生きている、その生命力が野菜に変身する。万物流転。

声もただ出すのではなく、相手の体に触れるかのように出す。口で言うのはたやすいのだが、全身で土を耕すかのように、身体の意識を研ぎ澄まし、今を生きている声を、シェイクスピアの翻訳日本語に吹き込むのである。
作業靴を洗って干す


そのような私塾に参加して継続するのは、バーチャルな暮らしが当たり前になってきた都市型ライフ住民にははなはだ難しいだろうと、私も思う。

だが私は自分の中に希望というか、可能性がある間、動けて声が出る間は塾を続け、土を耕すことと並行して声を出し続けるだろうと、今は考えている。

老いは気づきの加速度を増すように思う。若い時には全然気づかないからこそまたそれはそれで素晴らしい。

若い時には若い時にやれることに全力でいそしみ 、歳を重ねたらまたそれなりの気づきの楽しみを、神様は用意してくださっていると、私は感じる。

きちんと勇気をもってぶつからないと与えてはくださらないのだと思い知る。喜びは腰の痛さと表裏である。





0 件のコメント:

コメントを投稿