昨日午後、被爆2世・3世交流と連帯のつどい実行委員会が主催する【この世はぜ~んぶ紙芝居】というタイトルの詩人アーサー・ビナードさんのお話を、岡山県立図書館内のホールで聴いた。
アーサー・ビナードさんのお話を聴くのは3回目である。最初は2年前福山で、2回目は昨年天神山で、そして今年と。この回岡山の知人が郵送のチラシで知らせてくださった。(この場を借りて感謝)もし知らせてくださらなかったら、きっと聞くチャンスを逃していたかもしれない。縁がある。
本当に最近の私は情報音痴だし、不必要な情報は可能な限り取り込まないようにしているし、(もう十分に情報は入っている)、これまでの人生で得た貴重な御本ほかを、これからの時間で繰り返し反復するだけで(味読する)足りている今なのである。この間も書いたが、ルーティン、紋切型ライフ、まるで引きこもりのような最近の 生活なのである。
(これはゆかねばと思えるお知らせほかは、数少ない友人知人が知らせてくれるし、自分なりに探してもいる)
だが、じっとはしているものの、頭の中は絶えず回転しているという自覚がある。そのような暮らしの中に飛び込んできたアーサー・ビナードさんのお話会のお知らせ。いざという時には、さっと動く。
2年前アーサーさんのお話を福山で聴いた時の衝撃は、探せばきちんと五十鈴川だよりに書いているはずである。だから重複は避けるが、私が生まれて初めて詩人の生のライブ話を聴いたのがアーサー・ビナードさんなのである。
アーサー・ビナードという名の詩人が強く私の脳裡に刻まれたのは東京の第五福竜丸の展示場で求めた一冊の絵本、ベン・シャーんの第五福竜丸という絵本である。(絵がベン・シャーン、構成と文章がアーサー・ビナード)
長くなるので簡略に記すが、このようないまだアメリカ国籍(であるとおっしゃっていた)の方が、立派な日本語で詩やエッセイを書かれている事実にまず驚嘆したのが、アーサービナードという存在を認識した最初。日本人以上に日本語が堪能であり、トランスナショナルな方(存在)である。
だから2年前福山で講演会があると知った時に、すぐ行くことにした。お話が始まり、あまりの速射砲のように繰り出される驚愕の真実に、私は驚き打たれたのである。そして自分の無知を思い知らされたのである。
わけても驚いたのは、広島、長崎に落とされた核爆弾のウランとプルトニウムの種類の違いから、虎視眈々と秘密裏に続けられてきた広島への各爆弾投下のアメリカのマンハッタン戦争軍需産業戦略、そして広島に落とされた核爆弾が人類初ではなく2番目であったという事実など、コトバに敏感な詩人は、世界を動かす偽の言葉の言説を、空恐ろしいほどの言語嗅覚をもって真実をあぶりだしてゆくのを語ったのである。
そして昨日の講演会で私が感じたこと、人間を操るのは為政者の(その手先は電通?博報堂?)言葉であり、またその操る言葉の欺瞞を見破るのも、(は)詩人の嗅覚を持った一人の人間であるということである。まずお話の最初、日本人は線引きが大好きな民族であるという鋭い指摘から入り、コトバの不思議な恐ろしさ、古い漢字で廣島、今の漢字で広島、カタカナでヒロシマ、ひらがなでひろしま、このニュアンスの微妙な違いを詩人の言語感覚は見逃さない。(おぞけを振るうような惨劇が74年前、広島長崎東京他日本各地のいたるところで岡山でもあったのだ、その事実に目をそらしていると、忘れていると、またもや為政者の思うつぼなのである、だから真の言葉を見抜ける詩人の眼が必要不可欠なのである。でないと私のような輩はすぐ騙されるのである)
とにかく今回もとても私の五十鈴川だより程度の一文では、そのさわりくらいしか伝えられないが、チャンスを作ってぜひともアーサーさんのお話をできれば直接聴いてほしいし、動画他バーチャルででもなんでもいいからと、願わずにはいられない。
私などの常識的な普通の感覚では、一歩間違えば、福島の原発事故、チェルノブイリ原発事故(もう何度も現実に起こっているし汚染水は止まらない)これ以上はないと思えるほどの不条理で悲惨極まる出来事が起こりうる現代という底知れぬ不安を抱えた、グローバル現代社会の闇に向かって、アーサーさんは語りつづける。
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ちっちゃいこえの紙芝居・私も購入しどこかで声に出したくおもう |
聴いていると喉が傷まないかと思えるほどに、舌鋒鋭く詩人は鵺のような闇の正体をこれでもかと赤裸々に暴いてゆく。私は反省する、事実を知り見つめ考える勇気が必要である。長いものに巻かれろ、見て見ぬふり、我関せずではきっとやがて自分にも、ある日突然自分の大切な家族の上にも、降りかかってくるのである。放射能は匂いもしないし、見えもしない。
それにしても人間はなんてものを作って、それを広い意味での同胞人類の上に落として、正義面をしていられる神経、その感覚が不思議だし、汚染された食べ物はやがて巡り巡って自分の口にだって家族にだって入るのである。
アーサーさんは人類的な見地から絶望を辞めようと語りかける。ユーモアがあるから聴くことができるが、想像力のある人間には身の毛もよだつ在り様である。だがあくまで詩人の感性は冷静で柔らかい。だから初老の私にも人間としての言葉が届く。
大学生のころに、アーサーさんはエリザベス朝時代の文学を勉強しシェイクスピアも学んでいたそうである。私は日本語のシェイクスピアだが、何か接点があるような気がしてうれしかった。私は広島に住むアーサーさんを年内に訪ねてゆく約束をした。
最後に、今声出ししている夏の夜の夢の妖精パックの台詞【人間てなんてばかなんでしょう】とある。ハムレットの台詞で締め、核とおさらばするのかしないのか、人類はこの命題からは逃げられないと、私はアーサーさんのお話を聴いて想った。