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2019-12-31

大晦日の朝に想う。

大晦日である。良し悪しは置くとしても、悠久の時の時間の流れは日々変わらないのに、やはり大晦日は粛然とした気分になるのは、空気民族の日本人のやはりDNAとしか言いようがない。

もう私などはこの一週間、年越し前の前夜祭といったあんばいで過ごしている。今日は次女の旦那さんがお昼にやってきて年越し前の夕食まで共に過ごすことになっている、娘婿がわざわざ来てくれるそのことも私にはとてもうれしい。

近年こんなにゆったりと年の瀬を過ごしたことはない。そのことは先の五十鈴川だよりに書いたが、簡略に振り返っても還暦以降の年の瀬時間では、思い出に残る歳としてきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。長女が結婚した年と同じくらい思い出に残る歳となった。

2月の日高ご夫妻との出会い、弓の師との出会い、6月のロミオとジュリエットの発表会、8月の次女の結婚式、9月小学校の同級生との思わぬ出会い、折々の望晃くんの成長、とくに10月、11月連続再会時間でのあまりの変化に驚かされたこと、などなど。(12月中村哲先生の訃報は思わぬ出来事して決して忘れない)

ともあれ家族含めて、私にとって身近な方々が元気に四季折々過ごせたことに対して、まことに持ってありがたき大晦日というほかはない。昨日も午後娘、母妻含め4人で温泉に行ったのだが、娘が帰ってきた日にも温泉に行ったので年の瀬2回も温泉に入ったのも初めてである。

今は亡き生家の庭の晩年の両親に手を合わせる
地震は多いが湯船に入っているときには、そのようなことは事はけろりと忘れて、日本列島に生まれた湯あみの恩恵に浴する。母、娘が手をつなぎ湯から出てきたときの母の満面の笑みは菩薩的だ。年の瀬の冬の温泉は家族を幸福にする。

帰りコンビニにより、湯上りアイスを食べながら家に戻ってきた。吉井川の上流は幻想的な霧雨で 視界があまりよくはなかったのだが、それもまた良き思い出となった。戻って妻と娘がこの数日二人で手早く夕飯の準備、豚肉の炒め料理、サーモンのサラダ、餃子ほか。

母は80歳を超え、とくにこの数年私と共にささやかにビールを飲飲む、その時の表情がなんとも言えない。再び極楽的な顔つきになり、ああ幸せとのたまう。私まで幸せになる。ともあれ、幸福とは何か、苦を度々乗り越えてきたからこその母の笑顔なのであると承服【笑福】する。

母は夕飯後は薪ストーブのそばで、マグロになる。今年最後の夕飯は次女の旦那さんも加わる、感謝である。(ドレスデンの長女家族のことも想像しながらいただくことにする)



2019-12-29

年賀状は卒業し、年がだよりを書くことにしました、そして想う。

いつまでできるのかはわからないが、年賀状は卒業し、年の瀬に書ける範囲で年賀だよりを書くことにし、昨日までに数十通何とか投函できました。形式にとらわれず、内実を採る、ことにしたのである。

老いてきたら義理を欠くことに決めたのは、先日も書いたが、老いの気配をわが体に感じつつある今、今現在の大事な方々には、書ける範囲で直筆の文字を書いてお年賀を出したいとのおもいが湧いてきたのである。いろんなことを並行してやりながら、一日に5,6通のたよりを書く、一週間でそれなりの方々にはささやかに思いを伝える一文がつづれる。このようないっときが持てる年の瀬が、ありがたく嬉しい。

振り返るとこれまでの人生で、一番静かな年の瀬を過ごしているのではないかと思う。年の瀬はとにかく一年を振り返るまたとない時間である。どこにも出かけないで家の中で過ごすなんてことは初めてである。 多分これからますます家の中と、ご近所周りが私の視界に映る世界のすべてになってゆくのだろう。(ドレスデンにでも出かけない限り)

視界はせまいが想像は無限にたゆたう、そのような晩年時間をこそ過ごしたいと私は願う。とはいっても年が明けたら決めてはいないが、ふらりとどこかに小さな旅に出掛けたいとは思っている。名所旧跡とは無縁の小さな旅こそが私にはふさわしい。
文字を書くのに疲れたら、短いこの方のエッセイを読む

父親の形見の硯と墨、それをすって墨汁を作り文字を書く。ひたすら集中して書いていると、いくらつたなくとも文字が成り立ち、拙文がつづれる。相手の顔を思い浮かべながら書いていると、おのずと一文が湧くのは相手が私に一文を書かせているのである。そのような思いになる。だから書が最近の新たなわが愉しみなのである。

シェイクスピア遊声塾も、書も、弓もすべて退職後に始めたことである。とくに書と弓はまったくやったことがない。そういう意味では下手に自分の世界を広げる必要もないとは思うが、何かが私をそういう世界へといざなうのである。

鮮やかに文字を墨ですって書いていた父の姿が脳裏に刻み込まれている。そのような晩年時間の父の姿に、どこかで私もあやかりたいのである。碁を打っている姿、文字を書いている丹前姿、などなど在りし日の父の男姿がほうふつと浮かぶ。

上手下手は置いといて、まずは墨をする。姿勢を伸ばしてただただ擦る。一行の最初の文字に集中する、あとは流れのままに。邪心を祓い、邪心を抜くために、きっと声出しも、弓も、物事に当たると、そこにはやはり共通する何かがある。

文章も、声出しも、弓も、きっと相手があってこその何かなのである、そのような気が最近とみにする。文字を書き伝えたい相手に恵まれなければ、書く意欲は生まれない。そういう意味で、落ち着いて年賀だよりを出したい方に恵まれたことの有難さを想う。

交友関係は年々移り変わるが、それなりの方とのご縁は深まり、とくにこの数年の塾生も含めた新たな交友は、老いゆく花を開きたいと願う、わが煩悩に大いなる刺激を注いでくれるのが覚る。

2019-12-28

次女が帰ってきて我が家の年越しがちょっとにぎやかになりました。

昨日から母もやってきて、午後3時前に次女を岡山駅まで3人で迎えに行き、そのまま市内の温泉に行き全員さっぱり、6時に戻り久しぶりに4人での楽しい語らいの夕食ができた。妻と娘がとんかつ他てきぱきと作ってくれ、私は薪ストーブ他を担当、猫の花は寒がりで、ストーブを焚くとそこから離れない。冬の夜長薪ストーブで家族全員が温まる。

これから大晦日まで、次女がいるので母と妻の喜びようは、男親の想像を超えているが、にぎやかなことが好きな私にとっても、やはりうれしい。メルも花も嬉しそうだ。

おひとりさま率が増え、孤独をいかに強く生ききるのか、といったハウ通本が売れる世相だが、私のような軟弱な男子は、助け合って支え合って生きてゆくのが性に合っている。というか人間という字が示すようにヒトはヒトとの間合いをとって生きてゆくしかないと、おもうのである。良き間合い、というものが家族であれ肝心である。(あらゆる関係性に言える)

文章が素晴らしい、想像力を刺激する

ともあれ、昨日も書いたが母の喜んでいる姿を見ると、今年も無事に家族が年を越せそうで、軟弱な家長ではあるがささやかに嬉しい、の一言だ。

私も妻も華美な生活とは無縁の、とくに幼少期は物のない貧しさの中、必死で親が育ててくれたので、質素な暮らしの中での喜びで足りるし、それが身の丈に合うのである。

しかし、私の小さいころと比較すると格段の食生活の豊かさを生きていられる現在の暮らしは信じられないほどのものだ。だから一文を綴りながら、何かに感謝するのだ。当たり前のような暮らしは、いつ何時当たり前で無くなるのかは歴史が証明している。

そういう意味では、食品ロスや長時間労働が見直(良心のある経営者が増えている)されてきているのは希望だ。道徳や倫理言葉の問題ではなく、まず実践、特に食べ物を大事にし、人と人が共においしくいただく命の連鎖の授業は、まずは家庭から始めないと、命のかけがえのなさの大事がおざなりになってゆく、そのことはオーバーではなく、国の礎も揺るがしかねない。(と私には思える)

私が現在穏やかに生活できているのは、やはり両親のように身の丈に合う暮らしを持続してきたからだろう。母に至っては筋金入りのつましさを現在も生きていて、そのくせお金にはまったくといっていいほどに執着していない。娘や孫たちのためにほとんどを使う。見上げたものである、あっぱれとしか言いようがない。地に足がついているというのは、母のような人の生き方であると思う。私にはあのように生きればいいのだというお手本が身近にある。

このところのバブル期以降の浮き足立つ日本人に対して、アフガニスタンの大地から地に足の着いた生活を忘れないように、と絶えず警鐘を鳴らし続けたのが中村哲先生であった。かけがえのない家族、命を支える水や食べ物、本当に大切なもの を先ずはきちんと見据えることだと、軟弱な家長はあらためて思う、年の瀬である。





2019-12-27

次女が帰ってくる年の瀬の朝に想う。

今日から元旦まで次女が里帰りする。長女家族はすでにドレスデンに。長女は22日から(レイさんと望晃くんは16日から)里帰りしている。(レイさんと娘から動画や写真が送られてくる、良き里帰り時間を過ごしているのがよくわかる、ありがたい時代だ)

だからこれから大晦日まで私と妻と母と娘の4人となり、しばしの間家族の賑わいとなる。午後岡山駅まで迎えに行くことにしている。次女が帰ってくるのを、妻と母はことのほか楽しみにしている。やはり生理的に妻には、いつまでも(嫁いでも)娘である。

妻と娘の守護神白血病のキャリアを克服した花
娘は姓が変わったとはいえ、私にとっても娘であるのは同じである。時代が変わり、娘が実家に里帰りして過ごせるようになってきたのである。大みそかには旦那さんも年越しに来てくださるとのことで、私としては感謝しかない。有難い。

次女の旦那さんは、細やかな気配りの感性があるので、ふつつかな親としては娘たちが二人ともこのような得難い男性を人生の伴侶として、巡り合ったことに感謝せずにはいられない。ともあれ、このようなことを臆面もなくつづれる私の年の瀬時間である。

それもこれも、やはり義理の母の、この数十年の陰ながらの支えというものが、あってこその年の瀬なのだということを、ようやくにして思い知る私である。娘たちもそのことを有難いことに、よく自覚していて相思相愛である。深い思いはやはりきちんと伝わるのである(重々思いいたさないといけないと反省する)

あらゆる人間が、あらゆる関係性を結びながら生きるのが世の習いであるが、かけがえのない関係性を結べるのは、たやすいことではない。ところでたぶん今日あたりから、母も我が家にやってきてお正月を過ごすのが年の瀬の恒例である。

昔母が植えた我が家のご神木の八朔、今年もたくさん実った
母は86歳、もうそろそろ一つ屋根の下で共に暮らそうと、何度も話すのだが、母はまだひとりがいいと譲らないのである。気丈な母ととしかいいようがない。そのような母だが、お正月だけはいそいそとやってくる。お正月はひとりが嫌なのである。

娘のように育てたという次女が帰ってくるので、母は 喜びもひとしおなのである。年々歳々、幼少期のお正月のあの浮き浮きとした情緒は私の中でも薄れてゆくが(甘受している)我が家の中には、失われしあのころの面影が、そこはかとなく残っている。

恒例の玄関先のお飾りも、母と妻の3人で我が家らしいお飾りを作るのが恒例である。家族の安全と無事を祈る、先人たちの紡いだ儀式はきちんと心から心に伝える、一つの家族でありたく想う。いつまで3人でできるのかは神のみぞ知る。今年は次女も含め4人で作ることにする。 そのことがうれしい。

2019-12-24

年の瀬、放置していた最初の書斎の整理整頓がやれる範囲でできました。

臆面もなく、つづるや五十鈴川だより。冬休み4日目の朝。妻も昨日から仕事がオフに入った。この3日間、今年の私は静かな年の瀬を楽しめている。

私は現在娘たちがかって使っていた2階の一番広い部屋を、書斎兼寝室兼弓の鍛錬兼等々の場として使っている。日当たりの良いこの部屋が今やすっかりお気に入りである。

家を建て替えた時に作った、西向きの冬は寒い四畳半の書斎とはすっかり疎遠になり、これまでの人生でたまった年賀状、手紙、チラシやポスター、物や写真他が放置、保管されていたのだが、一念発起、どうしても処分できない品々 のみを遺すことにして、整理整頓処分した。

おおよそ3時間以上書斎の中で、ひとり思い出と格闘しながら、かなり思い切って処分ができてようやく空間がすっきりとした。断捨離という言葉はあまり好きではない、とくに私は思い出に生きるタイプの情緒に弱い初老男なので。でも気力がしゃんとしているときに思い切らないと、きっと後々禍根をの残すような気がしたのである。身軽になりたいのである。

真実、時は残酷なまでに無残である。昨日まで立っていた人が、横になってしまう現実を還暦以降 、間接直接間近に知見してきた。そうなってからやろうと思っても遅いのである。だからやれるときに、やれる範囲でやっておこうと思ったのである。

告白する。私は整理整頓が苦手である。弱点であるといってもいい。振り返ると、18歳からの私の人生は、自分の弱点との戦いであった、と思える。少しづつ少しづつ自信をつけながら、時に大いなる反省をし、自問自答し、脱皮するかのように歩み、今もかろうじてその歩みの延長にある、といったあんばい。

でてきた宝のポスターを今使っている部屋に飾る
私は思う、思い出に耽るだけではあまりに能がない。ジャンプするためには老いたりといえども、ささやかにジャンプするためには力を貯め充電しないといけない、そのための冬休みである。過去の宝石のようなおもいでの数々が、私にエネルギーをくれるのである。だからこそ私は記憶の宝にすがり、今日を生きる 。時折過去を本質的に振り返るには、またとない年の瀬である。

話を変える。とはいっても難関が一つ。写真の整理整頓、40代のガンガン企画をしていたころの写真や、アフリカやインドでの珍しい風景写真など(これは処分できない)の整理整頓をやらねばならない、これに頭を悩ませていた。(デジタル以前のフィルムのネガの保存に)だが、忽然と救いの神が顕れたのである。

入塾したてのk子さんがカメラが趣味で、私がやってあげましょうかと(私が頼んだのだが)言ってくださったのである。思いもかけぬ申し出、お言葉。彼女に整理をしていただくにしても、まずは私が最初に書斎にきちんと足が入れるようにしておかないといけないと思ったのも、書斎の片付け整理にまずは取り組んだのもそのことが大きいのである。

彼女をお招きする最低の整理整頓は、何とか年の瀬にできた、そのことにほっとしている。ところで今日はクリスマスイブである。妻と二人でささやかに過ごす。





2019-12-23

2019年年の瀬に想う。

年の瀬3日連続で五十鈴川だよりが書ける、書きたいという自分がいるのが、やはりうれしい。1日の始まりは改まった体の朝にある、とやはり思う。夜明け前の暗さから徐々に夜が明けてくるときの一時の静けさは、もう何十回も書いているが、やはりなんとも言えない。

ゆっくりと布団をたたみ、洗面を済ませ、コーヒーを淹れ、新聞にさっと目を通し、五十鈴川だよりの前に、昨日の新聞の書評をじっくりと読み、自分の琴線に触れた書評を切り抜き、ノートに貼りつけたらあっという間に1時間以上が過ぎた。

時間とは集中しているとあっという間に過ぎて行ってしまう。同じ時の流れなのに電車を待っているときなどには長くも感じたりするのに、好きなことをやっているときには、瞬く間に過ぎゆく。この年齢になると好きなことに、集中してことと向かい合っている時間が、一番幸福感に満たされる。(ように感じる)
五十鈴川だよりを綴れる間は書評切り抜きも続けたい

きっとそれぞれの年代を通過してのちの、今にして味わえる感慨というほかはない。若い時にはあれほどほしかったものが、今は全然といっていいほどにほしくはないのだから、ヒトは変化するのである。以前はぶれない生き方なんかに憧れたりもしたが、還暦を過ぎてからは、あられもないほどにブレブレである。(だって世界がこうもブレブレなのだから)

別に開き直っているのでも何でもなく、五十鈴川はあるがままに変容し、流れ流れ、日々を生きるほかはない。誰のコトバであったか、老いては義理を欠けという言葉に従いたいと、だんだん思うようになってきた。

話は変わるが、シェイクスピア遊声塾を立ち上げてから以降、言葉も交わすことがなくなっており、疎遠になっていた方から忘年会のお誘いがあったのだが、しばし逡巡したが断念した。それ以外にも思わぬお誘いがあったのだが、これもお断りした。

我ながら、不徳の致すところというほかはないが 、もうこれからの人生時間はお会いして自分にとって気持ちのいい方との時間を優先したいし、何よりもひとり時間や、妻との時間、母との時間、家族時間を最優先したいのである。

家族との時間以外では、シェイクスピア遊声塾の塾生との時間が、今の私にとっては一番大切な時間である。だからいつかも書いたが、水曜日のレッスンに現時点では体調を崩さないように、いいコンディションでレッスンできるように、以前にもましてとくに今年から気を付けている。

精神が安定し、健やかでないとよきレッスンは不可能である。立ち上げて7年目、7人の情熱のある塾生の面々との限られたレッスン時間は、老いながらますます大事な時間となってきた、この面々と翻訳日本語のシェイクスピア音読時間が、一番大事になってきたのである。だから、有限なるわが時間をあだやおろそかにはしたくないのである。

だからごめんなさい、私はますますこれから不義理な初老男に変身してゆくことを、この場を借りてお許し願いたい。限られた時間、シェイクスピア遊声塾の面々が豊かに成長するためには、私自身が一番もっともっと謙虚にわが体と向かい合い、学ばなければ、と おもうのである。

時間のゆるす限り、水曜日以外でも塾生が個人レッスンしたいという意欲があれば、忘年会はお断りしても、塾生の要望には応えるつもりである。健やかな体から発せられる、稽古場で出る思わぬ予期せぬ聲。今の時代のさなか、このような私塾に参加してくださっている、塾生との時間をいよいよこれから大切にしたい、と年の瀬に想う。

一途に頑固にしかし、どこかに余裕とユーモアをもって、言うは易しであるが。

2019-12-22

怒りを込めて振り返る、年の瀬に想う。

年の瀬なんの予定もなく、静かに穏やかに過ごせるといういっときが持てるという、いわば心の余裕というものがある、ということはなんとありがたいことであるか、噛みしめつつ今朝の五十鈴川だよりを書きたい。

しかし、何を書くのかは老いゆく日々の生活の中で、 湧いてくるわが内なる思いを、つたなくも言葉にするだけで、とりたててさあ書くぞといった思い入れ、発露は、弱くなってきたことを自覚している。

怒りを込めて振り返れ、というタイトルの芝居 があるが、きっと老いるということは、感情の喜怒哀楽がいやでも弱くなってゆく、という気がしている。とは言うものの、怒りを込めて振り返らないことには、にっちもさっちもいかないほどに、この国の未来を託す政治家や、企業人、官僚たちの劣化は(自分もである)いかんともしがたいほどに、私の眼にもあまりにも無残な姿で映る。

データの改ざん、隠蔽、偽装、フェイク、臭い物に蓋をする、見て見ぬふり等々、一庶民感覚にしても、この数年の堕落ぶり(バブル崩壊から原発事故から何も学んでいない)はここに極まる、といった感がする今年の年の瀬である。

とくに経済的な構造、格差を生み出すこの全世界をおおう富の流れの偏重には言葉を失う。金とものはヒトを狂わせる。持てるものと飢えてる民との天と地ほどの乖離、溝を埋める食い物が行き渡る経済循環の新しき英知人の出現を私は望む。

このわが国の人的枯渇の行く末が、私には恐ろしい。でもこのようなことを書きながらも、どこかに私は希望を探す。そうでもしないと息が上がってつまるからである。

わが体は、可能な限り風通しよくありたいから、良き風に触れるべく良き人物の良き言葉を探すのである。人間は間違い、気づき、反省し、螺旋状に成長する器である(と考えたい)。

間違いに気づく人はやはり気づくのである
私の大好きなシェイクスピアの一番短い芝居の初期の作品(処女作ともいわれている)は【間違いの喜劇】である。おそらく数限りない愚かな間違いや絶望を繰り返しながら、人類はおそらく数千年かけて、何とかかろうじてここまでの地点まで歩んできたのだと思われる。

凡夫の、私の朝の五十鈴川だよりでは、収拾がつかなくなるのでこれ以上書くのは控えるが、あおるかのような視聴率偏重のテレビや、その時だけのメディア報道、グルメ番組、あまたの雪崩のような どうでもいいCMの垂れ流しなどなどに自分も含めヒトは麻痺する器である、、ゆめゆめご用心、からめとられないようにしないと、本当に危ない。(自分も含め人々が熱狂に走るときはとくに危ない)

懐疑心、真実を追求する姿勢、つまりは普通のあたり前感覚を失わない、報道人や言論人や政治家経済企業人、芸術家一般庶民が、少数になってきているような時代の不気味さを私は個人的に感じる。そのことだけは老いつつある中、ごまめの歯ぎしりのように、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

どんな権力も組織も人民も(私個人も)堕落癒着は逃れえないのかもしれない、ならばどうしたらいいのかを、点検あらためなければ、原発事故をはじめ、ことを間違えたら、核戦争、宇宙戦争、SF世界、 取り返しのつかないサイバー都市文明の渦中を全人類は生きている。いくつになっても五十鈴川だよりを綴れる間は、やはり怒りを込めて振り返れ、である。

2019-12-21

今日から冬休み、さあどのように過ごそうか、五十鈴川だよりを書きながら考える。

今年も余すところあと10日となってきた。年の瀬をあわただしくすごすのは嫌なので、昨日でアルバイトにもけりをつけ、シェイクスピア遊声塾のレッスンももう年内はない。

これからほぼ2週間以上完全なオフタイムに入る。小さなオフ時間とちょっと長めのオフ時間が、私の場合はやはり年齢的にも必要であるとの思いが、にわかにこの数年強くなってきた。そういう意味では今年は娘の結婚式で北海道に行ったり、故郷に4回帰ったり、何と甲子園に2回も出かけたりと、折々の季節、結構移動 したのは五十鈴川だよりに書いている通りである。

一年を振り返るのはまたにするが、私の場合季節が移ろうように、心も心なしかそれに沿うように移ろうようになってきてしまっているのではないかという、気が最近とみにしている。老いの自覚が深まり、微妙に体に響くような実感があるのである。

65歳を過ぎてから、可能な限り、老いを意識的に生きようと思い始めて間もなく3年になるが、老いの自覚を静かに深めるのに始めた弓も間もなく3年になる。何事も3年近く続けていることで、いまだ老いつつも体が微妙に変化しつつあるのをこのところ感じている。

冬の夜長は静かに本を読むのが最高です
老いるにしたがって日々を丁寧に過ごすようになってきたのは、弓を始めたからではないかとの実感がある。とにかく弓の作動、所作は 丁寧さ集中に尽きるのではないかとおもへる。

はじめて3年くらいでは何とも言えないとは思うものの、自室に設けられている巻き藁稽古の一時が、精神のざわつき、揺らぎを鎮めるのに、かかせなくなってきた。

気分がふさぐような出来事や、ニュースなどがあっても弓をひくことを続けていると、こころが 鎮まってくるのが以前にもまして実感できるようになってきたのである。故郷で出会った師から14キロの弓をひきなさいといわれ、今年からふるさとの日高弓具店で求めた稽古用の弓をひいている。(先生は私の弓の握り中塚を私の指に合わせて直してくださった)

弓には現在の年齢の心技体が 全て顕れる。どこかに体調の不具合があっては、絶対にといっていいほどに弓は引けない。まずまっすぐに立っていなければ(立てなければ)弓は引けない。だから何をなすにも、つまり働くにも声を出すにもまっすぐに立つという基本が弓によって、以前にもまして意識せざるをえなくなったおかげで、あらゆる生活面で効果が表れてきているのだ。 何事もゆっくりと丁寧に行う。

気持ちのいい健やかさというものこそが、いかにかけがえのないものであるという実感は、老いてきているからこそ、老いてこないと分からないということが、よくわかる。

だから、現在働け、声が出せ、弓が引け、本が読める体の有難さが、冬空の下沁みるのである。情熱の意欲の根拠は体こそすべてというほかはないのである。ずっと先にはきっと潮時というものが訪れるのだろうが、今はそのようなことに想いをいたすべきではなく、今日一日をいかに過ごすのかに初老男は想いをいたすのである。


2019-12-15

老いを見つめて丁寧に生活する五十鈴川だよりに、シフトチェンジする。

これから五十鈴川だよりを綴る日々、回数は減ってゆくと思う。一日という時間のなかでの、やりたいことの優先順位が微妙に変わってきたのである。だからこの場を借りて、(毎日のように貴重な時間読んでくださっておられる方には)ご寛恕願いたい。

でもまだまだ、このゆれる 初老男は体は動くし、情熱の血潮が騒ぐし、回数は減ってもその分密度の濃い五十鈴川だよりが書けるように、ささやかに学び続けるつもりである。

それがあまたの、私が個人的に影響を受け、今も私の胸に生き続けている死者たちに対するいわば仁義である。わたくしごときの一文、お恥ずかしき限りではあるが、世の中に出ての無知蒙昧さを知らされて以来、いまだお恥ずかしきことの連続の果てに、何とかかろうじてこの世の片隅に存在させていただいているという自覚がある。恥は一瞬、学ばざるは一生の恥である。
赤裸々な親子のやり取り、コトバなく感動した

この半世紀、見た体感した日本以外の国々のあまりにも異なる風景、生活、歴史、言語、民族の違い、旅の重さ、一人の人間との出会い、一冊の本との出会い、一つの舞台、一つのフィルム、今も心に刻まれたあらゆる無数の出会いの記憶の集積が私の全財産である。今まで何度打ちのめされたことだろう。

でも打ちのめされたからこそかろうじての今がある。でもまだまだだ、油断してはいけない。日々を大切に学ばねば、すぐに劣化する。自分とは松岡正剛氏の言葉に習えば、フラジャイルな葦のような存在なのである。

いまだ消えず燃え続けるわが体の記憶の宝におそらく導かれて、私は いよいよこれからの人生時間で学んできたことを、繰り返し再生、歩むことになると思う。

あきらかに言えることは、自分がこれまで憧れたり影響を受けた方々とは異なる、極めて平凡であるかのように生きてきた方々の、非凡さの側に、素晴らしさに徐々に気づき始めたのである。だからまずは、日々の身の回りの生活をきちんと丁寧にできる自立した初老男になるべく、、、。

これまで主に重きを置いて過ごした、学んできた芸術や文化的な時間は卒業し、まったくこれまでやらなかったこと、生活してゆく上で見過ごしてきたことを、きちんとやれるようシフトチェンジする。

2019-12-14

中村哲先生がお亡くなりになり10日余り、ささやかに想う。

こんなに五十鈴川だよりを書かなかったのは初めてである。いろんな理由が考えられるが、やはり一番大きいのは中村哲先生がアフガニスタンの地でお亡くなりになったことが、遠因としてあるのは確かである。

 がしかし、そのことに関して五十鈴川だよりの中で整理するには、まだまだ時間がかかるのは、自分の体が一番深く理解しているが少し書きたい。これまでの人生で多少なりとも本を読むことで、かろうじて精神の均衡を保つことができ、いろんなかたがたに御本の一文に心と体が啓発され、何とか現在まで生きてこられた(いまも生きていられる)のだという自覚がある。

40代の終わり、ちょうど父親が亡くなったころに、私は中村先生の御本【ダラエヌールへの道】という本を読んだ。一読まだ若かった私は一驚した。深く心が揺り動かされた。爪の垢でも飲んでこのような方の生き方から、何かを学ばねばと思ったのである。
1993年に発行され私が読んだのは2000年の本

あれから20年近い歳月が流れた。やがてこの20年間がどのような時代であったのかは、時がもう少し経ち、後世の賢者の手にゆだねるほかはないが、このような人間がこの時代に存在し、それが日本人であり、それが九州人であったことに、とてつもないある種の誇りを九州人の端くれの一人として誇りを持つ。

最近、いい意味での衰え、老いの自覚がある。その老いの自覚が若いころと違って、静けきひとり時間をこよなく大事にするようになってきつつあるさなかに飛び込んできた、先生の突然の訃報である。(その日は塾のレッスン日であまりテレビを見ない私は、知るのが一日遅れた)

先生はお亡くなりになっても、ペシャワール会 の会員であろうとなかろうと、先生の御本を読んで何かが揺さぶられた方の胸には、今後ますます光り輝く存在となって、行く末を照らし続けると思う。

見事というしかない情熱の行く末の姿を、身を挺して先生は行動で範を示された。深く首を垂れ、ご冥福を祈念する。 私を含めて言葉であれやこれやを語る輩は、ごまんといるが自ら体を動かし、率先垂範される言文一致表裏一体の虚飾が限りなく少ない先生のお姿は、ある種私のような俗物には崇高という言葉しかない思い浮かばない存在である。

先生は神の領域の住人になってしまわれた。そして想う、還暦を過ぎて私は頻繁に故郷詣で、五十鈴川もうでを繰り返している。凡夫俗物のわたしであるが、寄る年波と共に故郷の母語での会話を楽しむ、楽しめる心からくつろげる人たちとの、幼少期感覚を共に過ごした方たち、あの環境で生きてきたふるさとから離れなかった人たちとの時間が、こよなく大切で、かけがえがなくなってきた。

ふるさとを飛び出しおおよそ半世紀。私は巡り巡って岡山に住んでいるが、豊かな水と緑に今も恵まれた、五十鈴川人であるとの思いはますます深まる。そこに生を受けたおのれの幸運を神に感謝、先祖に感謝するのである。いろいろな絶対矛盾を抱え込みながら、私のような凡夫は歩むことを余儀なくされるが、これからの時間の中で、可能な限り考え続けたい。人間にとって最も大切な命と水と緑を育む奇跡の大地のかけがえのなさを。

先生は命を賭してあの過酷なアフガニスタンの大地から、人類が争いをやめ、武器を捨て大地の恵みを噛みしめることの根源的な大事な哲学、人類絶望に向かうのか、それとも穏やかに全人類が飢えずに住める世界を目指すのかを、40年以上にわたって身を挺して発し続けられたのである。

そのことの重さを、これからささやかに五十鈴川だよりを書くものとして受け止めたい。

2019-12-02

今回も日高ご夫妻を訪ね、わが心に新しき親戚ができました、そして想う。

昨日に引き続いて、ご先祖の地で今年の2月に出遭ったのが、私と同姓の日高ご夫妻である。今は亡き厳しき父親が少年期から思春期を過ごし、生家から五十鈴川をさかのぼること35キロくらいに位置する宇納間というところが、父方のご先祖の地である。

父は2000年に亡くなったので、来年は20周年である。父亡きあと、そして私が近年歳を重ねるにつけて、宇納間や高千穂、北方、高城、等々父親との思い出の地を帰省の度に、ドライブ散策探訪 をくりかえしていて、なかでも宇納間はこの数年とくに足が向かっていたのである。

そしてついに私は同姓の素晴らしき、宇納間人と呼ぶにふさわしい、私より先輩のご夫婦に今年2月巡り合ったのである。そのことは五十鈴川だよりに書いているので、重複はさけるが、今回もそのご夫妻にどうしても会いたく、弓の稽古を終えた午後姉と二人で、お顔を観に出掛けたのである。

ご主人はあいにく不在であったが、E子さんは在宅で、五十鈴川だよりをよく読んでくださっており、私が帰省することをご存じで、ひょっとすると現れるかもしれないと、思っていたとおっしゃってくださった言葉を聞いた時には、本当にうれしさがこみ上げてきた。
いろんな形のこんにゃく味は絶品

私がゆくと前もって知らせると、いろんなおもてなしを用意してくださるので、前回と今回は、突然うかがうことにしたのだが、あにはからんや私と姉に宇納間の地が産んだ山間の実りを、またもやずっしりとお土産に下さったのである。

そのいちいちをここに書くのは控えたいとはおもうのだが、やはり少し書いておこう、このような山の幸をいただくことは、現代人にはほとんど不可能だろうと思うからである。それほどにこのご夫婦の生き方は、地に足のついた地産地消、宇納間人が歩んできた食の伝統を今に豊かに伝える、絶滅危惧種的な生き方を実践しておられるからである。

イノシシの肉、ゆずのしぼり汁、ゆず唐辛子、冬柿、完全無農薬の水菜、ホウレン草、小松菜、そして手作りのこんにゃくを持たせてくださった。私の姉は大陸引揚の者なので、遠慮というものを知らない。まあ、私も似たようなものだが、突然訪ねても毎回この時代にあっては貴重な 一品の数々をいただくのだが、厚かましくも私の足は日高ご夫妻宅に向かうのである。
左がゆず唐辛子右がゆずのしぼり汁

2019年もあとひと月をきったが、個人的に弓の先生との出会い、日高ご夫妻との出会いは言葉にならないほどに私にとっては大きい。宇納間に新しき親戚ができたのである。何はともあれそのことをきちんと五十鈴川だよりに書いて、この場を借りて日高ご夫妻にお礼を伝えたい。

いよいよこれからの晩年時間をいかに生きるか、日高ご夫妻と弓の先生が良きお手本になって導いてくださる ように思える。そして五十鈴川だよりをよたよたと書き続けてきたことがすべて、わが心の五十鈴川に感謝するほかはない。




2019-12-01

ふるさとの幸節館道場で、4日間I先生の稽古指導を受けました、そして想う。

3泊4日のふるさと帰省旅を終えて、先ほど家に帰ってきて荷ほどきをし、何故かパソコンに向かっている。6時間汽車に揺られていたので、まだどこか身体が西大寺の家になじんでいない。

夕飯時なのに着かえてパソコンに向かっているのは、兄の家で、義理の姉が作ってくれる朝ご飯を きちんといただき、12時過ぎの汽車に乗ったのだが、兄嫁手製のお結びが3個と卵焼きやソ-セージほかのおかずの入ったおいしいお弁当をいただいたので、まだおなかがすいていないせいもあるが、今回の帰省旅では、弓の稽古を木金土日と4日間できたことについてまず書いておきたい。

私は今年の2月帰省した時に、兄の家から歩いて5分くらいのところにある、表通りからは見えないところにひっそりとある、美しい幸節館という名前の個人道場を姉のおかげで偶然に知り、その道場をおつくりになったI先生と面識を得た。

そのことはすでに五十鈴川だよりに書いているし、写真もアップしているので重複は避けるが、以後故郷に帰るたびに欠かさず、この道場で先生の薫陶を受ける恩恵に浴している。

38年前に創られた道場にたたずむ先生の後ろ姿
木曜日着いた日の夕方、金土日の午前中 、連続4日教えていただいたのだが、私のつたない一文ではこの先生の素晴らしさをお伝えすることは到底にかなわない。教士7段の資格を持つ御年83歳、今も弓をひかれている。昇段試験すべて一発で合格しているつわものというしかない方である。

私が教えを受けた岡山の流派とは、異なる流派なのだが、一対一で寸部の違いもなく厳しく的確に暖かく指導してくださる。弓への情熱が(他にやりたいことを優先しようと)消えかけていたのだが、この先生との出会いで再び情熱が灯り始めたのである。

先生は弟子も取らないし、道場の使用量料もとらない。なのに私が訪ねると教えてくださるのである。その理由はわからない。今回が今年4回目の稽古、私の引き方を傍で指導面授してくださる。

凄く緊張するのだが、ただただ集中を心かけて言われたことを噛みしめ反芻しながら身体を動かす。弓に対しての取り組み方、姿勢、礼儀作法など言葉は穏やかだが、暖かくも厳しい。くたくたになる。今朝も9時から2時間以上指導を受けて帰ってきたばかりなので、私は疲れているが、気持ちがいい疲れなのである。

このような方が、わが故郷におられるということ、そのような方にたまたまの出会いで、薫陶を受けられているその幸運をきちんと五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

何よりも4回目にして初めて、このままその気持ちを忘れずに稽古しなさいとの言葉をかけていただいたこと、その嬉しさも書かずにはいられない。遠く離れていても、お言葉を噛みしめささやかに持続、稽古したい。


2019-11-27

今後は、ますます死者との対話で今を生きる情熱を持続したい。

昨日から午前中のアルバイトがないので、あれやこれやゆっくりと、身辺の生きていればいやでもたまってゆく、衣類ほかの整理を午前中意を決して処分した。とくに衣類、この5年以上袖を通していないものなどもかなり思い切って。

私は性格上、思い出に耽る情緒性が 強いので、なかなか捨てられないのだが、もうそろそろいいだろうというという年齢になってきたのである。執着心が薄まってきたともいえる。この数十年体形がほとんど変わっていないので、ジーパンなどは十年以上はいているものが何本もあるし、基本的に物のない幼少期を過ごしているのでなかなかに捨てられないのである。(いつ何時どんなことが起こるのかわからないのが人生である)

でも、人間関係もそうだが、移り変わってゆく中で、おのずと 古い自分とおさらばして、いつまでも同じ関係性に固執せず、新しい関係性へと移行してゆくのが、私の場合は当たり前自然だという気がしている。変わってゆく自分に素直でありたいのである。それとやはり孫に恵まれたことで、いやでも自分自身を見つめなおさざるを得ないほどに、いい意味での一人の時間を過ごせるようになってきたのも、最近の微妙な変化である。

本当に必要な厭きないほどほどのものに、つつまれて過ごすために身軽になりたい、そして老いてもやれる、やりたいことにこれからの大切な時間を使いたいのである。もう余分なものはいらない。そういう意味では、もう私の意識は相当に死者の側に行っているような感覚が芽生えている。

このようなことを書くと、あらぬ誤解を招きそうだから補足するが、残り火の情念のようにシェイクスピア 作品を音読したり、書をしたためたり(新たな情熱が湧いてきている)弓の巻き藁をする時間が、以前にもまして楽しくなってきているのだ。読書も。
きちんと生きた人の言葉は限りなく説得力がある


話は変わる。私の好きな女優、市原悦子さんが亡くなったのは今年の一月である。樹木希林さん、八千草薫さんと、次々と黄泉の国に旅立たれる。お会いしたことがなくても、何か一方的ではあるが、近しく感じられる方の死は、私にとって肉親とはまた違って大きいのである。

以前も書いたが、今後はあの世に召された方々の好きな御本や、今までに撃たれた映像作品、などとの対話的なひとり時間を持ちたいと想う、そのことはきっと私のこれからの人生時間を豊かにしてくれるという確信のようなものがある。

今後の、予断を許さない人生行路を導いてくれそうな気がするのである。私の両親も見えない世界に行ってしまってはいるが、あの世の両親とは私が歳を重ねるにつけ対話的な感覚は深まっている。

老いるにつけ、足が故郷に向かうのは、きっと両親が眠っている土地に立つことで、全身が理屈なく安心し、無言の対話ができエネルギーがいただけるからである。だから年内最後、明日から日曜日まで帰省する。



2019-11-26

先週末、束の間孫のノア君と、愉しい時間を過ごすことができました。

ほぼ10日ぶりの五十鈴川だよりである。このような頻度でつづれば、やがては月に数回程度の五十鈴川だよりになってゆくのだとの、老いの自覚がある。(それで足りてきた)

老い老いと書くと、老いが無残なまでにと思えるほどに、置き去りにされてゆくかのような時代の趨勢、そしていつまでもの若さを求め、あられもなくありがたがるかのような浮世の流れ(にくみしない私)である。

だが思うのだ、老いなかったら、川が逆行するようなもの、老いない人なんかいない。テレビやほかのメディアが高齢でお元気なお年寄りをやたら取り上げ、もてはやすのも困りものである。ヒトの生きようは千差万別である。私などは数字などには惑わされない。要はいかに生きて、生をまっとうするかである。
ふるさとの海を眺める私、急に週末帰ることにしました

万別の持ち時間で生を終え息を引き取った時が、きっとその人の寿命なのである。それはどんなに長生きの方にだってやがては訪れる。来年私は68歳を迎えるが、とくに孫に恵まれてから、愛と死ではなく、老いと死を(本質的には同じ)以前にもまして、頭ではなく体全部で考えるようになってきつつある。

いわば、そのための覚悟の準備時間にいよいよ入ってきたのだという自覚がこのところの私に芽生えている。だからといってことさらに何か日々の暮らしが、変わるはずのものでもない。ただ淡々と今日の命の日々をささやかに感謝して生きていくくらいの当たり前さである。
この方についての御本、この方の本をきちんと読みたい

ただいえるのは、時間の過ごし方が以前にもまして、生活がシンプルになり限りなく時間を大切に 過ごすようになってきた。以前のようには俊敏に体が動かなくなってきたので、あらゆることをゆっくりにしかできないし、そのゆっくり感を楽しむように過ごす、つまりは丁寧に過ごすようになってきたのである。

そのことが一番大事だという当たり前さのありがたき気づきの重さは 、秋の夕暮れの中ぽつねんと深まるのである。

話は変わる。週末長女の家族全員、つまり孫の望晃(ノア)くん、レイさんが帰ってきて、3日間ノア君中心の時間をおばあちゃん含めての楽しい時間を持てた。ノア君にはひと月前に会ったばかりなのであるが、このひと月間に驚くほどに言葉を発するようになっていて、私を驚かし続けた。

これ以上綴るのは爺バカのそしり、控える。早い話誤解を恐れずに言えば、こういう有難き感情は老いて孫に恵まれたからこそ味わえた感覚、我が身に起きた 現実に、私は素直に天に感謝した、
そして想ったのである。安心して老いてゆきつつ孫の成長を静かに見守る、見守れるおじじになりたいと。

日曜日午後岡山駅の近くで、1歳8か月のノア君とお別れしたのだが、涙をためて見送ってくれたその姿は、おじじの胸を撃った。ノア君と長女家族年末ドレスデンで過ごすために日本にはいないので、ノア君にはしばしの間会えないのが残念であるが、岡山で束の間愉しい時間が過ごせたこと、家族全員で帰ってきてくれたことががうれしかった。

2019-11-17

3度目、昨日アーサー・ビナードさんのお話を聴きました、そして想う。

昨日午後、被爆2世・3世交流と連帯のつどい実行委員会が主催する【この世はぜ~んぶ紙芝居】というタイトルの詩人アーサー・ビナードさんのお話を、岡山県立図書館内のホールで聴いた。

アーサー・ビナードさんのお話を聴くのは3回目である。最初は2年前福山で、2回目は昨年天神山で、そして今年と。この回岡山の知人が郵送のチラシで知らせてくださった。(この場を借りて感謝)もし知らせてくださらなかったら、きっと聞くチャンスを逃していたかもしれない。縁がある。

本当に最近の私は情報音痴だし、不必要な情報は可能な限り取り込まないようにしているし、(もう十分に情報は入っている)、これまでの人生で得た貴重な御本ほかを、これからの時間で繰り返し反復するだけで(味読する)足りている今なのである。この間も書いたが、ルーティン、紋切型ライフ、まるで引きこもりのような最近の 生活なのである。

(これはゆかねばと思えるお知らせほかは、数少ない友人知人が知らせてくれるし、自分なりに探してもいる)

だが、じっとはしているものの、頭の中は絶えず回転しているという自覚がある。そのような暮らしの中に飛び込んできたアーサー・ビナードさんのお話会のお知らせ。いざという時には、さっと動く。

2年前アーサーさんのお話を福山で聴いた時の衝撃は、探せばきちんと五十鈴川だよりに書いているはずである。だから重複は避けるが、私が生まれて初めて詩人の生のライブ話を聴いたのがアーサー・ビナードさんなのである。

アーサー・ビナードという名の詩人が強く私の脳裡に刻まれたのは東京の第五福竜丸の展示場で求めた一冊の絵本、ベン・シャーんの第五福竜丸という絵本である。(絵がベン・シャーン、構成と文章がアーサー・ビナード)

長くなるので簡略に記すが、このようないまだアメリカ国籍(であるとおっしゃっていた)の方が、立派な日本語で詩やエッセイを書かれている事実にまず驚嘆したのが、アーサービナードという存在を認識した最初。日本人以上に日本語が堪能であり、トランスナショナルな方(存在)である。

だから2年前福山で講演会があると知った時に、すぐ行くことにした。お話が始まり、あまりの速射砲のように繰り出される驚愕の真実に、私は驚き打たれたのである。そして自分の無知を思い知らされたのである。

わけても驚いたのは、広島、長崎に落とされた核爆弾のウランとプルトニウムの種類の違いから、虎視眈々と秘密裏に続けられてきた広島への各爆弾投下のアメリカのマンハッタン戦争軍需産業戦略、そして広島に落とされた核爆弾が人類初ではなく2番目であったという事実など、コトバに敏感な詩人は、世界を動かす偽の言葉の言説を、空恐ろしいほどの言語嗅覚をもって真実をあぶりだしてゆくのを語ったのである。

そして昨日の講演会で私が感じたこと、人間を操るのは為政者の(その手先は電通?博報堂?)言葉であり、またその操る言葉の欺瞞を見破るのも、(は)詩人の嗅覚を持った一人の人間であるということである。まずお話の最初、日本人は線引きが大好きな民族であるという鋭い指摘から入り、コトバの不思議な恐ろしさ、古い漢字で廣島、今の漢字で広島、カタカナでヒロシマ、ひらがなでひろしま、このニュアンスの微妙な違いを詩人の言語感覚は見逃さない。(おぞけを振るうような惨劇が74年前、広島長崎東京他日本各地のいたるところで岡山でもあったのだ、その事実に目をそらしていると、忘れていると、またもや為政者の思うつぼなのである、だから真の言葉を見抜ける詩人の眼が必要不可欠なのである。でないと私のような輩はすぐ騙されるのである)

とにかく今回もとても私の五十鈴川だより程度の一文では、そのさわりくらいしか伝えられないが、チャンスを作ってぜひともアーサーさんのお話をできれば直接聴いてほしいし、動画他バーチャルででもなんでもいいからと、願わずにはいられない。

私などの常識的な普通の感覚では、一歩間違えば、福島の原発事故、チェルノブイリ原発事故(もう何度も現実に起こっているし汚染水は止まらない)これ以上はないと思えるほどの不条理で悲惨極まる出来事が起こりうる現代という底知れぬ不安を抱えた、グローバル現代社会の闇に向かって、アーサーさんは語りつづける。
ちっちゃいこえの紙芝居・私も購入しどこかで声に出したくおもう

聴いていると喉が傷まないかと思えるほどに、舌鋒鋭く詩人は鵺のような闇の正体をこれでもかと赤裸々に暴いてゆく。私は反省する、事実を知り見つめ考える勇気が必要である。長いものに巻かれろ、見て見ぬふり、我関せずではきっとやがて自分にも、ある日突然自分の大切な家族の上にも、降りかかってくるのである。放射能は匂いもしないし、見えもしない。

それにしても人間はなんてものを作って、それを広い意味での同胞人類の上に落として、正義面をしていられる神経、その感覚が不思議だし、汚染された食べ物はやがて巡り巡って自分の口にだって家族にだって入るのである。

アーサーさんは人類的な見地から絶望を辞めようと語りかける。ユーモアがあるから聴くことができるが、想像力のある人間には身の毛もよだつ在り様である。だがあくまで詩人の感性は冷静で柔らかい。だから初老の私にも人間としての言葉が届く。

大学生のころに、アーサーさんはエリザベス朝時代の文学を勉強しシェイクスピアも学んでいたそうである。私は日本語のシェイクスピアだが、何か接点があるような気がしてうれしかった。私は広島に住むアーサーさんを年内に訪ねてゆく約束をした。

最後に、今声出ししている夏の夜の夢の妖精パックの台詞【人間てなんてばかなんでしょう】とある。ハムレットの台詞で締め、核とおさらばするのかしないのか、人類はこの命題からは逃げられないと、私はアーサーさんのお話を聴いて想った。


2019-11-12

闇夜に浮かぶ月を眺めながら声を出す、そして想う。

昨日に続いてのいつにも増しての早起き、昨夜9時過ぎ床に就き、一度も目覚めず6時間熟睡したらすきっと目が覚めた。昨夜夕飯前の一時、暗い中声出し散歩に出かけた時、ほぼ満月の月が東の空に浮かんでいたのが、今は西の空に移動している。

月の後光にあやかるのが私は大好きである。いよいよこれからは、月を眺めに行く旅などもやがてはしたいと思う私である。肌寒いが着こめば気持ちの良い夜散歩が、月が出ていればする気になる。

来年の、夏の夜の夢の発表会で私が声を出す侯爵の台詞を、このところ諳んじる努力をしているのだが、月明かりの中でひとりぶつぶつと声を出しながらのお散歩は初老男を別世界へといざなう。

時に自分はいったい何をやっているのだろうと思わぬでもないが、いいのである。いろんなお散歩スタイルがあっていいのだ、と思う。話は変わるがこの年齢になると若いころと違って、当たり前だがセリフ覚えが悪くなっている。だが、2年前のリア王から意識的になるべく覚えようとしないで、自然に繰り返し声に出すことで記憶化されるように愉しく努力しているのである。
この御本にいきなり須賀敦子さんのことが書かれていた

声を出すことが、声が出せるという当たり前のことが、実はまったく当たり前ではない(歩けることも含め全く体は精妙にできているのである)のだという自覚が深まるにつけ、声を出し、いまだ台詞を記憶できる体がある今を生きられているという嬉しさが私を包む。

意味もなく、月に向かって感謝するのである。月とまるで対話でもしているかのように、月に向かってぶつぶつと反復稽古を繰り返す。言葉が詰まって出てこない時はあきらめる。家に戻って出てこなかった個所を確認する事の繰り返し。本に頼らない、身体に頼る。

喉頭がんになり声が出なくなってしまった音楽家の方々の無念は察するに余りある。もし自分がそうなったら、と想像する。だから、単に歩ける、動ける、働ける、声が出せる、弓が引ける、等々健康に今が生活できる、そしておなかがすいたら食物があり、家族がいて、とりあえず暖をとる着るものがあり、ゆっくりと休めるスペースがあれば、もうそれで十分なのである。

リア王の登場人物グロスターのセリフ、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】いまだつまずき続けている私であるが、見えない世界、聞こえない世界の音に耳を澄ます、訓練をしないといけないと最近とみに感じ始めている。

表面には見えない、言葉の奥底の人間の感情の襞を探り当てるためには、反復集中稽古しか私には方法がない。闇夜に浮かび姿を変える月、姿を見せない時も目に見えずとも、絶えず月は光芒を放っている。


2019-11-11

静かに秋の夜長、灯火親しむ読書時間を過ごす、そして想う。

いつにもまして早く目覚めた、天気予報では雨マークなのであるが、外に出ても雨は落ちていないので、五十鈴川だよりを綴ることにした。

時は金なり、を自覚している私としては、何かせざるを得ないという貧乏性であるが、何度もいやというほど書いているように、いつ何時何が起こるかわからないので、書けるときに、書きたい気分の時に、一気にわが体から思い湧き出流ことを、書くのである。

男は格好をつける。たぶん私もそのような煩悩がいまだ抜け切れてはいないと思うが、でも十分にいい歳である。枯れてきて当然なのである。枯れ木も山の賑わいというが、まさに枯れてゆきつつある今を、初めて経験するいよいよこれからのゾーンをこそ、可能なら意識的につづりながら、老いのなんちゃら、格好をつけたいという自意識過剰を生きるのである。

話を変える。灯火親しむ秋というが、以前にもまして身の丈に合う読書が愉しい。どこにも出かけなくて足りているのは、本があるからである。弓の巻き藁も部屋でできるし、声出しは運動公園でできるし、本は部屋でも図書館でも読めるというわけで、結果遠出しない、引きこもりであるかのような初老時間を過ごすことになるのである。

さて、先日読んでいた【須賀敦子さんの御本・塩一トンの読書】を読み終えた。もう図書館に返したが、手元に置きたく入手するつもりである。読んでこの本は手元に置いておきたいと思えるような本に巡り合うために、いよいよこれから私はますます本を読む時間を大事にしたいと思っている。
妻の最愛の花、必ず五十鈴川だよりを書いているとやってくる

本格的に本を手にするようになったのは18歳から。世の中に出て演劇学校に入っていやというほど、満座の中で恥をかいてきたからである。あのいたたまれないような恥ずかしい、井の中の蛙的な感覚は、この歳になっても忘れられるものではない。

自意識過剰の少年は、この年齢になってもあの時のトラウマがいい意味で抜けきれていない、自覚がある。でも思う、あそこから真の意味で、自分は生きることに、よたよたしながら歩み始めたように、今は思える。

高校で演劇部に入って居場所を見つけ、上京後右往左往しながら20代かろうじて演劇を学び続け、その学び続けた経験が生きて、40歳で定職につくことができ、家族ができ、今こうして元気に生活できていることのすべては、本を手放すことなく演劇的な思考を持続してきたからではないかと想える。

本はせまい思考に陥りそうになる自分に新鮮な酸素を吹き込んで再生してくれる。ときに酸欠になりそうな体は、居ながらにして蘇る。(ようになる)不思議というほかはない、それはまだかろうじて想像力があり生きているからである。たぶん想像力がなかったら本は読めないのでは、と思う。実人生で会える人の数は限られているが、本は無限である。

先日も畏敬する知性的怪物お二人、佐藤優氏と松岡正剛氏の対談本を読んだのだが、一言まさに圧倒された。だが以前よりも動じなくなってきたのである。それはなぜなのかは今はまだよくはわからない。がしかしお二人をはじめとして、信頼するに足る現役の私にとっての、この人は信じられるというような、自分の無知を照らしてくれるような水先案内人的存在に出遭えたのは、本を読み続けてきたからである。

ささやかな独学、読書である。年上、年下に関係なく、本を読んでいると何と素晴らしい人がこの世にはいるのかと知らされる。須賀敦子先生もそのお一人となった。私にとって先生と呼べる方は知識人ばかりではない、多分野に存在する。素晴らしき本をほとんど読まないが私を魅了する労働者も存在する。私は静かに反省する。もっともっと静かに生活しながら、素晴らしきお仕事をなさっている、私の無知を照らす方々の御本を読みたい、耽耽溺したいと念う秋である







2019-11-10

ささやかにお芋を収穫し秋の実りを体感、そして想う。

いきなりだが、一昨日の金曜日午前中のアルバイトを終えたのち、そのバイト先の敷地内にある畳8畳くらいのスペースがあり、そこを好きに使っていいという許可をいただき、サツマイモを植えていたのだが、その収穫をした。

ほとんどほったらかしにしていたスペースを、一人でほッ繰り返しお芋を収穫したのだが、粒は小さいもののまあまあのお芋が収穫できた。

小さくても十分に食べられる、私としては植えっ放しでほとんど何もしていないにもかかわらず、形は不ぞろいではあるが十分に食べられるほどのサツマイモが、ひとりでに成っていることがうれしかった。

さらにれしかったのは、わずか2個ではあるが、思わぬ予期せぬ大きさの芋が土の中から出てきた時には、なんとも言えない収穫感が体を襲った。芋の蔓を鎌で切り集め、マルチをはがし、こんもりとした土の山をスコップや三本ぐわで芋が傷つかないように、注意深く掘り起し、約2時間近くかかったのだが、十分に収穫の喜びを味会うことができた。

光と土と水のおかげで作物は育つ、人間にできることは雑草をぬいたりのわずかな手間しかやっていないにもかかわらず、食べられるお芋が十分にできるということの恵み、実りの秋というが、超ささやかな秋の恵みのサツマイモは私を幸福感に導いた。

スーパーなどではほとんどお目にかからない、小粒なものがほとんどなのだが食べるのにはなんらししょうはない。今はまだ土と向かい合う時間がなかなか取れない私だが、いずれの行く末はささやかに土と向かい合いあいたいと思う。
根を張るお芋を食べ私も見えない世界に根を伸ばしたい

四季が移り変わり、多くの多様な自然の恵みを与えてくれるこのような日本という風土に生まれた我が身の幸福を、老いと共に実感する私である。

話は変わる、このところ急に秋らしくなり列島各地は冷え込み、各地で初冠雪のたよりも届くこの頃だが、私はまだこたつも出していないし、薪ストーブも焚いていない。そろそろとは考えているが、果たしていつになるか。

紅葉のたよりも北の方から、あるいは高地にある山々から届いている。どこにも出かけていない私だが、よくゆく運動公園のメープルリーフ、モミジ、桜、銀杏、プラタナス、ほかいろんな樹木が色づいてきた。身近な近所でも散歩がてら色づく燃える秋を感じることができる。

だが、一人山里を訪ね孤愁の秋の風情を堪能するのも一興ではないかとは考えている。孤独な秋もいいものである。先人たちは万人に等しく訪れる秋を、憂いをたたえながらも楽しんでいたのに違いない。凡夫の私でさえ風情あるこの日本列島の尽きぬ興趣には老いと共にますます、刻々と変容する色移りのあでやかさに感嘆してしまう。

これからしばしの間、葉が落ちるまで、木の葉に朝日が当たるいっときを愛でるひと時を、大事に味わいたいと思う。

2019-11-09

晩秋の日の出、日没、月の輝きの中でひとり想う。

夜明けとほぼ同時に家を出て、休日のほぼルーティン的日課である声出しを約一時間ほど済ませ、朝食を終えての五十鈴川だよりタイム、立冬を過ぎ穏やかな秋の陽ざしが二階のわが部屋に差し込んでいる。

さっと新聞に目を通したが、私のような凡庸な頭では、理解に程遠い紙面を埋める記事が、文字が、言葉が飛び込んでくるが、関心のない記事にはほとんど目がゆかないし、脳が閉じたままである。

それでも老いゆく今にまるであらがうかのように、目が留まる記事を探す自分がかろうじている。そして見つける。たとへば、昨日の紙面からでは、福岡工業大学研究チームが確認した、空気中にもマイクロプラスチック、の記事。
CW・ニコルさん尊敬している

また、発言の欄ではノンフィクションライターの岩本宣明氏の一文、日本から科学者が消える日などは、切り抜いてゆっくりと読む。定年退職してから一番うれしいのは、やはり時間的にゆっくりと物事に余裕をもって取り組めることである。

朝日を浴びながら、時間を気にせず新聞を読めたり本を読めたり、さわやかな秋の空に向かってなんの束縛もなく声を出せるいっときが、コトバにならない足りている今を実感、何もない我が身一つのシンプル健やかさを感じ感謝するのである。

もう十分に、あくせく否応の人生を送ってきた自分を顧み反省し、もうそういうこれまでの自分とは限りなくおさらばしたいという自分がいる。三つ子の魂はいまだ健在ではあるものの、なんだが本当に家から(近所から)出掛けなくなったし、わずかしかお酒も飲まなくなった。まるで引きこもり老人である。

それでも十分に満ち足りた日々を、ようやくにして送っている自覚がある。やりたいことの焦点を絞り、微妙にうすい薄い自分の殻をむき続けることを継続持続する喜びの時間をこそ、これからは大切にしたいのである。

弓の巻き藁の稽古も、時に指が痛く気分がふさぎこみがちに(人間ですから)なったりもするのだが、そういうときにもひいていると、ふさぎの殻が吹き飛ぶことをすでに身体が知っているのであえてやる、(いかに人間の心が体に左右されるのかがわかる)

気分がふさぐ記事があまりにも多い昨今だが惑わされない。そのような紙面の中に人間へのゆるぎない信頼と希望の記事を見つけながら、なにはともあれ自分が変化する可能性をささやかに掘り続けたいと、きれいな秋の月を眺めながら初老男は想うのである。

2019-11-05

秋の夕暮れ、つれづれなるままに。

秋の夕日、つるべ落としとは昔の人は実に表現に生活感があふれている。とはいってももうほとんどの若い世代はつるべなどといっても見たことも触ったこともないだろう。

小学生のころ電気でポンプアップするまで、我が家は井戸からつるべで水を汲んでいた。私もよく水くみをやらされたものである。だから今は亡き生家の、小学生のころの近所の風景は、いまだはっきりと記憶の底にある。

そのようなことを、浦島太郎のように、いまだ思い出せ、このように秋の夕暮れの一時につづれることが、ナルシスティックであろうが、初老男はうれしいのである。思い出に浸れる余裕時間があり、そのことが自分の中に明日の活力を生むのである。

窓からは見事な半月の月が見える。湯を浴びてさっぱり気分で、暑くもなく寒くもなく、夕飯前のまさにささやか至福の夕刻の一時である。(ビールを我慢して書いている)

【とりたてて・書くこともなし、秋の夕暮れ】といった体なのだが、書いていると体が勝手に一文を運んでくれるかのような気分に陥るのも、これまたナルシスティックなのである。(自分で自分を大事にしない人が私は苦手である)

このように、厚顔無恥に気ままに綴れることこそが、老い力なのかもしれないと、もういい方向にしか考えないのである。起きてから陽が沈むまで今日一日も何とはなしに無事に穏やかに、ささやかな充実感をもって過ごせたことに対する有難さが、能天気な戯れ文を書かせるのである。
いつかゆっくりと読みたいと思っていた方の御本

今年も残すところあと2カ月だが、無事是名馬というではないか、体調がすぐれなかったら、旅もできないし、つまりはあらゆることに支障がきたすわけであるから、老いてきてますます今日一日元気に過ごせたことの感謝の念が深くなってきた私である。

きっとこの感覚は、歳を重ねるにつけ深まり続けるだろう。先日上京した際、わずかな時間ではあったが孫の望晃(ノア)くんと遊んだ時に見た笑顔と声としぐさに、コトバにならない名状しがたい感情、幸福感につつまれたのである。

このようなことを書き綴ると、あきらかに爺バカのそしりを免れないのでもうよすが、孫は刻一刻と精妙に変化しつつ成長する。果たして私は思うのである。孫にとって面白いおじじになろうというくらいにしか、今は言葉にできないが、面白いおじじになるにはどうしたらいいのか、考えるのである。

早い話、孫のおかげでうかうかできないテーマが、にわかに湧いてきているのである。孫の存在は行く末の老い先を照らしてくれそうなのである。

有名な俳句に習っていえば、【見渡せば・老い先照らす・孫光】お粗末。

2019-11-03

2泊3日上京旅・その2。

昨日の続きを書いておかねばと思う文化の日の朝である。約一時間夜明けの公園で声出し(夏の夜の夢のいろんな登場人物の長いセリフの)を終えて帰ってきたばかり、この一文を書いている2階の窓にまばゆいばかりの朝陽が差し込んでいる。

さて、月曜日夕方の新幹線までの間どう過ごそうかと考えながらホテルを7時半過ぎにチェックアウト、月曜の朝なのでこの時間帯、地下鉄は出勤のサラリーマンで混んでいるし、しばし思案し思い切って有楽町まで歩くことにした。

思えば上京したてのころ、貧しく、そして少年期から青年期へと向かっていた私は、底知れぬこれからの未知の人生に対する不安を抱えながら、未知の東京のあちらこちらを、さ迷い歩いたものである。未来に対する不安と、矛盾する未来に対する得体のしれぬきたいと渇望。

あれから半世紀、老いつつあるわが体で、都心部をもう一度歩けるうちに歩いてみようとのおもいが忽然と湧いたのである。まず溜池まで出て、虎ノ門、新橋、霞が関から日比谷公園と抜け、皇居の見事な松を眺め9時過ぎに有楽町についた。背中に荷物を背負っていたのだが、お天気も良く散歩がてら気持ちよく歩くことができた。

思いのほか自転車や、歩いて諸官庁(このエリアは国の中枢の官庁がひしめいている)に吸い込まれてゆく人々を多く見かけた。私とは異次元の世界で生きている方々の生態を観察しながらの散歩は楽しかった。この朝のウォーキングは今後上京する際の楽しみの一つにしたいと思わせるほどの充実感が私の中に広がった。

世はまさに高齢化いかんにかかわらず、巡礼地をめぐったりと歩くことが大はやりだが、私の場合は、半世紀を起点にして第二のふるさとともいえる、メガテクノポリス東京を老いゆく身体で歩けるうちに歩いてみたいとの気持ちが湧いてきたのである。ふるさと五十鈴川を歩くのと、東京ウォークの両極を歩く、歩けるうちに。

話を変える。有楽町についた私は荷物をコインロッカーに入れ(すっかりデジタル化されているが慣れてきた)身軽になって銀座をぶらぶらする、このぶらぶら感がたまらなく自由でいいのである。


本は帰りの新幹線で読み終えた

足はよく通った界隈の映画館へ、驚いた。よく見た好きな映画館スバル座が閉館していたのである。ちょっぴりセンチになった。おなかがすいたので、スバル座のビルの地下にある昔風の喫茶店でかろうじてのモーニングタイム。今はすっかりカフェスタイルが多くなったが、まだかろうじて昭和の雰囲気を残しているお店があるのが東京の良さである。

中年の女性の方が一人で営んでおられた。そこそこの大都市の値段で全く驚かなかったが、とーストもコーヒーもおいしく、ミルクも生であった。店内には私の好きな落ち着いたジャズが流れていて数人しかお客がいなかったので、ゆっくりと時間を過ごさせてもらった。

午後、私の足はこれまた昔よく通った映画館シネスイッチ銀座で上映されているドキュメンタリー映画【樹木希林を生きる】を観に向かった。今回の旅の最後にこのドキュメンタリーフィルムを見ることができて本当に良かった。見終えて私は早めに東京駅に向かい遅い昼食を済ませ、新幹線に乗り岡山に帰った。実りの多い旅となった。

2019-11-02

先週の上京2泊3日の旅、その1。

一週間ぶりの五十鈴川だよりである。先週土曜日から二泊三日で上京してきたことを身体が新鮮なうちに書いておきたい。

スケッチ風に。まず土曜日は着いて赤坂のホテルに荷物を預け、18歳の時から半世紀にも及ぶ交友が続いている、最初に私が上京してすぐ入った演劇学校、貝谷芸術学院で知己を得た先輩、佐々木梅治氏の演劇人生50周年自主企画、井上ひさし作【父と暮せば】を午後3時から見る。

佐々木梅治氏の、企画・構成・演出・出演の芝居一人語りである。氏は2003年からこの芝居の一人語りに取り組み、上演回数200回の記念公演。場所は浅草の木馬亭。金曜日から火曜日までの毎日一回、公園は五日間行われ私は公演二日目の午後3時からの公演を見届けた。上演時間は一時間20分。

また、氏についてはゆっくりといずれ書くことがあると思うが、18歳からの3年間かなり密に公私ともに過ごした(1970年から72年)ので、その時代の空気感の中、多様な影響を受けた先輩の一人なのである。

一言半世紀というが、その時の演劇学校で知り合った仲間の一人はすでになくなっていたりもしているし、信念を貫き、現役で自主公演までやり続けながら、演劇人生を持続している先輩は氏一人になってしまった。めでたい私にとっての慶賀な出来事というほかない。

舞台を拝見しながら、様々な思いが去来したが、【父と暮せば】になぜかくも氏が情熱を傾注して持続公演を重ねているのかは謎だが、この芝居の何かが、氏の琴線をとらえて離さないのだろう。この一人語り、企画者時代岡山でも2度ほど私が自主企画でをやっている。(名作は古びない)

今回見るのは本当に久しぶりなのだが、以前見た時よりも深く心にしみた(泣けた)のは、私がおそらく老いつつ、娘二人を無事に育て嫁がせ、何とか父として多少の役割を何とか終えることができたことに由来している。(気がした)

ともあれ、出会いから間もなく50年、人生はまさに偶然なのか必然なのか不思議というほかはない。公演後奥様中心に近親者での当日打ち上げに飛び入り参加させていただき、一次会(佐々木氏は明日の公演があるので途中で退座)二次会まで浅草の夜をはじめてであった方々と楽しく過ごし、赤坂のホテルに。

翌日曜日朝早くホテルを出て、8時過ぎに稲城に住む長女のところに。孫の望晃(ノア)君は早起きすでに朝食を済ませていた。私が玄関でおいでというと、久しぶりなのに物おじしない、すぐ私の胸に飛び込んできた。これ以上綴ると爺バカになるので控えるが、言葉がないほどに可愛く、好奇心満々で日々成長している。一歳と間もなく8か月、言葉への理解力、反応が速い。

しばし遊んでいると、次女がやってきた。レイさんはその日友人たちが午後やってくるので、昼食の準備に取り組んでいたので、娘二人とノア君の4人で気持ちのいいお天気の中、近所に買い物がてらお散歩、途中に遊具があったのでノア君はしばし滑り台などの遊具に夢中、爺も少し持ち上げたりして手助けなどしながらともに遊ぶ。

ノア君はとにかく一時もじっとしていない、ホモルーデンスとは?走りたいのだろう、歩くというよりは、気持ち走っている感じで移動する。動ける自分が面白いのだろう、その姿がなんとも言えない。とある遮断された(新しく作る住宅地を整地しているパワーシャベルが置いて在っては入れない)金網のところで転び瞬間べそをかきそうになったが、立ち直りが早い。
天使を肩車、爺は身体を鍛えて遊ぶのだ

見たこともない虫と出会って、いきなり顔が引きつったりして泣き出す。うーむ、孫は日々新しく世界と向き合って森羅万象を体得している。これから会うたびに男同士いろんな体験をするのが楽しみである。孫のおかげで爺も何か新しい自分が生まれるかもしれない。

その日は、お昼前に次女と共に長女のところを辞し、夜次女夫婦と赤坂のホテルの近くで待ち合わせ夕食。(その間私は神田界隈でひとり時間を過ごし、早めにホテルに戻って待機していた)

待ち合わせたのは夕闇迫る5時20分。ホテルから歩いて15分くらいのところにある赤坂見附の近くの、とある関西風のおでんと和食のお店、次女が予約してくれていた。次女は2か月前結婚したばかりである。二人目の義理の息子がレイさんに続いてできた。名前は周平さん(書いてもいいよね)これも親ばかになるので控えるが、好青年である。

3人での穏やかで楽しい語らいの夕食が進み、私が周さんに頼んでいた、イラスト入りの素晴らしい名刺が出来上がっていて渡された。大満足の仕上がり、名刺を作る気になったのは、また別の時に書きたい。周さんという息子がレイさんに続いて、娘たちの結婚のおかげで、忽然と私にできた不思議感を何と言葉にできよう。

周さん、シェイクスピア遊声塾これでエンジンが入る、感謝。
これまた、偶然か必然化、人生はまさに予期せぬことの連続の連鎖の上に刻々と刻まれてゆくのである。名刺のお礼に私がご馳走しなければいけないのに何と周さんがご飯代まで支払ってくれていた。たいして飲んでもいないのにいい気持になり、初老男は幸福であった。

周さんはお酒をたしなまないので食事を終え、偶然見つけたアラビアコーヒーの一家言ある主が営んでいるこだわりの茶房でコーヒータイム。値段は秘す、野暮は苦手である。人生忘れられない思い出がいかほどできるか。良き記憶は財産である。(やがては忘れゆくも、だからこそ今を切なくも大切に生きるのである)

平坦な人生などあるはずもない、力を合わせ乗り切っていってほしい。二組の娘たち夫婦に対して不即不離の関係で、おじじとして迷惑をなるべくかけないように見守ってゆくべく、私もいよいよこれからが、正念場である。(続きは明日書きます)

2019-10-26

第一回西日本槇峰会総会に参加できました、そして想う。

昨日、大阪の道頓堀ホテルでお昼から午後3時まで行われた、第一回西日本槇峰会総会に、日帰りで行ってきた。

そのことを、わずかでも頭が新鮮なうちに少しでも五十鈴川だよりに綴っておきたい。数週間前、3年ぶりに突然私にK君からメールが入った。

内容は25日、大阪で槇峰会なるものがあるので参加してみないかとのお誘いであった。同窓会ではなく槇峰会のお誘い。しばし私は逡巡した。が、どこかで私は出かけてみたいとの思いが次第に湧いてきた。

槇峰会なるものが関東や、関西にあるとのことは、3年前槇峰の地にあった美々地小学校の同窓会にたまたま偶然参加することができたた時に聞いてはいた。

話を少し戻すが、私は父親が教師であったため生まれて就学前も含めれば、宮崎県の中を5回ほど引っ越している。生まれてすぐ高千穂というところに行き(私の最初の記憶は高千穂に雪が降っていた光景である)3歳まで過ごし、そこから生まれた門川に引っ越して、小学校の5年生までを門川小学校で過ごし、6年生の時一年間だけを、槇峰銅山のあった美々地小学校で過ごしたのである。

妻の最愛の花、五十鈴川だよりを綴るとやってくる
この時の一年間の出来事は、齢67歳の今になっても記憶の底のそこかしこに、かなり鮮明に残っている。それはそれまで過ごした海沿いの門川小学校とは、多面的にあまりにも異なる環境に突然放り込まれたことと、6年生でいよいよ多感な思春期の入口に差し掛かっていたからではないかと思う。

 この時過ごした一年間の途中から、槇峰銅山閉山のうわさが教室内に流れ、ぽつりぽつりと旧友が転校してゆき、私も一年後、父親が都城の近くにあった高城町立四家(しか)中学校への転勤と共に転校を余儀なくされた。

私が転校して後間もなく、槇峰銅山は閉山し、かっての級友たちは全国各地に離散した。が美々地小学校での鮮烈な記憶が私を槇峰へといざなう。高校生になった夏休み生家に戻った私は、ひとり槇峰の地を訪ねた。槇峰の地の風景は一変し、かって一年間住んだ中学校の下に在った桜が丘の炭住あとは無残なまでに雑草に覆われていた。

地元の子供だけが通う美々地小学校はまだあったが、私の中の面影、あの山間の地の槇峰は無残なまでに姿を変えていた。私は15歳になっていた。

わずか3年前とのあまりの劇然たる変化に茫然自失したといっても過言ではない。多感な思春期の真っ盛り、今考えると力が全身から抜けてゆくかのような虚脱状態に私は襲われたのである。

あの級友たちはいずこへ。あの時の虚脱感が私に与えた、今風に言えばトラウマが、その翌年高校2年生になりまたもや転校、生家から通い始めた富島高校で演劇部に入部することになるのである。

話を戻す。50歳を前にして父親が亡くなり、私はまたもや槇峰の地を訪ねた。長くなるので端折るが、そこで槇峰の地に今も住むT君に40年ぶりくらいに再会し、幸いなことに彼が私のことを覚えていてくれたことが、3年前静岡で行われた美々地小学校への同窓会に参加するという、思わぬ予期せぬ出来事へとつながるのである。

長女が生まれた時に植えたスダチ今年は当たり年である
その同窓会で、当時岡山に住んでいていまは滋賀県に住むK君と知り合い、彼が3年ぶりに私にメールを突然くれ、誘ってくれたおかげで槇峰会に参加がかなったというわけである。

今日これから上京せねばならず簡略に記すが、槇峰銅山閉山後、日本各地に散った仲間がその後半世紀以上にわたって今もこのような形で、絆の確認とお互いの友好を継続持続しておられる会に、浦島太郎のように参加させていただいた幸運な出来事を何としても、五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

未曾有の高齢化の中49名の方の参加、私やK君が一番若く、ほとんどの参加者の方が私より年上の方々ばかりだった。その後人生の修羅場を潜り抜けて今もこうして友愛を継続持続されている事実に、私は深く感謝の念を抱かずにはいられなかった。

高齢化し、関西槇峰会は継続不可能となり、有志9名で再び西日本槇峰会を立ち上げられたとのことである。その情熱の深さ念いには脱帽するほかはない。日本人の誇りここに健在である。

K君ぐらいしか話し相手がいなかったが、私の父親を覚えていた方もおられた。アルコールのおかげで、私もすっかりリラックスし、いろんな方がたった一年しかいなかった私に暖かく声をかけてくださり、本当に恐縮しながらも参加してよかったとの思いが、こうして私に五十鈴川だよりを書かせるのである。

人生は有限である。身体が元気な間は可能な限り槇峰銅山閉山後も、熱き絆の継続を実践されている諸先輩方との交友に学びたく、今後も参加したい。K君お声掛けありがとう。

2019-10-22

歓喜と絶望のはざまに想う。

今日は午前中肉体労働はお休み、即位の礼だからである。まだ外は暗い。さて何を綴ろう。

もう10日近く前、日本対スコットランド戦が行われた13日私は故郷に帰省していた。前日の12日から当日、台風19号が主に関東以北を直撃、未曾有の多くの川が決壊するかって経験したことがないほどの水災害となった。

その日兄と共にスコットランド戦を見たが、その間完全に被災地のことなど念頭になく、画面に吸い付けられていた。

前回大会で苦杯をなめた相手スコットランドに、何としてでも勝つんだという執念は、被災された方々に、試合後あの笑わない男稲垣選手が少しでも勇気を与えたかったとインタビューで応えていた。
書評欄のイラストのカットがとにかく楽しみでした

おそらく被災された方々の多くはワールドカップどころではなかったであろう。一方で絶望的なほどの困難さの状況を生きる方々、方や歓喜につつまれるスタンド。これが現実の世の中である。

想像する、自分が被災し家を流され、肉親を失われたしたりしたら、ワールドカップどころではなかっただろう。悲しいかな残酷というほかはないほどに人間は(自分は)自己中心的な存在である。
他者の苦しみや、哀しみ痛みは、(喜びもまた)おそらく経験した者でなければ分からない。昨年夏の豪雨で、我が家のそばを流れる小さな川、砂川の上流が決壊し一部のエリアの家屋が水に浸かった。猛暑の中一日だけボランティア活動に行ったが言葉がなかった。

話は変わるが、人間は心も決壊する。自殺者の数はこの数年減少傾向にあるが、小中学生の自殺は増えている。いじめのニュースなどひきも切らない。教師が教師をいじめる、漫画である。なぜかくも弱者に対する思いやりなどが、退行する社会になったのか。

凡夫の私には遠く理解の及ばぬところではあるが、特に戦後、きっとあまりにも世の中が急激なテクノロジーの発達経済社会にシフトしすぎたために、何が何だか分からなくなっているのではないか。自然の一部である身体が、いじめをする側もされる側も、わけもわからず悲鳴を上げているのではないかと、愚考する。

この一文も私の好きな池澤夏樹さんが寄せておられる。
で、ふたたびラグビーの話。テクノロジーがいかに発達しようが、人間は所詮排泄する器、身体を動かす、自分を動かすしかない存在である。でないと他者に迷惑をかける。家の中に泥が入り、どかすにも片づけるにも、高齢者はともかく、基本的には自分の体を動かすしかない。基本を置き去りにした社会、身体が動かなくなったらアウトである。

石油、耕運機や車社会以前はみんな体を動かしていた。私を含めたほとんどの日本人が、体を動かすことの悦楽を忘れたのである。

便利快適社会を追求し続ける経済発展幻想社会の未来は、果てしなく災害に弱い社会であることが、立証され続けているかのようなこの9・11以降の日本列島。そう感じるのは私だけであろうか。

ラグビー日本代表が示唆している姿に私は生きるヒントを感じる。勝負は置いといて、あの汗水たらして大事なもの、誇りを守るために身体を張る。感動は銭では買えない。男の私としては困った時には足場を固めるしかほかに方法がない。足るを知る者は富む。難しくはない、当たり前のことである。原点に還る。そのことを日本代表が教えてくれたように想う。

2019-10-21

あの若き多人種日本代表が示した姿に、初老男は胸がざわつき、そして想う。

ラグビーワールドカップの日本代表の渾身の戦いが終わった。南アフリカ代表との一戦を妻と二人で、静かに見守った。ベスト8での戦いも含め、すべてをテレビ観戦でリアルタイム見ることができたことの喜び、感謝をきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

こんなにテレビ画面に吸い付けられてテレビを見たのは、いったいいつ以来のことかと思うほどに、初老男は選手一人一人の表情に魅せられてしまった。あらゆることを犠牲にしてまで、誇りをもって競技で堂々と戦う姿に、理屈ではいいしれぬ魂の輝き、熱さというものを日本代表の面々は身を挺して範を示してくれた。そしてそのことに理屈抜き感動した。

私の受けた感動は、つたなき言葉では到底伝えられるものではないのを承知であれ、何かを綴らずにはいられない。国籍や人種を超えて、万人の心に届くさわやかというしかない感動はどこから来るのであろうか。ヒトはなぜ感動するのか。

かなりの異国育ちの選手たちが、日本代表として、誇り高く共存して戦う姿に鮮やかに集約された形で、日本のこれからの進むべき未来の進路が示されているのでは、とさえ私には思えた。
10月7日和田誠さんが亡くになった、こころからご冥福を祈る。

私が小さいころ男の顔は、履歴書といわれ、私などは典型的な戦後の軽チャー育ちで、父からチャラチャラするなと叱られたものである。

ラグビーワールドカップで小さいころに見た古き良き日本男児の不敵な笑わない面構えなるものを本当に久方ぶりに、日本代表の選手の中見たし感じたのは、私だけではなかろう。

私を含めた、多くの日本人が忘れていた日本人としての、魂の輝き、団結力、犠牲をいとわぬ、無言の実践力、身体が放つその半端ではない努力の姿に、オーラに撃たれたのである。

ラグビー日本代表が無言の態度で示した、時代の閉塞感をぶち破るほどの快進撃、いったい誰が予想しえたであろうか。だからこそ、日本国中がビックリ仰天、感動したのである。

ともあれ、初老男はラグビーのにわかではあれ、ファンになったことを宣言する。血を流してまで肉体と肉体が火花を放つ、厳しくも美しいスポーツに挑む男たちに魅せられた。あの若き桜の戦士たちから、爪の垢でも学びたいと思う初老男である。





2019-10-20

今回の帰郷で考えたこと。

ふるさとから帰ってきたら季節は一気に変わり、あの夏の暑さが嘘のように去り、冬の到来を感じさせる。

私の中でも、またもや何かが微妙に微妙に変化しつつあるのを感じながら、静かな日々を過ごしている。経験したことがない災害に関するメディア報道には言葉がないので、沈黙する(が想像はする)。

初老男の心のざわめきを鎮めるのには、声出し、メルとの散歩、硯をすりシェイクスピアの文章の書記写、弓の巻き藁、それに読書が私の精神安定調節機能を果たしてくれる。

60歳を超えてからは、それ以前の自分の日々の過ごし方とは、まったく異なってきたといえるほどの変化である、と自分でも思う。事程左様に人間とは良くも悪くも変化する器である。(良き方に向かっていると思いたい)

話は変わる、父が亡くなって20年が経つがこの間何度お墓参りに帰ったことだろう。還暦を過ぎてからは、いちだんと望郷の念が深まってきて、この数年ご先祖の地に何度も足を運んだおかげで、思わぬ方々と出逢うことができ、その縁に対しての感謝は言葉では言い表せぬほどである。
書評で知った。居ずまいを正して読む。

先祖の地には、日高という姓が多いのだが、わけても日高M・Eご夫妻との出会いは、異議深い。今回も岡山に帰る前日、突然わずかな時間お邪魔したのだが、奥様とはお会いすることが叶った。(自家製のお茶をいただいた)

ご先祖の地に、お会いしたいと心から思えるご夫婦と知己ができたこと、そのことをもって、何かが吹っ切れたというか、宇納間のご先祖を詣でる私の旅は終わりを告げたかのようなおもいに今回とらわれたのである。

心と体が元気な間は、これからも帰るたびに日高ご夫妻の顔を観にゆくつもりであるが、いずれの終わり帰郷がかなわぬ事態になっても、悔いはないとの思いなのである。

このようなことを綴ると寂しき誤解を招きそうなので補足するが、有難いことに姉や兄たち日高ご夫妻はおかげさまで元気であり、幸いなことに私はすこぶる体の調子がいい。だからこそこのようなことを綴っているのだ。

うまく言えないが、なにやら新たに、ゆったりと何かまた未知のゾーンに心と体が向かいそうな(向えそうな)予感がするのである。だから私はこれからも限界まで故郷に詣でながらその予感を確かめるつもりである。

いろいろなことを整理しながら、身近な家族的なつながりの縁との関係性を深めてゆく、というか、時間をこそ大事にしたいのである。

2019-10-16

10日ぶりに五十鈴川だよりを書く。

三つ子の魂百までというが、それは本当のことであるとこの歳になってつくづく感じることである。だが、そうは言うものの還暦を過ぎてからの自分は、自分でも随分と変化しつつあるという実感がある。(ただ老いてゆきつつあるだけであるかもしれない)

話は忽然と変わるが、10日も五十鈴川だよりを書かなかったことは、記憶にない。以前だったら何かを書かずにはいられないくらいの自分がいたのだが、それがだんだんとそうではなくなってきた自分が今はいる。(執着心が無くなるのは老化か)
まともであるということはどういうことか深く考えさせられる

何故か、自分でもわからない。だからただ単に深くは考えないことにしている、がこのように10日ぶりにもせよ書く自分がいるので、しばしお休みしたい自分がいたのだと思う。

台風19号の残した豪雨災害、寄る年波と共に被災されたご年配の方々の境遇を想うと、言葉がむなしい。こういうときは、ただ沈黙するほかない。

台風で延期していた両親のお墓参り、急きょ突然のほかの用事もできて、4日ほど帰郷して昨日帰ってきたのだが、台風一過、故郷はまるで何事もなかったかのような穏やかな郷の秋晴れが続いた。

関東から東北地方の台風被害、河川の氾濫映像に遭われた方々と、わが故郷のあまりの風景の違いに、沈黙する。

両親が無くなり、この20年お墓参りに何度もふるさとに帰省しているが、わが姉や兄たち、自分も随分年齢が上がってきているので、一期一会での帰省旅は年々、貴重な時間になってきている。

だが、今回帰省旅を長々と綴ることはちょっと気乗りがしない。兄や姉が今回も気持ちよく帰省した私を迎えてくれたことだけはきちんと書いておきたい。

2019-10-06

サモア戦にも勝利、日本代表は日本の粋の文化の象徴のようにおもえます。

日本代表がこれまで大きく負け越していたサモア代表も撃破して3連勝、勝ち点で現時点では首位に立ったが、アイルランドとスコットランドの残りの試合の結果での勝ち点がはっきりしないとまだまだ、手放しでは喜べない、とはいうものの、素晴らしい試合を三度堪能した。

前回から4年の間に、どれほど選手たちの意識改革が進み、激しい訓練を重ねてきての末に今回の大会を迎え、その成果がいかんなく現実となって表れているそのことに、素直に初老男は首を垂れ、打たれている。

次回の相手のスコットランドは前回大会、南アフリカ戦に勝っての次の試合相手で、結果は惨敗した因縁の相手、五郎丸歩選手が何としても倒してほしい相手であると語っていたのが強く印象に残っている。

アイルランドに勝ち、スコットランドに勝てば、もうこれは本当に奇跡的な歴史に遺る勝利というしかない。それくらい今の日本代表は、心技体のバランスと和が素晴らしい。コトバでは何とでもいえる、が敢えて書かずにはいられない。精神力の力技は、やり残したことはないという各選手の発言に、底知れぬ自信となって表れている。
風に揺れる我が家の庭の最後の朝顔

いきなり話題が飛ぶが、関西電力の役員たちのあのしなび切った顔つきとは、天と地ほどの差を私などは感じてしまう。同じ日本人とは到底思えない。

はっきり書かせていただきます、堕落しきってそのおのれの無残な姿に気づいていない、政治家や官僚の不祥事続きや、暗いニュース報道に多くの心ある国民は飽き飽きしている。

多くの日本人に、無言のあのなんとも言えない鍛えこまれた、鋼のようなワールドカップ日本代表が与えるすがすがしさはたとえようがなく、潔さは理屈抜き一人の日本人として誇らしい。

巷で、私と同じようなにわかラグビーファンが歓喜している姿を見ると、束の間の閉塞感をぶち破ってくれた日本代表へのエールが充満。皆やはりどこかでつながって喜びを分かち合いたいのだということが伝わってくる。初老男は、眠っていた良き日本の伝統、底力、先人たちから紡がれてきた辛抱する文化が健在なのを知らされ、ほっとするのである。やはり言わぬが花の文化なのだと思い知る私である。

そのようなことを文字でつづらずには入れれないおのれとは何か、絶対矛盾を承知で書き綴る。先週も書いたが、日本代表は初老男にも限りなく勇気を与える。身体を張って戦い終わるとお互いの健闘をたたえ合い、ユニフォームを交換する。男の美学というほかはない。

今月はラグビーワールドカップの試合のおかげで、珍しく画面にくぎ付けになる時間が増えるが、試合からもらった感動を、ささやかに日々の暮らしの中に生かしてゆきたく、これ以上野暮なことを綴るのは控える。

2019-10-05

ささやかに与えられた宿業と共に、秋空の下身体が動く喜びをかみしめる。

平日とはいえ、もう一年以上フリーター(気分的にはこの言葉が一番ぴったり)しているせいか、土曜日曜がフルタイムでの時とは全く違うが、やはりどこかうれしい。どこかに制約があるからこ私のような輩は自由時間がうれしいのである。

それにしても、このように健康で身体が動けば、限りなく精神的なストレスのない仕事は子育てはじめ、ほぼ社会的な役割から解放されたからこそ得られた、その喜びはたとえようもない。

肉体が動くことの喜びは富良野への無謀な挑戦で、ギリギリ身につけたからこその今である。富良野で大型特殊免許を取得、卒塾後トラクターなど動かしたこともなかったが、今たまにローダーに乗ったりしている、まったく何が幸いするかわからない。

身体能力は30歳を過ぎても、変化し身体が動くことによって、不可能だと思えていたこと、苦手、無理だと思えていたことが、やればできるといういわば自信が植え付けられ、その体験によって得た身につけようという意欲感覚は今もかろうじて生きている。

この一年使ったことのない様々な機械工具を使うことで、これまでしたことがない新たな動きを身体がしなければならないので、必然的に脳も動かざるを得ないのである。

とかく多くの現代人は(若い頃の私はまるでそうだった)汗をかく肉体労働、(ホワイトカラーに対して)ブルーカラーに対して、マイナスイメージを持ちがちであるが、この年齢で身体を気分良く動かせるのは、どこかにかすかな向上心があるからである。

寝たきり老人になるのがいやであれば、他の人と比較できない唯一の自分の身体と向かい合う以外に、私には他に方法がないである。老いての座りっぱなしのような仕事は、危ない。

話を戻す。雨の日以外天空の下、雲を眺めながら身体を動かす、これからしばらくは最高の季節である。不即不離に結びつく苦楽(だが愉しい)的だが面白い、寒くなると、枝木の剪定がやれる。わずかではあるが中世夢が原でも、ハサミを使ったことがあるので、上手くなりたい、植木の刈込なんてまさかの意外な展開。

人間の脳のシナプスは、どんなにつたなくても手足を動かすことによって、無意識にも活性化してゆくことを経験的に私は知っている。ワープロさえやったことがなかった私だが、どうしてもブログが書きたかったので、50代も後半キィを打つことから始めたのだが、今では左手も勝手に動くようになっている。
妻が丹精した我が家のほぼ最後の秋ナス

本当にやりたいことがあれば、ゆっくりではあれ体の中にある脳は、いまだ目覚めるのである。そのことが生きていることの面白さ、醍醐味、もっと書けば老いてゆく下り坂の贅沢なのでは、とさえ最近は思う私である。

このような感覚は今後もっと実践し、もし私に人生時間がもっと与えられ、今やりたいこと、やっていることとからの執着から離れたところの地点にもし立てた時に、まだ精神と体がいくばくか自在に文を綴れる、真の意味での余力があれば、書きたいとは思っている。

お亡くなりになった河合隼雄先生が、ヒトは夢を見、物語りをつぐむことによって生きる器であるとお書きになっていたが、さながら私のようなキャラは、獏という架空の生き物にすがるかのように、自分の居場所を掘り続ける、いわばささやかな宿業と共に今をいきるのである。



2019-10-03

松田龍太郎様 勇気をいただく身に余るコメント誠にありがとうございました、そして想う。。

一昨日書いた五十鈴川だよりに、昭和の快男児松田さんから、氏らしく匿名ではなく堂々の実名で、まさに身に余るお言葉、コメントをいただきました。

ほとんどコメントをいただかない(いただけない)五十鈴川だよりなので、この場を借りてお礼の言葉を綴りたく思う。とはいうものの何を綴ればいいのか、少々戸惑うのだが、単細胞の私としては、シェイクスピア遊声塾7年目にして何やら力強い味方というか、精神的なパトロンというか、私にとってのありがたき存在がいる、ということについての、つまりは喜びを綴るほかはない。

昨夜、10月になり最初の8人でのレッスンが行われた。私を含め男性3人、女性5名でのレッスン。塾生が来年の発表会のキャスティングも各々の意見や、ほかをバランスよく鑑み、収まるべきところに収まったと感じている。

ほとんど翻訳された御本を読んでいなくても非常に面白く大変勉強になりました。
ともあれ、決まって賽は投げられたのであるから、一丸となって【夏の夜の夢】という奇想天外、夢とうつつを往還する、人間存在の闇に迫る摩訶不思議な傑作喜劇に、8人でよじ登れるところまで、よじ登りたく思う。

作品を新鮮に味わい、その日の体の新鮮な音を発するには、8人が虚心に作品と向かい合い、ひたすら言葉を発し反復稽古を繰り返すほかはない。言葉を肉体化、体で磨くしかない。体は自分のものではなく、授かったものである。松田さんはわが塾の存在、向かっている方向性のようなものを、きちんと受け止めてくださる力がある、氏の存在は、私にとってはまさに渇望していた観客なのである。

原点感覚、単なる思い付きで始めた遊声塾である。ここまで来るのに時間はかかったが、その分喜びもひとしおである。何事も根を張るには時間が伴う道理、急がば回れ、何事も急いては事をし損ずるのである。

せっかちを自認する私だが、事シェイクスピアに関しては気が長い、ゆっくり登らないと遭難してしまうからである。話を昨夜の稽古に戻す。キャスティングで意外なことが起こった。入塾したばかりの女性のYさんが男役の恋人ライサンダーをやりたいと、名乗りを上げたのだ。

その意気や良し、鉄は熱いうちに打て、特訓しなければならないが、まだ初々しいうぶな雰囲気の中に、したたかな片りんを初日に垣間見た(ちょっと驚いた)。

彼女の加入が、ほかの塾生にも好循環を与えそうである。塾の雰囲気、水は絶えず循環し、新鮮でなければ、シェイクスピア遊声塾の存在理由はないと、私は考える。シェイクスピアのみずみずしい言葉に、塾生全員で立ち向かい、また松田さんにハグされるのを夢見る私である。




2019-10-01

市民手作り映画私の出番の3回目の撮影が無事に終わりました、そして想う。

一昨日の日曜日、日本代表がアイルランド代表に歴史的な大勝利をおさめた翌日、実に気分良く私は市民手作り映画の3回目の撮影のために、長島愛生園のある島の突端に、かってあったという新良田高校跡地に、今も残る講堂に午前9時過ぎに集合した。

その日は、台詞のないボランティアの(参加者全員がボランティアだが)エキストラ、スタッフ含め50人近くが参加し、まず入学式シーンが午前中撮影され、昼食後は生徒たちと面談シーン、話し合いのシーン、最後生徒たちとの抱擁のシーンが撮影され、私は夕方4時過ぎまで現場で過ごし、私のシーンのというか、シナリオのかなめのシーンをほとんどとり終えた。

いきなりはじめて出会う(何人かには2回目の撮影の時に会っていたが)生徒さんがかなりいたのだが、まな板の上の鯉ではないが、監督の指示通りひたすら集中し、生徒さんたちとのコミュニケーションに、エネルギーのかなりをそのことにのみ費やした。

繰り返し、恥をさらしてコミュニケーションに努め、シーンが進むにつれて緊張もお互いにほぐれ、徐々に徐々に笑顔も増え、撮影は思ったよりも順調に進み、私の出番は終わり、最後にその日の出演者との記念撮影の時には笑顔がはじけた。
この写真をアップするのは2度目である

もう私の出番はあとわずか、またいずれ五十鈴川だよりでゆっくりと書くこともあるかもしれないが、この日ちょっとうれしいことがあった。生徒会長役の高校2年生の男子生徒から、一緒に写真を撮りたいとの申し出があり、撮影の合間に、本当に久方ぶりに現役の高校生と直に話をしたのだが、いきなりどうしたらあんなに堂々と演技ができるんですかと、訊かれたのである。

簡単には答えられない、言葉では何とでもいえる気がするが、また試写会などで会えると思うので、またゆっくり話そうとだけその場では伝えた。世の中に出てわたくしごときでも、ささやかに(おそらくどんなひとでも)多くの生き恥をさらしながら、そして今も恥を忍びつつ生きている自覚のある私には、自分の弱さから目をそらさない勇気のようなものが不可欠なのである。

ともあれ、隔離された長島愛生園のかってあったという、敷地の講堂で時間が逆戻りしたかのような場所で出会った現代の高校生徒の方々と過ごせた、普段とは異なる休日の一日の意味、有難さをきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

2019-09-29

ラグビーワールドカップ、日本対アイルランド戦を見届け撃たれました、そして想う。

ラグビーワールドカップ、日本対アイルランド戦をリアルタイムでTV観戦した、妻と二人で。今朝の新聞の見出しとは異なるが、まさに歴史的勝利をこの目で体感見届けることができたことの幸運を、きちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

前回のワールドカップでもたまたま、南アフリカに勝った試合を見てラグビーの素晴らしさに目覚めたにわかラグビーファンであることを、正直に告白しておく。

何しろ67歳の初老男なのであるし、脆弱な肉体で何とかこの年齢まで、どちらかといえば文武両道が理想であるとすれば、文のほうに傾いたバランスの悪い生き方をしてきたのだという認識がある私にとっては、ラグビーという肉体と魂(精神)が不即不離でぶつかり合うアウトドアスポーツ文化に遅まきながら、まさに目覚めたのである。

大方の予想を覆しての、見事というしかない大接戦の末の逆転の大勝利。日本代表は多国籍のまさに野武士軍団であった。狭義の愛国とか、ナショナリズムを超えての、しかも言葉で伝えるのは無理だが、日本的な和、まさに一つに結びつき合った意志の連携の美しいというしかない、各選手の人間力に私は理屈抜きに首を垂れ感動打たれた。

勝負はともかく、あのアイルランドからワントライでいいからあげてほしいという思いで、私は画面を凝視し続けた。後半の戦い方、つまびらかなルールがわからなくても、日本チームの意志の統一、エネルギーの持続力、勝つというまさに自分自身を信じている動きが、私にも伝わってきた。

気が付けば、67歳にして雄たけびを上げる自分がいた。いい歳ながら、雄たけびを上げる自分がいたのに、我ながら自分でも驚いた。

最後のパスの連携の的確な速さ、福岡選手の執念の動き見事なトライを初老男の眼底に焼き付けた。この一戦は、初老男に限りない今後を生きる勇気を与える。他者にどう思われようと唯一無二の自分自身を信じ、仲間を信じることの崇高さである。そこにはこざかしい言葉や理屈を超えた何かが存在する。

 グレタさんの国連演説の要旨 
これ以上私の言葉で、(五十鈴川だよりで)野暮なことはつづりたくないが、何かを成し遂げたあの個性的というしかない、ヘヤースタイル、風貌、文化であるタトゥー、野武士荒武者軍団の面構えのカッコよさに、細い体の初老男はミーハーとなってしまったのである。

もうすでにチケットは売り切れているにしても、スタンドでいつの日にか観戦したいという夢が湧いてきた。夏の甲子園でも体感したが、まさに現場で観戦できるという幸運に勝るものはないが、そうはできない現実をほとんどの人間が生きている。

人間に神様から与えられている最大の宝は、理屈や性差や国籍や貧富やありとあらゆるバリアーの壁を超えて感動する器であるということを、あらためて原点感覚を思い知らされた。

今朝の新聞、キャプテンのリーチ・マイケル選手の言葉が素晴らしい。30分喜んだら次の試合の準備にに向かうという、今後の日本代表の試合から目が離せなくなってきた、私である。

2019-09-25

16歳のスウェーデンの女子高校生の叫び声の映像をみておもう。

16歳のスウェーデンの女子高校生が地球温暖化対策に対して、先進国のあまりに危機感のない取り組みに関して、国連で涙ながらに激しく訴えている。是非は置くとして行動力には驚くべきものがある。

この温暖化による(といわれている)気候変動が我々文明社会が築き上げた、主に産業革命以降の、便利で快適な石炭や石油に頼った生活の上に排出された二酸化炭素によるものであるのあれば、それは心ある、人類のすべてが、私を含めた毎日車などを運転している一人一人が考えないといけない、大問題である。(とおもう)持続可能な人類の行く末の大テーマを。
1991年に買った本岡山に移住する一年前

なぜこのような大問題を、朝からわたくしごときの初老男のブログで書いているのかは、自分でもよくはわからない。SNSをはじめとするヴァーチャルサイトで、国家間を超えた若者たちの間接的ではあるが、温暖化によってもたらさられるで、あろう気候変動に関しての、未来生活に対する連帯のニュース映像に私は驚いている。

若者たちの危機感は初老男の想像を超えている。初老男にもその声は届く。

アメリカの銃の規制に関しての若者たちのデモ、香港の民主化運動の先頭に立つ若者たち(デモはしても暴力はいけない)、プラスチックの問題の関しても若者たちが多様な声をあげている。私もそうだったと過去形で書かなければならないのは、少々の寂しさが漂うが、正論をことさらにのべることは五十鈴川だよりでは慎み控える。事はもっと複雑でにっちもさっちもいかない諸問題が複雑面妖に絡まっているのだと思うからである。でも考えないとまずいと、私でさえ思う。一口に気候変動。

太陽が昇り、日中半日近くをアウトドアで肉体労働時間を過ごすと、確かにこの10年近くの夏の暑さは半端ではない。まさに自分自身の問題として考えざるを得ないのである。主に都市部の低いところに住む全世界のかなりの人間がクーラーに頼る暮らしから逃れられない。

世界的にあちらこちらで、台風やハリケーンによる水害停電、家屋が水に浸かり、倒壊被害が続出する。アマゾンの以前では考えられない大火災など、問題山積のグローバル化人類社会。

ではどうするか。無関心がやはり一番まずいと思う。あらゆる一見困難解決な問題に関して、ほとんど社会的な役割を終えたとはいえ、社会の中で生かされているものには、生きている間は、なにがしかの未来人に対しての責任があると思う。

だからたぶん朝からこのようなことを五十鈴川だよりでつづるのは、16歳の異国の女子高校生の叫び声に関して、初老男の無関心ではないことのささやかな表明である。

2019-09-23

10月からシェイクスピア遊声塾の塾生が7人になります、そして想う。

台風の余波も我が家の近所は大したこともなく、雨も降っていない。窓からは厚い雲がゆっくりと移動しているのがのぞめる。若干風の音がするが穏やかな夜明け前の朝である。

さて、自分の今の暮らしの自由時間の中での、やることの優先順位の中、6月から道場に通って的前に立って弓の稽古を辞めたことを、五十鈴川だよりには書いている。

が、娘たちが使っていて今は私が使っている2階の部屋は広くて、立って弓をひくことができる。そこにはレイさんからもらった巻き藁が設えられている。

暑い夏は無理して巻き藁をすることをほとんど控えていたが、秋の到来と共に過剰な負担を体にかけない範囲で、少しづつ再開している。なぜ道場に通っての稽古を辞めたのかを言葉で説明することは不可能なので、書くことは控える。

ただいえることは、道場への往復を含めた稽古時間が空いたので、五十鈴川だよりはもちろん、シェイクスピア遊声塾に関して、私がやらねばならないことに以前にもまして、よりじっくりと取り組めるようになった。

遊声塾をはじめて7年目、10月からは塾生が7人に増える。ただシェイクスピア作品が好きな私の塾に信頼して参加してくださっている塾生との、これからの稽古時間を最も大切にしたいとの思いが、より強くなってきている。

もう何度も書いているから簡略に記すが、あの長い膨大な台詞を胎から音読するのは、至難なのである。それでも、月謝を払ってまで参加してくださっている情熱のある塾生に対して私にできることは、誠実にその情熱に対応することである。

幸い初期のころから参加している塾生と、この数年の間に参加された塾生との関係性が実にうまく溶け込んで、それぞれの持っている個性が刺激し合って、ロミオとジュリエットに続いて取り組んでいる真夏の夜の夢の稽古が、7年目にしてようやくいい感じで実を結びつつある。

それはやはり、情熱と情熱が真摯にぶつかり合う無心の稽古から生まれる何かなのだろう。体と声には各個人の現在までの人生、歴史が、体験経験(怒り・喜び・悲しみ・痛み・苦しみなどなど)がすべてつまっていて、各塾生の個人史の上に刻まれた人柄、教養、知性、感性、センスが渾然一体、唯一無二の声となり、シェイクスピア作品の登場人物と格闘することで、その人ならではの意外なジュリエットになったり、タイテーニアになったり、ボトムになったりの予期せぬ化学変化が起きるのである。
日本で最初にシェイクスピア作品を翻訳された坪内逍遥大先生の本

予期しないこと、予期しない声が7人(私を入れれば8人)での稽古の間に最近起き始めたのである。それが私にとって最も面白い稽古である。人間の聲は相手との関係性、状況の変化、やり取りで今生まれた声音となる。変化しない声はつまらない。実人生はともかくフィクションの中では自由にはばたき変化したいものである。

真夏の夜の夢の恋人たちは、お芝居ならではの魔法の花の汁が原因で、誤解が誤解を生み果てしなくもつれ、身体の奥底に眠っていた深層心理が闇の世界であらわになる。これこそがデフォルメされた、奇想天外なシェイクスピア作品の醍醐味である。それを表現したいと挑戦する勇気ある塾生に今私は恵まれていることを想うのである。

だからなのである。この塾生たちとの稽古時間を先ずは第一有意義に過ごすべく、ない頭で知恵を絞らなくてはと考えるのである。そのためには私自身が良きコンディションをキープしないとまずいのである。

これ以上野暮なことを書くことは控えるが、お相撲でいえばやがては引退がやってくるる、が今しばらくこの塾生の方々と共に、土俵上での稽古ができる幸運を味わいたいと願うのである。

2019-09-22

養老孟司先生のお話を聴きました、そして想う。

天候には逆らえず、帰郷は断念した。また近いうちに予定をこしらえて、故郷詣での一時をと考えることにした。したがって今日から数日完全オフを過ごすことになったので、これはこれで有難く受け止めることにする。

さて、昨日午後和気町の公的な施設で、岡山県自然保護センター主催の講演会があり、お話を養老孟司先生がされるという知らせを、Nさんがラインで事前に知らせてくださったおかげで、妻と共に聴くことができた。

演題は里山についてであったが、直立歩行の人間という存在の特質、子育て、教育、エネルギー、をはじめ現代社会が否応なく抱え込んでいる多岐にわたる問題についてお話が約一時間半近く展開された。

一見出口が見えないかのような金縛り閉塞感に、いかに知恵を絞ってその解決の糸口を見つければいいかについての、いわばヒントのような場所が日本の里山にはあるのではないか、というお話(であったと思う)。

該博で、ユーモアたっぷりの養老孟司先生のお話を岡山市内ではなく、家から車でさほど時間のかからない距離にある、公的ホールで直接聴くことができるとは思いもしなかった。(この場を借りてNさんに感謝)

先生は1937年のお生まれだから、齢80歳を過ぎておられるはずであるが、ずっと立ったままよどみなくお話をされたそのことに、どことなく虫取りに出掛けられる服装、お姿に、動きに、照れる様子に、どこか毒のある含み笑い、ユーモアに感動してしまった、ただものではない。

いきなり1000万年前大陸がアジアとつながっていたころのお話から、岡山には自分の関心のある虫がいないからあまりきていないというお話、450人くらいの聴衆は座ったままであるのに、先生はつっ立ったまま。

西洋人が発明した椅子がいかに人間の腰に負担を抱えるか、(あげく腰痛は現代人が抱える大問題になっている)先生は小学校に上がるまで畳の上での生活で、椅子に座ったことがなかったので座り方がわからなかったお話とか。先生の御本をこのところ立て続ける読んでいる私でも初めて聴くお話が、ジャズのように即興的に繰り出されるので、ぐいぐい引き込まれた。

有体に言えば、当たり前に想ったり感じたりすることが、いかに当たり前ではないかという気づきについてのお話など、蒙を突く自在な養老哲学がいかんなく遺言のように発揮される。いかに現代人が自然と離れ自らがが望んで作った文明、人工都市空間の中で自然と切り離され、そもそもが自然である心と体がいかに歪んでしまったかを。

はっきりと書いておく。本当に大切ないまの我々の生活そのものを根底から変える、それもできる限り愉しく変えてゆくためにはの、生活改善努力の目標、自然と人工物との境界、人間存在が気持ちよく【生活できる場所】を里山的空間で見つけられるのではと、提案なさっておられるのだ。(と受けとめた)
私が初めて手にした養老孟司先生の御本(今読むと沁みる)

先生は人間を懐疑的にとらえておられるが、それを何とかバカの壁を壊したい、と里山、日本の森の再生事業に、子育て教育問題、子供たちの居場所づくりにと、老体を引きずりながら取り組んでおられる。

先生は虫の視点から、人間存在の行く末に警鐘を鳴らしながら、懐疑的ながらもあきらめず、身をもって子供たちと虫取りをしながら、未来の種である子供たちを少数であれ、面と向かって育てていらっしゃる。真の教育者、得難いまさに師、先生である。先生は語っている、一番面白いのは自分を育てること、教えることは学ぶことだと。日本の大問題という御本の中で語っておられる。

先生の御本を読むと、これからの人生時間を想うとき、わが故郷の里山、五十鈴川のほとりの里山に想いが及ぶのである。晩年の行く末、初老の私だが養老先生の年齢までは幾分時間がある。ささやかに身の丈に合う何かをせずにはいられない。だから私は五十鈴川のほとりに立ちたいのである。自分にとって最も気持ちのいい場所で思考したいのである。




2019-09-21

誰が故郷を想わざる、ジョージアならぬ、五十鈴川・オン・マイ・マインド。

日曜日から生れ落ちた地へ帰ろうと思っていたが、台風の風雨の影響で日豊線や新幹線のダイヤが乱れるかもわからないので、延期しようかどうか迷っている。

この老いゆくにしたがっての望郷の念は、いったいどこから来るのであろうか。いろんな分析が可能かもしれないが、私はそういうことにはあまり興味がない。私の生まれた生家は今ないし、門川の街の風景も日本のほとんどの地方都市と同じように、人口が高齢化し過疎化が進み、さびれている。

がしかし、姉や兄が元気に健在で生活しお墓を守っている。今年の冬はご先祖の地でしっかりと地に足をつけて生活して居る私より年上の素敵なご夫婦とも巡り合うことができ、前回の帰省では、ご先祖の地で炭焼き仙人となった小学校の同級生とも奇蹟的な再会が起きるなど、元気なうちに会いたい、話をしておきたいという方がいる。しかも二組のご夫婦とも姓が同じ、深い縁を感じる。

そしてもう一人会いたい方ができた。この冬の帰省で巡り合えた、兄の家から歩いてゆけるところにある幸節館という弓の道場の主であるI先生との出会いである。御年82歳、ご自分の作った道場で奥様共々今も弓をひかれている。生家のすぐそばに在る幸節館からは、我が家のお墓の場所が望める。素晴らしい場所、生家が引っ越ししてきたかのような。

五十鈴川だよりにきちんと書いて、写真もアップしている。岡山での弓の時間は、意が進まなくなってしまったが、帰省の度にこの幸節館の先生とは、元気な間は必ずお会いしたいと思うほどに、この道場そのものといってもいい先生のたたずまいに撃たれたのである。

言葉や理屈では何とでも書ける。会えるうちに会いたい人には会いたい、ただそれだけである。気持ちの体がゆきたい、会いたい、帰りたいというのだからそれに従うだけである。
小学校時代の同級生が仙人になり、焼いた見事な備長炭に感心する花

大昔、ヒトがまだ文字や言葉を持ち合わせていなかった時代、文字を書けなかった圧倒的多数の一般庶民は、どのようにして気持ちを表して生きていたのであろうかと、ようやくにして、歴史年表にない無名の人々のご先祖の地での人々の生活、歴史に想いを巡らすようになってきた私である。

オーバーではなく、これまでの自分の及ばなかった、感知しえなかった、もっと書けば今を生きるにいそがしく、遠ざけていた世界のよしなしごとに、どういうわけか関心が湧いてきたのである。

五十鈴川という川の名の由来をはじめ、門川町、私の原点感覚を育んだ故郷のことを、私より年上の方々のお話をもっともっと聞きたくなってきたし、知りたくなってきたのである。

落ち着いて書いていると、思考の整理ができる。絶対矛盾、感情を言葉でもどかしくも整理し、揺れる思いをつづる。

2019-09-20

秋の到来、今週末から数日故郷に帰還することにしました、そして想う。

灯火親しむ秋の到来を、本当に待ち望んだ秋がやってきた。あの暑い夏をのりきった、午前中肉体労働者の私にとって、この朝の涼しき時間帯はオーバーではなく天国のように思える、さわやかさである。

タイムカードも何もない、自己の判断で4時間緩やかに途中適度にお休みしながら、身体がオーバーヒートしないように、細心の注意をはらいながら動く。この夏も何日か堪えた日があったが、加減しながら乗り切った。(幸い信頼されていて皆さん暖かい)

都会に住む現代人は、科学的なデータとかに沿ってトレーニングをするのだろうが、昔人、私の場合はほとんど非科学的自己流(これはあらゆることに通じているなあ)アルバイトをしながら、今日の体動かし、といった按配で体調をはかっている。

体動かしができる間は、どこかで遊声塾が続けられるといった気持ちが連動、働いている。丹田呼吸をしながらの体動かし、秋の青空の下での早朝の体動かし、お休み時間は誰もいないところで天空に向かって諳んじている台詞を放ったりして一人遊び。
五十鈴川のほとりでの思索時間が必要です。

こんな私を人が見たら、気の触れた初老男と思われるだろう。だがもういいのである。社会的な役割はほとんど終えたのであるから、人様に迷惑をかけない範囲で、できるだけお金に依存せず、自分の体と遊ぶのである。

ここまで書いて、ふと小学校2年生か3年生のころ兄貴たちが、深いところをすいすい泳ぐのをしり目に、私は背の立つ浅いところで、見よう見まねを繰り返し、何とか独学で泳ぎを覚えた記憶が蘇る。五十鈴川で初めて泳ぎを覚えたあの日の喜びが。

まだ学校にプールなどなかった時代、自力と他力で私は水に浮かぶ我流泳ぎを身に着けたのである。そのことがいまだにどこかで尾を引いている自己認識がある。あのころのなにか原点が、いまだに自分の中に(ある種天邪鬼的なまでに)あるのだ。

曲がりくねった埃のたつ戦後の未舗装の道、夏休み歩いて片道2キロ、泳ぎたくて晴れた日は毎日のように、小学校5年生まで五十鈴川に向かった。やがて泳ぎだけではなくエビを採ったり魚を取ったりすることも自然に覚えた。じもとのこども、男女全員が蝉しぐれのなか水と戯れ泳いでいた。帰り道に飲んだしみわたる湧き水のおいしさ、私には黄金の夏の宝の記憶というしかない。

あのころ鮎をはじめ多種類の川魚が五十鈴川にはわんさかいた(いまもかろうじているのが救いである)おもちゃなどなくとも、ヒトには神が想像力という遊べる力を与えてくださっている。人工的なものがほとんどなかったあの時代に私は育った。

思う、あらゆる森羅万象存在に有形無形影響を受けながら、自然と宇宙と自分が不即不離であること水の惑星に存在している有難さをおのずと実感する。その過程で他者と出合い自分を発見し成長する。

しかるに現代は?もうこれ以上野暮な初老男のつぶやきは止しとする。今週末から、お天気が悪そうだが数日お墓参りがてら五十鈴川に帰還する。

2019-09-16

池内紀氏のご冥福を祈る。

まだ満月が西の空に浮かんでいる。昨日午後八時過ぎ一人外に出てお月見をし、今朝も眺めいって穏やかな心持の、夜明け前の五十鈴川だより、花がやってきて私の膝の上にいる。

さて、ドイツ文学者でエッセイストであり、M新聞の書評家であった池内紀さんが先月末78歳であっけなく他界された。最近まで氏の書かれた書評を読んだ記憶があるので、お亡くなりになられるまでお仕事をされていたのだ、と知る。

旅や、哲学者カントについての伝記的エッセイしか読んだことはないのだが、権威的な事を嫌い、旅を愛し、該博な知識と教養、ユーモアがわかりやすい言葉で書かれていて、折に触れてこれからの老い楽時間を照らす、私にとって大事な作家のおひとりであった。

わたくしごときが、氏について語ることはほとんど何もないのだが、一言惜しい方がまた一人お亡くなりになられたことを、一行でもいいから、五十鈴川だよりに綴っておきたい。いつの日にか読みたいと思って買っておいた、氏が翻訳されたゲーテのファウストがある。
必ずファウストを読みます

心血を注いで身を削ってお仕事をされたかたなのだろう。これまた私の好きな池澤夏樹さんが追悼の一文を寄せておられる。【生きる達人仙界へ】という見出しである。そうか池澤さんが、達人と思慕するほどの生き方、お仕事をされた方なのであることをあらためて知らされた。

ともあれ、M新聞の書評を担う方々によって、私がこの十数年どれほど無知蒙昧な自分を今も思い知らされているか、知的な世界の深淵さを知らされ続けているか、つまり真の意味においての、知識人のすごさを垣間見ていることか。

老いると共に、あと何回中秋の名月を愛でることができるのか、あと何冊本が読めるのかとか、あと何回五十鈴川のある故郷に帰れるのかとか、いつまで声遊塾のレッスンができるのかとか、あらゆるイフ、とかをつい考える。寿命、人生はまさにある日突然、粛然と閉じるのである。

そのようなことを口にすると、縁起でもないとか、人生100年時代、これからこれからなどというご時世だが、私はまったくそういった時代の御託宣には関心がない。命の終わりを厳粛に受け止める覚悟をこそ養いたい。

口幅ったことはまったく書く気がない、ただ思うのは私のこれからの時間は、もうすでに何回も書いているが、身体は現世を生きてはいても、こころは限りなく過去の時間を反芻しながら生きてゆくということに尽きる。

人としての現世的な役割をほとんど終えた今。今後は現世を生きながら、すぐれたお仕事をされた言葉の宝を、【古今東西の古典の膨大な海の一滴を味わい】老いの身に注ぎながら生きられたら、と。池内紀氏の御冥福を祈る。




2019-09-15

明日の市民手作り映画撮影を前にして想う、五十鈴川だより。

5時前には目が覚め、起きて新聞を取りに行った時には見事なほぼ満月の月が、西の空にぽっかりとうかんでいた。おそらく今日の夕方には見事な中秋の月が再び望めることを願う朝である。

ところで、今週と来週は3連休が続くが、遠出しようとは思っていない。真夏に甲子園はじめ、小さな旅を繰り返したのでその反動が出たのではなく、静かな週末時間を過ごしているのには、ちょっとしたわけがある。

それは、明日と、今月末と2回ほど市民手作り映画の撮影があるからである。かって長島愛生園の中にあったという高校の教頭先生役で出演している。出番は少ないものの、重要な役であるので、静かに過ごしているのである。

学生の方々はじめ私も含めすべて市民手作りの映画である。私の場合平日は半日働いているので、出番の日の撮影は休日にしてくださっているのである。だから、明日に供えて台詞は少ないのだが、できる限りK教頭先生役の抱える苦悩に寄り添いたいという心理がどこかに働くのである。
この方の本初めて読んでいます

その日の撮影の間は、どこかで日常生活を断ち切り、フィクションの中での架空の人物になりきるための変身時間が、私の場合はどうしても必要である。

やさしさと、頑固なまでの非情さが同居しているK教頭先生役の、私なりのモデルは私の父の在りし日の姿である。日本統治下の北朝鮮の小学校で両親は教師をしていたが、敗戦で幼い3歳の長女と生後半年の長男と共に、親子4人命からがら引き上げてきて、再び教師として戦後を生き延びた父の在りし日の面影を、かってに役作りの参考にしている。

長くなるので端折るが、ご縁がご縁を呼び、このような形でよもやまさかの先生役での映画出演。亡き父の言動、姿から、ようやく最近年齢と共に父の気持ちがわかってきたことを、わずかでも表現できればと思うのである。

私の中では元気なころの父の声色が、いまだ蘇る。私の脳裡の中、両親は在りし日の姿と共に生きているのである。今回たまたま巡り合えた先生役、亡き父の面影をほんのわずかでも投影出来たらと、想うのである。

2019-09-14

鳥取在住、ロミオとジュリエットの発表会に来られたM氏から見事な梨が届きました、そして想う。

ようやくにしてこの数日、朝夕すっかり涼しくしのぎやすくなり、肉体労働者としては有難い季節の到来である。中秋の名月といえば実りの秋、お月見にはいろいろな作物を昔はお供えしたものだが、その風習も名残り意識はあっても時代と共に消えてゆきそうな気配、歳を重ね余裕のできたいま、ささやかに復活したいと思っている。

そんなさなか、鳥取在住、今年の遊声塾ロミオとジュリエットの発表会に来られ、久方ぶりのうれしい再会を果たしたM氏から完熟の一品、見事な梨が送られてきた。

日本男児、(私は時代にそぐわない古い男です)快男児、熱血漢、はたまたナイスガイ、このような表現が当てはまる日本人に、本当に最近とんとお目にかからなくなりました。

だがM氏は違う、わざわざ鳥取から、私が定年退職後に始めた塾の発表会に足を運ぶ熱き情熱、好奇心をいまだ失っていない、いい意味での違いが判る現代においての絶滅危惧種的、同時代を着てきた感覚を共有できる(仕事の分野は違うが)昭和男なのである。

友からの秋の実りに癒されて・心満たされ月に供える
6月22日発表会の後の会場で、氏は臆面もなく私をハグした。

このような普通日本の男がやらないようなことを自然にやれる稀なキャラの、余人をもって代えがたいひとかどの人物なのである。

後日ゆっくりとしたためられ送られてきた、表裏に記されたアンケートにも本当に感動した。(五十鈴川だよりにアップした)紋切型のアンケートがほとんどの現代だが(ごめんなさい)心に響いた様子が、手書き文字に現れていて私の胸を撃ったのである。

多分、わずかではあれこのようなアンケートに巡り合うために、塾生共々どなたかの胸に届くようなシェイクスピア作品の登場人物の声を表現するために、いわば修行(この言葉も古いですね)のような稽古を重ねているのである。一朝一夕に声はならず、(まして人間は)目利き、見巧者、長い目で見守る良き観客が年々少なくなってゆく時代、氏のような方の存在ははなはだもって貴重である。

永久保存のアンケートを書いてくださった氏から届いた、日本の秋の鳥取特産の一品。私は大胆な性格の表の裏に繊細な思いやりのセンスが、渾然一体となっている氏の心遣いにいたく感動したのである。

取り急ぎ、ラインでお礼を伝えたが、この場を借りて氏への感謝を五十鈴川だよりの中にきちんと書いておきたい。氏は来年も夏の夜の夢の発表会を楽しみにしているので、日にちがわかったら知らせてほしいとあった。氏とは君子の交流を続けたい。

2019-09-09

新聞で坪内稔典さんの記事を見つけ、読み想う。

自分の裁量でいちにち4時間働けばいいので、早く出かけて働き、戻ってシャワーを浴びお昼前、ちょっと時間があるので五十鈴川だよりタイム。

定年退職してから、いろいろと緩やかに老いゆきながら、以前より新聞を読むようになったことは、たびたび書いているような気がするが、今朝も早く目が覚めたので二日分の新聞を夜明け前の一時間、バイトに出掛ける前に読んだ。

すると一人の名前だけは存じ上げている、俳人の坪内稔典さんの記事が目に留まった。1985年から主宰されていた俳句集団「船団の会」を解散するという記事、30年以上にわたって続けてこられた会を散在するという。じっくり読ませていただいた。

おそらく坪内さんは、きっと私よりも年長だと思われるが、その意気軒高さには大いに刺激を受ける。このような記事に目がゆくというのは、きっとどこかに俳句とか歌を詠むことに潜在的に関心があるからではないかとおもう。

声が出なくなったら、弓が引けなくなったら、あるいは今からでも同時に、いくらへぼであってもいいから精神がどこか動く間は、俳句でもひねり出せたら愉しいではないかと思うのである。

終わるということは、何かが変わり、次が始まるということである。稔典さんは語る、終活ではなく、終活に対する抵抗であると。然りである。わたくしごとき凡夫でさえいまだ初老男の心は揺れる、揺れる間は何かを探し見つける、つまりは生きている実感的な喜びを見つけたい。

まして、経験したことがない、老いの行く先のこれからのかぼそき途、若い時には想像だにできない、死を身近に感じるからこそ、湧いてくる喜びのようなものが見つけられないとも限らない。未知の領域、わからないではないか。スリリングであると思えるか思えないか。本人の感覚、感性次第である。
面白いということは千差万別であるが俳句は老いの身には面白い

バイトに出掛ける前、今日の新聞を起きたての新鮮な頭でじっくり読むと、想像力が刺激を受け身体が動き始める。同世代、もしくは私よりご年配の方々の、勇気ある言葉に出会うと元気になる。

はじめに言葉ありき、毒にも薬にもなる言葉ではあるが、私のような弱き器は、言葉なくしてはとても生きてゆけそうもない。

それにしても、心眼というが、良き言葉に出会うためには、とにもかくにもすっきりした頭体の、午前中でないと難しい。