老いてきたら義理を欠くことに決めたのは、先日も書いたが、老いの気配をわが体に感じつつある今、今現在の大事な方々には、書ける範囲で直筆の文字を書いてお年賀を出したいとのおもいが湧いてきたのである。いろんなことを並行してやりながら、一日に5,6通のたよりを書く、一週間でそれなりの方々にはささやかに思いを伝える一文がつづれる。このようないっときが持てる年の瀬が、ありがたく嬉しい。
振り返るとこれまでの人生で、一番静かな年の瀬を過ごしているのではないかと思う。年の瀬はとにかく一年を振り返るまたとない時間である。どこにも出かけないで家の中で過ごすなんてことは初めてである。 多分これからますます家の中と、ご近所周りが私の視界に映る世界のすべてになってゆくのだろう。(ドレスデンにでも出かけない限り)
視界はせまいが想像は無限にたゆたう、そのような晩年時間をこそ過ごしたいと私は願う。とはいっても年が明けたら決めてはいないが、ふらりとどこかに小さな旅に出掛けたいとは思っている。名所旧跡とは無縁の小さな旅こそが私にはふさわしい。
文字を書くのに疲れたら、短いこの方のエッセイを読む |
父親の形見の硯と墨、それをすって墨汁を作り文字を書く。ひたすら集中して書いていると、いくらつたなくとも文字が成り立ち、拙文がつづれる。相手の顔を思い浮かべながら書いていると、おのずと一文が湧くのは相手が私に一文を書かせているのである。そのような思いになる。だから書が最近の新たなわが愉しみなのである。
シェイクスピア遊声塾も、書も、弓もすべて退職後に始めたことである。とくに書と弓はまったくやったことがない。そういう意味では下手に自分の世界を広げる必要もないとは思うが、何かが私をそういう世界へといざなうのである。
鮮やかに文字を墨ですって書いていた父の姿が脳裏に刻み込まれている。そのような晩年時間の父の姿に、どこかで私もあやかりたいのである。碁を打っている姿、文字を書いている丹前姿、などなど在りし日の父の男姿がほうふつと浮かぶ。
上手下手は置いといて、まずは墨をする。姿勢を伸ばしてただただ擦る。一行の最初の文字に集中する、あとは流れのままに。邪心を祓い、邪心を抜くために、きっと声出しも、弓も、物事に当たると、そこにはやはり共通する何かがある。
文章も、声出しも、弓も、きっと相手があってこその何かなのである、そのような気が最近とみにする。文字を書き伝えたい相手に恵まれなければ、書く意欲は生まれない。そういう意味で、落ち着いて年賀だよりを出したい方に恵まれたことの有難さを想う。
交友関係は年々移り変わるが、それなりの方とのご縁は深まり、とくにこの数年の塾生も含めた新たな交友は、老いゆく花を開きたいと願う、わが煩悩に大いなる刺激を注いでくれるのが覚る。
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