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2019-12-15

老いを見つめて丁寧に生活する五十鈴川だよりに、シフトチェンジする。

これから五十鈴川だよりを綴る日々、回数は減ってゆくと思う。一日という時間のなかでの、やりたいことの優先順位が微妙に変わってきたのである。だからこの場を借りて、(毎日のように貴重な時間読んでくださっておられる方には)ご寛恕願いたい。

でもまだまだ、このゆれる 初老男は体は動くし、情熱の血潮が騒ぐし、回数は減ってもその分密度の濃い五十鈴川だよりが書けるように、ささやかに学び続けるつもりである。

それがあまたの、私が個人的に影響を受け、今も私の胸に生き続けている死者たちに対するいわば仁義である。わたくしごときの一文、お恥ずかしき限りではあるが、世の中に出ての無知蒙昧さを知らされて以来、いまだお恥ずかしきことの連続の果てに、何とかかろうじてこの世の片隅に存在させていただいているという自覚がある。恥は一瞬、学ばざるは一生の恥である。
赤裸々な親子のやり取り、コトバなく感動した

この半世紀、見た体感した日本以外の国々のあまりにも異なる風景、生活、歴史、言語、民族の違い、旅の重さ、一人の人間との出会い、一冊の本との出会い、一つの舞台、一つのフィルム、今も心に刻まれたあらゆる無数の出会いの記憶の集積が私の全財産である。今まで何度打ちのめされたことだろう。

でも打ちのめされたからこそかろうじての今がある。でもまだまだだ、油断してはいけない。日々を大切に学ばねば、すぐに劣化する。自分とは松岡正剛氏の言葉に習えば、フラジャイルな葦のような存在なのである。

いまだ消えず燃え続けるわが体の記憶の宝におそらく導かれて、私は いよいよこれからの人生時間で学んできたことを、繰り返し再生、歩むことになると思う。

あきらかに言えることは、自分がこれまで憧れたり影響を受けた方々とは異なる、極めて平凡であるかのように生きてきた方々の、非凡さの側に、素晴らしさに徐々に気づき始めたのである。だからまずは、日々の身の回りの生活をきちんと丁寧にできる自立した初老男になるべく、、、。

これまで主に重きを置いて過ごした、学んできた芸術や文化的な時間は卒業し、まったくこれまでやらなかったこと、生活してゆく上で見過ごしてきたことを、きちんとやれるようシフトチェンジする。

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