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2019-12-22

怒りを込めて振り返る、年の瀬に想う。

年の瀬なんの予定もなく、静かに穏やかに過ごせるといういっときが持てるという、いわば心の余裕というものがある、ということはなんとありがたいことであるか、噛みしめつつ今朝の五十鈴川だよりを書きたい。

しかし、何を書くのかは老いゆく日々の生活の中で、 湧いてくるわが内なる思いを、つたなくも言葉にするだけで、とりたててさあ書くぞといった思い入れ、発露は、弱くなってきたことを自覚している。

怒りを込めて振り返れ、というタイトルの芝居 があるが、きっと老いるということは、感情の喜怒哀楽がいやでも弱くなってゆく、という気がしている。とは言うものの、怒りを込めて振り返らないことには、にっちもさっちもいかないほどに、この国の未来を託す政治家や、企業人、官僚たちの劣化は(自分もである)いかんともしがたいほどに、私の眼にもあまりにも無残な姿で映る。

データの改ざん、隠蔽、偽装、フェイク、臭い物に蓋をする、見て見ぬふり等々、一庶民感覚にしても、この数年の堕落ぶり(バブル崩壊から原発事故から何も学んでいない)はここに極まる、といった感がする今年の年の瀬である。

とくに経済的な構造、格差を生み出すこの全世界をおおう富の流れの偏重には言葉を失う。金とものはヒトを狂わせる。持てるものと飢えてる民との天と地ほどの乖離、溝を埋める食い物が行き渡る経済循環の新しき英知人の出現を私は望む。

このわが国の人的枯渇の行く末が、私には恐ろしい。でもこのようなことを書きながらも、どこかに私は希望を探す。そうでもしないと息が上がってつまるからである。

わが体は、可能な限り風通しよくありたいから、良き風に触れるべく良き人物の良き言葉を探すのである。人間は間違い、気づき、反省し、螺旋状に成長する器である(と考えたい)。

間違いに気づく人はやはり気づくのである
私の大好きなシェイクスピアの一番短い芝居の初期の作品(処女作ともいわれている)は【間違いの喜劇】である。おそらく数限りない愚かな間違いや絶望を繰り返しながら、人類はおそらく数千年かけて、何とかかろうじてここまでの地点まで歩んできたのだと思われる。

凡夫の、私の朝の五十鈴川だよりでは、収拾がつかなくなるのでこれ以上書くのは控えるが、あおるかのような視聴率偏重のテレビや、その時だけのメディア報道、グルメ番組、あまたの雪崩のような どうでもいいCMの垂れ流しなどなどに自分も含めヒトは麻痺する器である、、ゆめゆめご用心、からめとられないようにしないと、本当に危ない。(自分も含め人々が熱狂に走るときはとくに危ない)

懐疑心、真実を追求する姿勢、つまりは普通のあたり前感覚を失わない、報道人や言論人や政治家経済企業人、芸術家一般庶民が、少数になってきているような時代の不気味さを私は個人的に感じる。そのことだけは老いつつある中、ごまめの歯ぎしりのように、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

どんな権力も組織も人民も(私個人も)堕落癒着は逃れえないのかもしれない、ならばどうしたらいいのかを、点検あらためなければ、原発事故をはじめ、ことを間違えたら、核戦争、宇宙戦争、SF世界、 取り返しのつかないサイバー都市文明の渦中を全人類は生きている。いくつになっても五十鈴川だよりを綴れる間は、やはり怒りを込めて振り返れ、である。

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