これから大晦日まで、次女がいるので母と妻の喜びようは、男親の想像を超えているが、にぎやかなことが好きな私にとっても、やはりうれしい。メルも花も嬉しそうだ。
おひとりさま率が増え、孤独をいかに強く生ききるのか、といったハウ通本が売れる世相だが、私のような軟弱な男子は、助け合って支え合って生きてゆくのが性に合っている。というか人間という字が示すようにヒトはヒトとの間合いをとって生きてゆくしかないと、おもうのである。良き間合い、というものが家族であれ肝心である。(あらゆる関係性に言える)
文章が素晴らしい、想像力を刺激する |
ともあれ、昨日も書いたが母の喜んでいる姿を見ると、今年も無事に家族が年を越せそうで、軟弱な家長ではあるがささやかに嬉しい、の一言だ。
私も妻も華美な生活とは無縁の、とくに幼少期は物のない貧しさの中、必死で親が育ててくれたので、質素な暮らしの中での喜びで足りるし、それが身の丈に合うのである。
しかし、私の小さいころと比較すると格段の食生活の豊かさを生きていられる現在の暮らしは信じられないほどのものだ。だから一文を綴りながら、何かに感謝するのだ。当たり前のような暮らしは、いつ何時当たり前で無くなるのかは歴史が証明している。
そういう意味では、食品ロスや長時間労働が見直(良心のある経営者が増えている)されてきているのは希望だ。道徳や倫理言葉の問題ではなく、まず実践、特に食べ物を大事にし、人と人が共においしくいただく命の連鎖の授業は、まずは家庭から始めないと、命のかけがえのなさの大事がおざなりになってゆく、そのことはオーバーではなく、国の礎も揺るがしかねない。(と私には思える)
私が現在穏やかに生活できているのは、やはり両親のように身の丈に合う暮らしを持続してきたからだろう。母に至っては筋金入りのつましさを現在も生きていて、そのくせお金にはまったくといっていいほどに執着していない。娘や孫たちのためにほとんどを使う。見上げたものである、あっぱれとしか言いようがない。地に足がついているというのは、母のような人の生き方であると思う。私にはあのように生きればいいのだというお手本が身近にある。
このところのバブル期以降の浮き足立つ日本人に対して、アフガニスタンの大地から地に足の着いた生活を忘れないように、と絶えず警鐘を鳴らし続けたのが中村哲先生であった。かけがえのない家族、命を支える水や食べ物、本当に大切なもの を先ずはきちんと見据えることだと、軟弱な家長はあらためて思う、年の瀬である。
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