ほとんどほったらかしにしていたスペースを、一人でほッ繰り返しお芋を収穫したのだが、粒は小さいもののまあまあのお芋が収穫できた。
小さくても十分に食べられる、私としては植えっ放しでほとんど何もしていないにもかかわらず、形は不ぞろいではあるが十分に食べられるほどのサツマイモが、ひとりでに成っていることがうれしかった。
さらにれしかったのは、わずか2個ではあるが、思わぬ予期せぬ大きさの芋が土の中から出てきた時には、なんとも言えない収穫感が体を襲った。芋の蔓を鎌で切り集め、マルチをはがし、こんもりとした土の山をスコップや三本ぐわで芋が傷つかないように、注意深く掘り起し、約2時間近くかかったのだが、十分に収穫の喜びを味会うことができた。
光と土と水のおかげで作物は育つ、人間にできることは雑草をぬいたりのわずかな手間しかやっていないにもかかわらず、食べられるお芋が十分にできるということの恵み、実りの秋というが、超ささやかな秋の恵みのサツマイモは私を幸福感に導いた。
スーパーなどではほとんどお目にかからない、小粒なものがほとんどなのだが食べるのにはなんらししょうはない。今はまだ土と向かい合う時間がなかなか取れない私だが、いずれの行く末はささやかに土と向かい合いあいたいと思う。
根を張るお芋を食べ私も見えない世界に根を伸ばしたい |
四季が移り変わり、多くの多様な自然の恵みを与えてくれるこのような日本という風土に生まれた我が身の幸福を、老いと共に実感する私である。
話は変わる、このところ急に秋らしくなり列島各地は冷え込み、各地で初冠雪のたよりも届くこの頃だが、私はまだこたつも出していないし、薪ストーブも焚いていない。そろそろとは考えているが、果たしていつになるか。
紅葉のたよりも北の方から、あるいは高地にある山々から届いている。どこにも出かけていない私だが、よくゆく運動公園のメープルリーフ、モミジ、桜、銀杏、プラタナス、ほかいろんな樹木が色づいてきた。身近な近所でも散歩がてら色づく燃える秋を感じることができる。
だが、一人山里を訪ね孤愁の秋の風情を堪能するのも一興ではないかとは考えている。孤独な秋もいいものである。先人たちは万人に等しく訪れる秋を、憂いをたたえながらも楽しんでいたのに違いない。凡夫の私でさえ風情あるこの日本列島の尽きぬ興趣には老いと共にますます、刻々と変容する色移りのあでやかさに感嘆してしまう。
これからしばしの間、葉が落ちるまで、木の葉に朝日が当たるいっときを愛でるひと時を、大事に味わいたいと思う。
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