老い老いと書くと、老いが無残なまでにと思えるほどに、置き去りにされてゆくかのような時代の趨勢、そしていつまでもの若さを求め、あられもなくありがたがるかのような浮世の流れ(にくみしない私)である。
だが思うのだ、老いなかったら、川が逆行するようなもの、老いない人なんかいない。テレビやほかのメディアが高齢でお元気なお年寄りをやたら取り上げ、もてはやすのも困りものである。ヒトの生きようは千差万別である。私などは数字などには惑わされない。要はいかに生きて、生をまっとうするかである。
ふるさとの海を眺める私、急に週末帰ることにしました |
万別の持ち時間で生を終え息を引き取った時が、きっとその人の寿命なのである。それはどんなに長生きの方にだってやがては訪れる。来年私は68歳を迎えるが、とくに孫に恵まれてから、愛と死ではなく、老いと死を(本質的には同じ)以前にもまして、頭ではなく体全部で考えるようになってきつつある。
いわば、そのための覚悟の準備時間にいよいよ入ってきたのだという自覚がこのところの私に芽生えている。だからといってことさらに何か日々の暮らしが、変わるはずのものでもない。ただ淡々と今日の命の日々をささやかに感謝して生きていくくらいの当たり前さである。
この方についての御本、この方の本をきちんと読みたい |
ただいえるのは、時間の過ごし方が以前にもまして、生活がシンプルになり限りなく時間を大切に 過ごすようになってきた。以前のようには俊敏に体が動かなくなってきたので、あらゆることをゆっくりにしかできないし、そのゆっくり感を楽しむように過ごす、つまりは丁寧に過ごすようになってきたのである。
そのことが一番大事だという当たり前さのありがたき気づきの重さは 、秋の夕暮れの中ぽつねんと深まるのである。
話は変わる。週末長女の家族全員、つまり孫の望晃(ノア)くん、レイさんが帰ってきて、3日間ノア君中心の時間をおばあちゃん含めての楽しい時間を持てた。ノア君にはひと月前に会ったばかりなのであるが、このひと月間に驚くほどに言葉を発するようになっていて、私を驚かし続けた。
これ以上綴るのは爺バカのそしり、控える。早い話誤解を恐れずに言えば、こういう有難き感情は老いて孫に恵まれたからこそ味わえた感覚、我が身に起きた 現実に、私は素直に天に感謝した、
日曜日午後岡山駅の近くで、1歳8か月のノア君とお別れしたのだが、涙をためて見送ってくれたその姿は、おじじの胸を撃った。ノア君と長女家族年末ドレスデンで過ごすために日本にはいないので、ノア君にはしばしの間会えないのが残念であるが、岡山で束の間愉しい時間が過ごせたこと、家族全員で帰ってきてくれたことががうれしかった。
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