時は金なり、を自覚している私としては、何かせざるを得ないという貧乏性であるが、何度もいやというほど書いているように、いつ何時何が起こるかわからないので、書けるときに、書きたい気分の時に、一気にわが体から思い湧き出流ことを、書くのである。
男は格好をつける。たぶん私もそのような煩悩がいまだ抜け切れてはいないと思うが、でも十分にいい歳である。枯れてきて当然なのである。枯れ木も山の賑わいというが、まさに枯れてゆきつつある今を、初めて経験するいよいよこれからのゾーンをこそ、可能なら意識的につづりながら、老いのなんちゃら、格好をつけたいという自意識過剰を生きるのである。
話を変える。灯火親しむ秋というが、以前にもまして身の丈に合う読書が愉しい。どこにも出かけなくて足りているのは、本があるからである。弓の巻き藁も部屋でできるし、声出しは運動公園でできるし、本は部屋でも図書館でも読めるというわけで、結果遠出しない、引きこもりであるかのような初老時間を過ごすことになるのである。
さて、先日読んでいた【須賀敦子さんの御本・塩一トンの読書】を読み終えた。もう図書館に返したが、手元に置きたく入手するつもりである。読んでこの本は手元に置いておきたいと思えるような本に巡り合うために、いよいよこれから私はますます本を読む時間を大事にしたいと思っている。
妻の最愛の花、必ず五十鈴川だよりを書いているとやってくる |
本格的に本を手にするようになったのは18歳から。世の中に出て演劇学校に入っていやというほど、満座の中で恥をかいてきたからである。あのいたたまれないような恥ずかしい、井の中の蛙的な感覚は、この歳になっても忘れられるものではない。
自意識過剰の少年は、この年齢になってもあの時のトラウマがいい意味で抜けきれていない、自覚がある。でも思う、あそこから真の意味で、自分は生きることに、よたよたしながら歩み始めたように、今は思える。
高校で演劇部に入って居場所を見つけ、上京後右往左往しながら20代かろうじて演劇を学び続け、その学び続けた経験が生きて、40歳で定職につくことができ、家族ができ、今こうして元気に生活できていることのすべては、本を手放すことなく演劇的な思考を持続してきたからではないかと想える。
本はせまい思考に陥りそうになる自分に新鮮な酸素を吹き込んで再生してくれる。ときに酸欠になりそうな体は、居ながらにして蘇る。(ようになる)不思議というほかはない、それはまだかろうじて想像力があり生きているからである。たぶん想像力がなかったら本は読めないのでは、と思う。実人生で会える人の数は限られているが、本は無限である。
先日も畏敬する知性的怪物お二人、佐藤優氏と松岡正剛氏の対談本を読んだのだが、一言まさに圧倒された。だが以前よりも動じなくなってきたのである。それはなぜなのかは今はまだよくはわからない。がしかしお二人をはじめとして、信頼するに足る現役の私にとっての、この人は信じられるというような、自分の無知を照らしてくれるような水先案内人的存在に出遭えたのは、本を読み続けてきたからである。
ささやかな独学、読書である。年上、年下に関係なく、本を読んでいると何と素晴らしい人がこの世にはいるのかと知らされる。須賀敦子先生もそのお一人となった。私にとって先生と呼べる方は知識人ばかりではない、多分野に存在する。素晴らしき本をほとんど読まないが私を魅了する労働者も存在する。私は静かに反省する。もっともっと静かに生活しながら、素晴らしきお仕事をなさっている、私の無知を照らす方々の御本を読みたい、耽耽溺したいと念う秋である
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