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2019-11-27

今後は、ますます死者との対話で今を生きる情熱を持続したい。

昨日から午前中のアルバイトがないので、あれやこれやゆっくりと、身辺の生きていればいやでもたまってゆく、衣類ほかの整理を午前中意を決して処分した。とくに衣類、この5年以上袖を通していないものなどもかなり思い切って。

私は性格上、思い出に耽る情緒性が 強いので、なかなか捨てられないのだが、もうそろそろいいだろうというという年齢になってきたのである。執着心が薄まってきたともいえる。この数十年体形がほとんど変わっていないので、ジーパンなどは十年以上はいているものが何本もあるし、基本的に物のない幼少期を過ごしているのでなかなかに捨てられないのである。(いつ何時どんなことが起こるのかわからないのが人生である)

でも、人間関係もそうだが、移り変わってゆく中で、おのずと 古い自分とおさらばして、いつまでも同じ関係性に固執せず、新しい関係性へと移行してゆくのが、私の場合は当たり前自然だという気がしている。変わってゆく自分に素直でありたいのである。それとやはり孫に恵まれたことで、いやでも自分自身を見つめなおさざるを得ないほどに、いい意味での一人の時間を過ごせるようになってきたのも、最近の微妙な変化である。

本当に必要な厭きないほどほどのものに、つつまれて過ごすために身軽になりたい、そして老いてもやれる、やりたいことにこれからの大切な時間を使いたいのである。もう余分なものはいらない。そういう意味では、もう私の意識は相当に死者の側に行っているような感覚が芽生えている。

このようなことを書くと、あらぬ誤解を招きそうだから補足するが、残り火の情念のようにシェイクスピア 作品を音読したり、書をしたためたり(新たな情熱が湧いてきている)弓の巻き藁をする時間が、以前にもまして楽しくなってきているのだ。読書も。
きちんと生きた人の言葉は限りなく説得力がある


話は変わる。私の好きな女優、市原悦子さんが亡くなったのは今年の一月である。樹木希林さん、八千草薫さんと、次々と黄泉の国に旅立たれる。お会いしたことがなくても、何か一方的ではあるが、近しく感じられる方の死は、私にとって肉親とはまた違って大きいのである。

以前も書いたが、今後はあの世に召された方々の好きな御本や、今までに撃たれた映像作品、などとの対話的なひとり時間を持ちたいと想う、そのことはきっと私のこれからの人生時間を豊かにしてくれるという確信のようなものがある。

今後の、予断を許さない人生行路を導いてくれそうな気がするのである。私の両親も見えない世界に行ってしまってはいるが、あの世の両親とは私が歳を重ねるにつけ対話的な感覚は深まっている。

老いるにつけ、足が故郷に向かうのは、きっと両親が眠っている土地に立つことで、全身が理屈なく安心し、無言の対話ができエネルギーがいただけるからである。だから年内最後、明日から日曜日まで帰省する。



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