小学生のころ電気でポンプアップするまで、我が家は井戸からつるべで水を汲んでいた。私もよく水くみをやらされたものである。だから今は亡き生家の、小学生のころの近所の風景は、いまだはっきりと記憶の底にある。
そのようなことを、浦島太郎のように、いまだ思い出せ、このように秋の夕暮れの一時につづれることが、ナルシスティックであろうが、初老男はうれしいのである。思い出に浸れる余裕時間があり、そのことが自分の中に明日の活力を生むのである。
窓からは見事な半月の月が見える。湯を浴びてさっぱり気分で、暑くもなく寒くもなく、夕飯前のまさにささやか至福の夕刻の一時である。(ビールを我慢して書いている)
【とりたてて・書くこともなし、秋の夕暮れ】といった体なのだが、書いていると体が勝手に一文を運んでくれるかのような気分に陥るのも、これまたナルシスティックなのである。(自分で自分を大事にしない人が私は苦手である)
このように、厚顔無恥に気ままに綴れることこそが、老い力なのかもしれないと、もういい方向にしか考えないのである。起きてから陽が沈むまで今日一日も何とはなしに無事に穏やかに、ささやかな充実感をもって過ごせたことに対する有難さが、能天気な戯れ文を書かせるのである。
いつかゆっくりと読みたいと思っていた方の御本 |
今年も残すところあと2カ月だが、無事是名馬というではないか、体調がすぐれなかったら、旅もできないし、つまりはあらゆることに支障がきたすわけであるから、老いてきてますます今日一日元気に過ごせたことの感謝の念が深くなってきた私である。
きっとこの感覚は、歳を重ねるにつけ深まり続けるだろう。先日上京した際、わずかな時間ではあったが孫の望晃(ノア)くんと遊んだ時に見た笑顔と声としぐさに、コトバにならない名状しがたい感情、幸福感につつまれたのである。
このようなことを書き綴ると、あきらかに爺バカのそしりを免れないのでもうよすが、孫は刻一刻と精妙に変化しつつ成長する。果たして私は思うのである。孫にとって面白いおじじになろうというくらいにしか、今は言葉にできないが、面白いおじじになるにはどうしたらいいのか、考えるのである。
早い話、孫のおかげでうかうかできないテーマが、にわかに湧いてきているのである。孫の存在は行く末の老い先を照らしてくれそうなのである。
有名な俳句に習っていえば、【見渡せば・老い先照らす・孫光】お粗末。
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