月の後光にあやかるのが私は大好きである。いよいよこれからは、月を眺めに行く旅などもやがてはしたいと思う私である。肌寒いが着こめば気持ちの良い夜散歩が、月が出ていればする気になる。
来年の、夏の夜の夢の発表会で私が声を出す侯爵の台詞を、このところ諳んじる努力をしているのだが、月明かりの中でひとりぶつぶつと声を出しながらのお散歩は初老男を別世界へといざなう。
時に自分はいったい何をやっているのだろうと思わぬでもないが、いいのである。いろんなお散歩スタイルがあっていいのだ、と思う。話は変わるがこの年齢になると若いころと違って、当たり前だがセリフ覚えが悪くなっている。だが、2年前のリア王から意識的になるべく覚えようとしないで、自然に繰り返し声に出すことで記憶化されるように愉しく努力しているのである。
この御本にいきなり須賀敦子さんのことが書かれていた |
声を出すことが、声が出せるという当たり前のことが、実はまったく当たり前ではない(歩けることも含め全く体は精妙にできているのである)のだという自覚が深まるにつけ、声を出し、いまだ台詞を記憶できる体がある今を生きられているという嬉しさが私を包む。
意味もなく、月に向かって感謝するのである。月とまるで対話でもしているかのように、月に向かってぶつぶつと反復稽古を繰り返す。言葉が詰まって出てこない時はあきらめる。家に戻って出てこなかった個所を確認する事の繰り返し。本に頼らない、身体に頼る。
喉頭がんになり声が出なくなってしまった音楽家の方々の無念は察するに余りある。もし自分がそうなったら、と想像する。だから、単に歩ける、動ける、働ける、声が出せる、弓が引ける、等々健康に今が生活できる、そしておなかがすいたら食物があり、家族がいて、とりあえず暖をとる着るものがあり、ゆっくりと休めるスペースがあれば、もうそれで十分なのである。
リア王の登場人物グロスターのセリフ、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】いまだつまずき続けている私であるが、見えない世界、聞こえない世界の音に耳を澄ます、訓練をしないといけないと最近とみに感じ始めている。
表面には見えない、言葉の奥底の人間の感情の襞を探り当てるためには、反復集中稽古しか私には方法がない。闇夜に浮かび姿を変える月、姿を見せない時も目に見えずとも、絶えず月は光芒を放っている。
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