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2019-09-22

養老孟司先生のお話を聴きました、そして想う。

天候には逆らえず、帰郷は断念した。また近いうちに予定をこしらえて、故郷詣での一時をと考えることにした。したがって今日から数日完全オフを過ごすことになったので、これはこれで有難く受け止めることにする。

さて、昨日午後和気町の公的な施設で、岡山県自然保護センター主催の講演会があり、お話を養老孟司先生がされるという知らせを、Nさんがラインで事前に知らせてくださったおかげで、妻と共に聴くことができた。

演題は里山についてであったが、直立歩行の人間という存在の特質、子育て、教育、エネルギー、をはじめ現代社会が否応なく抱え込んでいる多岐にわたる問題についてお話が約一時間半近く展開された。

一見出口が見えないかのような金縛り閉塞感に、いかに知恵を絞ってその解決の糸口を見つければいいかについての、いわばヒントのような場所が日本の里山にはあるのではないか、というお話(であったと思う)。

該博で、ユーモアたっぷりの養老孟司先生のお話を岡山市内ではなく、家から車でさほど時間のかからない距離にある、公的ホールで直接聴くことができるとは思いもしなかった。(この場を借りてNさんに感謝)

先生は1937年のお生まれだから、齢80歳を過ぎておられるはずであるが、ずっと立ったままよどみなくお話をされたそのことに、どことなく虫取りに出掛けられる服装、お姿に、動きに、照れる様子に、どこか毒のある含み笑い、ユーモアに感動してしまった、ただものではない。

いきなり1000万年前大陸がアジアとつながっていたころのお話から、岡山には自分の関心のある虫がいないからあまりきていないというお話、450人くらいの聴衆は座ったままであるのに、先生はつっ立ったまま。

西洋人が発明した椅子がいかに人間の腰に負担を抱えるか、(あげく腰痛は現代人が抱える大問題になっている)先生は小学校に上がるまで畳の上での生活で、椅子に座ったことがなかったので座り方がわからなかったお話とか。先生の御本をこのところ立て続ける読んでいる私でも初めて聴くお話が、ジャズのように即興的に繰り出されるので、ぐいぐい引き込まれた。

有体に言えば、当たり前に想ったり感じたりすることが、いかに当たり前ではないかという気づきについてのお話など、蒙を突く自在な養老哲学がいかんなく遺言のように発揮される。いかに現代人が自然と離れ自らがが望んで作った文明、人工都市空間の中で自然と切り離され、そもそもが自然である心と体がいかに歪んでしまったかを。

はっきりと書いておく。本当に大切ないまの我々の生活そのものを根底から変える、それもできる限り愉しく変えてゆくためにはの、生活改善努力の目標、自然と人工物との境界、人間存在が気持ちよく【生活できる場所】を里山的空間で見つけられるのではと、提案なさっておられるのだ。(と受けとめた)
私が初めて手にした養老孟司先生の御本(今読むと沁みる)

先生は人間を懐疑的にとらえておられるが、それを何とかバカの壁を壊したい、と里山、日本の森の再生事業に、子育て教育問題、子供たちの居場所づくりにと、老体を引きずりながら取り組んでおられる。

先生は虫の視点から、人間存在の行く末に警鐘を鳴らしながら、懐疑的ながらもあきらめず、身をもって子供たちと虫取りをしながら、未来の種である子供たちを少数であれ、面と向かって育てていらっしゃる。真の教育者、得難いまさに師、先生である。先生は語っている、一番面白いのは自分を育てること、教えることは学ぶことだと。日本の大問題という御本の中で語っておられる。

先生の御本を読むと、これからの人生時間を想うとき、わが故郷の里山、五十鈴川のほとりの里山に想いが及ぶのである。晩年の行く末、初老の私だが養老先生の年齢までは幾分時間がある。ささやかに身の丈に合う何かをせずにはいられない。だから私は五十鈴川のほとりに立ちたいのである。自分にとって最も気持ちのいい場所で思考したいのである。




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