さて、ドイツ文学者でエッセイストであり、M新聞の書評家であった池内紀さんが先月末78歳であっけなく他界された。最近まで氏の書かれた書評を読んだ記憶があるので、お亡くなりになられるまでお仕事をされていたのだ、と知る。
旅や、哲学者カントについての伝記的エッセイしか読んだことはないのだが、権威的な事を嫌い、旅を愛し、該博な知識と教養、ユーモアがわかりやすい言葉で書かれていて、折に触れてこれからの老い楽時間を照らす、私にとって大事な作家のおひとりであった。
わたくしごときが、氏について語ることはほとんど何もないのだが、一言惜しい方がまた一人お亡くなりになられたことを、一行でもいいから、五十鈴川だよりに綴っておきたい。いつの日にか読みたいと思って買っておいた、氏が翻訳されたゲーテのファウストがある。
必ずファウストを読みます |
心血を注いで身を削ってお仕事をされたかたなのだろう。これまた私の好きな池澤夏樹さんが追悼の一文を寄せておられる。【生きる達人仙界へ】という見出しである。そうか池澤さんが、達人と思慕するほどの生き方、お仕事をされた方なのであることをあらためて知らされた。
ともあれ、M新聞の書評を担う方々によって、私がこの十数年どれほど無知蒙昧な自分を今も思い知らされているか、知的な世界の深淵さを知らされ続けているか、つまり真の意味においての、知識人のすごさを垣間見ていることか。
老いると共に、あと何回中秋の名月を愛でることができるのか、あと何冊本が読めるのかとか、あと何回五十鈴川のある故郷に帰れるのかとか、いつまで声遊塾のレッスンができるのかとか、あらゆるイフ、とかをつい考える。寿命、人生はまさにある日突然、粛然と閉じるのである。
そのようなことを口にすると、縁起でもないとか、人生100年時代、これからこれからなどというご時世だが、私はまったくそういった時代の御託宣には関心がない。命の終わりを厳粛に受け止める覚悟をこそ養いたい。
口幅ったことはまったく書く気がない、ただ思うのは私のこれからの時間は、もうすでに何回も書いているが、身体は現世を生きてはいても、こころは限りなく過去の時間を反芻しながら生きてゆくということに尽きる。
人としての現世的な役割をほとんど終えた今。今後は現世を生きながら、すぐれたお仕事をされた言葉の宝を、【古今東西の古典の膨大な海の一滴を味わい】老いの身に注ぎながら生きられたら、と。池内紀氏の御冥福を祈る。
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