定年退職してから、いろいろと緩やかに老いゆきながら、以前より新聞を読むようになったことは、たびたび書いているような気がするが、今朝も早く目が覚めたので二日分の新聞を夜明け前の一時間、バイトに出掛ける前に読んだ。
すると一人の名前だけは存じ上げている、俳人の坪内稔典さんの記事が目に留まった。1985年から主宰されていた俳句集団「船団の会」を解散するという記事、30年以上にわたって続けてこられた会を散在するという。じっくり読ませていただいた。
おそらく坪内さんは、きっと私よりも年長だと思われるが、その意気軒高さには大いに刺激を受ける。このような記事に目がゆくというのは、きっとどこかに俳句とか歌を詠むことに潜在的に関心があるからではないかとおもう。
声が出なくなったら、弓が引けなくなったら、あるいは今からでも同時に、いくらへぼであってもいいから精神がどこか動く間は、俳句でもひねり出せたら愉しいではないかと思うのである。
終わるということは、何かが変わり、次が始まるということである。稔典さんは語る、終活ではなく、終活に対する抵抗であると。然りである。わたくしごとき凡夫でさえいまだ初老男の心は揺れる、揺れる間は何かを探し見つける、つまりは生きている実感的な喜びを見つけたい。
まして、経験したことがない、老いの行く先のこれからのかぼそき途、若い時には想像だにできない、死を身近に感じるからこそ、湧いてくる喜びのようなものが見つけられないとも限らない。未知の領域、わからないではないか。スリリングであると思えるか思えないか。本人の感覚、感性次第である。
面白いということは千差万別であるが俳句は老いの身には面白い |
バイトに出掛ける前、今日の新聞を起きたての新鮮な頭でじっくり読むと、想像力が刺激を受け身体が動き始める。同世代、もしくは私よりご年配の方々の、勇気ある言葉に出会うと元気になる。
はじめに言葉ありき、毒にも薬にもなる言葉ではあるが、私のような弱き器は、言葉なくしてはとても生きてゆけそうもない。
それにしても、心眼というが、良き言葉に出会うためには、とにもかくにもすっきりした頭体の、午前中でないと難しい。
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