それにしても、このように健康で身体が動けば、限りなく精神的なストレスのない仕事は子育てはじめ、ほぼ社会的な役割から解放されたからこそ得られた、その喜びはたとえようもない。
肉体が動くことの喜びは富良野への無謀な挑戦で、ギリギリ身につけたからこその今である。富良野で大型特殊免許を取得、卒塾後トラクターなど動かしたこともなかったが、今たまにローダーに乗ったりしている、まったく何が幸いするかわからない。
身体能力は30歳を過ぎても、変化し身体が動くことによって、不可能だと思えていたこと、苦手、無理だと思えていたことが、やればできるといういわば自信が植え付けられ、その体験によって得た身につけようという意欲感覚は今もかろうじて生きている。
この一年使ったことのない様々な機械工具を使うことで、これまでしたことがない新たな動きを身体がしなければならないので、必然的に脳も動かざるを得ないのである。
とかく多くの現代人は(若い頃の私はまるでそうだった)汗をかく肉体労働、(ホワイトカラーに対して)ブルーカラーに対して、マイナスイメージを持ちがちであるが、この年齢で身体を気分良く動かせるのは、どこかにかすかな向上心があるからである。
寝たきり老人になるのがいやであれば、他の人と比較できない唯一の自分の身体と向かい合う以外に、私には他に方法がないである。老いての座りっぱなしのような仕事は、危ない。
話を戻す。雨の日以外天空の下、雲を眺めながら身体を動かす、これからしばらくは最高の季節である。不即不離に結びつく苦楽(だが愉しい)的だが面白い、寒くなると、枝木の剪定がやれる。わずかではあるが中世夢が原でも、ハサミを使ったことがあるので、上手くなりたい、植木の刈込なんてまさかの意外な展開。
人間の脳のシナプスは、どんなにつたなくても手足を動かすことによって、無意識にも活性化してゆくことを経験的に私は知っている。ワープロさえやったことがなかった私だが、どうしてもブログが書きたかったので、50代も後半キィを打つことから始めたのだが、今では左手も勝手に動くようになっている。
妻が丹精した我が家のほぼ最後の秋ナス |
本当にやりたいことがあれば、ゆっくりではあれ体の中にある脳は、いまだ目覚めるのである。そのことが生きていることの面白さ、醍醐味、もっと書けば老いてゆく下り坂の贅沢なのでは、とさえ最近は思う私である。
このような感覚は今後もっと実践し、もし私に人生時間がもっと与えられ、今やりたいこと、やっていることとからの執着から離れたところの地点にもし立てた時に、まだ精神と体がいくばくか自在に文を綴れる、真の意味での余力があれば、書きたいとは思っている。
お亡くなりになった河合隼雄先生が、ヒトは夢を見、物語りをつぐむことによって生きる器であるとお書きになっていたが、さながら私のようなキャラは、獏という架空の生き物にすがるかのように、自分の居場所を掘り続ける、いわばささやかな宿業と共に今をいきるのである。
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