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2017-12-31

2017年、大晦日の朝に思う。

娘に命が授かり、今のところ順調に命は成長している様子である。無事に生まれると私にとっての初孫となり、私はお祖父さんとなる。正直、今はまだまるで実感がないのだが、私はその生誕を、待ち望んでいる。

私に孫ができる。父親にさえなれるとは思いもしなかった、人生を歩んできたので、いまこのような普通の感覚を自分が 持てることに関して、オーバーではなく万感迫るものがある。

お正月は時間を見つけて静かに本を読みたい私です
あまりに個人的な事であるので、ブログでこれ以上書くことは控えるが、まさに人生には、どのような運命が待ち構えているのかわからない。

娘だってレイさんとの出会いがなければ、このような人生の選択はありえなかったかもしれないので、人生そのものが、多種多様な人や物との無限の出会いの集積の上での、未知との遭遇の上に成り立っているというしかない。ヒトは出会いの運命に大きく左右される生き物である。

ある種の幻想に近いかもしれないが、ヒトは幸福感というものを求めさまよう生き物であると、私自身自認しているが、それを実現するために、なにがしかの日々を老若男女問わず生活しているのだろう。私だってそうである。

だが何をもってしてヒトは幸福を実感するのか、は、各人各様千差万別である。たまたま私は戦後7年目、五十鈴川のほとりに生を受け、この時代の渦中を何とか生き、いま無事に家族と共に、(おかげで)この年齢まで生き延びている事実に、ただただ感謝している一人の生活者である。

起きて書き始めたら、何とはなしにこのような一文を綴っているというのは、やはり大晦日のせいかもしれない。この歳になってみて初めて、足るを知る者は富む、という言葉が少しわかるようになった気がする。

早朝、冷え切った空にいまだ浮かぶまあるい月、静寂のひと時をこよなく愛する私である。コーヒーが沁みる。今年は個人的にいろんなことがあった、私にとっては節目の年になったが、何はともあれよたよたとではあれ、今年も五十鈴川だよりを書くことで、(救われ)一年を締めくくれるのはただただありがたいというほかない。




2017-12-30

年の瀬29日(30日だが)の真夜中に思う。

28日から娘とレイさんが帰ってきてから、我が家は一斉ににぎやかになり今夜から(いますでに30日だが)母も我が家にお正月帰りしている。

Sという造園業や剪定作業を中心に行っている会社で、8月28日から、基本的に週に3日ほど働いているが、今週だけは初めて五日働いて、昨日午前中が仕事納めだった。

年齢も省みず始めたこの仕事、とにかく3ヶ月は続けてみようとの思いだったが、何とか4か月は持続できた。我ながら良くやったとの思いだが、油断は禁物の感覚は、仕事を続けられる間はなくしたくはない。

おかげさまで体が動いてくれているので、何とか続けられている。体がもつかどうか不安だったが、週に3日であれば、持続可能、何とかやれるのではないかとの、自信のようなものが生まれつつある、有難い。
お二人の対談には刺激を受けた

幼少期は虚弱体質、身体がそんなに強いわけではなく、肉体労働には限りなく弱いコンプレックスを持ち続けてきた私だが、青春の終わりを富良野塾で鍛えられ、夢が原でも野外作業でずいぶんと足腰を鍛えら、そのおかげでの、いまかろうじてこの仕事がやれる果報を有難く受け止めている。

ともあれひと月でも長く、自分に負荷を与えながらの、肉体労働を続けたいとの念いが深まる。その中で何か新しい感覚が、晩年時間に見つけられたらとの、淡い思いが、幻想であってもいまだ私にはあるのだ。

守りに入るのではなく、今しばらく新しき世界(人や樹木との)での出会い時間を生きなおすことで、攻める感覚を、足腰をただただ動かしたいのである。

介護施設での仕事のお誘いもあったのだが、私としては、私よりも若い方たちとの一緒の肉体労働をすることの中で、過ごす時間を選択した次第。

いつまでやれるかは神のみぞ知る、悔いなく体を動かし続けたい、そんな私を妻や母や、家族全員が応援してくれている。

軟弱な私は、きっと家族の存在なくしては、この仕事は続けられない。

2017-12-26

年の瀬、週に5日初めて働くことになった火曜日の朝ブログ。

五十鈴川から戻った翌日の日曜日、頭を切り替え、こんなことは初めてのことだが妻がパソコンで作ってくれていた年賀状、100枚近くに一筆入れ、午前中に投函し、その後妻と母に3人で、あれやこれやの年末の買い物他の用事を済ませ、昼食後吊るしていた干し柿を収穫し、よいのを選び、友人知人に発送した。

数に限りがあるので、少数の方にしか送ることがかなわぬのだが、わずかながらも年末に長年お世話になった方に、手作りの品を送ることができるのは、幸せなことである。(今年はめったに会えない方にも少し送れた)
母の丁寧な干し柿作業に脱帽

この年末の作業を、妻と母の3人で今年もやれたことが、ことのほか私にとってはうれしいことだった。この日はクリスマスイブ、下の娘が上京していたので干し柿発想を終えた後、早めに入浴を終え3人でささやかにクリスマスイブを祝った。

妻がクリスマスの曲を、習いたてだが電子ピアノで弾いたので、記憶に在るところを私が歌ったら、何と母が躍ったのには驚いた。3人で大笑い、めったにないことなので動画で娘たちに送ったらレイさんからお褒めの言葉が届いた。

そして昨日から、遊声塾も今年は先のレッスンで終えたので、予定を入れず労働者に変身した。肉体労働は、週3日しかしていないのだが、今週だけは仕事納めの日まで5日間連続で働くことにしたのである。

ひと月は持たないかもしれないと思ったこの仕事、なんとか4か月続いている。65歳の私にとっては今もかなりのハードワークであることは確かだが、あくまでもささやか冒険心が私を支えている。

なぜ続けられているのかは、身体が持ちこたえているからだというしかない。それとわずかながら、何かを学んでいるといった 実感があるからだと思う。3ヶ月を過ぎるころあたりから、社長からずいぶんと声をかけていただいている。

私としてはお荷物にならず、会社にとってお役に立てる間は、週に3日であれ、一日であれ、家から2分のこの会社で働きたいという気持ちになっている。

集中力と持続力、根気のいる仕事の面白さは、やったものにしか わからないし、何よりも動く肉体がないとこの仕事は無理である。声を出すこと、弓をひくことに、この仕事は限りなく有効である。

だからなのである、私がこの仕事を続けられる大きな理由は。老いてゆくこれからを、有効に生きるためには、足腰の今一度の鍛錬をするのに、オーバーではなく大切な時間だとの思いなのだ。







2017-12-25

ふるさとで現在の命を洗ってをきました。

忙中閑あり、水曜日の夜中にバスで小倉に、早朝始発の特急日輪で日向市に午前中につき、木金と兄の家に滞在、土曜日の昼前に日向市を発ち、日輪と新幹線で午後八時すぎ岡山に戻ってきた。

前回のブログで書いたが、年内にお墓参りができたことで、なにゃら私の中に、いい感じで歳が越せそうなゆとりのような落ち着きが生まれている。
誰もいないこれほどのゆず湯につかったのは初めて

自分がなぜこうもふるさとの空気を吸わないと落ち着かないのかは、自分でもよくはわからないのだが、今の私には自己分析している余裕はない。

だが、この数十年必ず年に数回は必ず帰る私を、兄夫婦や姉夫婦の暖かく迎えてくれる存在があるからだということは、この五十鈴川だよりに、きちんと書いておかねばならない。

当たり前のことだが、この数年の帰省で感じるのは、私も含め兄たちや姉も随分と歳を重ねた事実である。今回も兄二人夫婦、姉夫婦私の7人で金曜日の夜ささやかに夕食会をすることができた。

このようなことは初めてなのだが、その席で私は、これからは毎回これが最後の帰省との気持ちで帰ってくるつもりなので、どうかよろしくとだけ伝えた。

みんな各々うなずいてくれた。私が65歳で一番若くあとは年上、70歳代が3人、一番年上の義兄が75歳。有難いことに皆さん元気で冗談が言えるくらいの健康体であるからこそできる夕食会である。

やがては叶わぬ人生時間の訪れを、厳粛に受け止めるためにも、良き思い出の数々を脳裡に刻みたいとのわが想いの深まりは深まるばかりである。

ところで都市部のあまりの風景の変容に背を向け、着いた日と金曜日私と長兄二人で宮崎探訪山間部ドライブに出かけた。

私以外誰のいなかった

金曜日は行ったことのない、門川から3時間近くかかる、西米良村というところの温泉に出かけたのだが、透明度抜群の一ノ瀬川のそばの素晴らしい温泉にゆくことができた。

ふるさとの大小含めた、透明度抜群の河川の美しさは、未来永劫残したい普遍の宝である。あの川を眺め、可能ならつかりたいという、私の欲求は老いても変わらない。だから私の体は、故郷に向かうのだ。

来年春、私に孫が授かったら、いつの日にか孫と共に五十鈴川を含めた 川巡りをしたいとの夢は膨らむのである。故郷の海山川に先祖返りするのである。


2017-12-16

五十鈴川のそばに在る、両親のお墓参りをしないと、落ち着かない年の瀬のわたし。

朝が来た。師走、何かと充実多忙で、一日がもう少し長ければと思うほどである。それと年齢のせいだと自覚しているが、動作がゆるゆるとしてきたのを特に今年から自覚している。
歳とと共に、あらゆることを落ち着いて、丁寧にやるようにこころかけている。五十鈴川だよりも、書く回数がずいぶんと少なくなってきたが、以前に比べたら丁寧にかいているなあ、という自覚がある。時間がかかっても、遅くても丁寧に。

何回か前の五十鈴川だよりで書いた記憶があるのだが、漸くにして日々の暮らしの中に、自分の中にうろたえない重しのような、いい意味でのかたくなさのような生まれつつある気がしているのだが、いまはこれ以上書くことは控える。

ともあれ、自己満足的にいい感じで生活できている現在を、キープしたいとの思いが募る師走の五十鈴川である。

時代の趨勢は、油断ならないほどに何が起こっても、たじろいでも仕方がないとのいい意味での諦観感覚をどこかでもっていないと、一方的な情報に振り回されるので、私は画面からの情報ではなく、地面や、自分の内側からおのずとわいてくる本能的な感覚情報や、私が信頼できる方の情報に、ますますすがって生活している。

以前書いたが、ますますもって超マイノリティの側に、自分がシフトしてゆくような気配である。
アーサービナードさんの御本、凄い素晴らしい。

時代はますますAI生活ライフにシフトし、言語化するのが不可能とさえ思えるほどに、世界は2極化してゆく気配、一体全体どのような未来がやってくるのか、どこか不気味さを感じながらも、生きて在る間は、地面近くからその世界を眺めてみたいという、業も私は抱えている。いまも絶対矛盾の渦中をさまよう私である。

ところで、まだわが故郷へのお墓参りが実現していない、何とか来週にはとんぼがえりであろうと五十鈴川が静かに流れるほとりに立ちたい。そこでしばし一年を振り返りたい。

それにしても、なぜこうも私は年に数回五十鈴川のある、故郷もうでをしないと落ち着かないのかは、自分でもよくはわからない。

2017-12-14

塾生Y氏の高梁のお宅で、遊声塾今年最後のレッスン、そして交流の宴が実現しました。

昨日、今年最後のレッスンを塾生のY氏の本宅がある高梁で、昼間行なった。こんなことは塾発足5年目にして初めてである。
とあるところで撮った銀杏の葉のじゅうたん

なぜこういうことになったのかのいきさつを少し。ひと月くらい前、 塾を続けるか塾をいったんお休みするか、私の中でいくばくかの煩悶が生じてきて、塾生とお話をする時間を設け、今のメンバーででの持続継続を確認した際、塾を立ち上げた時からの付き合いであるY氏が、塾生の交流も含め、一度高梁の我が家でレッスンをやりませんかと申し出てくださったからである。

参加したのは私と塾の熱きトリオ女性3人、岡山発9時17分の伯備線でY氏の待つ高梁へ。天気は最高、気分はすっかり遠足の趣。10時12分に高梁に着き、Y氏の運転するクラウンに乗せていただき、いきなり予定変更、氏の案内でぶらり備中高梁めぐりへ出発。

Y氏の名ガイドでたたずまいを外から眺める程度ではあったが、約一時間と少し、旧家の風情が今も残る頼久寺界隈、氏の通った高校、山田方谷が学問を指南した建物を車窓から眺めたりしながら、徐々に山の奥にドライブし、近年天空の城として名高い備中松山城を眺める展望台に到着。

そこには数日前に降った雪が残っていて、ちらりほらりと粉雪も雲間から落ちていた。寒かったが、皆童心に還って小さな旅時間を満喫した。

その小さな旅の最後を締めくくり、我々をほんわか気分にいざなってくれたのは、展望台近くに群生している、100匹いると確認されている中の、半数近くのおさるさんの群れ。老若男女の愛らしくもむつまじいしぐさで、我々を迎えてくれたのに驚き、しばし見入った。

おさるの集団がぞろぞろと森の中に移動をし始めるまで、我々は優雅この上ないおさるさんとの意外な出会いを楽しみ、小さな旅を終えY氏のお宅に移動した。

私以外は Y氏のお宅に伺うのは初めての3人は、Y氏の家周辺の山里の景観にしばし感嘆の声をあげたのち家の中に。

みんな相当におなかがすいていたはずだが、前もって温められていたこたつのある部屋に集まりリア王の一幕だけ、5人で輪読し今年最後のレッスンを終え、午後一時食堂へ移動した。

目に飛び込んできたのは、すべてのお鍋の具材が整然と器に盛られ、並べられそこにあったことである。準備万端あとは火をを入れるだけ、Y氏の心づくし牡丹鍋のおもてなしには、最敬礼するほかなかった。

 お鍋の具材は氏のひろい敷地の菜園場で調達された野菜がほとんどで 、サラダ、お漬物、まったく旨いというほか言葉がなかった。心も体もぽかぽか、芯から体がゆるみ、Y氏のゆきわたる細やかな配慮に、ただただ私は甘え、牡丹鍋の昼食宴会を堪能した。お酒もほどほどにいただき、全員和気藹々、最高の気分で昼食を終えた。

おなかがいっぱいになった後は、Y氏と私はお燗したお酒を持参、レッスンをしたこたつのある部屋に移動し歓談タイム。街の居酒屋などでは決して味わえない、穏やかで真摯な語り合いができた。

リア王の来年の発表会についても、塾生の忌憚のない意見を聞くことができたし、何よりもリアを読む覚悟ができた。こたつでの会話はいやでも家族的な雰囲気になる。みんなの弾む会話を、Y氏が満面の笑みで聞き入りつつ、氏の好きなクラッシックの曲が空間を包む。最後Y氏がおいしいコーヒー(とお菓子)を入れてくださり、焼き芋まで。

まさに至れり尽くせり(おまけに余った野菜までお土産に頂いた)愉しい時間は瞬く間に過ぎ、気が付くと4時を回っていた。お開きの時間、山の端に冬の陽が沈みゆく4時40分ごろタクシーがやってきた。

ただ一人、黄昏時Y氏が一人たたずみ、我々を手を振って見送ってくださった。このような貴重な機会を設けてくださった、氏の心広き優しさに感謝し 五十鈴川だよりに記しておきたい。

【本日はとり急ぎ文章だけアップしますが、A子さんが送ってくれた良き写真は後日、たくさんアップします、ご容赦を】




2017-12-03

娘の再出発、師走の朝に思う。

朝が来た。夢が原退職後は、日中のほとんどを家族と共に過ごすように心かけているのは、すでにご存じだと思う。
笹の根でつくったリース、飾りつけは妻。

実は下の娘が、思うことがあるらしく転職し、来年2月から東京暮らしを始めることになり、いよいよ来年からは妻と二人きりの暮らしが始まることになった。

母は今のところまだひとり暮らしを続けるとのことなので、まあそういうことになる。こうやって人生は過ぎ、廻ってゆきすべては移り変わる。摂理である。

娘には、悔いのないように生きてほしい。運命は自分の足で切り開いてゆくほかはないのであるから、親としては、ただただそっと見守るほかはないと、妻も私も娘の選択を応援する覚悟を決めた。

何かをあきらめ、何かを選択するほかに人生には道はないのであるから。いまだ若輩の私が言うのもなんだが、あれやこれやと、私も18歳から迷える子羊で今に至っているが、紆余曲折を経ながら、道は一本つながっているのである。

何はともあれ、逡巡を繰り返しながらも、ヒトと出合い助けられ、生き延びてきたのだから今はただ、運を天に感謝しありがたいというほかはない。娘も自分の足で地面を踏みしめ、広い世界の人と出会い、世間の風を浴び何かをつかむしかない。

だからあと数か月の家族時間を、今日も全員で過ごす予定である。私が18歳の時の山田洋二監督作品に家族というフィルムがある。思えば時代の行く末を家族の姿を通して見つめたフィルムであったのだと、思い知る。

これも妻が、体調が良くなり妻はてきぱきあれやこれや師走している。

当時風太郎の私は、よもや自分が家族を持てるなどとは、想像だにできなかったが、30歳を過ぎてから落ち着きたくなり、そんな矢先に現在の伴侶と出会い、家族が持てた。

現代社会の中での家族の在り様は、私の子供のころの家族観とは、まったくもって変容してしまったかのような、索漠としてきつつある感が否めない。(当たり前だが、家族は過酷な時代の影響をもろに浴びる。家族とは永久の普遍的テーマである)

私はそのような時代の趨勢には背を向けて、自分の中に何とはなしにある自分の親が示してきた姿にすがって、子育てをしてきたが、何とか二人が無事に巣立ってくれ、ただただほっとしているというのが、本音である。

子供が親にしてくれたのである。娘二人には本当に感謝している。世間は一気に師走モードである。その喧騒をしり目に、時間を見つけて来週あたり、帰省したくなった。お墓参りに帰りたく思っている。

2017-12-02

師走二日、朝の五十鈴川だより【アーサービナード】氏の記事に思う。

師走最初の五十鈴川だよりである。二日前のM新聞の特集ワイドに詩人であるアーサービナード氏が【日本語は消滅に向かっている】という記事がいきなり目に飛び込んできた。

一人のささやかな日本人として、この数十年のカタカナ英語表記の横溢の目に余る氾濫ぶりに(あたかもそれがいかにも今風でカッコイイかのような)その風潮に、絶望的な気分に陥っている自分としては、快哉を叫ばずにはいられないほどの内容だった。(五十鈴川だよりを読む方には氏の絶望の深さを知ってほしい、と願う)
一日に一つ何か思考の栄養を新聞で見つけたい私である

このあまりに素晴らしいというしかない、米国生まれ(1967年生まれ)でありながら、日本語による詩人としてのお仕事 をされている(日本語の素晴らしさを発見し続けている)氏のことは、以前(日本語ぽこリポこり)という本を読んでいたのでしっていた。

ひそかに話題になっている最近の氏の【知らなかった、僕らの戦争】という本も是非読みたく思っていたし、日本人がややもすると気づかない大切なことを、異国人の眼で、しかも素晴らしい日本語で指摘してくださる視点に、私は限りない信頼を置いている。

氏の考えは圧倒的な少数マイノリティの論考のように思える、今の日本の世相である。朝のきわめて個人的なブログでこれ以上書くことは控えるが、氏を絶望的なまでにまでに悩ませる氏の目に映るこの日本の世相。

逆に言えば絶滅危惧種的なまでに、憂える日本語への、日本人が紡いできた言の葉への愛の深さの裏返しのようにも私は感る。

22歳で日本語に出遭い、依頼27年間日本語の素晴らしさを真摯に探究し続ける、氏のような視点を持ちうる文学詩人の存在は、私に限りなく勇気を与えてくれる。氏の圧倒的なマイノリティの側に、そのお仲間に入り、静かに隠遁生活(時折郷に出て)を送りたいとさえ思うほどだ。(だが、絶望はしない自分の中に希望を見つけるのだ、愚直に)

氏は 今も携帯電話を持たず生活しているという、筋金入りの超マイノリティ生活者である。氏には遠く及ばないが、私も最少に使用する生活を心かけている。便利なものが、こころを育てるのには、懐疑的である。それより想像力、創造力、思考力が何よりも大切だ。

時間がかかり、手間暇がかかることの中でしか、人間の精神性の豊かさは育ちようがないのではないかという側に、徐々に徐々に私はシフトしつつある 。絶対矛盾を生きつつも、自分に対する懐疑というものを、(疑う勇気を)失いたくないと考える。私自身がこのままの生き方でいいのかと反省するのである。

だからこそ、こうやって一文を綴りながらささやかに考えるいっときの時間が、貴重極まるのだ。人間に優位がないように、言葉にも優位など在るはずもない。

言葉は、どんな邦の民族の言葉であれ、歴史的に築かれ、奇蹟的に生成された崇高で限りなく大切な、どんな人にもおのずと与えられている有形無形の遺産である、というしかない。一人のささやかに生きる日本人として、母語として私は日本語を愛し大切にしたいのである。日本人として生を受けた奇蹟に感謝するほかはない。

このM新聞の記事を書かれた藤原章生記者のことは 、しっかりと私の脳裡にに刻まれた。



2017-11-25

初冬の真夜中五十鈴川だより。

五十鈴川だよりは、特に今年から、といってもいいくらいわが日々の暮らしの中で大切になってきた。よたよたとではあるが何かにすがるかのように恥ずかしげもなく書き続けてきたがゆえに、この先自分がどの方向に向かえばいいのかが、かすかに見えてきたようなきがする。
遊声塾のY氏が高梁自宅のの山で育ててくださった我が家のシイタケ

あきらかに下ってゆくわが人生の旅路の方向が、よりシンプルに、もっと書けば この方向に下ってゆくのだという覚悟のようなものが、ようやくにして少し生まれつつあるかのような気がしている。

軽佻浮薄な己との長い長い付き合いの中で、ようやっと静かな重しのようなものが、生まれつつある実感とでもいったものが。ヒトは何かをあきらめ、何かを捨て、その痛みと共に、何かを得るのかもしれない。(この年齢でリア王と再び巡り合ったのは実に意義深い)

ともあれ、人生で初めてではないかといってもいいくらい、落ち着いた日々を生活している実感がある。それはきっと 、細き途を何とか歩き終え、今はほとんどやりたいことしかやっておらず、やりたいことだけで、健康に何かと充実した生活が営めているおかげなのだと思っている。

以前のように出かけて、あれやこれやと知の充実を追いかけなくても、(書物を読むことや旅は別)身の回りのあれやこれやを きっちりと丁寧に生活することの大事に、おそまきながらきづきつつあるのだ。満ち足りた安ど感。
2年半かかって生まれ我が家に運ばれたシイタケの子供、Y氏に感謝

ところで、シェイクスピア遊声塾だが、もろもろの逡巡の末今しばらく塾を継続することにした。私のささやかなレッスンに、奇特な5名の塾生が継続の情熱を示している。そのことに答えるべく私としては、今しばらく努力をしなければとの思いが湧いてきたのである。

ただ継続すればいいというのではだめなのだ。私自身の中に何かが燃え続けている情熱を消さないためには、より生活をシンプルに 、限られた時間をその情熱の発露に向けたいのである。幸いにして、シェイクスピア遊声塾のおかげで、この5年間を有難く過ごすことができた。

今年から新たに弓の稽古の時間が加わり、可能な限り肉体労働をし、そのトライアングルを軸に、下り坂をゆるゆるとおりながらも、しばし精神世界の、奥深きこれからを、今しばらく注意深く過ごしたいと私は 考えている。








2017-11-22

義母は私にとっては、日々鏡のような存在になりつつある。

10日ぶりの五十鈴川だより、うーむ歳月人を待たずというが、まさに流れるように月日が過ぎ去る。

実はこの間、一度ブログを書いたのだが、何か無意識に私が変なキィーを押したのか、瞬時に想いを込めた一文が消えてしまった。以前の私だったら、かなり悔しがったかもしれないのだが、最近は仕方ないといい意味であきらめるくらいには大人になってきた。(やはり大事なことは手で書くこと、と知る)

私がいつまでこのようなわがままブログを書けるかは神のみぞ知る。わからない。生成しながらも老いてゆくという、極めて生き物としての当たり前の自分という器 を引きずりながら、幕が下りるまでは右往左往するのだろう。

さて、すっかり冬めいてきて、我が家の薪ストーブがフル稼働し始めた。家族が寄り添って、語らずともストーブの周りで、思い思いの時間をすごす、冬の夜長時間が私はことのほか 好きである。

夜は静かにストーブの炎を眺めながら過ごせれば、もう私にはほかに何も必要がないと思えるほどである。家を建て替えた時から燃やし続けているからもう17年間使っている。

きっと、私がこの世から見えなくなっても、ストーブは家族が使ってくれるだろうと思う。何かを守ってくれるだろうと思う。ところで、先週の日曜日、2年ぶりに我が家のご神木ともいえる、月桂樹の木の剪定を、妻と母の3人でした。

はっさく、金木犀、月桂樹の3本が わが家のご神木である。月桂樹の成長力はまことに持ってすさまじい。見えないところで樹木、雑草をはじめとする植物群は、瞬時の休みもなく、根を伸ばし続けて水分、養分摂取をしているのだろう。何事もどっしりと根を張るには歳月がいるのだ。

毎年誰かのために編む母の手編みのソックス

剪定した枝葉をひもでくくり、束にしたのだが9束にもなった。私が脚立に登りノコギリやハサミで切り、母と妻が束にする。最後の落ち葉の掃除も含めおおよそ2時間くらいで片付いたが、母が元気で手伝ってくれるのが、(元気でいてくれているそのことが)ことのほかに私はうれしい。

母のことは、繰り返しこれまでも何度五十鈴川だよりで書いたので、もうこれ以上は書くことは控えるが夢が原リタイア後、母と過ごす週末時間を私はことのほか大切にしている。もう5年が経つ、それは、きっとこれからはそのような時間が、やがては過ごすことが難しくなる時が確実にやってくるから、妻と共に母との時間を大切にしたいのだ。

毎週末、妻と 母と3人で何かしらのことをやっているが、童女のようにふるまう母との時間は、ことのほかに愉しい。おおよそ500メートル、母はひとり暮らしの家から我が家まで自転車でやってくる。

時折はお泊りするが、いまだひとり暮らしがいいのだとのたまう。見上げたものである。かくも自立し、泰然自若し続ける根性は一朝一夕になるものではない。

手仕事が得意で、土に親しみ、何かしながら日々感謝している。つましくも、充実した暮らしぶりという言葉が、かくも似あう高齢者をほかに私はしらない。

私には、母はカッコイイのである。まるでエゴイズムの上昇志向が見受けられない。家族や他者の幸せのみを、ただ単に願う日々の過ごし方は、いまの私にとってはお手本の鏡のような存在である。


2017-11-12

開塾5年目【リア王】を読みながら悪戦苦闘の日々、シェイクスピア作品の偉大さに改めて気づく。

ことしの2月11日に弓道を始めたので、昨夜弓道教室の帰り9カ月が過ぎた。どの世界であれ、自分の体と向かい合いながらの、修練はことのほかに難しい。

丸5年近く、毎週水木の夜、声を出し続けてきて、思うのだが、継続は力なりと言葉では言うが、継続することの中で、自分の精神と体がいまだ微妙に変化し続けている。そのことの自覚がある。だから続けている。

還暦を過ぎ、私のようなやわな心の持ち主は、内向きになりがちなのであるが、シェイクスピア遊声塾を立ち上げたことで、日々のこころの張りのようなものが、いまだずっと継続できていることの有難さは、感謝しかない。塾生の存在があったればこそである。

だが、昨日も書いたが何事にもやはり、潮時、一区切りの時のようなものが自分の中に湧いてきている。
ひょんなことでシェイクスピア作品を声に出して読み知づけられる今、ただ感謝。

どのような感情なのかを説明するのはいわく言い難いのだが、継続的にシェイクスピアを声に出して、読み続けてきたおかげで、私自身は以前にもましてシェイクスピア作品の魅力を深く味わえるようになってきた、気がする。

軽薄な私が声を出しながら一行一行読むことで、 登場人物の魅力をより深く分析しながら、声を出す喜びの気づきが深まってきたのである。

発見できる間は、(体が続く間は)何らかの形で魅力的なシェイクスピア作品と私は格闘したい。

が、私はいいのだが、塾生はどうなのかを、今一度確認し、どのような形で継続してゆくのが一番いいのかを、昨日も書いたが思案しているのだ。

開塾、5年目、いま【リア王】を読んでいるが、悪戦苦闘している。作品の持つ、リアをはじめとする登場人物が、その関係性の中で(主に親子の)あまりにも私の実人生では、経験したことのない言葉の洪水を発するので、その言葉のエネルギーに、肉薄するのがはなはだ難しいのである。

でもなぜなのかはよくわからないが、私はリア王を、声に出して読める今を 僭越だが悦び、楽しんでいる。リア王は、私にとって謎の多い物語である。(シェイクスピア作品には謎が多い、またそれが魅力なのだ))読んでも読んでも謎は深まるが、声を出すことで、かろうじて、岸壁に縋り付くように声を出している。

まさにこの世は謎だらけ、だからこそ面白いのだという側に私は立つ。シェイクスピア作品は、よくはわからない謎の存在の人間と、その世界の関係性を鮮やかに、見事というしかない言葉で抽出しているがゆえに、繰り返し声に出して飽きないのである。偉大なる言葉の劇詩人である。











2017-11-11

夢が原退職後丸5年、いい意味での転機の訪れを感じる朝。

よく寝た朝は、気持ちがいい。先ほど休日の妻とゆっくりと朝食をしながら、夫婦の語らいの時間をもった。

陽光を浴びる吊るし柿を窓の外に眺めながら、11月11日の五十鈴川だよりである。さて、うまく想いを伝えられないので詳細は控えるが、思案の数日を過ごしている。始まりがあれば、必ず終わりがある。
部屋から眺める吊るし柿

中世夢が原を退職後、立ち上げたシェイクスピア遊声塾も早5年目がすぎようとしている。いい意味でここいらでひと区切りし、今のメンバーでの存続も含めじっくりと考える時間が、私に訪れている。

山陽カルチャーの講師としての役割も、ここいらがいい潮時という感じで、年内で終えたいと思っている。シェイクスピア遊声塾も、ここいらでいったん立ち止まり、来年の5回目の発表会をやるかやらないかも含め、一度塾生共々考える時間を持ちたいという気持ちになっている。

わが家族にとってもこの5年という時間は、いろんなこと起こり、長女が結婚し来春には子供が授かる。否応なくいろんなことを考えざるを得ないシチュエーションに追い込まれる。でもこれは天啓と私は受け止めている。

私はすべてのことを、丸ごと受け止め、 何事も真摯に考え、悔いを残さないように、いい方向にと、冷静に思考を整え、結論をゆっくりと出したいと、いま考えている。

これまで、悩みや転機が訪れると、いちどすべてをなんとかリセット して、かろうじて新たな生を獲得してきた経験が、私を支えている。終わりは、新たな始まりである。

今日はこれから、母の畑のお手伝いにゆかねばならないので、本日はこれにて。





2017-11-04

夜明け前の五十鈴川だより。

肉体労働をした日の夜は、ことのほか早く睡魔がやってくる。したがって、余計なことはしないで、ひたすら早くからだをやすめたくなる。

早く休むと、必然的に早く目覚める。この早寝早起きのリズムは、中世夢が原に通っていた時から、身についたリズムで、おそらく元気に生きて生活できる間は、やむことはないだろう。

何度も書いているが、夜あれほど、体がまるで棒になったかのように、頭も動かなくなっていたのに、ぐっすりと熟睡すると、あら不思議生き返ったかのようにわが体は新鮮に動き出す。週に4日の午前中は、私にっての 至福時間である。
部屋から撮ったのと外から撮った、我が家の秋。Y氏のおかげである。

このありがたいという至福感覚は、肉体労働をしているからこそ持てるのである。今の私は、以前よりずっと、週に4日の自由時間を大切に過ごすことにしている。要はメリハリ、バランスなのだが、(詳しくは書かないが)なにやらいい感じで、以前にもましてこの2カ月が過ごせてている。

そして臆面もなく書くが、以前にもましてあらゆる生活些事に関して、感謝する気づきが深まってきているようにも感じられる。 昨日仕事の帰り、ほぼ満月の月の出を東の空に眺め、先ほど西の空に浮かぶ、夜明け前の白い月を眺めてのち五十鈴川だよりを書けるなんて、これを私は至福感覚と呼ぶ。

時折しみじみと、滋味あふるる初老感覚を味わえるのは、私が初老になるまで生きながらえることができたが故である。

話は変わるが、生きている意味が解らないという、自殺願望の若い方が、(私はインターネットもない全アナログ時代に青春時代を過ごしたので、今の若い方たちと感性が異なるので比較しようもないが)増えているのが、どうにも不気味な気がしてならない。日本人は母なる大地をわすれ、画面を眺めて過ごす民族になりつつある、気がする。(だが私は決して悲観はしていない、素晴らしい日本人はいまだたくさんいる)

時代が、肉体をはるかに凌駕するかのように、あらゆる刺激的な情報が瞬時に伝わり、そういうツールがないと生きられないような環境で、成長した体は、いかなる精神的な成長がみられるのか、皆目私には想像することが難しい。

ただ想像するだけだが、物や情報がこんなにも満ち溢れていると、その洪水の中で体が否応なく溺れそうになって、自分で体を動かして全感覚で額に汗して考え身につける、生きて生活することの中で、緩やかにまっとうに人間性が育まれてゆくことが、困難な状況を生きているのではないかという気がしてならない。(そういう意味で私は今の若い方たちに深く同情する)
母と二人で剥いた。陽光にさらされなんとも美しい。

寝起きなので、これ以上の論考は控えるが、極めて当たり前の人間的な感覚は、貧しき国の貧しき民ほど、持ち得ているという気が、いろんな国を若いころ旅して感じてきたことである。

経済大国の根本が揺らいでいる。おごれるものは久しからず、いまや人間性も含め大企業の不祥事ほか、あらゆる分野でのごまかしや隠滅、日本人的美質のようなものが、風前の灯のように感じられるのは私だけだろうか。

私の小さいころには、貧しくとも品格を失っていない、多くのよく働く、第一次労働の日本の民がわんさかいたように思えるのだが、いまや自戒も込めて 、立ち止まって考える。自分自身は、どうなのかと。

自分自身も含め、ヒトは安きに流れやすい生き物なのかもしれないが、そこで矜持をもって生きてきた多くの先人たちの英知や遺産を知ることによって、我が身をただすことができる。

昔から、まっとうに全身を動かして働き、えたお金をゆめゆめ無駄にせず、生きてきた多くの先人たちの生き方から学びたいと、この歳になってあらためて思う私である。














2017-11-02

小さき秋を、何やら充実して生きられる日々を、感謝しながらつづる五十鈴川。

昨夜は遊声塾のレッスンで、おそく寝たのだが、5時間熟睡して目が覚めたので、起きて朝湯を浴び、おもむろに五十鈴川だよりを綴りたくなった。

二日連続して、書くなんてことはいつ以来か。涼しくなり、ほんの少し肉体労働にも慣れて、体に余裕が生まれてきたのかもしれない。

ともあれ、囲炉裏通信も含めれば10年くらい、切れ切れにも細い川の流れのように、右往左往する精神の流れの在り様を、臆面もない日々を、熱しやすく冷めやすく、飽きっぽい私が続けていることが、ときおり不思議である。

でもまあ、心と体の調節機能として、自省機能として、私にとって今や五十鈴川だよりを書くことは、 書かないことは考えられない。

明治維新から150年、灯火親しむ秋です

書禅というとオーバーだが、静かに自分と向かい合いながら、想いが浮かびつづれるということは、何かしら日々を新鮮に感じられるという意味において今や欠かせない。初老時間の楽しみである。

じっと、パソコン画面に見入りながら、指を動かしていると、なにやら指が勝手に動き出すのが、これまた不思議である。ことほど左様に生きて存在するということは、まさに不思議ワールドを日々体感することに他ならない。

凡夫の私などは、すぐそのことを忘れてしまいがちであるが、日々新陳代謝を繰り返しながら、動的平衡を保ち、古い細胞と入れ替わりながら、生きながら得ている日々の折々をつづれるなんて、ことのほかの有難さと感謝する。

ところで、昨日も月を十分に愛でることができ、よきレッスンができ、ことのほか何もなき在るがままの、良き秋の一日を過ごすことができた。

だからこそ、さやけきなにがしかを、生きている今自分がここにいるという思いを、つづりたくなるのかもしれない。外を見ると夜が明けてきつつある。

話は忽然と変わるが、昨夜遊声塾のY氏から、干し柿用の柿を50個くらいいただいた。今日はこれから予定を変え、午前中母と二人でむいて吊るす予定である。

この10年近く、秋が深まるこの季節には、必ずいくばくかの干し柿を造り続けているが、今年もY氏のおかげで吊るすことができそうだ。

吊るし終えたら、次の五十鈴川だよりに写真をアップしたい。

2017-11-01

30回目の結婚記念日、真夜中に想う。

今日から11月、一日の真夜中である。昨日は30回目の結婚記念日であった。下の娘がワインを買ってきてくれ、ささやかに祝った。

一口に30年、やはり相性というものがあるのだと想う。妻と、日に日に大きくなってゆく月に、感謝をした。

ところで、最近盛んに肉体労働のことを書いているが、何とか2カ月体がもった。そのことにもまた、月に向かって感謝をした。今のところ月火金の3日働いている。この二日間、晴天で仕事を終えるころには月が出ている。

日没がまた、なんとも言えず美しい。一日動かした体を、月とおひさまが癒してくれる。家から2分のところに会社があるので、働いた日はかえってすぐにお風呂に入る。これが何というのか、生き返るというとオーバーだが、湯(愉)楽である。

正直、今の私の年齢ではシンドイ作業(筋トレだ)もあるのだが、ありがたいことに徐々に体が動いて、何とか順応してくれている。一日やり終えた後の爽快感は、私のみが味わえる、これまた生きていればこその愉楽と、私は思うことにしている。
O氏に借りた本、難しいのですがゆっくりと読んでます。

肉体労働をしていると、 青春時代の終わりを過ごした富良野塾での過酷な肉体労働の日々をいやでも思い出すが、あれを乗り越えられたのが、やはり経験値として、限りなく大きい。

あの日々を経験しているからこそ、この年での肉体労働が続けられているのは(まだ2カ月だが)まず間違いない。

この歳になって、若い人たちとともに体を動かして過ごせるのは、なんともはや有難いことであると思う。今のところ、リストラの気配もない。私のようなあまのじゃくは、やはり何か役に立つ体が、未だあるという、単純さが私を支える。

妻の父は大工さんだった。母も妻も汗をかいて働く父親の姿を見ている。暑い日も雨の日も、現場で働く肉体労働者の大変さは、やったもののみが、身体を通してわかる感覚である。でもそれが気持ちのいいのだ。メリハリがはっきりとしている。

職人は、仕事ができる人に共通しているが寡黙である。中には一見怖い顔をしている人もいるが、本物ほど、意外と優しく気配りができる。

そのような職人さんと共に、この年齢でお仕事をご一緒させてもらえる今を、私は感謝している。そこには一切の甘えは許されない 。

現場に入ると、ピーンとしたいい意味での緊張感がある。男にとってはこの感じがいい。時代は鵺のような先行き不安が、あまねく社会全体を覆っているかのような、不透明感に満ちているが、地面と向かい合いながら、アウトドアでの職人世界は、限りなくシンプルで潔く、今の私にはあり難い仕事である。

とりあえずまずは、3ヶ月を乗り切りたい。持続力、集中力を修養する体力を身に着けたいと、念う。





2017-10-28

新見住むK氏から、お便りをいただき、雨の秋に想う、五十鈴川だより。

雨である。晴れていて、肉体労働のない日は、朝いちばん食前、緑化公園で30分くらい体を動かすことを心がけているのだが、予定変更して五十鈴川だよりを書くことにした。
弓を始め以前は読まないような本を手にしている

日々是好日というが、そのように思える日々を、と心かけている次第である。何事も言うは易しだが、思いついたことを、意識して深くゆっくりと、努めてゆくと、動きはとろいのだが、なにやら意識の流れがスムースになって、身体もリズミカルに動き出すのが、経験として腑に落ちるのである。

これを自分では、気を乗せてゆくというか、上向かせてゆくというのか、要は、自分で自分を気持ちのいい方向に運んでゆくのである。

つまりは、何事も自分の内側から湧いてくる自然な流れに従う感覚を、ことのほか最近大切にしているのだ。

妻には、私が最近何か変わったといわれるが、それは彼女にとってどうもいい方向に、私が変化しているらしいので、私はそれをよしとしている次第である。

今年になって、よほどのことがない限り、あまり遠くに出掛けなくなったし、(でも私は旅が好きなので突然出かけるが、それ以外は日常を旅する)あらゆる、ものも含めた関係性をリセットしている。そのことが今後どのようになってゆくのかは、自分ではよくわからないというのが正直なところである。

この歳には、私も初めてなってみて感じるものがあって、その感覚はきっともっともっと歳月を重ねると、ますますもって否応なく変化してゆくのでは、という思いが深まっている。

いきなり朝から、ちょっと重い話になりそうなので、話題を変える。ご両親の面倒を見るために今は新見に住む、K氏から突然最近お葉書をいただき、ようやくお返事を書いたのだが、昨日再び氏からお葉書が届 いた。

普段ほとんどお会いする機会はないK氏(との関係)なのだが、五十鈴川だよりを読まれて、なにか触発されることがあって、小さな旅のことが記されてあった。(面白く読みました、この場を借りてありがとう)

足腰手の上に頭が在る、文字を書くのが最近愉しい
ブログにコメントがほとんどなくても、読んでくださる方がいて、このような形で 直筆のおたよりをいただくことが、私の場合ままある。有難いことだ。

富良野塾で同期だったO氏からも、30年ぶりに突然お手紙をいただき、驚いたことがある。わたくしごときの拙文を読んでくださって、お便りを下さるなんてことは、まことにもって生きている幸いといわねばならない。

生きていることは、まさに【未知の時間を旅すること】であるのだという 認識がますます深まる。縁という不可思議な何かに、導かれ関係性も深まったり疎遠になったりと大揺れ、大きく変化する。

その中で、急にまた縁が深まったり、薄まったりもするのも、天の摂理と今の私は受け止めている。長兄との関係性も、いっときは最悪だったが、私が変化したせいかもしれないが、今は気持ちのいい関係性が持続できている。

帰省するたびに、二人で(あるいは姉、次兄全員で )小さな旅ができるなんて、夢のようなのである。兄からも、メールばかりではなく葉書での便りが届くが、その兄にも万年筆でへんじを書いた。

直筆を楽しめる、関係性を深めてゆきたいし、直筆で書ける意識と体を老いながら磨きたいと、私は思考する。




2017-10-25

晴天を仰ぎ、三日月を眺め、秋をいつくしむ私。

台風も去り、ようやく晴れの日が続いている。朝焼けや、夕焼けが大好きな私としては、この落ち葉が色づく季節は、移ろうというだけで、そこはかとなく、歳を重ねるたびに感傷的になる。

が、寂しいという感情には程遠い、肉体労働を始めたためか、以前にもまして体調に気を遣うようになってきたためか、あるいは、ゆるやかに生き方をよりシンプルに整理し始めたせいなのか、体調がことのほかいい。

さて、週に3日働き始めたために、妻が お弁当を久しぶりに作ってくれるようになって、自分でお昼を作るのは、水木の二日間になってしまったが、以前にもまして、私は料理というには程遠いが、自分流のお昼ご飯を、作って楽しんでいる。
読書の秋、大変感動しました。

圧倒的に麺類が多いのだが(野菜焼きそば、野菜うどん、野菜ラーメン、野菜スパゲッティ、野菜カレー、プラス果物、などなど、)とにかく、やはり何事も続けることが肝心の要諦。

そして、ことのは始めは必要に迫られてにもせよ。苦手と思い込まないことが肝要、とても大切だ。

この歳になっても、苦手だと思っていたことが、意外と好きになる、というほどでもないが、苦も無くできるようになってきたりするのは、思わぬ喜びの一つである。

歳と共に動きや、反射は鈍くなってゆくのだけれども、何事も経験や蓄積が、やはりここ一番ものをいうのだ。脳のニューロンというのか、よくは知らないが、料理をするのは、段取り 、いろいろ考えるし、何よりも旨いと、毎食感じられると、次はもっとああしよう、こうしようといういい意味での欲が湧いてくるのだ。

人間には、いろんな欲望が渦巻いているが、可能ならいい意味での、シンプルで、晩年時間ならばこその、下り坂時間を楽しめる未知の欲望を深化させたいと思う最近の私だ。

それは料理にとどまらない。生活の雑事一般すべてのことに言えて、すべてをまめに丁寧にやれるようになったら、生きていること自体が、とても楽しくなってくるのだ。まったく予期しなかった生活些事をもっとこなしてみたくなってきた私である。

数年前、家の外壁を自分で塗ってみてわかったのだが、かなりのことが自分でやれるというということの発見、そして何事も自分でやれれば、つましくもかなり充実した面白い、ジジイライフを送ることができるのだ。

まずは基本は健康に動けること 。その基本を支えるのは食である。食欲の秋、肉体労働を始めてから、ことのほか夕食が楽しみである。妻と娘で、手早く調理してくれる。

労働をした後の、夕飯はことのほかにうまい。3人で食卓を囲み、時折母も加わる。団欒食事、生きている今、小さい秋を日々いつくしむ私である。


2017-10-21

雨の秋の朝、妻への慕情を臆面も綴る五十鈴川だより。

この一年、メニエール病で体調の維持に難儀をしていた妻(特にこの半年間)が、まだ油断はできないものの、ようやく普段の生活には支障がないほどに回復しつつある。そのことがたとえようもなく私はうれしい。(夫婦には夫婦にしか感知しえないことがやはりあるのだ)

妻は、私が 弓を始めるのとほぼ同時にピアノを習い始め、ときおり電子ピアノでの練習の音色が我が家に響くようになった。わたしがいまこの一文を綴っている向こうで彼女は指を動かすのに余念がない。

メニエールを抱えながらも、仕事も家事もピアノも、あらゆる生活全般を、淡々とこなしてゆく姿に、私はまた、いまだ私の知らない妻の性格の一端を垣間見ている、辛抱強い。

知り合って31年になるが、未だ妻は私を驚かす存在である。だからなのだろう、飽きずに共に暮らしていて、面白いのである。何気ない日常のなか微妙に変化し続けている。私が好きなのは、性差を超えて、勇気をもって変化し続けるヒトである。

男である私にとって、女性である 妻は、永久に謎の存在であることこそが望ましいのだと、最近は納得しているが、向こうはどのように思っているのか皆目わからない。

ようやくにして、臆面もなく、鉄面皮のように、公に 恥ずかしげもなくこのような一文を綴っても平気になりつつあるのは、私が老いてきたからだと、はっきりと自覚している。

この調子だと、老いるにしたがって 、私の妻へのそこはかとない慕情の念は、五十鈴川つづりは、減ることはなく、増えてゆくのではないかという気がするが、繰り返す老いたのだ。

生活のすべての基盤である、家庭生活 の充実感あってこその、わがさやけき人生の花に、私はすがる。子供たちが自立し、これからはあらためての夫婦の関係性の再構築の人生時間に入ったのだという認識が、65歳を契機により一層深まってきた。

健康にお互い過ごせる人生時間をこそ、これからは大事にしたいと、私は決めた、いくら鉄面皮の私でも、これ以上書くのは控える。

話を変える、9月娘夫婦にこどもがやどった(安定期に入った)ことを、二人の口から直接聞かされて以来、またもや私の中になんともいえない、新たな感情が湧きおこってきている。それは妻も同じである。

娘の誕生が、私の人生の選択を変えたが、今はただただ無事に孫の生誕を祈るだけだが、孫に恵まれるということが、私にどのような変化をもたらすのかを待ち望む私である。

若い頃から随分と世界を飛び回り、右往左往した私だが、狭い範囲での老いらく生活を希求したいとの、思いが深まる秋の雨の朝である。、



2017-10-19

リア王を声に出し、何かのひらめきがあり、肉体労働に励む。

昨日午前中お日様が顔を出したので、この時とばかり洗濯物をそとにほした。だが、夕方からまた雨になりこれを書いている今日、またもや雨が降り続いている。
雨の中ガラス窓にへばりつくカマキリ、パソコンの部屋の窓

なにやら寒暖差も含め季節の移ろいが極端な今年の秋である。自然と直結している人間の体、私のような単細胞は、かなりその影響を受けるが、沈みがちになる気分を盛り上げるには、以前も書いたかもしれないが、雑巾がけ、つまり掃除が私の気分向上策の一つである。

今朝も 妻と娘が仕事に出かけた後、片付けを済ませ、洗濯物を部屋に干し、約30分雑巾がけをし、さっぱりした面持ちで、いっときのブログタイムである。

肉体労働は、なんとかひと月半、続いている。無理をしなくても生きてゆけるのだが、雨の日も若い方たち(一番古株で私よりも20歳わかい)とともに前期高齢者である私がひとり混じって働いている。

雨の日の労働は、もちろん雨合羽を着てやっているのだが、正直、大変に私にとってはきつい労働である。何せ私は65歳、若くはないのだから。でも私はその時折感じるきつさの中に、ギリギリのところで、いまだ踏ん張れている自分をどこかで、意識し感謝しながら体を動かしている。

働いているときは、弱音はご法度、どこかで動く身体に感謝しながら、身体を動かし続けていると、未だ体が、眠りから覚めて動き出すのである。

私よりもずっと若い方たちから、若いですね、と労われるが、本人の体の状態は本人が一番よく覚かっている。
私は米原万理さんの著書のファンである(わたしの好きな人がつぎつぎといなくなる)

無理は禁物、65歳なのだから 、と自分でときおりいさめもするが、天邪鬼の私は、今しばらく体に負荷をかけられるうちは、かけて体の変化を意識したいのである。

幸い、会社からは今のところリストラの気配はないので、まずは3ヶ月を乗り切ることが当面の目標である。

ところで話を変えるが、遊声塾ではリア王を声に出して読み続けている。リア王というシェイクスピア作品のすごさを、歳と共にいくばくか深く感じ取れるようになってきた、気がする。なん度読んでも、声を出しながら読んでいると、新しい発見がある。面白い。

若い頃に読んだ時と 、現在の年齢で読むのとではまるで異なる。リアは80歳の老人である。まさに権力者リアの転落、娘たちに裏切られ荒野に放り出される。老いてゆくことの、残酷さ、悲惨さ、苛酷さを酷薄にまで描いている。その筆力は恐ろしいくらいである。声に出すとよくわかる。

多面的に人間社会の、人間存在の不条理を 、愚かさを、実感する。私もまたそういう人間の一人である。リア王という作品は、老いを生きるという意味で、いまの私に多面的に語り掛けてくる、超越した時代性がある。

もし今の年齢でリア王を読まなかったら、肉体労働をやろうとは思わなかったかもしれない。


2017-10-14

真夜中、落ち葉の季節に想う。

世はまさに選挙戦のさなか、日中はどこかしらで、ときおり候補者の声が聞こえてくる。がいまは真夜中、静けさに満ちたいっとき、目が覚めて何やらつづりたくなった。

一雨ごとに、季節が進み秋が深まり、人間界のかまびすしさをよそに、自然界は確実に移り変わっていく。

雀位一羽落ちるのも 神の摂理とは、ハムレットの有名な言葉だが、落ち葉一枚落ちるのも同義である。

ちょっと話が飛躍するが、生老病死もまた、神の摂理である、と小生は考える。だからこそ、生れ落ちた、選べぬ運命の(命を運ぶと書く)尊さ、または苛酷さを厳粛に受け入れる、勇気が必要だと、今は考える。(実際そうなったらじたばたするにしても)

まったく生きてゆくことは、厳粛な綱渡り(大江健三郎氏のエッセイのタイトル)であると、この年齢になると、この言葉がますます染み入る様になってくる。

肉体労働を終え、自転車で家に帰ると、同時に妻(ようやく体調が少し戻りつつある)が仕事から帰宅した。犬のメルの散歩がてら二人で、図書館に本を返しに行ったのだが、瞬時雨が上がって見事な日没時の夕焼けを愛でることができた。

このところ 土曜(夜の弓の時間以外)日曜日は、ほとんどの時間を妻と共有しているが、土いじりなどを含め、伴にやれることがあるのは有難きかなである。

妻と出合った日、我々は共に、アルフレッド・ヒッチコック監督がインタビューに答える、ドキュメンタリー映画を見ていた。今でもはっきりと覚えているのだが、あなたにとって幸せなひと時とは?という問いに対してヒッチコックは、日没を眺めているときですと応えたのだ。
緑化公園で拾ったプラタナスの落ち葉

以来、日没を眺めるときに、特に還暦を過ぎてからというもの、染み入る厳粛性は毎年深まってゆくように思えるし、落ち葉の季節の夕日はなんとも言えない。

ところで カズオイシグロ氏がノーベル文学賞をとった、知らなかったのだが【日の名残り】というフィルムの原作者であることを知った。

アンソニーホプキンス主演であったと記憶する。私好みのフィルムだった。初老の男が田舎での別荘で暮らす 淡々とした何気ない日常生活が描かれているだけのフィルムであったと記憶する、細部は忘れてしまったが、忘れられないシーンがある。

メイドが夕刻、窓を閉めようとすると、まだ陽が残っているから閉めないでくれ、と語り掛ける、窓からの日の名残りに魅入られる、アンソニーホプキンスのクローズアップ。今の私の年齢でもう一度見たいフィルムである。(原作を読もうと思う)

多くを語らない、観客の想像力にゆだねるフィルムが私は好きである。秋、これまで見た私の好きなフィルムをもう一度、DVDで見たいものだ。

かまびすしい世界から、精神の別荘世界へと、束の間隠遁生活へと、あこがれる初老の秋である。






2017-10-12

週3日の肉体労働はいまだ私の精神を鍛える。

すっかり五十鈴川だよりは、週一回くらいのペースになってきたが、今の私の年齢で、今の日々の暮らしの中ではこれくらいが一番よき流れである。

地球は自転し、万物は移ろい歳月は流れゆくが、以前から書いているように、私には晩年時間を、あのように過ごせればいいのだというお手本がある。

亡き両親の晩年の過ごし方と、義理の母の生き方、暮らし方である。 本当にありがたいことに、84歳の母は、いまも元気でひとり暮らしをしながら、そっと私たちの暮らしを遠巻きに見守りつつ支えてくれている。

このご時世、まったくもって有難きかな というほかはない。なるべく少しでも母のように生きることを実践することができれば、まさに清貧の豊かさも、ここに極まれりということになる。

今の私には、なかなかに難しいことではあるものの、なるべく家族や社会に迷惑を(やがてはそうはゆかなくなるにしても)かけないように生きてゆければという、淡い望みは持ち続けたく思う、今の私である。

さて、肉体労働者に、週3回ではあるが、なったことは前回の五十鈴川だよりで触れた。この年齢で、私にとってはなかなかに大変であるということも書いた。
穴の開いた作務衣を母が見事に野良着にしてくれた。

だが先のことは考えず、私はただやれる範囲で体を動かし、あまりにも世代の異なる未知の人たちと出合い、いうに言われぬ未知の時間を過ごしている。

なかなかにスリリングである。いつまでできるかはわからないが、会社に使ってもらえるのであれば、その間は、体を動かし続けたいというのが正直なところ(リストラの可能性だってある)だ。

日中は、外で体を動かし、おいしくご飯を頂き、日が暮れたら、疲れた体をゆっくりと休める。もうこの年齢になるとこのシンプルさがたまらない。

7日のうち3日働き、ほかの4日を自在に過ごせれば、いまのところ、これ以上の過ごし方は望むべくもない。

18歳から世の中に出て 、生きるがためにいろんな仕事を経験させてもらって、なんとか今を生きているが、改めて労働のというか、仕事についてというか、つまりはヒトは何をもって労働に生きがいを(特に私の場合)持ちつつ、エネルギーを持続できるのかを、私は考え続けている。

その考えを書くことは、面はゆいので控えるが、私は内的にささやかな幸福感というものが、実感できないければ、きっと五十鈴川だよりを書くことはないだろう。

母は言う、こころが貧しくなってはならないと。何十年もつましい暮らしを実践してきた母が言うから言葉に重みが伴うのだ。(空虚さが飛び交う政治家の言葉にはほとほと愛想
が尽きる)

言葉は生活の実践の裏付けがなければ、虚空に消える。みずみずしい言葉をわが体に取り戻すには、どうしたらいいのかを、ささやかに考えつつ実践したい。


2017-10-04

一五夜、前夜の真夜中に想う。

早、10月も4日の夜中である。明日は15夜、先ほど外に出たら、かなりまあるい月がぽっかりと空にあって、しばし見入った。というのは、雲があれば、明日愛でることができるかどうかわからないからである。

五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方は、ご存じだとお思いますが、私は月が大好きであり、月の満ち欠けで、私の精神が随分と変化することをかなり自覚している。

何はなくとも、月を眺めていると心が安らぐのである。五十鈴川だよりを書き始めた日にも、空には満月が浮かんでいた。

長女が生まれたのも満月の夜で、その夜の情景は、いまだはっきりと記憶している。さて、先週末その娘とレイ君がお墓参りがてら帰ってきて、久しぶりの家族のだんらんがかなった。

つまびらかには書かないが、私にとってはビッグサプライズの報告が娘とレイ君から直接なされた。いつも冷静さを欠きがちな私であるので、 今はこれくらいにとどめるが、本当に人生は未知との遭遇である。
非情に面白く読みました、今更ながら謙虚に読書したい私です。

話は変わるが、ささやかな冒険というとオ-バーだが、八月末から週に3日家のすぐ近く、自転車で2分の会社で働いている。

私の年齢では、(私にとっては)ちょっと苛酷な肉体労働である。なぜ、この仕事を選んだのか?はいずれ書くこともあろうかと思うが今はまだ書けない。

というのは、自分でもわが体が3ヶ月持つかどうかわからないからである。

何とかひと月もったから、このように五十鈴川だよりで書いているが、夏の終わりの暑さの中での最初の3日間は、うーん正直体がもつかどうか不安だったし、今もそのいくばくかの不安は続いている。

だから、とりあえずまず3カ月続いたら五十鈴川だよりに書けるかと思う。だが、週に3日ではあるが、この年齢での肉体労働に従事することになったおかげで、にわかにわが体は、老いつつも精神のどこかが、やんわりと活性化しつつあるのも実感し始めている。これまでの自分とは異なるなにかが。

それは、肉体労働を単に始めたから活性化し始めたのではなく、やはり私がこれまでの人生ではであったことがないような人たちと共に、(世代の異なる)働いているからなのだという気がしている。

身体的にはきついが、何やら新しい風がわが体を吹き抜けているといった按配なのである。苦しいが、新鮮な日々なのである。
肺腑をえぐる言葉がいたく私に届きました


身体がとにかく動かないと、続けられないのでよく食べて、よく寝る。

メリハリがつき、一週間の過ごし方が、にわかに充実度が増してきた感がある。私は体で考え、本を読む。

今では信じられないが、若い頃の私は肉体労働が本当に苦手で、肉体労働にコンプレックスを持っていたほどであったが、富良野塾や、中世夢が原での20年以上の肉体労働から、体を動かすことの、動かせることの、悦びみたいなものをかろうじて習得して経験が、今の私を支えている。

動くのであれば、私はわが体を 使い続けたいのだ。妻や娘が無理をするなといってくれるが、私は無理をしているわけでは決してない。まだ役に立つ体である間は、シンプルに動きたいだけである。

だってやがて、できなくなるのだから。根気が続く、出来る間が大事であり、できなくなったらその時はその時を静かに受け入れるだけである。

3日間の肉体労働は、声を出すことにも、弓の稽古にも、良き影響を及ぼしつつある。何より妻や母や娘たちが、いたわってくれるので、単細胞の私としては、意欲が湧く。とりあえず3ヶ月を乗り切りたいと思う。

太古から、人間生活の根源は体を動かすことにつきる。よく動かしよく食べてよく学びよく休むのである。














2017-09-30

郡上八幡音楽祭への旅❸

9月30日の真夜中である。郡上八幡音楽祭からほぼ2週間たつ、その間ほとんどブログを書いていない。あれほど何か書かないとどこか落ち着かない自分がいたのだが、不確かな実在というしかない私は、65歳を迎え、ようやっと落ち着いてきた。

いよいよもって限りないシンプルライフに入ろうとしているのだという、穏やかな自覚がある。いい意味での老いる自覚を深めている秋である。でもどこかいまだ燃える秋の到来でもある。

さて、郡上八幡音楽祭は、あらためて 素晴らしかった(ゆけなかったら悔いが残った)と、我が極私的五十鈴川だよりに繰り返し書かずにはいられない。
パンフがほしい方は連絡くださいコピーして送ります。

私は1978年、26歳の時ロンドンのヤングヴック座で、あこがれのピーターブルックの芝居を観たことを契機として、私は土取利行さんという、稀有な音楽家と出遭った。

依頼、あれから40年の歳月が流れている。この稀有な音楽家の歩みの全体像は、いつの日にか、どこかの誰かが、きっと示してくれるであろうことを私は確信している。

人類の遺産というしかない、未知の世界の国々の音の探究者として、(また日本の音の探究者として)日本人の音楽家としてこれほど体を酷使して、現在も伝道している音楽家に私の人生で出遭えたことのありがたき幸福感は、齢を重ねるにしたがって深まっている。

右からハンマサンカレ・土取さん・ヨロシセ・アサバドラメ

土取利行さんの音楽家としての仕事は、多岐にわたっており凡夫の私には、その一端を甘受しているにすぎないが、まさに芸術家と呼ぶにふさわしいヒトというしかない。

時代を超えてやがては輝きを増してゆくであろう仕事を、ほとんど自力で継続持続、成し遂げているその精神のみずみずしさ、輝きに私は驚嘆する。

すでに何度も書いているが、五十鈴川だよりを読んでくださる方は、是非土取利行さんのブログも読んでほしい。このような前人未到の音の探究者 (つまりは人間存在のの根源に迫る音への旅)の真摯な生き方も含めての仕事を知ってほしいと思わずにはいられない。

私はいまあらためて土取利行さん に出遭えた幸運を噛みしめる。あれから40年、もし氏に出遭わなかったら、現在の自分はないであろうと思えるほどに、氏との出会いは衝撃的であった。

20代、土取利行さんのソロのパーカッション、ドラミングをなんどか聴いたのだが、私は完全に打ちのめされた。鞭のように細い体がしなり、閃光のように音の矢がわが体を刺し貫いた。

これからどのように生きてゆけばいいのか、途方に暮れていた私は、何やら啓示を受けたかのように、全身に希望と勇気が湧いてきたのを昨日のように思い出す。

今ほんの少し人生を振り返るとき、氏との出会いの大きさを思わずにはいられない。自分の心が揺れるとき、氏の存在は羅針盤のように、道を指し示す。

中世夢が原で、企画の仕事が継続できたのも、私の心の中に氏の存在があったればこそである。私にとっては、珠玉の出会いというしかない。


立光学舎・嵐の前の静けさ・なんとも言えないたたずまい

話はここで終わらない。今回の郡上八幡音楽祭【マリの歌と弦楽の響演】でなんと、私は土取利行さんと再び再会したかのような不思議な感覚に、とらわれた。

それは人類の記憶の大地の果てともいうべき、西アフリカ・マリからの歌者、奏者と日本の歌者、奏者との、えもゆわれぬ出会い、友愛の上に奇跡的に生まれたというしかない、何か懐かしい、体内回帰的な、会場が幸福感につつまれた音楽祭であった。

土取利行さんの40年にわたる音の旅の成果(聖化)というしかないライブとして結実していた。そしてそのライブは真の意味で未来的、希望が持てる、未知の世界の人との根源的な信頼感の上にこそ成立していた。

土取利行さんは1978年、音の調査で初めて日本人としてマリを旅し、マラリアにかかり生死のふちをさまよい帰還している。今回の企画は氏の40年にわたる人と人との、音を通しての友情の上になされた、人間賛歌音楽祭であった。

世界の趨勢、時代は、まさに憎しみの連鎖を日々あおるかのごとき 魑魅魍魎が跋扈する感があるが、台風のさなか、郡上八幡音楽祭が未来に光を灯すかのように開催されたことは、何としても五十鈴川だよりに書いておかねばならない。



2017-09-23

郡上八幡音楽祭への旅❷

台風が17日午前中九州に上陸し、進路を北陸方面を縦断しそうな予報の中、郡上八幡音楽祭へ何としても参加するために私が選択したのは、台風上陸よりも、一足先に郡上八幡の近くまで車でたどり着くことだった。

結果、前回の五十鈴川だよりで書いたように、16日夕刻、郡上八幡まであと50㎞、下呂温泉の近くで 陽がとっぷりとくれ車中泊した。
右からアブドゥー、ハンマサンカレ・土取さん・私・ヨロシセ

ほぼ着いたも同然、帰りの運転体力のことを考え、音楽祭が始まる17日18時に間に合えばいいのだから、下呂温泉にゆっくりと浸かり運転の疲れを取り、体調万全で土取利行さんの畢竟のイベントに参加することにした。

17日朝6時には車の中で目が覚め、下呂温泉には7時前ににつき河原で露天風呂に一人で入ることができた。すっかり鄙びた温泉街のたたずまいが、行きずりの旅人である私を得も言われぬ旅情にいざなわれた。

私は下呂温泉の午前10時から始まる、370円の共同浴場(最高の湯でした)で昼まで過ごし、ところどころ寄り道しながら、飛騨高山で昼食をゆっくりと済ませ、そこから清流吉田川沿いにせせらぎ街道(車が少なく最高のドライブコースでした)を走り、土取利行さんが住んでいる郡上の立光学者に立ち寄り写真を数枚とって、音楽祭が行われる郡上八幡文化センターに午後4時予定通りについた。

開演までの2時間弱、水の街 郡上八幡を久しぶりに散策して、野外公演から変更になった文化センターのど真ん中に私は陣取った。



舞台には世界演劇界ではその名を知らぬ人はいない純粋演劇人ピーターブルックの近年の活動の舞台美術を手掛けたりもしているという、西アフリカ、マリが生んだ、現代美術家アブドゥー・ウォログァムの泥染めの大きな2枚の布が、吊るされ大小のろうそくの炎が絶妙に舞台上に配置されている。

 郡上八幡音楽祭2017【マリの歌と弦楽の響演】と銘打たれている。

マリの歌と弦楽の奏者【ハンマ・サンカレ】(マリの国民的歌手でひょうたん楽器カラバスの名手)【ヨロ・シセ】(ンジュルケという2弦楽器のの名奏手【アサバ・ドラメ】(ンゴニという4弦楽器・タマという小さなトーキングドラムの名奏者)と日本の歌と奏者【松田美緒】【土取利行】がうす暗い中静かに登場配置につく。

 座って両足を投げ出し、ひょうたん打楽器カラバスをお箸の大きさのばちでたたきながら、ハンマ・サンカレが歌いだし、5名による弦の響演が始まった。マリの音楽、3人の存在感が舞台にあふれている。体に大地から根が生えているかのような、民族の歴史とでもいうしかない。マリの音楽家と日本人真の意味での友愛と信頼感の上に成り立っているのがなんとも言えず聴衆に伝わってきた。

その瞬間、65歳のわが体全身に、来てよかったとのおもいが満ちた。遠い遠い国、西アフリカ・マリの歌と弦楽器の名手たちと、日本の歌姫松田美緒さんと土取利行さん5名による、まさに歴史的というしかない、夢のようなコラボレーションに立ち会うことができた喜びに。

初めて耳にするマリの歌と弦楽の響きは、なんともおおらかで気持ちよく、夢のひと時というしかかなかった。このような奇跡的ともいうべき、志の高い音楽祭が土取利行さんを中心にして、地元民有志ほかで4回にもわたって続けられていることに感嘆する。

とくに今回の企画は、特筆に値する画期的な意味を持つような気が、凡夫の私でさえした。人間性とでもいうしかない、動きたたずまいまで含め、醸し出す声・音が、人間の心に豊かさと勇気を与えることに 。

午後八時過ぎ、台風のさなか各地から参集した熱き聴衆の静かななんとも言えない暖かい万雷の拍手の中、カーテンコールで音楽祭は終わった。

終えて、楽屋で土取利行さんに会い挨拶をして、音楽祭のエネルギーを浴びた私は、ゆっくりと郡上八幡を後にし、岡山に向かって車を走らせた。

岐阜から風雨が強まってきたが、低速でゆっくりとただただ走った。途中高速のSAで仮眠をとり、台風一過晴れ渡った道を気持ちよく走り18日昼前にぶじに我が家についた。

妻がほっとした顔で、私を迎えた。



2017-09-21

郡上八幡音楽祭音楽祭への旅❶

台風が日本列島を通過してゆく最中の、17日午後6時から行われた郡上八幡音楽祭に行ってきた。

悩んだ末、私は往復車を運転して郡上八幡を往復した。万一電車やバスが止まったら、土取利行さんの畢竟のイベントに参加できないかもしれない、そのことを恐れたのである。
音楽祭の前土取利行さんの拠点立光(りゅうこう)学舎一人訪ね手を合わせた

3連休で急ぐ必要もなかったし、先のふるさとでの低速運転にすっかり魅せられていたので、16日余裕をもって下呂温泉の近くまで走り、帰りの京都から神戸以外は一般道を走った。
 
というのは、帰り台風の影響でスマホのナビが、機能しなくなったからである。すっかりナビだよりだったのでさすがに 慌てたし困ったが、いざというときに頼りになるのは、わが体だけであるということを改めて経験した。

ギリギリの土壇場になると、いまだわが体は活性化する。わが体がナビ化したのである。直接情報、ゆく先々のコンビニで働く親切な方々や、ガソリンスタンドの人に道を訊きながら郡上八幡から岐阜、関ヶ原、彦根、米原をぬけ、何とか京都にたどり着き、そこからは高速に乗り、大都市を抜け、再び低速運転に切り替え無事に帰ってきた。

人間はギリギリの経験をすると、何やら不思議な力が湧いてくるものだということを、いい歳ながら改めて、この度の郡上八幡音楽祭への旅で体験した。普段の暮らしでは起こりえないことが旅では起こる、だからこそ人は旅をする。

行きの372号線や、帰りの21号線、8号線はもう2度と走ることはないかもしれないが、脳裡に刻まれている。また、スマホのナビに問題が生じなかったら、こんなにもコンビニに立ち寄り、見知らぬ方たちと言葉を交わし触れ合うことはなかったであろうと思う、意外性と偶然性こそが旅の醍醐味である。

私が道を訪ねた人たち(主に若者) 全員が押しなべて親切に対応してくれた。日本人の持つ心性のやさしさが(旅は道ずれ世は情け的感覚)いまだ脈々と流れていることがよくわかって、見知らぬ街を走る悦びと解放感を味わった。

また行きは、大都市を避け明石から亀岡、から日本海の小浜にでて、敦賀、福井に向かう途中から山を越え、ちょっと寄り道し下呂温泉の近くで車中泊し、翌日ゆったりと温泉で疲れを取り、郡上八幡にたどり着いたのだが、人気のない旧街道をのんびりと休み休み走るのは、今の私には、いうことのないドライブ旅となった。
今は亡き桃山晴衣さんと土取利行さんが創設した立光学舎静かにたたずんでいた

低速運転の素晴らしさは、ゆったりと日本列島の広さを体感しながら、移り変わる日本の風景をまさにゆったりと堪能できる点にある。そういう意味で時間はかかるが、なるべく都市部を避けて、田舎道をこれから可能な限り、運転できる間は走りたい。

さて話は変わるが、私の小さな車は、助手席の背もたれを倒しあいた空間に詰め物をするとフラットになり、全身を伸ばせなんと眠ることが十分に可能なのである。

見知らぬ宿に一人泊まるよりもミノムシ状態で心地よく眠れるし、何より私のような貧乏人にはうってつけの旅人の宿、長めのいい静かな川が望める場所であれば言うことなし、たまにだからこそいいのだ。孤泊宿。

そのことを宮崎帰省旅で分かっているので 、今回も用意万端、妻が布団を敷いて、狭い車中でもできるだけ快適に休めるように工夫を凝らしてくれた。

土曜日は朝9時前に出発、大きく寄り道をして、夕刻6時、下呂温泉の近くで陽がとっぷりとくれたので早めに、お蕎麦で夕食を済ませ 、缶ビールを買って安全なちいさな清流のそばに車を止め長時間の運転で疲れた体を車中に横たえた。

ヘッドランプで照らしながら持参した本を読んでいたら、あっという間に睡魔がやってきた。夜中トイレに起きたが、10時間近くを車中で過ごした。爽快な気分で目が覚めた、雨は。昨夜から降っていなかった





2017-09-16

岐阜県郡上八幡で行われる、土取利行さんのイベントに参加する日の朝ブログ。

このところの私は、編集されたニュースで報じられるあれやこれやの重大事には、ほとんど心が動かない自分がいる。まずいとは思う、関心は在るのだが、素人判断ではいかんともコメントのしようもない。五十鈴川だよりは、極私的な日々の、平凡な個人的な身辺雑記を綴ることを旨とする。

わからないことに関しては、さかしらなことは一切書きたくない、というのが五十鈴川だよりのスタンスである。とは言うものの、歴史を振り返るとき、何かの大事は、ある日突然起きるということが、証明されているように思える。ほんとうに危うい、危ない時代の渦中を生きているのではないかと認識はある。

だからといってどうすればいいのか?平凡に 生きることの素晴らしさをより深めながら、淡々と運命を引き受けるよりほかに、私にはほかになすすべはない。(戦争なんてもってのほか、蟻のように生きながらも穏やかな秋を、甘受できる平凡な日常こそが、平和の素晴らしさだ)

有事、戦争の繰り返される悲劇は、他国においては生じていることが間断なく報道されているから、そのことに関しては、多少は知ってはいても、皮膚感覚としてははなはだ遠いというのが 、正直な気もちである。要するに平和な時間に体が慣れ切っているということだろう。
説明を追加

政府は いかにも国民を守るとか言った、言葉で有事への備えの万全を説くが、いまひとつピンとこない。

核爆弾を浴びたこの国で、いまさら核戦争に最終的に及ぶ可能性のある危機、というか愚は避けることにこそ、21世紀の政治家や、人類は向かうべきであると、と小生は考える。

北朝鮮の核実験の報道のさなか、なんとも言えない無力感や脱力感に襲われるほどに、まったく暗澹とするような出来事が起こるのではないかという、一抹の不安は、わたくしごと気でさえ感じている。

だからといって、付和雷同的に一喜一憂する愚は避けたい。

私も含め、人間というものはあらゆる日々の暮らしの中で、大事なことを置き去りにしながら、忘れながら、どこかで生きていかざるをえない。だがけっして忘れてはならないことがある。

先の大戦で、広島長崎に原子爆弾が落とされおびただしい無数の無辜の民の命が、老若男女、アメリカ兵捕虜12人も含む、あの真夏の暑さの朝、一瞬で灰になった事実を。

福島の原子力事故のその後を知らせるニュース報道というものなどは極端に少なくなってきたように、私個人は感じる。原発は稼働される方向に進んでゆく。経済原則が命より優先される社会の行く末はいかなる社会の到来か。

忘れる日々の中で、繰り返す、けっして忘れてはいけないことがたくさんある。そのことを個人的に自戒する。

新しい出来事や、似たような、すでに聞いた繰り返し報道が頻繁になされる中、私たちの日々の感性は摩耗し、肝心な大事なことをいつしか、私自身、忘れてゆく。

絶対矛盾をいつも私はどこかに感じながら、ときおりこれではまずいのではないかとの反省がにわかにかろうじて起きたりするといったことの繰り返しの日々をである。

これで五十鈴川だよりを書く、内省時間が なかったらと考えると、ときおりぞっとする。とくに私のような単細胞は時代の空気感に流されやすいので、懐疑的にならざるをえない。

今日はこれから、台風の影響のさなか、土取利行さんの畢竟の企画イベントに参加するため岐阜の郡上八幡に向かう 。何とか無事に命を懸けた企画が無事に行われるように祈る。

2017-09-03

弓道教室で出遭った、O氏ファミリーが午後やってくる日の朝ブログ。

日曜日は、家族と過ごす日、とよほどのことがない限り決めている。家族といっても妻や母と過ごすだけなのであるが、日曜日は安息の一日ということで、やはり何か有難い日である。取り立てて何をするでもなし、ただただ静かに体と心を休め、普段やれないことを妻や母とやりながら英気を養う。

今日は珍しく、午後弓道教室で出遭った、私の息子くらいの年齢の若いO氏のファミリーが我が家にやってくる予定である。知り合ってまだそんなに間がない関係なのだが、これも縁としか言いようのない流れ、五十鈴川はケセラセラである。

常々思うことだが、私の小さいころには、いろんな人間たちが我が家にはやってきた。そのころ多感な少年だった私は、そういう人たちの姿を通して、人間という存在の面白さ不思議さを、自然と学んでいったような気がしている。私の人間に対する好奇心は少年期に育まれたのだ。

あのころ、ちょこまかなことには、とんと無頓着な、面白い大人たち(特に職人をはじめとする体を動かす労働者たち)が、小さい海山川の小さな町には、数多くいて、そのころの貧しくとも愉しさに満ちた、少年時代の記憶が、いまとなっても心の片隅で今の私の暮らしを、どこか心の奥底で支えている。(あのころには帰れないが、あのころの楽しさをつたえたいものだ)

夏休みの帰省で、姉の孫たちに声を出す喜び楽しさを、ささやかに伝えることができたが、 小さい頃の愉しい思い出というものは、一生の宝だとつくづく思えるので、これから私は縁のあった、子供たちにはあの爺さんは面白い、といわれるようでありたいと、心かけることに決めた。

健康であれば、歳を重ねることのなかで、いろいろと新しい役割の発見があるのだ。そのことを姉の孫たちから、私は学んだのである。

ありがたいことに、まだまだ現役感覚が残っていて、あれやこれややりたいことが減らない私だが、やがては、孫たち世代のために最後のお勤めができないものかと考え始めている。

話は変わる。今朝の新聞一面に、陸上男子短距離の末続慎吾氏の人知れぬ苦闘の末に見つけた、走る、かけっこの楽しさを見つけられた記事が2面にわたって大きく掲載されていて、朝一番読み入った。

37歳にしての、走る悦びに破顔一笑の写真が載っている。順位ではない、ただただひたむきに走る純粋さ、こそが尊いのである。わたくしごと気でさえ思うのだ、順位や序列には私もとんと興味がない。

感動を与えられる人には、序列を超えたその人にしか醸し出せない何かがあるように思える。

自然と笑顔がこぼれるような子供たちが数多く住んで居るような、街にこそ住みたいものである。そのために数多くの人生経験を積んできたリタイアした大人たちのなすべき、役割はささやかであれ小さくはないと、小生は考える。

あきらかを極めるために、簡単にあきらめるのは、いささか、もったいなきがいまだ私はする。未知は(道は)無数に存在する。すべては自分次第である。

2017-08-31

夏の終わりに私と妻は出遭った、夕方のとりとめなき五十鈴川だより。

長きにわたって五十鈴川だよりを読まれている方は、またかと思われるかもしれないが、もういいのである。おそらく五十鈴川だよりを書き続けられる間は、きっと性懲りもなく、厚顔をさらして書かずにはいられない自分がいる。

今日は、31年前 私が34歳の時、東京は吉祥寺のとある場所で、人生に途方に暮れていた私が妻と出遭った日である。以来私の精神は一気に安定を迎え、今に至っている。

いつの日にか五十鈴川だよりの最終回では、妻との出会いや、今はまだ生々しい思い出も、後年,時が来たら、書ける日が来るかもしれない。

妻との出会いは、まだまだ気恥ずかしくて,とてもは、いくら厚顔であっても、今はまだ無理である。ただただこれだけは言えるのは、妻との出会いなくしては、まったく私の存在は無に帰するであろうことだけは、書いておきたい。感謝の気持ちしかない。

ところで、日中はまだまだ暑いが、朝夕は一気にしのぎやすくなってきた。それとともに 五十鈴川だよりも増えそうな気配だが、歳と共に精神が安定するのかと思いきや、あにはからん、日々の移ろいの中での、精神の揺曳は、生きている限り、逃れようはないのだと思い知る、夏の終わりである。

だから、おりおり自問自答五十鈴川だよりを書き綴りつつ、心身の調節をせずにはいられないのだろうとおもえる。思うに任せぬ今を生きる、右往左往のじたばた感こそが生きる醍醐味であるとさえおもえる。

つまりは、揺らぐ日々の在り様の心身こそが、ささやかな私の現在、生きているということなのだろう。

再びところで、平均すると週に3~4日、時間を見つけてわずかな時間、この半年徳山道場に通っている。
Y氏に頂いた見事なブルーベリー

今朝も7時前にに出かけ(この時間帯は先ず誰もいない)、普段通りやろうとおもったら、大先輩のHさんが来られた。最近ちょくちょく言葉を交わすようにはなっていたのだが、二人して言葉を交わし合いながら、愉しく稽古ができた。

Hさんは、この年齢で弓を始めた私をよく観察してくださっていて、初めて遠巻きに基本的なあれやこれやを、じきじき指導してくださった。

詳細は省くが、元来小さいころから、人にあまり褒められたことが経験として 少ない人生を歩んできた私としては、ささやかに初めてほめていただき、恐縮至極ではあったものの、歳に関係なく、やはり正直とてもうれしかった。

弓を始めて半年足らず、ほんのわずかではあれ、ほめられるということの何という嬉しさ、ありがたさが沁みた。

どこかで誰かがやはりそっと見てくださっている方がいるということの、ありがたさ、早朝の素引きや、巻き藁稽古が無駄ではないということをしらされた。

ともあれ、夏の終わりにうまくは書けないが、歳を重ねる中で面白い夏がやがてすぎ、あきの訪れが楽しみな私である。

2017-08-28

外山滋比古先生の【老いの整理学】を読む。

いやあ、一気にあさゆうが涼しく感じられるようになってきた。昨夜8時過ぎに横になったらすぐに眠ってしまい、夜中起きてしばし本を読んでいたらすぐにまた睡魔に襲われ、次に目が覚めたのが4時過ぎ、外はまだ暗かったが起きて、早朝の運動公園散歩をして、水を浴びた。

さっぱりしたら、しばし時間があるのでブログタイムというわけだ。 とりわけ書きたいことがなくても、書いていれば、何かが紡げるということを、わが体は知っているので、要はパソコンの前に座るか座らないかの問題なのだ。

書いてある程度心身が整うと、最近は一週間くらい書かなくても、全く平気になってきたのだが、続けて書きたくなったりもするので、つまりは自由自在、五十鈴川だよりなのである。

昨日兄から、この間書いた夏の帰省のブログを読んだとのメールが来た。やはり身近な人たちからささやかに反応があると、実にうれしく、書く励みになる。

ところで、息子のレイ君からもラインで、AIの新聞記事の写真が送られてきたが、世代が異なるものの、きちんと反応していてうれしかった。
このような本に出合うと希望が湧いてくる

ところでいきなり話はいつものように変わる。外山滋比古先生のことはすでに何度も書いているが、新書版の91歳の時に書かれた【老いの整理学】を昨日一気に読み終えた。

詳細は省く、感銘を受けた。よりよく老いてゆくヒントが満載である。91歳にしての、あの知的柔らかき、しかし深いリズム化に富む、外山先生ならではの文体は、一朝一夕になるものではない。

流れゆく水は腐らないとのたとえ道理に、先生は動き回って思考を重ね続ける。思考実践力の大家であるということを、随所に知らされる。

自分で見つけた思考報告であるので、はなはだもって説得力があるのである。英国文学の泰斗でもあられるので、随所にさりげなく知的教養がこぼれる。

シェイクスピアの言葉も 多々引用されると、私のようなシェイクスピアファンはたまらない。さすがは外山先生であると、ますますもって、畏敬の念は増してゆく。

いやあ、いかにして生きてゆけば、このような知的インテリ、老いてゆきつつ、稲穂が垂れるかのような大人(たいじん)になれるのであろうかと、無理を承知しつつもあこがれる。

先生は大病もなさっている。ほとんどさりげなくしか、触れられていないが、あまたの試練を独自の思考方法で乗り切ってこられたことが、文章の随所から立ち上がってくる。感服する。

先生は早起きの大家である。あらゆる論考が、謙虚な40年間以上の実践 に裏打ちされているので、言葉の重みが私にはしみてくる。早起きだけが私と共通する。

その共通するところを入り口に、口先だけのほかのインテリたちとは全く異なる、素晴らしき実践力をほんの少しでも見習いたいと、私は縋り付きたい気持ちである。


2017-08-27

AIに格付けされる、という新聞記事に驚く。

朝一番新聞を手にしたら、一面トップに、【AIヒトを格付け】という文字が目に飛び込んできた。ファイナンスとテクノロジーを組み合わせた、フィンテックなる言葉も初めて知った。

18歳からただただ生きるがために働きながら、どちらかといえば文化バカ、経済音痴で、お金的な世界にはとんと縁なく、今も過ごしている私だが、私のあずかり知らぬ世界では、とんでもない地殻変動電子やりとり世界が、着々と進んでいることを知らされる。

だからといって、別段私の暮らしが変わることはないのだが、世界の在り様はますますカオス化、多様化してゆくのは避けようがない現実を受け止めつつも、私のような感性の持ち主には、あまりにも味気ない世界がひたひたと押し寄せている気がしてならない。
ブログを書く私のそばを離れないメル(あなたも格付けされるのは嫌だよね)

従来の価値観や、物の考えがまったく通用しない社会の到来である。だがしかし、ささやかに私は思考する。

世界の現実に右往左往しながらも、私は私の現実にしっかりと向き合い、日々地に足をつけて、心身を整えながら、AIに格付けされない初老の知恵なるものを 見つけられないかと夢想する。

限りなく現在の体の新陳代謝をよくするためには、お金にあまり頼らない質素な暮らしの中で、いかに喜びを見つけられるのかを、いい意味での無為の暮らしのようなことを、と、想うのである。

想うことの限りない自由自在さこそが、人間に与えられている素晴らしさの一つであるという側に、今も私はしがみつきながら、初老の初めて経験する今を生きている。

退職して4年以上過ぎたが、この4年質素な暮らしをしながら、ささやかに充実した暮らしが実践できているうれしき今を、臆面もなく五十鈴川だよりにつづれる鉄面皮の私である。

この歳になると、目が覚めて朝日を浴びながら、メルと散歩ができるだけでもささやかな絶対自由感覚の有難さを知らされる。(近所のお宅の丹精された花々を愛でるのも楽しみの一つ)

小さな庭で、朝の今を寿ぐコーヒータイム、若い時には味わえぬ初老の喜び。他者や、AIに格付けされるなどとは無縁な世界で私は生きたいと念う。

世界の一隅で、大切な家族と過ごせる今を、ただただ感謝する今朝のわたしである。

2017-08-26

真夏の読書で夏を乗り切る。

今日は幾分涼しく感じるが、この夏はというか、やはり歳と共に夏の暑さがこたえるようになってきた。がしかし、こればかりは自然の摂理ゆえの難儀なのだから、何とか耐えてゆこほかはない。

何度も書いているが、この数年の私の暑さ対策は、肝心なことはほとんどを午前中に済ませ、午後は家の中の風通しのいいところを見つけて必ず午睡をすることである。

それとお風呂場での水浴、これを日中何回か 繰り返し、夕方の2時間くらいは図書館で過ごしながら夏を乗り切ろうとしている。

何事もある程度、規則正しいリズムのような暮らしが、私には必要である。弓の素引きの稽古も、朝一番か、ほとんど午前中にやるようにして、午前と午後やることをくっきりと分けるようにしているのである。

以前のようには、ブログを書かなくなってきたが、これも自然の流れということで、まったく無理ということをしなくなってきつつある。現在ちょっと入れ込んで無理しているのは、弓の素引きくらいである。

それとなるべく栄養のバランスのいいものをきちんと食べ、夜はとにかく早く休み 体をいたわり、十分な睡眠をとるようにしている。

お陰様で何とかいい感じで、夏を過ごしながら、時折文章を紡いだりする余裕のようなものをかろうじて 生み出せる初老の夏である。

還暦までの私は、生活するのにいそがしく、落ち着いて学んだり、静かに本を読んだりする時間があまりに少なかったので、夢が原退職後は意識的に本を読む暮らしを心かけているつもりなのである。

本を読める時間というものは、オーバーだが、あたかも新しい世界と対話しているかのような純粋時間だ。


おそらくこれまでの人生で最もたくさんの本をこの、夏は読んでいるのではないかという気がする。本はいながらにして、私に多面的刺激を与えてくれる。本のない暮らしは考えられない。良い本との出会いは、至福である。


気づいた時には遅いということはないという言葉に縋り付いて、この年齢から(おそらくは続かないかもしれないが)読書ノートを付けたいとの気持ちが湧いてきた。

熱しやすく冷めやすい私だが、五十鈴川だよりも随分続いているし、書評切り抜きノートは10年以上続けている 。自然の流れの中で続いてゆくものは続くのである。

ところで65歳の今年 、あらためて生活全般を見直している。もって生まれたDNAや環境は変えようがないが、生き方は変えることができるということをこれまでの人生で私は学んできた。

遅いということはないのである。体の奥からサインが出てきたら、あらゆる関係性を見直さないと、安きに流されるという気がいまだ私はする。

夏の暑さの日中の五十鈴川だより、論旨にまとまりがないが、本日はこれにて。



2017-08-21

65歳の夏故郷で過ごす❷

岡山に越してから、この25年間、娘たちが小さいころから、何度故郷に帰ったことだろう。私は65歳になり娘たちは巣立ち、当たり前のことだが兄貴や姉たちの家族全員が歳を重ねた。

そしてこの間の世の中の激変。IT技術の途方に暮れるくらいの、デジタルイノベーションの技術革新には、とても心と体が、ついてゆけない(ついてゆくきもないが)日々を、還暦を過ぎてから特に感じながら生きている。(でも私はブログを書ける今を楽しんでいる)

今回のお墓のリニューアルを詣でる帰省旅は、いい意味での無常観に想いを馳せることが度々あり、やはり歳をとったのだということを自然に感じながら、それを受け入れてゆく覚悟のようなものを、受け入れてゆく準備のための、帰省旅となった。

話は変わるが、私が18歳の時上京した時に乗った急行高千穂は、日向から東京駅まで25時間を要した。

今回一般道を岡山から門川まで、途中の食事休憩仮眠を入れ、安全運転、片道20時間くらいで 走っている。今の私の年齢で、大変だとは ほとんど感じないくらいの体力気力を支えているのは、やはり理屈抜き故郷への回帰願望のゆえである。それと私は運転があまり苦にならない。
車で帰省する時には門川の前に立ち寄りたいと思う神社である

だが歳と共に、高速道路運転を控えるようにしている。人生の晩年時間くらいのんびりと景色でも楽しみながら、日本列島を南下しながらの帰省旅を楽しみたいとの思いが深まってきているのだ。

そういう意味で、今回の車での帰省旅は、低速運転しながら、音楽を聴きながら、この25年間をゆっくりと振り返り物思いにふけりながら運転でき、格別な良き時が味わえた晩年旅となった。

家族愛、郷土愛、祖国愛というが、故郷の海山河の素晴らしさは、かろうじて開発の難を逃れ、いまだ十分にわが脳裏の幼き日の原風景をとどめているので、そのことが私を故郷へと向かわせるのである。

ああ、日本列島の何たる山紫水明のわが故郷の清らかさ、我が65歳の心と体を穏やかに満たして清めてくれる。

そして思う、あと何回元気な姿でお墓参りがてら、姉や兄を訪ねる帰省旅ができるだろうかと、多分初めて今回しみじみと想いを馳せたのである。

いつ帰れなくなっても悔いのないように、帰れるときにきちんと帰り、昭和を共に生きた兄や姉たちとの旧交を温めたいと、思わずにはいられない私である。

13日尺間山神社から戻ると、姉の孫の、小学校3年の雛と、6年生の航生がいたので姉と私の4人で五十鈴川に夕方泳ぎに連れて行ったのだが、姉の孫が私になついてうれしかった。

私には孫がまだいないが、このような縁があれば兄や姉たちの孫に私がしてやれることが、私にはいろいろあるのだということも、しっかりと確認できた。

15日午前中、夏休みの思い出、雛と航生には宮沢賢治の朗読、雨にも負けずを最後まで声を出す特訓もしたのだが、二人とも熱心に声を出してくれた。お父さんもお母さんも喜んでくれた。

老いは持ち回り、歳を重ねる中での老いの役割ということを、姉の孫たちからヒントをいただいた。だてに生きてきたのではないということを、縁のあった孫たちにささやかに伝えたいものだ。

2017-08-19

65歳の夏故郷で過ごす、➊

11日から16日までお墓参りがてら門川に帰省してきた。考えた末車で往復運転した。行きも帰りも高速道路は使わず、2号線と10号線を休み休みただひたすら運転した。

今回も兄貴の家に3泊お世話になった。兄がプロに頼んで約半世紀ぶりにお墓が見違えるほどきれいに塗られていた。(ここから海が望める)

父が生きていた時に作ったユニークな屋根付きのお墓

それをとにかく見たかった。それだけがいわば大きな目的の帰省旅だったのだが、目的のお墓参りを済ませたら、兄が良いところに連れて行ってくれた。

13日大分の佐伯にある、修験道の山として知られる尺間山である。門川から一時間とちょっとで行ける。400段の階段がある登り口まで車でゆき、兄は下で待っていて私だけが神社のある頂上まで登った。

頂上からは眼下に佐伯の町と太平洋を望むことができた。参拝者は私しかおらず、神主の方ともしばしお話ができて、尺間神社は私の胸に刻まれた。

汗が噴き出たので、麓の清水でタオルで上半身をふいたのだが、その気持ちよさには言葉がなかった。

下山したら、兄貴が大きな水車小が廻る、近くの番匠川(ばんじょうがわ)に連れて行ってくれ、そこで昼食をしたのだが、この川の美しさには息をのんだ。

おそらく帰省した家族連れであろう人たちが、あちらこちらで川遊びに興じていた。こんなに大勢の人たちが、天然の川でまさに自然に回帰しているのを見ていたら、にわかに自分の少年時代が思い出され、兄も私もしばしの幸福感にひたることができた。

このところ長兄は私が帰省するたびに、門川近隣の自分が見つけた故郷探訪に、私を連れて行ってくれる。 よもや晩年、兄とこのような小さな旅をすることになろうとは思いもしなかったが、人生とはまさに未知との出会いの時間であるといわざるをえない。
動ける間は九州の山に登りたい
翌日、思わぬ兄との会話から、大分の久住山(標高1700以上)に登りたいかと訊かれた。ちょっとハードだとは思ったが、65歳の記念に急に登りたくなった。

天候は午後から下り坂の予報、義理の姉も同行し朝早く家を出た。登山口の標高がすでに1300メートル。8時前登山開始、兄と姉は途中まで 同行し、私ひとり山頂を目指した。

最後の山頂を見上げるところあたりから、にわかにガスが立ち込め始め、どうしたものかと思案したが、下山して来られる方たちが、視界は悪いが目印がきちんと見えるので大丈夫という言葉を信じ、深呼吸しながらゆっくりと歩を進めた。

午前9時40分、何とか山頂に他うことができた。山頂は風が強く 、写真だけ撮ってすぐに下山した。下で待っていた兄と合流し、一緒に下山したがそのころにはふもとまでガスが立ち込め、かすかに雨も落ち始めていたので、運に助けられた。

やはり、1700以上の高さの山は、雄大で嶮しく、その魅力に私は染まった。久住の連山に帰省の度に登ってみたいという誘惑抑えがたい。

九州人の私の琴線をくすぐる九州の山の魅力、久住山は存分にその魅力を私に植え付けた山旅となった。(兄夫婦に感謝)

兄もこの5月に初めて登ったとのことだったが、故郷の山は有難きかなというしかない。長くなるので今日はこれくらいにして、続きはまた時間を見つけて書きます。

2017-08-09

長崎に原爆が落とされた日の朝ブログ

8月9日の朝である。今夜は週に一度のシェイクスピア遊声塾の日である。かなり悩んだ末塾を立ち上げて早5年目の夏を迎えている。

ただただ単純に、毎週毎週、あの膨大な作品群の膨大な長いセリフの、言葉言葉を声に出している。なぜ今、自分がこのようなことにある種の情熱を傾けているのか、ようやくにして少し考えてみる。

それはきっと27歳で(最年長でした)文学座の俳優養成所を経たのち、シェイクスピアシアターで3年間明けても暮れても、アルバイトに明け暮れながら、30歳まで口を動かした、あのギリギリの経験があるからなのだと思える。(おもえば18歳で世の中にでていつもギリギリのところで何とかしのいで生きてきた感が否めない)
高村薫さんや団塊世代の本をこのところ読んでいる

人は 追い詰められ、ギリギリの場面になると思わぬ自分が生まれてくるという経験を始めて、演ずるという行為を通して学んだように思う。(ごまかせない何かが生まれてくる)

結局体が悲鳴を上げ、蕁麻疹が出たのを機に 大転機をむかえ、わが体と心は、青春時代最後の大勝負、富良野塾に(ここでも最年長でした)向かうことになるのだが、ここでもまたギリギリまでわが心と体はそれまでの人生では経験したことのない試練をあたえられる。(いまとなっては青春最後の宝)

その後、一人の女性とのご縁から私の人生は一気に安定するようになって今を迎えているのだが、夢が原退職後の今後を考えた時に、逡巡の果てに思いついたのが、シェイクスピアを今再び声に出して読んでみようとの、自然な思い付きの流れだったのである。

夢が原での企画者としての仕事が長かったので、いつしか自分でも忘れそうになっていたが、自分の一番得意なことは、シェイクスピアシアターで習ったあの声を出すことではないかと、はたと思い至ったのである。

よもやまさか5年間も塾を続け、(このような私のきわめて個人的な塾に数は少なくとも参加してくださっている塾生のおかげもあるのだが)られていることに関して、時折不思議な思いにとらわれるが、五十鈴川の流れのごとく、紆余曲折の果てに65歳の夏、ささやかに情熱を傾けられる心と身体があるということの有難さが、しみるのである。

この世に生を受け、たまさか出会えた貴重極まる塾生と声を出しあいながら、玉響の時を過ごせるなんて、至福である。そして、このようなことがいつまで続けられるかはまったくわからないが、とりあえず、いまはでる声と体にしがみつき、今しばらく声を出す暮らしを続けたく思う私である。そして、声が出せなくなったら、潔くあきらめようと思う私である。



2017-08-01

またしても土取さんは、添田唖蝉坊の演歌世界、一期一会のライブ、歌声で私を驚かした。

昨日午後わずか2泊3日の東京旅から帰ってきた。西大寺の駅に降り立ったら東京とは異なる猛暑で、正直わが体は疲れている。

が、こころには何やら涼やかな風のような感覚が流れていて、ほぼいつもの時間帯に目が覚めたので、起きて水を浴び何やらつづらねばという気持ちを抑えられない。

土取利行さんからの案内状を目にし、正直瞬時迷ったのだが、ゆこうとすぐに決断し、出かけて本当に良かった。悩んだときはできるだけ細い道をゆくようにしている。

土取利行さんがシアターXで行う邦楽番外地は今回が5回目。そして初めて今回女性のシンガー松田美緒さんがゲストとして招かれていた。

明治大正時代、製糸工場や廓に売られてゆく女性たちに想いを寄せる、添田唖蝉坊、知道親子2代の演歌を歌うのには、やはり女性の声が絶対的に必要だとの思いで、土取利行さんは、きっと胸の中で探し続けていたのだろう。

パートナーの桃山晴衣さんが お亡くなりになって早10年近く、ようやくにして土取さんは桃山さんが遺した添田唖蝉坊の演歌が歌える女性歌手と出合ったのだということが、まさによく伝わってくるライブだった。また教科書などでは伝えられない歴史下の庶民、大衆の声なき子が聞こえてくる。

単なる歌を聴く音楽会ではなく、まさに明治大正時代の底辺社会を生きていた、生きざるを得なかった女性たちのゆきどころのない、怒り、痛み、切なさ、やるせなさ、呻き、叫び、悲哀が、親子ほど年齢が離れた二人のコラボ演奏から澎湃と伝わってきた。

生でのライブでしか味わえない醍醐味、その場に居合わせたものだけが体で丸ごと感じる一期一会の絶対時間というしかない。

二人の軽妙なやりとりが場を和ませ、ややもすると震感とせざる負えないような重い内容の歌が、唖蝉坊のひょうひょうとひねりのきいた歌詞が、ファドをはじめとする多様な国々の、世界の悲しい女性たちの歌を歌う松田美緒さんの鍛えこまれた声で歌われる。

楽器としての何たる魔法のような声の素晴らしさ。どうしたら何かが乗り移ったような声が出るのか、謎である。

ほんとうに久しぶりに女性の生の魂を揺さぶる声のライブを聴いたのは、ひょっとしたら何十年ぶりかもしれない。レコードやCDでは、いくらでもヴァーチャル再生昔の歌を聴くことができるが、生では2度とかなわぬからこそ、やはり出かけてゆく。(それにしても魂を揺さぶる歌い手の何といなくなったことか)

人は出会うべくして、やはり出会うのだ、思える。私の人生の音の世界の水先案内人である土取さんは、またしても世代の異なる(しかし共通する世界を持った)素敵な女性の歌い手と新しい仕事を見つけていた。宮崎の言葉で魂げるという言葉があるが、まさに魂げた。

この年でも、まだまだ魂げる私自身がかろうじて息づいている。 魂げるわが体と心に従って今しばらく、しっかりと生きてゆこう。日々まとわりつく精神の垢のようなものをあらいながら。

あだやおろそかに残された貴重な人生時間を費やしたくはない との思いは、ますます深まってくる。

真の芸術家の仕事は、時代の深層を見つめながら、深刻にならずひょうひょうと歩き続ける胆力と勇気を併せ持つ人のことであろう。

それにしても、土取さんは私より少し年上のはずであるが、その若々しさ、唖蝉坊が乗り移ったかのようなライブを見ることができたこと、繰り返しになるがわざわざ東京まで出かけた甲斐があったことは何としても五十鈴川だよりに書いておきたい。

そして、このような稀な人間と出遭えた幸運を胸に刻み、ささやかに 土取さんの活動を応援したい。


2017-07-29

土取利行さんの歌を聴きに急きょ上京します。

一週間前、畏敬する音楽家土取利行さんから案内状が届き、先月も上京したばかりで少し悩んだのだが、急きょ上京することにした。
両国のシアターXで30日午後2時から開かれる

妻からも 許可がでたし、ありがたいことに今の私には出かけてゆける余裕、何よりも時間がある。五十鈴川だよりを長年読んでくださっておられる方は、私と土取さんの関係性はよくご存じだと思うので、割愛する。

26歳でのロンドンでの出会い。青春時代から今に至るこの40年間、もっとも私が影響を直接受けた数少ない音楽家である。当時若かった私は、一撃で氏のパーカッションに打ちのめされた。

依頼一筋の道を犀のように、時代に流されずに歩むその姿を、つかず離れず眺めていて思うのだが、凡夫の私にはできない、すごい生き方を実践されている方である。

私にできることは限られている、見届けにゆくくらいの交情、動ける余裕のある限りは続けたい。もし土取さんのことを知らない方がいたらぜひインターネットで検索してほしいと念う。

そして、現在彼がどのような誰もやったことがない、誰もやらない世界を追求し、我々に伝えようとしているのかを、五十鈴川だよりを開く数少ない方々に知ってもらいたいと切に願う。

明治大正時代の女性の歌、まったく私の知らない世界を伝えてくださるその真摯な姿に打たれる。氏は出会った時以来、いまも私にとっては、未知の世界の案内人である。

このような音楽家に出遭えた、私の人生の幸運を噛みしめる人生の秋、ありがたいありがたいと私は念仏のように唱える。

2017-07-26

真夏の昼の夢。

10日ぶり、真夏の日中にいすずがわだよりをかくことになろうとは自分でもおもわなかったが、とにかく何から書こうか、ちょっとあまりのうだるような暑さのせいで、いわゆる筆が進まないとはこういうことかと、いっぱしの気分である。

窓からは、夏の雲と幾分ブルーの青空がが望める。温度は確認する気にもならない。犬のメルも猫の花も、所在なげに私と同じように部屋の中でぐったりしている。

さあ、頭に冷えたタオルででも載せて、よしなしごとを綴ろう。 個人的な私自身の生活は、さほど変わりようがないくらい、落ち着いた(人生で初めてといってもいいくらいの)静かな日々を送れる今を有難く感じている。

ところで、ほぼ2年近く通ったS氏の竹韻庵から身を引くことにした。理由は昨年から妻の体調がいまひとつで(それでも妻は仕事を続けている)、特にこの数カ月は、どうしたものかと案じること度々であったので、五十鈴川だよりを書いたりする気分から遠かったのである。
なんども唸った名講義、ほんとうに学ぶことは愉悦である

ところが、詳細は長くなるので省くが、整体の良い先生を紹介され、半信半疑でいったところ、完全には遠いものの、ずいぶんと改善に向かっていて、漸くにして私はとてもうれしく、五十鈴川だよりを書く気になったという次第なのである。

これ以上は、面はゆくて書かないが、妻あっての私なのであるから、可能な限り妻や母のそばで今後は過ごすことにしたのである。(娘も自立を今しばらくあきらめ、特に夕食の家事をしてくれている)

今もフルタイムで働く彼女の家事やそのほかの負担を減らすべく、竹韻庵に割いていた時間を、家族のための時間に費やすことにしたのである。母を先頭に家族が妻に寄り添っているのである。

おかげで、妻の体調も改善の兆しが見え、私自身はといえば、竹韻庵に費やしていた時間が一気に自分自身や家族のために使えることで、心身に限りないゆとりができて、18歳で世の中に出て、65歳にして初めてといっても いいくらいの充実した夏を過ごしている。

自分自身の体の変化や、それに伴う心境の変化などといったものは、余人にはうかがい知れない。

やはり本人が一番覚る様に思う。弓を始めたことで、全身の現在のおのれの鏡に映る姿を、いやでも応でも眺めつつの、素引きの稽古をこの5カ月していて思うことは、静かに自問自答することの有難さである。

仏教用語では林住期を生きている私の年齢、下り坂を可能な範囲でスリリングに、こころの張りを持続するためにも、弓を張れる現在の肉体と向かい合える時間が持てる今の暮らしを大事にしなければと考える。

弓に関しては、家族全員が私を応援してくれている。20代のころ、よもや私に家族ができるなどということは思いもしなかったが、家族ができたおかげで何とかこの年まで生き延びることができた。

今後は、まずは妻との時間を最優先したいと考える、私の夏である。