五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方は、ご存じだとお思いますが、私は月が大好きであり、月の満ち欠けで、私の精神が随分と変化することをかなり自覚している。
何はなくとも、月を眺めていると心が安らぐのである。五十鈴川だよりを書き始めた日にも、空には満月が浮かんでいた。
長女が生まれたのも満月の夜で、その夜の情景は、いまだはっきりと記憶している。さて、先週末その娘とレイ君がお墓参りがてら帰ってきて、久しぶりの家族のだんらんがかなった。
つまびらかには書かないが、私にとってはビッグサプライズの報告が娘とレイ君から直接なされた。いつも冷静さを欠きがちな私であるので、 今はこれくらいにとどめるが、本当に人生は未知との遭遇である。
非情に面白く読みました、今更ながら謙虚に読書したい私です。 |
話は変わるが、ささやかな冒険というとオ-バーだが、八月末から週に3日家のすぐ近く、自転車で2分の会社で働いている。
私の年齢では、(私にとっては)ちょっと苛酷な肉体労働である。なぜ、この仕事を選んだのか?はいずれ書くこともあろうかと思うが今はまだ書けない。
というのは、自分でもわが体が3ヶ月持つかどうかわからないからである。
何とかひと月もったから、このように五十鈴川だよりで書いているが、夏の終わりの暑さの中での最初の3日間は、うーん正直体がもつかどうか不安だったし、今もそのいくばくかの不安は続いている。
だから、とりあえずまず3カ月続いたら五十鈴川だよりに書けるかと思う。だが、週に3日ではあるが、この年齢での肉体労働に従事することになったおかげで、にわかにわが体は、老いつつも精神のどこかが、やんわりと活性化しつつあるのも実感し始めている。これまでの自分とは異なるなにかが。
それは、肉体労働を単に始めたから活性化し始めたのではなく、やはり私がこれまでの人生ではであったことがないような人たちと共に、(世代の異なる)働いているからなのだという気がしている。
身体的にはきついが、何やら新しい風がわが体を吹き抜けているといった按配なのである。苦しいが、新鮮な日々なのである。
肺腑をえぐる言葉がいたく私に届きました |
身体がとにかく動かないと、続けられないのでよく食べて、よく寝る。
メリハリがつき、一週間の過ごし方が、にわかに充実度が増してきた感がある。私は体で考え、本を読む。
今では信じられないが、若い頃の私は肉体労働が本当に苦手で、肉体労働にコンプレックスを持っていたほどであったが、富良野塾や、中世夢が原での20年以上の肉体労働から、体を動かすことの、動かせることの、悦びみたいなものをかろうじて習得して経験が、今の私を支えている。
動くのであれば、私はわが体を 使い続けたいのだ。妻や娘が無理をするなといってくれるが、私は無理をしているわけでは決してない。まだ役に立つ体である間は、シンプルに動きたいだけである。
だってやがて、できなくなるのだから。根気が続く、出来る間が大事であり、できなくなったらその時はその時を静かに受け入れるだけである。
3日間の肉体労働は、声を出すことにも、弓の稽古にも、良き影響を及ぼしつつある。何より妻や母や娘たちが、いたわってくれるので、単細胞の私としては、意欲が湧く。とりあえず3ヶ月を乗り切りたいと思う。
太古から、人間生活の根源は体を動かすことにつきる。よく動かしよく食べてよく学びよく休むのである。
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