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2017-10-28

新見住むK氏から、お便りをいただき、雨の秋に想う、五十鈴川だより。

雨である。晴れていて、肉体労働のない日は、朝いちばん食前、緑化公園で30分くらい体を動かすことを心がけているのだが、予定変更して五十鈴川だよりを書くことにした。
弓を始め以前は読まないような本を手にしている

日々是好日というが、そのように思える日々を、と心かけている次第である。何事も言うは易しだが、思いついたことを、意識して深くゆっくりと、努めてゆくと、動きはとろいのだが、なにやら意識の流れがスムースになって、身体もリズミカルに動き出すのが、経験として腑に落ちるのである。

これを自分では、気を乗せてゆくというか、上向かせてゆくというのか、要は、自分で自分を気持ちのいい方向に運んでゆくのである。

つまりは、何事も自分の内側から湧いてくる自然な流れに従う感覚を、ことのほか最近大切にしているのだ。

妻には、私が最近何か変わったといわれるが、それは彼女にとってどうもいい方向に、私が変化しているらしいので、私はそれをよしとしている次第である。

今年になって、よほどのことがない限り、あまり遠くに出掛けなくなったし、(でも私は旅が好きなので突然出かけるが、それ以外は日常を旅する)あらゆる、ものも含めた関係性をリセットしている。そのことが今後どのようになってゆくのかは、自分ではよくわからないというのが正直なところである。

この歳には、私も初めてなってみて感じるものがあって、その感覚はきっともっともっと歳月を重ねると、ますますもって否応なく変化してゆくのでは、という思いが深まっている。

いきなり朝から、ちょっと重い話になりそうなので、話題を変える。ご両親の面倒を見るために今は新見に住む、K氏から突然最近お葉書をいただき、ようやくお返事を書いたのだが、昨日再び氏からお葉書が届 いた。

普段ほとんどお会いする機会はないK氏(との関係)なのだが、五十鈴川だよりを読まれて、なにか触発されることがあって、小さな旅のことが記されてあった。(面白く読みました、この場を借りてありがとう)

足腰手の上に頭が在る、文字を書くのが最近愉しい
ブログにコメントがほとんどなくても、読んでくださる方がいて、このような形で 直筆のおたよりをいただくことが、私の場合ままある。有難いことだ。

富良野塾で同期だったO氏からも、30年ぶりに突然お手紙をいただき、驚いたことがある。わたくしごときの拙文を読んでくださって、お便りを下さるなんてことは、まことにもって生きている幸いといわねばならない。

生きていることは、まさに【未知の時間を旅すること】であるのだという 認識がますます深まる。縁という不可思議な何かに、導かれ関係性も深まったり疎遠になったりと大揺れ、大きく変化する。

その中で、急にまた縁が深まったり、薄まったりもするのも、天の摂理と今の私は受け止めている。長兄との関係性も、いっときは最悪だったが、私が変化したせいかもしれないが、今は気持ちのいい関係性が持続できている。

帰省するたびに、二人で(あるいは姉、次兄全員で )小さな旅ができるなんて、夢のようなのである。兄からも、メールばかりではなく葉書での便りが届くが、その兄にも万年筆でへんじを書いた。

直筆を楽しめる、関係性を深めてゆきたいし、直筆で書ける意識と体を老いながら磨きたいと、私は思考する。




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