昨日午後わずか2泊3日の東京旅から帰ってきた。西大寺の駅に降り立ったら東京とは異なる猛暑で、正直わが体は疲れている。
が、こころには何やら涼やかな風のような感覚が流れていて、ほぼいつもの時間帯に目が覚めたので、起きて水を浴び何やらつづらねばという気持ちを抑えられない。
土取利行さんからの案内状を目にし、正直瞬時迷ったのだが、ゆこうとすぐに決断し、出かけて本当に良かった。悩んだときはできるだけ細い道をゆくようにしている。
土取利行さんがシアターXで行う邦楽番外地は今回が5回目。そして初めて今回女性のシンガー松田美緒さんがゲストとして招かれていた。
明治大正時代、製糸工場や廓に売られてゆく女性たちに想いを寄せる、添田唖蝉坊、知道親子2代の演歌を歌うのには、やはり女性の声が絶対的に必要だとの思いで、土取利行さんは、きっと胸の中で探し続けていたのだろう。
パートナーの桃山晴衣さんが お亡くなりになって早10年近く、ようやくにして土取さんは桃山さんが遺した添田唖蝉坊の演歌が歌える女性歌手と出合ったのだということが、まさによく伝わってくるライブだった。また教科書などでは伝えられない歴史下の庶民、大衆の声なき子が聞こえてくる。
単なる歌を聴く音楽会ではなく、まさに明治大正時代の底辺社会を生きていた、生きざるを得なかった女性たちのゆきどころのない、怒り、痛み、切なさ、やるせなさ、呻き、叫び、悲哀が、親子ほど年齢が離れた二人のコラボ演奏から澎湃と伝わってきた。
生でのライブでしか味わえない醍醐味、その場に居合わせたものだけが体で丸ごと感じる一期一会の絶対時間というしかない。
二人の軽妙なやりとりが場を和ませ、ややもすると震感とせざる負えないような重い内容の歌が、唖蝉坊のひょうひょうとひねりのきいた歌詞が、ファドをはじめとする多様な国々の、世界の悲しい女性たちの歌を歌う松田美緒さんの鍛えこまれた声で歌われる。
楽器としての何たる魔法のような声の素晴らしさ。どうしたら何かが乗り移ったような声が出るのか、謎である。
ほんとうに久しぶりに女性の生の魂を揺さぶる声のライブを聴いたのは、ひょっとしたら何十年ぶりかもしれない。レコードやCDでは、いくらでもヴァーチャル再生昔の歌を聴くことができるが、生では2度とかなわぬからこそ、やはり出かけてゆく。(それにしても魂を揺さぶる歌い手の何といなくなったことか)
人は出会うべくして、やはり出会うのだ、思える。私の人生の音の世界の水先案内人である土取さんは、またしても世代の異なる(しかし共通する世界を持った)素敵な女性の歌い手と新しい仕事を見つけていた。宮崎の言葉で魂げるという言葉があるが、まさに魂げた。
この年でも、まだまだ魂げる私自身がかろうじて息づいている。 魂げるわが体と心に従って今しばらく、しっかりと生きてゆこう。日々まとわりつく精神の垢のようなものをあらいながら。
あだやおろそかに残された貴重な人生時間を費やしたくはない との思いは、ますます深まってくる。
真の芸術家の仕事は、時代の深層を見つめながら、深刻にならずひょうひょうと歩き続ける胆力と勇気を併せ持つ人のことであろう。
それにしても、土取さんは私より少し年上のはずであるが、その若々しさ、唖蝉坊が乗り移ったかのようなライブを見ることができたこと、繰り返しになるがわざわざ東京まで出かけた甲斐があったことは何としても五十鈴川だよりに書いておきたい。
そして、このような稀な人間と出遭えた幸運を胸に刻み、ささやかに 土取さんの活動を応援したい。
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