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2017-08-28

外山滋比古先生の【老いの整理学】を読む。

いやあ、一気にあさゆうが涼しく感じられるようになってきた。昨夜8時過ぎに横になったらすぐに眠ってしまい、夜中起きてしばし本を読んでいたらすぐにまた睡魔に襲われ、次に目が覚めたのが4時過ぎ、外はまだ暗かったが起きて、早朝の運動公園散歩をして、水を浴びた。

さっぱりしたら、しばし時間があるのでブログタイムというわけだ。 とりわけ書きたいことがなくても、書いていれば、何かが紡げるということを、わが体は知っているので、要はパソコンの前に座るか座らないかの問題なのだ。

書いてある程度心身が整うと、最近は一週間くらい書かなくても、全く平気になってきたのだが、続けて書きたくなったりもするので、つまりは自由自在、五十鈴川だよりなのである。

昨日兄から、この間書いた夏の帰省のブログを読んだとのメールが来た。やはり身近な人たちからささやかに反応があると、実にうれしく、書く励みになる。

ところで、息子のレイ君からもラインで、AIの新聞記事の写真が送られてきたが、世代が異なるものの、きちんと反応していてうれしかった。
このような本に出合うと希望が湧いてくる

ところでいきなり話はいつものように変わる。外山滋比古先生のことはすでに何度も書いているが、新書版の91歳の時に書かれた【老いの整理学】を昨日一気に読み終えた。

詳細は省く、感銘を受けた。よりよく老いてゆくヒントが満載である。91歳にしての、あの知的柔らかき、しかし深いリズム化に富む、外山先生ならではの文体は、一朝一夕になるものではない。

流れゆく水は腐らないとのたとえ道理に、先生は動き回って思考を重ね続ける。思考実践力の大家であるということを、随所に知らされる。

自分で見つけた思考報告であるので、はなはだもって説得力があるのである。英国文学の泰斗でもあられるので、随所にさりげなく知的教養がこぼれる。

シェイクスピアの言葉も 多々引用されると、私のようなシェイクスピアファンはたまらない。さすがは外山先生であると、ますますもって、畏敬の念は増してゆく。

いやあ、いかにして生きてゆけば、このような知的インテリ、老いてゆきつつ、稲穂が垂れるかのような大人(たいじん)になれるのであろうかと、無理を承知しつつもあこがれる。

先生は大病もなさっている。ほとんどさりげなくしか、触れられていないが、あまたの試練を独自の思考方法で乗り切ってこられたことが、文章の随所から立ち上がってくる。感服する。

先生は早起きの大家である。あらゆる論考が、謙虚な40年間以上の実践 に裏打ちされているので、言葉の重みが私にはしみてくる。早起きだけが私と共通する。

その共通するところを入り口に、口先だけのほかのインテリたちとは全く異なる、素晴らしき実践力をほんの少しでも見習いたいと、私は縋り付きたい気持ちである。


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