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2017-09-16

岐阜県郡上八幡で行われる、土取利行さんのイベントに参加する日の朝ブログ。

このところの私は、編集されたニュースで報じられるあれやこれやの重大事には、ほとんど心が動かない自分がいる。まずいとは思う、関心は在るのだが、素人判断ではいかんともコメントのしようもない。五十鈴川だよりは、極私的な日々の、平凡な個人的な身辺雑記を綴ることを旨とする。

わからないことに関しては、さかしらなことは一切書きたくない、というのが五十鈴川だよりのスタンスである。とは言うものの、歴史を振り返るとき、何かの大事は、ある日突然起きるということが、証明されているように思える。ほんとうに危うい、危ない時代の渦中を生きているのではないかと認識はある。

だからといってどうすればいいのか?平凡に 生きることの素晴らしさをより深めながら、淡々と運命を引き受けるよりほかに、私にはほかになすすべはない。(戦争なんてもってのほか、蟻のように生きながらも穏やかな秋を、甘受できる平凡な日常こそが、平和の素晴らしさだ)

有事、戦争の繰り返される悲劇は、他国においては生じていることが間断なく報道されているから、そのことに関しては、多少は知ってはいても、皮膚感覚としてははなはだ遠いというのが 、正直な気もちである。要するに平和な時間に体が慣れ切っているということだろう。
説明を追加

政府は いかにも国民を守るとか言った、言葉で有事への備えの万全を説くが、いまひとつピンとこない。

核爆弾を浴びたこの国で、いまさら核戦争に最終的に及ぶ可能性のある危機、というか愚は避けることにこそ、21世紀の政治家や、人類は向かうべきであると、と小生は考える。

北朝鮮の核実験の報道のさなか、なんとも言えない無力感や脱力感に襲われるほどに、まったく暗澹とするような出来事が起こるのではないかという、一抹の不安は、わたくしごと気でさえ感じている。

だからといって、付和雷同的に一喜一憂する愚は避けたい。

私も含め、人間というものはあらゆる日々の暮らしの中で、大事なことを置き去りにしながら、忘れながら、どこかで生きていかざるをえない。だがけっして忘れてはならないことがある。

先の大戦で、広島長崎に原子爆弾が落とされおびただしい無数の無辜の民の命が、老若男女、アメリカ兵捕虜12人も含む、あの真夏の暑さの朝、一瞬で灰になった事実を。

福島の原子力事故のその後を知らせるニュース報道というものなどは極端に少なくなってきたように、私個人は感じる。原発は稼働される方向に進んでゆく。経済原則が命より優先される社会の行く末はいかなる社会の到来か。

忘れる日々の中で、繰り返す、けっして忘れてはいけないことがたくさんある。そのことを個人的に自戒する。

新しい出来事や、似たような、すでに聞いた繰り返し報道が頻繁になされる中、私たちの日々の感性は摩耗し、肝心な大事なことをいつしか、私自身、忘れてゆく。

絶対矛盾をいつも私はどこかに感じながら、ときおりこれではまずいのではないかとの反省がにわかにかろうじて起きたりするといったことの繰り返しの日々をである。

これで五十鈴川だよりを書く、内省時間が なかったらと考えると、ときおりぞっとする。とくに私のような単細胞は時代の空気感に流されやすいので、懐疑的にならざるをえない。

今日はこれから、台風の影響のさなか、土取利行さんの畢竟の企画イベントに参加するため岐阜の郡上八幡に向かう 。何とか無事に命を懸けた企画が無事に行われるように祈る。

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