実はこの間、一度ブログを書いたのだが、何か無意識に私が変なキィーを押したのか、瞬時に想いを込めた一文が消えてしまった。以前の私だったら、かなり悔しがったかもしれないのだが、最近は仕方ないといい意味であきらめるくらいには大人になってきた。(やはり大事なことは手で書くこと、と知る)
私がいつまでこのようなわがままブログを書けるかは神のみぞ知る。わからない。生成しながらも老いてゆくという、極めて生き物としての当たり前の自分という器 を引きずりながら、幕が下りるまでは右往左往するのだろう。
さて、すっかり冬めいてきて、我が家の薪ストーブがフル稼働し始めた。家族が寄り添って、語らずともストーブの周りで、思い思いの時間をすごす、冬の夜長時間が私はことのほか 好きである。
夜は静かにストーブの炎を眺めながら過ごせれば、もう私にはほかに何も必要がないと思えるほどである。家を建て替えた時から燃やし続けているからもう17年間使っている。
きっと、私がこの世から見えなくなっても、ストーブは家族が使ってくれるだろうと思う。何かを守ってくれるだろうと思う。ところで、先週の日曜日、2年ぶりに我が家のご神木ともいえる、月桂樹の木の剪定を、妻と母の3人でした。
はっさく、金木犀、月桂樹の3本が わが家のご神木である。月桂樹の成長力はまことに持ってすさまじい。見えないところで樹木、雑草をはじめとする植物群は、瞬時の休みもなく、根を伸ばし続けて水分、養分摂取をしているのだろう。何事もどっしりと根を張るには歳月がいるのだ。
毎年誰かのために編む母の手編みのソックス |
剪定した枝葉をひもでくくり、束にしたのだが9束にもなった。私が脚立に登りノコギリやハサミで切り、母と妻が束にする。最後の落ち葉の掃除も含めおおよそ2時間くらいで片付いたが、母が元気で手伝ってくれるのが、(元気でいてくれているそのことが)ことのほかに私はうれしい。
母のことは、繰り返しこれまでも何度五十鈴川だよりで書いたので、もうこれ以上は書くことは控えるが夢が原リタイア後、母と過ごす週末時間を私はことのほか大切にしている。もう5年が経つ、それは、きっとこれからはそのような時間が、やがては過ごすことが難しくなる時が確実にやってくるから、妻と共に母との時間を大切にしたいのだ。
毎週末、妻と 母と3人で何かしらのことをやっているが、童女のようにふるまう母との時間は、ことのほかに愉しい。おおよそ500メートル、母はひとり暮らしの家から我が家まで自転車でやってくる。
時折はお泊りするが、いまだひとり暮らしがいいのだとのたまう。見上げたものである。かくも自立し、泰然自若し続ける根性は一朝一夕になるものではない。
手仕事が得意で、土に親しみ、何かしながら日々感謝している。つましくも、充実した暮らしぶりという言葉が、かくも似あう高齢者をほかに私はしらない。
私には、母はカッコイイのである。まるでエゴイズムの上昇志向が見受けられない。家族や他者の幸せのみを、ただ単に願う日々の過ごし方は、いまの私にとってはお手本の鏡のような存在である。
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