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2017-11-12

開塾5年目【リア王】を読みながら悪戦苦闘の日々、シェイクスピア作品の偉大さに改めて気づく。

ことしの2月11日に弓道を始めたので、昨夜弓道教室の帰り9カ月が過ぎた。どの世界であれ、自分の体と向かい合いながらの、修練はことのほかに難しい。

丸5年近く、毎週水木の夜、声を出し続けてきて、思うのだが、継続は力なりと言葉では言うが、継続することの中で、自分の精神と体がいまだ微妙に変化し続けている。そのことの自覚がある。だから続けている。

還暦を過ぎ、私のようなやわな心の持ち主は、内向きになりがちなのであるが、シェイクスピア遊声塾を立ち上げたことで、日々のこころの張りのようなものが、いまだずっと継続できていることの有難さは、感謝しかない。塾生の存在があったればこそである。

だが、昨日も書いたが何事にもやはり、潮時、一区切りの時のようなものが自分の中に湧いてきている。
ひょんなことでシェイクスピア作品を声に出して読み知づけられる今、ただ感謝。

どのような感情なのかを説明するのはいわく言い難いのだが、継続的にシェイクスピアを声に出して、読み続けてきたおかげで、私自身は以前にもましてシェイクスピア作品の魅力を深く味わえるようになってきた、気がする。

軽薄な私が声を出しながら一行一行読むことで、 登場人物の魅力をより深く分析しながら、声を出す喜びの気づきが深まってきたのである。

発見できる間は、(体が続く間は)何らかの形で魅力的なシェイクスピア作品と私は格闘したい。

が、私はいいのだが、塾生はどうなのかを、今一度確認し、どのような形で継続してゆくのが一番いいのかを、昨日も書いたが思案しているのだ。

開塾、5年目、いま【リア王】を読んでいるが、悪戦苦闘している。作品の持つ、リアをはじめとする登場人物が、その関係性の中で(主に親子の)あまりにも私の実人生では、経験したことのない言葉の洪水を発するので、その言葉のエネルギーに、肉薄するのがはなはだ難しいのである。

でもなぜなのかはよくわからないが、私はリア王を、声に出して読める今を 僭越だが悦び、楽しんでいる。リア王は、私にとって謎の多い物語である。(シェイクスピア作品には謎が多い、またそれが魅力なのだ))読んでも読んでも謎は深まるが、声を出すことで、かろうじて、岸壁に縋り付くように声を出している。

まさにこの世は謎だらけ、だからこそ面白いのだという側に私は立つ。シェイクスピア作品は、よくはわからない謎の存在の人間と、その世界の関係性を鮮やかに、見事というしかない言葉で抽出しているがゆえに、繰り返し声に出して飽きないのである。偉大なる言葉の劇詩人である。











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