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2026-04-10

荒城の月、春高楼の花の宴、の歌がしみる。花盛りの日本、今朝の五十鈴川だより。

 お爺、五十鈴川だよりを打ちたくなる春の朝である。今日は終日雨の予想である。孫との春休み旅を終え、戻って3日連続働いて、我が体はようやく普段の日常生活の戻れた安堵感に満たされている。

今年は既に二度も、お正月から家族(先の上京で)、門川の兄3人、姉3人(義理の兄姉含む)と会え、嬉しい。

世界はアメリカの一方的な理不尽極まるイランへの、国際法無視戦争で、いよいよ事によったら、どのような未来が(考えたくはないが、考えないといけない)、と暗澹たる気持ちを老人の私は持っている。

当たり前の石油消費生活も、一旦有事が出来すれば、なにごとも立ちゆかなくなる。そのような今という、魑魅魍魎時代の最中、私はのほほんと孫との旅が叶った、喜びを五十鈴川だよりに打ち続けている。

凄いお仕事をされている。
この絶対矛盾感覚を、おそらく五十鈴川だよりを打てる間は抱え、生きるしかない。

世の中に出て、56年目の春、孫と妻と3人で父母の墓前に詣る事が出来た、極めて個人的感慨は、在りがたいの一言である。

丸13年以上、右往左往(現在も)五十鈴川だよりを打ち続けて来なかったら、きっとこのような今は迎えられなかったに違いない。八年前、最初の孫が授かってからの私の人生は、超保守老人我が儘、あるがまま、その日暮らし的思考にシフトしている。

年金生活に入ってから今の労働を始めて、今年の夏で丸8年になる。明らかに孫が授かって、年金生活だけでは身も心も貧しくなると直感したのである。だから私は自分の一番好きな(その上身も心も鍛えられる)肉体労働を探したのである。

結果、その後、その選択が効を奏した小さな至福感は、野暮を承知で打つが図りしれない。ささやかな収入を最大限有効に使う。目線を低く大地を見つめ、目的を持ち働く。しんどいときは、一日に何度も雲の動き、(今の季節は樹木の葉や花鳥風月に)に目を向け、つま先を意識し、深呼吸をする。(呼吸法を実践する)

朝から、お金の話になったが、世の中に出て経済的に余裕のない生活を余儀なくされ続ける中で身に付いたとしか思えないのだが、足る感覚、ある中で何とかする。無駄遣いしない。目的の為に有効に使う。お金に使われない、あくまでしたいことのために使う。年に数回、妻や家族、仲間との時間を、そして独り旅が出来れば、もう充分である。あとは心身の健康、ただそれだけである。(身軽であることのなん足る解放感、放出すれば入ってくる)

欲望のコントロール、耐えながら、ちょっと夢を見る。そこに喜びを見出だす、妙である。なんびとも老いてできなくなる。出来なくなる日を見据える。今日やれる事を尽くす。眼にみえる贅沢ではなく、ぼろ(古い衣服でも洗濯してさっぱり着る)見えない世界を感じる感覚(何度も打っているが死者との対話、想像力)を大事にいきる。私には贅沢は不要である。時が宝である。

2026-04-07

7日朝、(5日、6日の出来事も時系列で)西大寺の我が部屋で打つ五十鈴川だより。

 6日朝である。寸暇打つ。昨日午前中、ノア、葉私の3人で井の頭公園で少し遊び(一時間ほど)、次女夫婦、風香五人で、11時オープンのレストランで早めの昼食を済ませ、お昼前のバスで、ノアと私は次女家族とお別れした。お別れを嫌がる葉の気持ちが私には辛かったが、最後はまた来るからと約束、握手して別れた。

私とノアは下連雀からバスで調布にでて、京王線に乗り換え、飛田給へ。駅で12時45分に長女と待ち合わせ、落合って、女子バスケットの決勝戦を観にゆく。長女は小学生のときに(妻も次女も部活でバスケットをやっていたので、バスケットが好きなのである)バスケットをやっていたのでバスケットが好きなのである。

私はスポーツは門外漢だが、長女のお供で付いていった。場所は味の素スタジアム、お隣では東京ヴェルディのサッカーの試合が行われており、日曜日の大都会のスポーツ観戦にどっと人々が押し寄せていた。場違いな場所に何故か忽然とゆくはめになった我が身、またもや修行と観念し、現代都市イベントをウオッチすることにした。開場が午後一時、試合開始は午後3時、それまでの間、トヨタ自動車とデンソウ両チームの選手の練習を眺めて、時間をすごしたが、退屈することはなく、滅多にない機会なので、ノアとバスケットを前半まで観戦し、ハーフタイムで、味の素スタジアムを後にし、一足先に稲城に帰った。

ここからは、7日岡山に戻って打っている。昨日もっと早く岡山に戻る予定であったのだが、ノアの春休みは昨日まであり、両親はもちろん仕事、ノアは最後プールに行きたいという。長女がノアとプールまで付き合ってくれないかという。私は娘が生まれて人生をやり返せたという経験を自覚している。従って娘の頼みには弱い。だが、老人の私は孫の頼みにはもっと弱い。

正直、寸暇考えたが孫との時間を優先した。6日夜、夕食後、娘がノアの同級生で仲の良いS君にお誘いのお電話をしたところ、S君も同道してくれ、ノアは一気に嬉しさがまし、頬が紅潮していた。少年時代の友達の大きさは計り知れない。そして昨日の出来事のあらましを、わずかでも五十鈴川だよりに打っておく。

今朝の我が家の金柑

朝食を済ませ、午前8時S君と稲城の駅で待ち合わせ(お母さんも駅まで来てくださっていた、S君はロングヘアーで一度見たら、忘れられないほどに個性的で、ノアのお友達らしかった)3人で京王永山駅に、そこから小田急線に乗り換えて唐木田駅でおり、多摩市の市民プールまで約10分あるいた。上野の博物館もそうだが、ノアとは意外な都会時間が過ごせる、ことをまたもやこの年で経験した。

そのプールは私の想像を超えた大きなプールで、老若男女それぞれの世代が、目的に応じて自由に過ごせる設備が整っていて、岡山にはない規模の巨大多目的プールだったのである。平日オープンの9時には既にかなりの常連と思わせられる、高齢者が行列していた。

当初付き添いのみで、私は水に入るつもりはなかったのだが、レイさんが私のために水着を用意してくれていたので、中を体感したくなり、二人の瑞々しい少年とともにオープンと共に、結果二時間ほどプール時間を過ごした。

この施設、お年よりには至れり尽くせりで、温水に浸ってリラックスしたりミストサウナに入ったりしているとあっという間に時間が過ぎ、上京の際には又もやノアや家族と訪れたい、と思うほど、すっかり気にいったことを告白する。

たくさんの高齢者が楽しそうに泳ぎ、歩き、温水で談笑している姿を私はウオッチした。私を含めた高齢者と共に、子供世代が時間を共有している。これが私には一番素敵なことに思えた。人は皆それぞれの今の時間を生きるしかない。なんびとも若返ることはない。

高齢者の一人一人全部異なる姿を、少年時代にたくさん目撃することは、子どもにとって、きっと後年なにがしかの意味のような想像力を養うことになる。とても良い施設を多摩市は設備していて感心した。

さて、今日から三年生、二人の好奇心のかたまりノアとSくんは、11時から始まるウオータースライダー(有料だがヨガ、太極拳なども習える)を二回ほどやって、この日のプールを終えた。終えて稲城に戻り、娘やレイさんと駅の近くのファミリーレストランで待ち合わせ、S君も一緒に昼食した。愉しい時間は瞬く間に過ぎ行く。

ノアとの思わぬ春休み、宮崎旅から始まって、最後はプール体験までの10日間、目まぐるしい移動旅ではあったが、何とか締めくくりの五十鈴川だよりも打てたし、終わりよければの心境である。最後の思わぬプールはノアのお友達S君が一緒だったので、付き添いお爺も実に楽しかった。二人が愉しそうにしていた姿が五十鈴川だよりを打たせる。

午後一時半、昼食を終えお別れ、ノアが春休み付き合ってくれてありがとうと、照れながら言ってくれた。お爺さんである私も照れた。これ以上打つと野暮になる。お爺にとってもよき春休みとなった。ノアありがとう。

2026-04-05

4月5日の朝、折々時系列にそって記録を、東京は三鷹下連雀の次女のマンションで寸暇打つ五十鈴川だより。

稲城の 長女のところから朝食後9時前に出て、調布に。そこから吉祥寺行きのバスに乗り換え、10時下連雀の次女のマンションに着いた。次女はお出かけしていたが、周さんと葉(4歳)と風香(8ヶ月)が迎えてくれた。葉は私の到着を待ち望んでくれていた様子で、早速約一時間風船で打ち合う遊びに興じ、今ちょっと、休憩、葉がポケモンを見ている寸暇、彼の横顔を見ながらわずかな時間打っている。風香はお休みに入り、周さんがお昼の準備をしている。

レイさんといい、周さんといい、そのかいがいしいという以外の言葉が見つからない。明らかに、私の世代とは異なる子育てをしている。いつも打っていることだが、嫌でもわたしも何かお役に立ちたい、言う気になる。と、ここまで打ったところで一旦中断する。

ここからは、周さんが作ってくれた、温かいネギタマゴうどん(コロッケつき)のお昼を済ませて打っている。お昼を終えて間もなく長女と娘の未彩(5月がくると3歳、しばらく前から始めたプール泳ぎ活動を終え)がやってくる。葉とミアとまたもや風船遊びに、隠れんぼのお相手をする。孫のお相手は正直一時間までが現在の私の体力の限界である。

それでも、きゃあきゃあ声を発し、無心で動き回るふたりのエネルギーを浴びながら、私はきゃつらの際限のないお相手にひーひーはーはー耐える。これも老いの身の修行と観念する。このようなことを打つと悟ったようであるが、この年になると、もう一日一日を無事に過ごす修行なのだと割りきっている。

やがて未彩のお昼寝の時間がきて、水入り。ちょうど外は雨がふってきてた。マンションへの一階にあるスーパーまで、お散歩がてら、周さんと、葉、風香、私の4人でアイスクリームを買いにいった。そのご、周さんが気を利かして、私にお休みくださいと一部屋当てがってくてた。だから寸暇打っている、のだ。

何気ない、日常のひとこまを、かくも打っておきたいという私の性は何故なのか、理屈ではない。とここまで打っていると次女が用を済ませて戻ってきた。再び打つのを、中断ずる。


ここからは5日の朝打つ。昨日次女が帰ってきたとこで中断していたので、その後を時系列にそって記録として打っておく。次女が餃子を包むだけに準備しておいてくれたので、私と長女と葉も加わって50個包む。次女と夫の周さんは風香の面倒を見ながら、家事のあれやこれやを。その間、いろんな他愛もない会話が寸断なく続く。ミアはその時はお昼寝していた。午後4時レイさんとノアがやってくる頃、私と娘二人葉の4人で一階のスーパーにお肉他の買い出し。次女がすべてを払った。戻るとレイさんノアがいて、ノアと葉はさっそく二人でゲームをして遊んでいた。私を入れて9名が次女夫婦のマンションにいると賑やかさが、半端ではない。大人の声と子どもの声が、途切れることなく部屋に充満する。年寄りの私は折を見て会話に闖入するが大半はただ会話に耳を傾けて、娘たち両家族の今の生活の様子を眺めている。次女がテキパキ指示し、長女二人で夕飯の準備が進む。その間に、私がまずお風呂を頂き、周さんが子どもたち全員をお風呂にいれ、5時過ぎからゆっくりと全員での美味しい夕飯をいただいた。焼き肉を野菜で巻いてたべる。ニンジンとモヤシのナムル、卵スープ、そして手作り餃子の豪華な家庭料理、私を含め全員が幸せな気分になった。昨夜結局ノアは上岡の家にとまることになり、長女、レイさん、ミアは午後7時前、稲城に帰っていった。私は午後8時過ぎ少し酔って、一番先に横になった。とここまで打ったら、次女、風香、ノアが起きて来た。

2026-04-03

4月3日、ノアと[超危険生物展]にゆき戻って寸暇打つ五十鈴川だより。

 昨日午前10時前の新幹線で東京へ。(車中佐藤愛子さんの、90歳何がめでたい読む。ほぼ読み終える。ご高齢での頭のしなやかさに感服する。)午後一時過ぎ東京に着き、中央線で三鷹へ。次女のところに寄って渡すものを渡し、風香の顔を見て、ハッサクを剥いて、少しやすんで、4時のバスで調布にでて、そこから稲城へ。午後5時に長女のマンションへ。

ミアを保育園に迎えにゆき、(ミアははにかみながら喜んでくれた)仕事でおそくなるレイさん抜きで、四人で夕食。長女が仕事の合間に夕食の準備をしていてくれた。(パスタほか)夕食後いちばん先にお風呂を頂き、ノアのベッドで横になって本を読んでいると、レイさんが帰ってきた。私は挨拶もそこここに、ノアと共に二段ベッドの上の段で午後9時過ぎ床についた。

またもやノアとの思い出が

ここからは3日の朝。6時半過ぎ起きると、全員が起きていて、すぐ朝食。食後少しお掃除を手伝い、8時過ぎレイさん、ノア、私はミアを保育園に送ってゆく。レイさんと娘はお仕事に。私はこれからノアと上野の博物館にゆく。お天気がいいので、気持ちがいい。ブログは一旦中断する。

ここからは、ノアと二人で上野の国立科学博物館で開催中の[超危険生物展]に出掛けて戻って来てから打っている。長女とレイさんはリモートで仕事中、ノアはそばで危険生物の写生をしている。だから私も五十鈴川だより、というわけである。

つい先日までは人の少ない我がふるさとで、人っけのない地方で遊んでいたのに、今日はノアと大都会の東京の上野を往復して、まあ同じ日本エリアの別世界を動き廻っている。なにか体が正直ついてゆけない。ではあれ、ノアについてゆくと、思わぬ場所にゆくことになるので、老いのみなれど引率を引き受け、上野まで出掛けてきた。

もう最高のお天気で、上野は動物園、博物館、音楽堂、などなどが密集しているので、春休みの陽気に国内外からの観光客で引きも切らない、人、人、人でごったがえしていた着いたのが10時過ぎチケットを買って並び、中にはいるまで30分くらいかかった。入ったら入ったで、芋を洗うような人混み、展示物をゆっくり見ている余裕は全くないのは、前回来た昆虫展の時と同じ。

ノアが行方不明にならないように、じっとその動き回る後ろ姿をウオッチし続けた。約一時間以上、ノアは展示物の写真を撮り続けた。正直、ノアが行きたいと言わなかったら絶対に私がゆくことはなかった。

結局お昼過ぎまで展示物を見て、お昼は上野駅のそばのライオン(ビールが有名)でノアの好きなハンバーグランチを二人で食べた。お昼を済ませ、ノアがもう稲城に帰って休みたいというので、ノアの言う通りかえってきた。宮崎から帰って、いきなり上野の人混みをうろついたら、それはくたびれないほうがおかしい。と言うわけで、私もしばし夕刻までのんびり過ごすことにする。

2026-04-02

東京は稲城に望晃、(のあ)を送ってゆく前の五十鈴川だより。

 ちょっと時間があるので、五十鈴川だよりを打つ。宮崎の旅から一昨日戻り、昨日家と図書館でゆっくり過ごしたので旅の疲れはいくぶんはとれた。とはいえ、心のなかにはあの旅でのあれやこれやが、老いゆく体にもあもあしている。

当たり前だがすべて、やがては忘却の彼方へとなる。だが私はそれが摂理受け入れる。だが拙い一文であれ、わずかでも残しておけば、ノアが大きくなったときに、読んでくれるかもしれない。

ともあれ、そんなことよりも意外な旅が実現したことの喜びから抜けきっていないのである。そのような案配のなか、今日ノアを東京に送ってゆき、先ずは長女ののところ、それから次女のところにも2日ずつ滞在するので、私は老体ながら忙しい。

小倉が浜でのノアと妻

孫の(孫たちの)生命力が、我が体にエネルギーを注いでくれているから元気なのだ。その反動がきっとやってくるだろうが、その時はまたそのとき、摂理に従う覚悟である。

ノアはまだ下の部屋で寝んでいる。(起きた、声がする)お昼寝はしない。起きるのは7時頃、寝るのは午後9時前、その間エネルギーを放出しながら、あらゆることを吸収し続ける。今は昔、かっての自分もそのような時間を過ごしていたのだと想像する。

まさにノアは幼少期から少年期へと向かう、真っ只中の渦中を生きている。そのような孫と偶さか夢のような故郷旅が実現した喜びは、極めて個人的な感慨であれ、打たずにはいられない私の性である。

話は変わる。いつもはほとんど一人で(とくにコロナの数年間は)帰省する我が故郷、これからは孫たちが成長するにつれ、一人での帰省は減る可能性がある。いまはまだギリギリのところで兄や姉が元気なので、和気あいあい我々を受け入れてくれるが、摂理、何人も寄る年波の中では、そうもゆかなくなる。その冷厳な事実の前のすれすれの、今、今回の旅が叶ったこと、身内の全員が温かく迎え、ノアの存在を祝福してくれたことの喜びを、墓前に感謝した。

世の中、殺伐としたニュースにことかかない。清々しいニュースや報道に接するチャンスは、私の場合甚だ少ない。もっと打てば、家庭が崩壊しているのではとも言えるようなニュースが引きも切らない。成長期のノアには聞かせたくないようなニュースが溢れている。私の場合テレビが来たのが10歳くらいであったから、その点よけいな情報に体が汚染されることもなく、限りなく天然、自然界からの直接情報のなかで生活できたことの幸福は、筆舌に尽くしがたい。

自然は手強く、恐ろしい。油断すると波に拐われてしまう。その冷厳な事実を、10歳くらいまでに理屈ではなく体で覚えることの大切さを、私は孫に伝えたいのである。自分の命は自分で守る。つまりは生き抜いてゆく、知力体力の基礎を10歳くらいまでに 身につけて欲しいのだ。

臆面もなく打つが、私が何とかこの年齢まで生きてこれたのは、幼少期、とくに10歳くらいまで、五十鈴川や小倉が浜で、ただただ体を動かして遊んだ中で 身につけた、体得した下地のお陰でなのだと、はっきり分かる。名前は知らなくても、虫、魚、樹木、植物、動物、雨音、風音、雲、夜明け、夕闇、漆黒の闇、森羅万象に感性を育てて頂いたお陰なのである。

知識などは10歳以降、いくらでもその気になれば取り戻せるが、あの幼少期のかけがえのない環境幼少期時代はいくらお金を積んでもえられないのである。その感性を育むためには圧倒的な大いなる大自然を幼少期に体験しておかないと、まずい。畏怖する感覚、その大切さを我が孫には、(すべての子供に)理屈ではなく体感して欲しい、のだ。私が元気な間は、年に数回は大自然のなかに放り出す、宇宙、自然界のなかの自分も一部なのだと頭を垂れる感覚を体得して欲しい。これは私の遺言である。

2026-04-01

望晃(のあ、3月で8歳になったばかり)と妻と3人で故郷への旅を終え、(新鮮なうちに記録を打っておく)戻ってきて思う五十鈴川だより。

 物のプレゼントではなく、思い出に残る長女の息子に、春休みお爺の故郷へ一緒に行かないかとノアに誘ったところ、行きたいとのことで、このまったく予期していなかった思わぬ旅が実現した。

私が嬉しかったのは、ノアと共に妻も行きたいと言ってくれたことである。細かいことに気がつき、移動計画ほかあれやこれや、私よりはずっとデジタルに強い妻の参加で、一気に旅の計画が具体化した。

熊本往復は新幹線、熊本でレンタカーを(3泊4日)かり、出発の28日土曜日は阿蘇をドライブ、ぞの日は高千穂のホテルに泊まり、翌日高千穂を観光、29,30日は長兄の家に泊まり、五十鈴川、小倉が浜他、私の故郷で遊び廻る予定をたてた。


タイトな計画を避けての旅、あくまでもノアのやりたいことを優先した。初日の阿蘇では動物にふれ合える元気の森がことのほかお気に召したようであった。夕刻高千穂のホテルに早めにチェックイン。

翌日はサクラを眺めながら美味しい朝食をすませ、午前中は高千穂渓谷や高千穂神社、天岩戸神社を詣で、ちょうどお昼門川について、高校生の頃に良く食べていた懐かしい天領うどんでお昼を食べた。

その後、門川から小倉が浜に直行、天気が最高でたくさんのサーファーが波と戯れていた。海で遊ぶ用意をノアは何もしているなかったのだが、誰に似たのか、いきなり繰り返し打ち寄せる波と戯れ夢中で遊び始めた。(インドア、ゲーム、漫画、本、ユーチューブ何でも、好奇心たっぷり)

広い小倉が浜、見渡してもノアいがいはすべて大人、春休み子供の姿はなかった。子供はノア一人。すぐにずぶ濡れになった。大きな自分の背丈位の波をかぶり、恐れながらも子供らしい声をあげながら、遊ぶ姿を私と妻は、スマホで何枚も撮った。

私の勝手なおもい。いつの日にかここで孫たちを存分に遊ばせたいとの思いは、故郷への旅二日目にして、実現した。春がきたとはいえ、海水はまだ冷たい、だがノアはそのようなことは気にもとめず、30分以上波遊びに興じていた。その姿を、老夫婦と孫と海をまるごと、味わえ至福感を覚えた。思い立って来て良かった。

左が次兄77歳 右が長兄80歳

午後3時過ぎ、着いてすぐ先ず姉の家に3人そろって挨拶に行き(姉夫婦大変喜んで、5人で記念撮影をし)隣の長兄の家についた。ノアは初めての我が兄夫婦や姉夫婦との邂逅、すんなり物怖じせずうちとけていた。

妻はすぐに海水に浸かった衣類他を洗濯させて貰った。義理の姉登紀子さんと妻はずいぶん久しぶりの再会であったのだが、あっというまにうちとけて、和気あいあい時間が流れ始めた。早速、二人で夕飯の買い物に出掛けた。

夕刻ノア、妻、私の3人で門川の心の杜温泉へ行った。戻ると登紀子さんお手製の刺身や、ノアの好きなハンバーグ、イチゴなどの心づくしの夕飯が用意されていた。私は登紀子さんが用意してくれた夕飯のやはりお刺身を、いちばんたくさん頂いた。この味こそが家庭の味、兄嫁の手料理をたべると(姉の手料理も)と故郷に帰って来て気がする、のだ。

翌日、ぐっすり寝て目覚め、美味しい朝食の後、3人でお墓参りをすませた。ノアは丁寧にお参りし、お水を沢山上げてお祈りをした。お墓参りのあとすぐ近くに住む次兄の家に挨拶に行った。次兄夫婦ともノアと妻の来訪をことのほか喜んでくれ、兄は植物が好きな妻にあれこれ自分が丹精込めた50年以上は手間隙込めた庭の植物について、説明してくれた。

傍らで私も聞き入った。(次兄夫婦は子供がいない、庭の植物が子供なのである)次兄が説明している間、ノアは庭のあちこちをリスのように徘徊していた。縁側でお茶を頂き、ノアに沢山のお菓子を頂き次兄の家を辞した。

その後、再び我々3人は昨日に続いて、ノアが行きたいという小倉が浜に再び向かった。午前9時半に着いた。平日の朝なのに駐車場の7割くらいが埋まっていて、すでにたくさんのサーファーが波に乗っていた。昨日と同じ、子供の姿は見えない。そこにまたもやノアが天真爛漫に波遊びに興じる。二日連続の波遊びに満足していた。お天気が心配だったのだがもった。

お昼は簡単、3人で小倉が浜の近くのマクドナルドですませ、その後、次兄の勧めた遠見山の展望台から我が町を一望に眺め、最後に小学生のときに最も遊んだ五十鈴川へ。ノアと石を投げをし、妻も共に楽しい時間を3人で過ごした。遊んでいると雨がポツポツ落ちて来たので兄の家に。

故郷で、砂と戯る、春休み

海、山、川を堪能。楽しいことはエネルギーを放出するので疲れる。雨音を聞きながらお昼寝をし、起きて兄夫婦と珈琲たいむ。しばし歓談、タケノコとフキの煮付けた初物をいただく。雨のお陰でよき時間が流れた。

午後5時かなりの雨のなか、5人で神田川というお寿司やさんにゆく。あと二日で80歳を迎えるという兄のお誕生会もかねての楽しい晩餐会となった。登紀子さんが運転してくれたので、兄も妻も少し飲んだ。雨足が強いなか早々に神田川を後にした。戻ってお風呂を頂きすぐに床に着いた。夜中、春雷が轟くのを時折耳にした。

そして昨日である。あさ起きてすぐに妻と二人で、我が心の乙島が見える港まで早朝ドライブ。戻ると次兄がお土産をもってやってきた。朝食をしながら寸団欒、次兄はノアがとても気に入ったらしく、お小遣いをくれた。

ノアははにかみくねくね体をよじらせ、照れながら喜んでいた。久しぶり兄二人と記念撮影が出来た。ノアは老人の心も軽やかに包んでしまう。子供とはかくも不思議な存在である。最後に姉に挨拶に。82歳の姉もノアに春休み記念、お誕生日のお祝いをしてくれた。

帰路を簡略に記しておく。兄の家を8時前にでる。雨がすっかり上がり清々しい雨靄の故郷の山並みを愛でながら、ほぼ満開に近いそこかしこの山野のサクラを愛でながら、五ヶ瀬川を北上、高千穂から五ヶ瀬町、山都町を抜け、熊本に入った。ちょっとだけ熊本城を眺め、お昼前レンタカーを返し、12時42分のさくらに乗る。座れた。車中、買い置いたお弁当で昼食。午後3時15分岡山着、25分の赤穂線に。午後四時過ぎ我が家に着いた。

PS 今朝姉からなにもおもてなしできず申し訳ないとのメールがきた。とんでもないことで恐縮である。元気な顔が見れただけで充分である。ノアの心に我が兄たち、姉たちが残ったことが私にはただ嬉しく、もうそれだけで悔いはなく、妻が参加し大満足の旅となった。。五十鈴川だよりが打てて言うことなしである。(一気に打ったので誤字脱字ご容赦あれ)

2026-03-25

杉浦日向子さんの濁貧の生活、という言葉に我が意得たり、今朝の五十鈴川だより。

 今年から水曜日もOFFにしたので、以前より動と静の生活バランスが良くなってきた。年齢的に労働時間を抑え、思索、思考時間をもっと増やしたくなったのである。清貧の暮らしではなく、濁貧の暮らしと言ったほうがぴったしである。

ゆっくり学ばせて頂いてます。

18歳で世の中に出て、井の中の蛙を身に染みて後、なんとかみすぎよすぎ、この年まで生きて来れた事実に、言うに言えない感慨が時折おそう。

それを言葉にすることはかなわない。絶対矛盾を承知で、老いゆくその日暮らしを面白がり、五十鈴川だよりを打つ。

濁貧という言葉は、江戸学に造詣の深かった、故杉浦日向子さんの言葉である。(時代を間違えて生まれてきたかたである)生まれは私よりも若いのに48歳で他界されている。(姿は見えねど今も彼女は生きている気がする)

私は杉浦日向子さんの描いた漫画を数冊もっている。先日、たまたま図書館で彼女が遺した、今も読者に読まれ続けている、私を撃つ言葉に出合った。自省、反省する。

この年齢で出合得たからこその、彼女の言葉が老人の私に染み入ってきた。私は人生の折々にずいぶん痩せ我慢(特に40歳まで、岡山に移住するまで)をして生きてきた。ときに歯軋りを伴うほどに。

それが良かったのか、悪かったのかは、いまはまだ語らずといったところだが、ようやく(それにしてもあまりに遅いとはおもうものの)にして、いわゆる終着点(本当に弱ったら文章なんか打てないので元気なうちに打つ)の気配のような感覚が増すにつれ、あらゆることに我欲の執着心が限りなく薄くなってきたのである。(普通の人ならもっと早く気付いて然るべきところ私は遅い)

もっと打つならば、執着心を手放す解放感に向かいたい、浸りたい、一切合切から身軽になりたい(そんなことは不可能を承知で)なんてことを、忽然と想い、夢みるのである。手放したが故にこそ、新たな地平にたどり着けそうな気がする。そのようなときに杉浦日向子さんの言葉が、染み入ってきたのである。自由(自遊)、理由はなく、今の日々のこの世を慈しむ。

私のこれからの現世時間の中で、先人たちの遺した言葉、(生き方、死に方)に耳を傾け、心を澄ますことに重きをおいて生活をしたい(のだ)。人は生きてきたように死を迎える、と何百人者方たちを看とった、高名な堀鴎一郎先生(このようなお名前だったとおもう、間違えていたらすみません)がおっしゃっていた。

長くなるので割愛するが、杉浦日向子さんの言葉で、いよいよの後期高齢者老人生活をいかに送るのか、答はないと知りつつ、今後、益々ものを想う時間の過ごし方を大切に生活したい。

話は変わるが、金曜日8歳になったばかりの最初の孫、望晃(のあ)が春休み帰って来て、翌日の28日から3泊4日、私と妻と3人で故郷、門川へ旅する。ノアは私の故郷は初めてである。濁貧生活の中に、時折思いもしない出来事が起こる。一日一日の積み重ねのご褒美と勝手に思っている。私がこの世から不在になっても、孫の思い出に、我が故郷が記憶にのこるような旅がしたい。これ以上打つと野暮になる。


2026-03-21

草取り作業の、面白さにハマり、そしてもの想う、今朝の五十鈴川だより。

 昨日はお彼岸、春分の日であった。日の出が早くなり、今日もお天気が良さそうで、午前中義父のお墓参りに出掛けるまで時間がある。起きて数時間が、今の私の頭がもっともニュートラルですっきりしているので、ほとんどの五十鈴川だよりはこの時間帯に打っている。

中世夢が原から移植した水仙

さて、5年前のこの季節、私は病院に入院していた。いつ入院したのかは覚えていないが、退院した日は忘れることができない。23日である。69歳になってまもなくコロナ渦中の大変なときに、高熱が引かず緊急入院、運よく陰性で即手術となった。

簡潔に打つ。三回手術し、入院していたのはわずか3週間である。敗血症も併発していたので、生まれて初めて死が頭をよぎった、が幸運にも私は生き延びた。

退院した時の体重は53キロ、妻の迎えで、別人、弱々しい姿で家にもどった。退院後、先日退職されたTさんから、再三お電話をいただき、3週間もしないうちに肉体労働に復帰した。

Tさんから無理せず体を動かし、職場でリハビリせよとの言葉にしたがったのである。初日一時間、徐々に時間を増やし、一月後には元のように体が動いていた。あれから丸5年、極めて平凡な日々を、有り難き日々と感じ続けられている。退院後一年間お酒を絶っていたが、先生からビール、日本酒はだめだが、蒸留酒なら飲んでもいいとのお達し、すっかりハイボールが好きになった。

臆面もなく打つ。存在できているだけで足りている。この5年の間に、手術した時には一人だった孫が、4人になった。体重も61キロに。

さて話は昨日の続き、退院後の生活に生気を頂いた肉体労働、3年前から相棒が(それまでは一人でやっていた)加わった。すこし余裕ができたこともあるが、特に冬場、アスファルトの隙間から間断なく伸びてくる草を採る作業を、相棒と共に昨年の冬から、腰を入れて取り組んでいる。

正直、このような難儀な姿勢での根気のいる作業に、年齢的にも自分の体が喜びを覚えるなどとは想いもしなかったのだが、今私はこの地道な作業をどこかで楽しみ面白がっている。単なる目の錯覚で(草は決定的にまた生えてくる)あるにもせよ、採取.before.after ではまったく様相がことなる。

手入れがゆきとどいている、という自己満足感に浸れる、のだ。だが決して無理はしない。尺取り虫の要領、休んでは動きを繰り返すだけである。

この難儀作業、よもや相棒も加わるとは、期待も思いもしなかったのだが、相棒も根気よく従事している。お互いあうんの呼吸、だから必然的に関係性も深まる。何事も続けていると、体が自然とコツを知らせてくれる。

日本語には座る以外にも、しゃがむ、這いつくばる、という言葉がある。目線は大地に根をはる草に集中する。雨の翌日はTさんにお願いして特注で作ってもらった、草かき棒がことのほか役にたつ。作業が捗る。この面白さは、薪割りを体得した面白さと同じである。

重機や草刈り機がない昔、人々は腰を屈め、稲、根菜類の収穫など、直立歩行人間には難儀な姿勢での労働に、なん百年も従事していたはずである。もちろん私のご先祖も例にもれない。

富良野で初めて大地に這いつくばり、中世夢が原でも薪割り等の普段現代生活ではやらない体の動きを、何十年も続け、66歳から今に至るも、体を動かし続けて来なかったら、きっとこの草取り作業の面白さを、体得することはなかったともう。

そして想うのである。昔から人は苦しい生活や、労働のなかにも、なにがしかの喜びを見つけていたのに違いないと、私はおもいいたったのである。一見単調な動きの繰り返し、だが体は老いても、未だつつうらうらまで活性化する。気付くとずいぶん捗っている。老人の私には、安全でぴったしの仕事、何より天ノ下で思い通りに春の訪れのなか、地中のミミズが動くように、大差かわらず、私も動く。

夜、日中動いてくれた体を休め、就寝前体の手入れ、20分程度の体操を電気をつけず闇の中でする。暗いなか、これもはまっている。今年から始めた。千住真理子さんがやられていることを、私も真似している。おかげで以前にもまして、ぐっすり眠れる。寝て起きて働いて、合間合間に好きな時間をすごす。限りなく昔人にあやかりたい、というのが今の私の元気の元である。


2026-03-20

古い落丁のある、ボブ・ディランの詞を(詩集)の書写を(全部ではない八割程度)終えて思う、春の朝の五十鈴川だより。

 ちらほら桜の開花が告げられる季節の到来、等しく万人に春はやってくる。ウキウキ嬉しい。今日から三連休である。五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが、休日でも、ほぼいつもの時間に目が覚めたので、ゆっくりとコーヒーを飲み、ボーッとしていたら、なにやら綴り打ちたくなった。

私のことだから、いつまで続くかはわからないが、今年は年明けから、真面目に気に入った文章や、歌などを書写している。2月の中頃図書館でボブ・ディランの歌詞集を見つけた。長くなるので、簡潔に打つ。私はボブ・ディランの熱いファンではまったくない。

だが、思春期にライク、ア、ローリングストーン、風に吹かれて、時代は変わる等の、ハーモニカをぶら下げ、あの独特の声と歌いかたに、直感的に引かれ、影響を受けたことは間違いない。見果てぬ世界への誘い、とでも言うしかないなにかに、田舎者の私は連れ去られたのである。

学ばせていただきました

あれから55年以上の時が流れ、まさに時代は代わり、あの当時の生活にはなかった品物(武器を始め、世はまさに隔世の感)が溢れ、音楽も、小説もAIが(まったく私はその方面に疎いが)作れる、私には理解の及ばない、奇異な時代を、お爺さんになった私は生きている。

そのようなときに、たまたまボブ・ディランの詩集にであったのである。52年前、1974年に出版された本で、かなり落丁がある本であったのだが、書写をしたくなったのである。一月位かかると踏んで始めたのだが、結果3週間とちょっとで終えることができた。(ノート一冊とちょっと)

ボブ・ディランの詞を、翻訳日本語で読むことは、限りなく別な作品を読むことなのだと思いながら、書写を続けた。終えて思うことはやって良かったということである。

(今の日本にボブ・ディランのようなソングライターがいるのかいないのか、浮世離れの老人の私は、寡聞にしてしらないが、多くの名もなき弱き人々の声を、救いとる歌人の不在が、時代の不幸なのだと思える)

そして、岩波から出版されている新しい翻訳を手元に欲しくなったこと、この年齢で再びボブ・ディランを聴きたくなったことである。(千住真理子さんをきっかけに、何十年ぶりにわたしは好きな音楽を再び聴きたくなっている)

話は変わる。私は好事家的に本を読んだりはしない。あくまでも本を読むのは生きるためであり書写を始めたのも、そうなのである。五十鈴川だよりを打っていると自己満足の安寧がやってくる。書写もそうなので続けられる。もっと打てば、日本語の文字を手で書いていると、この老いゆく体が言霊に癒され安らぎ、気持ちが良くなるのである。

昔の人が詠んだ、俳句や和歌なども書写していると、なにやら昔人と交信しているかのような心持ちになる。枯れつつも微かな想像力の翼にたゆたい、荒涼とした潤いのない現世から逸脱時間が過ごせる(のだ)。

自己満足以外の何物でもない。しかもまったくといって良いほど自己完結、他者に迷惑をかけない。お金が不要、ノート、紙、インク代位である。書写以外に最近私がはまっていることがもうひとつある。それは明日打つことにする。

2026-03-18

84歳、草刈を終え颯爽と軽トラで帰ってゆくIさんの後ろ姿に打たれた、今朝の五十鈴川だより。

 昨日ちょっと嬉しいことがあった。私のバイト先は広いので、私と相棒の二人では手が及ばないエリアを、年に4回、シルバー人材センターの方たちが5~6人位やってきて(今回は数週間、高く伸びた枯れたすすきや葦を刈っていた、大変骨の折れる労働である)草を刈っている。その中の一人のかたが午後突然私のところにやってきて、今回は今日で終わりだと、わざわざご挨拶に見えたのである。

今日の五十鈴川だよりはkさんとの共作

何故ご挨拶にみえたのかはわからない。その方があまりにしゃきっとされていたので、思わずおいくつですかと訊いたら昭和17年生まれだという。私よりも10歳年上84歳である。

小柄だが背筋がしゃんとしていて、かっこよかった。久々、私よりも歳上で、草刈仲間で、話し方も含め、気持ちの良い老人に、昨日私はであった。笑顔が素敵でまた会いたいと思ったので、お名前を伺ったら、向こうも私の名前を訊いたので応えて、再会を約束した。

五十鈴川だよりは、その日暮らし、年寄り通信になっている。老いゆく一日をいかに気持ちよく過ごせるかに、重きをおいた生活を心掛けている。が正直、日々の生活の中で、爽やかで清々しい老人に出会うことは、私の場合稀である。

そのような日々の中で、出会えたIさん、今も打ちながら先輩の笑顔が浮かぶ。果たして10年後、Iさんのように草刈ができるだろうかと、自分に問う。私の答は、比較はしないで自分なりに一日を積み重ねてゆくしかない、という結論になった。ただ限りなく積み重ねてゆく希望を私はIさんの後ろ姿にみた。

これからの年齢を刻むお手本を、身近に見つけることができた喜びはひとしおで、そのことが私に五十鈴川だよりを打たせる。80歳を機に退職されたTさんしかり、今私が日々の足元生活で生き甲斐ともなっている労働仲間は、バーチャルなお付き合いではない。体を動かし、ともに寒さ暑さ、苦楽を共有するかけがえのない仲間である。

そのような仲間と、気持ちよくアウトドアで、バカな冗談を交わし晩年過ごせるなんて、私は至福である。皆、紆余曲折それなりに人生を歩んできた高齢者なので、都合の悪い時には支えあえる。(家庭の事情や長期のお休みなどで)

前回の五十鈴川だよりで打ったが、音楽会などの企画を止めるというのではなく、老いゆく仲間と、愉快に過ごす、少人数での終を見据えた(よしんば実現しなくとも)、自分でも思いもつかなかった、ようなひとときを演出する企画が、可能かもと夢みる。私ごとき、この世はつかの間の、夢のまた夢、だからこそ現実我が体を動かし、思いを共有できる仲間を大切に生活したい。私はすべての今を生きるすべての仲間と存在しているのである。

PS 今朝の写真は山梨に住む、女性の友達kさんから昨日送られてきた写真(昨年、数十年ぶりに再会を果たすことができた、73歳で企画しなかったら再会はかなわなかったかも、あれやこれや物語かしたくなるほどに、偶然を必然かしたくなる)

Kさんへ。妻同様私も富士山が歳と共に好きになり、老い先をみつめるとあらゆる生き物、つまりは森羅万象がいとおしく、慈しみたたくなる。よい写真ありがとう。(日本に生まれてよかった)上京した折、タイミングが合えば、ハイボールを飲みましょう。また写真送ってください、写真友達でいてください。(富士山の、写真いただき、春がきた)


2026-03-15

岡山の奥座敷、猪風来美術館、吹屋探訪、高齢者3人日帰り和気あいあい旅、翌日の五十鈴川だより。

 五十鈴川だよりを打てる朝がきた。昨日、共に働いているkさんに運転してもらって新見の猪風来美術館、吹屋を訪ねるワンデイトリップに出掛けてきた。

元仲田邸の離れの風雅な2階のお部屋での3人

[私は66歳から、今に至る(この夏で丸8年)この間パートタイム肉体労働を続けている。当初こんなにも長く働けるとは思いもしなかった。

今では単なる労働という概念を超えて、動ける喜び、働けることの在りがたさのような感覚が、大きな手術の後、古希を過ぎてますますふかまっている]

その労働環境で出会った、私より6歳年上のTさんが80歳を機にこの春、退職(週に3日来られていた)することになり、ご苦労様昼食会ワンデイ日帰り旅をしてきた。私をいれて3人での気まま旅を記録として、五十鈴川だよりに打っておく。

朝8時、kさんが私をピックアップ、続いてTさんを乗っけて、そのまま2号線バイパスに入り、岡山を抜け、総社から高梁川沿いを走り、猪風来美術館に10時半頃到着した。

紅やの主大場氏と。

約一時間村上よし子さんの解説付きで、館内展示作品を観賞した。村上よし子さんの新作タペストリーも展示されていて、作者のお話も聞くことができた。

(新作タペストリー、原野さんへの祈りが余すところなく、織り込められていて打たれた、新作の絵本も頂いた。これまでにも絵本を頂いた、近々ご本人のサインを頂きたいと思っている)

齢80歳で、いきなり異次元縄文、猪風来、村上原野作品を体感したTさんは、子供のようにあれこれよし子さんに質問をされていた。嬉しかった。年齢関係なく感じる人は感じる。案内して本当によかった。

あっという間に時間がたち、短い時間だったが猪風来さんよし子さん含めて、五人でお茶を頂き、そこから宇治の元仲田邸へ。12時20分着。地元のおばあちゃんの手作りお弁当を、趣のある江戸時代に建てられた家の和室で3人で頂いた。美味しくてあっという間に平らげた。Tさんもkさんも笑顔であった。

元仲田邸の管理人であるO氏は、中世夢が原で私が働いていた頃からの知り合いで、私の企画のほとんどに足を運んでくださっている。その彼に予約を入れておいたのだが、昼食後離れの風雅な趣のある建物(カフェで)で庭と宇治の山、田園風景を眺めながら、1950年代のレトロなアメリカ音楽を聴きながらしばし珈琲たいむ。

O氏が心込めて淹れてくれた。サイコーのおもてなしビスケット🍪付き(大きめのこれまたレトロのカップに)なみなみコーヒー。つかの間の至福感に浸った。kさんはこんなところで昼寝したいといっていた。しかりである。

O氏のカフェ、元仲田邸の建物の熱い説明に、Tさんもkさんも聞きいりつつ、二階からの眺めにいたく感動していた。桜がいい季節に、妻を伴いまた行きたい。珈琲タイムの後、Oさんが経営するカフェ、紅やがある吹屋に移動(元仲田邸から6キロ)し、ベンガラの里をしばし3人で散策した。紅やのすぐ近くで札幌から移住し、釜戸ご飯店を営む女性とも談笑できてほんわかした。(このような場所で富良野の話をするとは、まさに小説より奇なりである。)

Oさん含め、最後は70代男カルテットで、和気あいあい写真を撮り、愉快なひとときが過ごせ、小さな幸福感に包まれた。午後3時過ぎ、再会を約束し吹屋を後にした。復路は高梁から賀陽を抜け、岡山市内を迂回、2号線バイパスに入り側道をおり、朝とは逆Tさんをおろし、6時前に我が家へ。その後、kさんから無事に着いたと連絡があった。

おおよそ10時間の、岡山奥座敷探訪、高齢者男3人での日帰り旅、音楽会とかのイベントを、企画することばかりが企画ではない、その事を私自身が思い知らせれた、日帰り和気あいあい旅となった。今現在を共に生活し多くの時間を共有している、身近な仲間との交友をこそ大事にしたい。(大事な仲間との数人での和気あいあい旅は、私にとって老いゆくなかで、新たな気付きの啓示の予感、滅多にないからこそ素晴らしく思える)

2026-03-11

昨日は母の命日、東京大空襲、今日は東日本大震災の日に思う、五十鈴川だより。

 水曜日は労働OFFにしたので、五十鈴川だよりを打てるのが嬉しい。昨日は母の命日、そして東京大空襲の日、そして今日は東日本東北大津波、原発事故大災害の日である。あれから15年の時間が流れた。五十鈴川だよりを打てる間は、この日のことは忘れない。すべての死者の冥福を祈る。(やがて私も死者になる)

桑江さんご夫妻に出会え幸福である。

個人的に1月、2月、3月は両親、義父の命日が続く。また家族のだれかの誕生日が続くので、例年いやでも死者を悼んだり、生きてこの世に在り、穏やかに健康に平凡に生活出来ていることにたいする感謝の念は、私の場合老いとともに深まる。

近年、私にとって春が来るまでの冬の季節は、五十鈴川だよりをうち始めて以後、死者へのおもいを深める時間であり、またこの間に授かった孫たちとの出会いで、あらためて命の摩訶不思議さに気づかされ続けている時間でもある。

人生の持ち時間は有限である、ということを、今年からかすかに実感しつつある。還暦までは、頭では理解はしていても、限りなく実感がともなわなかったのだが、元気に思考、動ける時間は有限である。

とはいえ、ありがたいことに、いまだに肉体労働がパートタイムでできる体力が在り、五十鈴川だよりも打てる。だからこそ時間を大切に生きたい。何人も歳を重ね、程度の差こそあれ老いる。厳粛な自然の摂理に私は抗いたくはない。老いは哲理、病気ではない。体力が無くなってきたら、きっと気力も萎える。だからこそ今が、一日が大切になる。

世の中、人生100年時代とのたまうが、あくまでもその人らしく、生をまっとう出来ることをこそ、私は望む。自然に抗うのは不自然である。生まれたばかりの赤ちゃんがなにもできずお母さんの手を借りるように、何人も最後はどなたかの手を借りるのである。その自然哲理に私はあやかりたい。でもギリギリまでは命を(思考する楽しみ)みつめられたら、言うことなしである。

話は変わる。私が生の有限をかすかに実感し始めたのは、やたらと昔のことを懐かしがる、というか、その懐旧の念の深まりが、日に日に濃くなってきているのを感じるからである。現世に生きている喜びもさることながら、昔の思い出(善きことばかりではない)によって、(故郷回帰願望はその最たるものである。)再び生き直しをしているかのような感覚(錯覚であれいいのである)を感じるからである。

その事で打てる(書ける)打てないは別にして、打てる範囲で打てるうちに、孫たちにお爺の思い出を残しておきたいという気持ちが湧いてきている。今はまだ、生きるのに忙しいけれど、五十鈴川だより(のなかで、タイトルは未定だが、孫たちへ)、なにがしかの文章を遺したい。明らかなことは体力がなくなったらうてない、からだ。

老いると昨日できていたことが、突然できなくなる。なき父が26回連載していた新聞記事を遺してくれていたことで、今、私がどれほど日々生きるエネルギーをもらっているか計り知れない。また、母が晩年病をかかえ、病床からの葉書が手元にある、宝である。

PS 今日の写真は昨日送られてきた、桑江良健さんの回顧展のお知らせ。最後の個展になるとのことである。出会えて30年の関係性。このような人物と出会えて言葉がない。幸福である。

2026-03-08

2月から、長周新聞の購読を始めました、そして思う、3月最初の五十鈴川だより。

 3月最初の五十鈴川だより。国際法無視、アメリカ、イスラエルによるイランへの空爆ほかの報道映像、ガザ、ウクライナ、終わりの見えない戦争地獄エリアの映像に、老人の私の感覚は麻痺している。想像を絶する。編集され切り取られた映像をいくら流されても、ごく普通に生活している民衆の痛み、苦しみ、慟哭は、哀しいかな実感できない。そして深い深い世界の真実は巧妙に隠蔽されているようにしか思えない。


だが、80年前のこの日本で3月10日、何百機の(正確な数はわからない)B29による焼夷弾の一晩の空爆で、東京都内の死者はなんと10万人に及んでいる。一晩でである。

そのあまりのすさまじさを、作家の永井荷風や谷崎潤一郎、半藤一利、太宰治、向田邦子、山田風太郎、北杜夫などなど、また芸人の徳川夢声、古市ロッパ、などが日記に残している。

西川清史著、[荷風たちの東京大空襲]を読むと、そのあまりの生き地獄、阿鼻叫喚の、まさに言語を絶する様子が、赤裸々に綴られている。齢74歳の私がいま読んでも、この世の地獄絵が彷彿と想像できる。人は極限状況におかれたら、豹変することでしか生きられない。誰がその事を非難できるであろうか。ただあの極限のなかでも、自ずとそのひとらしさは 文章から浮かびあがってくる。自問、自分が極限状況におかれたら。やりきれないが、きっと豹変する。だからこそ、平和で生きられる今をこそ大事にしたい、のだ。

この歳になって、というのは、老い先が短くなって思うことは、孫たちや未来の日本を担う人たちにも平和。穏やかな日常生活が送れる平凡な日々を、と願わずにはいられないからである。

私を含めた、戦後生まれ、平成生まれの娘たちには、皆目そのような艱難辛苦世界は想像だに出来ないことである。が、80年前、とくに東京ほか日本の大都市は空爆され、今のイランやウクライナやガザでの悲惨極まる阿鼻叫喚地獄絵を、都会にすむ人びとは経験したのである。

戦争エリアの人々の、想像を絶する苛酷な生活状況の理不尽さに、老人の私など思考停止に陥りそうになるのだが、老いてはいても無関心だけは勉めて避けたい、という気持ちが五十鈴川だよりを打たせる。

話は変わるが、2月から購読を始めた地方発、下関の長周新聞(一週間に数回郵送され、見開き四ページ、読みやすい)、老人の私には読みやすい。大都市の新聞社とは全くといっていいほどスタンスが異なる。庶民生活者の視点が揺るがない。そこがいい。じっくり目が通せる。

ほとんどが世界の大都市(政治、経済、文化、メディア、テレビ、ネットフリックス等の娯楽番組含め)からの、映像情報に対して、活字好きの私には長周新聞は新鮮である。軽重浮薄な人生歩んできた私には、教えていただくことが多い。

先の大戦で知らされた日本人の、大きな流れに染まり易い体質(私などご多分にもれない)は、ゆめゆめ油断してはならない。幸い言論の自由が国是として憲法で保証されているので、五十鈴川だよりを打ちながら、一人のお爺さんとして、何よりも穏やかで平凡な、マイナー日常生活の有り難さを金太郎飴のように打ち続けたいと、念う。

PS 私の両親は、北朝鮮からの引き揚げ者なので、一面の記事、すぐに読ませていただきました。あまりにも読むのが辛い。


2026-02-28

2月最後の土曜日の朝、千住真理子さんの(続ける力)という本にエネルギーをもらい、ボブ.ディランの詞の書写を始め、思う五十鈴川だより。

 土曜日、もう2月が過ぎる。今年は、その日暮らし老人生活を、今のところいい感じで過ごせている実感がある。打てる時に打っておく五十鈴川だより、日々感謝、ただそれだけである。当たり前、ある日突然五十鈴川だよりは終わる。だがその日までは打ちたい。打ち続けたいという願望が消えない。


さて、いまだ労働者として、副業で日々の生活の幾ばくかの糧を得ている身としては、健康こそが全て、そのコンディション調整こそが、今を生きるその日暮らし生活者としては、第一義である。健康が損なわれたら、五十鈴川だよりは打てなくなる。

統計というものによれば、いま男性の健康寿命は73歳あたりであるとのことである。私はすでにその年齢を過ぎている。そういう意味ではありがたき日々を私は送っている。

ところで、昨年秋千住真理子さんの、続ける力(その事は書いている)という本を読んで、痛く感動した。(今も手元にある)

長くなるので簡略に打つ。真理子さん(と呼ばせていただく)は私よりも10歳年下である。生まれ落ちた時代も環境も、すべてのことがあまりにも異なる。私はヴァイオリンに触れたこともない。だが事実打たれた。別世界を生きておられる方の本を読んで、何故私が感動するのか、を縷々説明するきはおきない。

本を読んだことで生まれて初めて、千住真理子さんの演奏を、昨年11月8日東京の八王子で聴いたときの私の驚きは、すでに五十鈴川だよりに打ったので割愛する。日々謙虚に修練する、続ける、続けられるその泉のようなエネルギーの源を、続ける力のご本のなかで、赤裸々に吐露されている。

私は若い頃から、持続力が、限りなく乏しく、世の中に出て飽きっぽい性格の自分を時にもて余し、苦く暗い青春の日々を送っていて、20代の終わり、このままでは駄目になるという、言うに言えない感情におそわれたことをいまだに私は忘れない。割愛するが、自信が湧いてきたのは富良野での労働体験以後、30歳を過ぎてからである。

ところで、千住真理子さんは一度ヴァイオリンを二十歳の頃手放されたことをご本で知った。天性のヴァイオリニストにしても数々の試練、挫折を乗り越えて現在がある、のである。

今現在も智力、体力を研ぎ澄まし、鍛えておられ、プロの水面下での日常がユーモアをもって綴られている。真理子さんのご本は、今を生きるすべての人に開かれている。その日暮らしの老人にも、限りなく勇気を与える。

その日暮らしの充実を図るために、一日でも長く肉体労働従事者で在りたい、との覚悟が深められたのは、千住真理子さんの本を繰り返し読んでいるからである。その本に触発され、この数年、折々続けていた、好きな言葉や文章の書写を、本格的に2月16日から始めた。

2月20日から時間を見つけて、ボブ.ディランの詩、歌詞を書写している。200以上はある歌詞を書写するのにはかなりの時間がかかる。だがもう決めて、手は動き、すでに全360ページの130ページまで進んでいる。わくわくすることは続けられる。

全く未知の、別世界の方のご本から、このような刺激を受けるとは思いもしなかった。そのような体、いまだどこかわくわくする心を老いてますます大事にしたい。さて、思い付いて始めたボブ.ディランの書写、いまの時代を予見するかのような、歌詞の内容のそのすごさは時代を鋭く撃つ。そして時代をこえる。書写しなかったらボブ.ディランの詩にも出会うことはなかった。

PS 今朝の写真は三鷹の娘のマンションの入り口に聳えるヒマラヤ杉の写真です。撮影者は長女の旦那さんのレイさん。彼は写真のセンスがいいので、時折五十鈴川だよりに載せたいとおもいます。

2026-02-25

ひさかたの雨の日に思う、午前中五十鈴川だより。

 ひさかたぶりの雨である。我が家の妻が丹精しているわずかな野菜、花などはきっと喜んでいるはずである。今年から水曜日も労働はオフにしたので、やはり余裕というてんで正解である。自在に気の赴くまま好きなことに静かに専心できる。

東京大空襲3月10日は母の命日である。

父の命日、2月5日を過ぎてから、ゆっくりと書写の時間が増えてきた。まず以前からやろうとおもっていた百人一首の書写を(万年筆で)終え、いまボブ.ディランの詩集に取り組んでいる。

何故、ボブ.ディランの書写をするのかの長い説明は省くが、ディランは今年85歳だという。18歳で世の中に出た頃、意味は深くはわからないのに、直感的にやるせなさとともに、あの声とハーモニカが、島国の田舎の少年の心に染みたのである。

時代は変わる。風に吹かれて、を聴くことがなかったら、まず広いこの地球のわずかではあれ、異国への旅をしようとは思わなかっただろう。あれから半世紀以上の歳月がながれ、お爺になって、あの吟遊詩人、歌人の詞の内容を、翻訳であれ、少しでも知りたい、解りたい、でないと、悔いが残る、と思ったのである。

この三日間、今朝も二時間ほどやったのだが、当たり前、時間がかかる。疲れる。でも楽しい。刺激がある。良くはわからない箇所が随分とある。が、想像力が刺激される。だから楽しい。そして続けられる。ウディー.ガスリーに捧げる詞など大変長い。肩が凝る。一時間やったら、少し我流体操をして、体のコンディションを整える。

私が好きな労働も根気、持続力がいる。いつまで出来るのかは神のみぞしる。いま私が一日一日の生活で、重きの時間を費やしているのは、根気のいることばかりである。集中力が伴わないと、何事も叶えられない。

敢えて根気のいることがこの年齢で、いまは好きなのは、自分でも良くはわからない。が、敢えて打てば、全く世の中に出るまで、怠惰の極みみたいな自分であったからだと、思える。世の中の荒波にもまれ、(基本的に私は今も怠惰である)あまりにも遅きに失したとはいえ、努力しないと大変なことになるという自覚が生まれて、半世紀、ようやっと少しは、普通になれたかのような、自覚を持つ私である。

お爺さんになって、人生の持ち時間を想像する。孫たちのことを想う時間増えてきたようにおもう。まるで遺言のようである。いいのである。その日思いつくことを打てる幸福が贅沢なのである。妻が仕事から帰ってくるまで、一人の雨の日を、いとおかしく過ごしたい。

2026-02-22

三連休の中日の朝に思う、五十鈴川だより。来月末ノア(最初の孫)の春休み、妻と私の3人で門川に帰ることに決めました。

 来月、私の最初の孫、望晃(のあ)が8歳になる。4月から小学三年生である。で、春休み私のふるさと門川に行かないかと誘ってみた。すると行ってみたいという。コロナの渦中、その後次々と長女に子供が授かり、私も何かと慌ただしい生活を余儀なくされていて、長女、次女家族共に帰省が未だ叶わずにいる。だが私一人でのふるさと帰省は折々続けていた。よもやの急展開で、ノアを連れてふるさとに帰ることに、なった。

下記に。
私は心底嬉しい。

そこで、私は妻も誘って、爺、婆、ノアの3人旅をすることにした。私の場合思い付いたら吉日なので、おおよそのスケジュールを妻に話したところ、妻も大乗気であっという間に予定が立った。

3月28日から30日まで、3泊4日の旅である。熊本までは新幹線、駅でレンタカーを借りて阿蘇を周遊し、28日は私が3歳まで過ごした高千穂に泊まる。翌日高千穂を散策、午後兄の家に。

29,30日は兄の家にステイ。お墓参り、五十鈴川、小倉が浜など我がふるさと探訪。31日熊本へ。熊本城を見て午後の新幹線で岡山へという、ラフな予定である。

先の帰省で、我が姉兄兄弟は(義兄、姉も)全員後期高齢者なので、ノアの記憶にとどめたく、私としては、ことの予定がすんなりと決まったことに嬉しさひとしおである。何よりもノアが行きたいと言ってくれたこと、そして妻もまたノアとの帰省旅に大乗気であることが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

古希を過ぎてからの、ふるさと帰省旅、毎回これで最後、悔いなくとの思いなのである。年に数回帰る度に、当たりまえ、私も含めた全員が老いてゆくので、まさに一期一会の貴重な旅となる。(予定)

昨日、妻が作ったラフなスケジュールを義姉、登紀子さんに送り、妻が確認の電話をいれると、私たち3人を心良く受け入れてくれるとのことで、私はともかく、妻は大変喜んでいた。兄弟とはいえ、妻は義姉との久しぶりの会話、弾んだ声にとにかく安心していた。いつぞやも打ったが、私が安心して帰省できるのは兄のお嫁さん、登紀子姉の存在が大きいのは言うまでもない。ノアとの帰省旅、何よりも妻が想像以上に、綿密に無理なく予定を立て、楽しみにしている様子。

話は変わる。2月26日は義理の父の名日なので、天気も良く、昨日午前中、お墓の草取りに妻と出掛けた。義父が亡くなった時私は49歳であった。娘たちは小学生。あれから25年の歳月がながれ、世界、世相、世間の移り変わりはいかんともし難く、我が家族、一庶民生活者の私にもにも容赦なく影響がおよび続けている。

が、何とかこのような一寸先のよめない時代を、家族全員、身すぎ世すぎ出来ていることのありがたさは例えようもない。我が両親、妻の両親への感謝は私の老いとともに益々深まる。老いてゆくお手本が身近にあるというのは幸福である。子供は親を選べない(違う説もあるが)けれど、精一杯のことを、思い付くかぎりのことをする。娘ふたりはスクスク育ち、自立している。

今しばらく、激変する時代の中、孫たちに、私と妻に何が出来るのかは判然とはしないけれど、お金では買えない楽しい思い出の記憶時間が残ればと念う。

PS 今日の写真は1974年に出版された、片桐ユズル、中山容、翻訳のボブ.ディランんの全詩集です。全358ページ、昨日から書写を始めました。時間を見つけてコツコツ進め、一月くらいでと、思案している。ノアとの旅の前までには終えたい。無事に終えたら、また五十鈴川だよりを打ちたい。


2026-02-18

今年から水曜日は労働OFFに決め、静かな一人時間を、もっと大切にしたくなりました。

 今年から労働する時間を減らし、水曜日は余程の事がない限り、お休みすることに決めた。したがって今日はお休みである。可能なら週に2日程度、五十鈴川だよりを打ちながら、いい意味で、健康で有る限り、その日暮らしの喜びを妻と送りたいと考えている。

さて、そのような私の日々の移ろいの中で、古希を過ぎて、折々シェイクスピアの長台詞の書写などをやったりしていたのだが、今年からいよいよ本腰を入れて、好きな文章や、歌、詩、などの書写をやることにした。(老いの楽しみ千住真理子さんの音楽を生で聴くことを今年も続けたい)

来月にでも歌碑を訪ねたい

それと、この丸七年労働に従事しいて、以前は好きとまでは言えなかった雑草採りが、古希を過ぎて、苦手意識が遠退いてゆくかのような(老いても体の使い方で、楽に感じるようになってきている)感じで、つまりは草と戯れるかのような一人時間作業の喜びを見つけたのである。

そのような塩梅で、草取り手仕事は、炊事、掃除、買い物、調理、洗濯あらゆる家事全般、生きて行う雑事の基本ともいえる忍耐を養える。それを克服する方法を体得してからというもの、臆面もなく打つが、一日がとても楽しいのである。だから能天気に五十鈴川だよりが打てるのである。

還暦を迎え、五十鈴川だよりを打ち始め、できるだけやりたいことしかやらない、愚直、正直に気持ちのいいことしかやらないとときめた。(古希を過ぎて言葉を交わしていない方には、益々不義理をすることになります。どうかご寛恕ください)

あれから丸13年の歳月がながれ、その願望(おもい)のほとんどは満たされ、益々そのおもいは深まる。そして、ありがたいことに、一人でもやれる、やりたいことが人生の持ち時間が見えてくる(感じる)にしたがって、絞れてきたのである。

老いのかけがえのなさ、日々自在感を受け入れ、その日暮らしに徹する。前回の五十鈴川だよりで触れたが、父の遺した歌碑の写真が忽然と次兄から送られてきて、いよいよもって思う。私は日々、両親を含め、あの世に召された、無数の死者と触れあえるかのような、その日暮らし考、を第一義に生きたいのである。私が元気に過ごせるのは死者のお蔭である。

2026-02-13

2月13 日、74歳の誕生日に思う、夕刻五十鈴川だより。

 74歳を迎えました。昨年の誕生日から一年がすぎ、この一年はずいぶんといろんな体験ができ、実に有意義な一年であったと思える。年々歳を重ねると、体力ほか体の機能はたしかに衰えを感じる。が、神様の粋な計らい、いやでも落ち着きが出てきて、それが私の場合、いい方向に流れてきている、と感じる。我田引水、あくまでも能天気に、前向きに考えている、ある種の老いの深まりを。

古希以後、緩かにこれまで培ったヒトとの関係性を手放し、見直し、新たな人との出会いと、再会、特にこの一年で、オーバーではなく、新たな地平のパラダイムに立てたような塩梅である。執着していたこと(やめたのではない、個人的には続ける)をすんなり手放したところ、以前は感じなかったような感覚が育ってきている(のだ)。老いゆく変化を。

この一年、ずいぶん五十鈴川だよりを打ち続けている。老いつつ、折々の日々を綴り打てる喜びは、老いるにしたがって増してきている、ようにさえ思える。それはおそらく人生の持ち時間を、いやでも我が体と心が敏感に感じているからである。(だからこれまでの自分とは決別し、もっともっと未知の世界を見たいし、新しい人とともに学びたいのである)

現在を更新し続ける。生きている喜びは私の場合、今のところ健康で在るからこそなのだが、古希目前の大手術以後、ますますもって深まっている。ありがたい事だと痛感する。世の中には健康にすぐれず、辛い、思うに任せぬ病ほかの、過酷な晩年、状況を生きておられるかたが、大勢いらっしゃる。(それだからよけい動ける、考えられる、おのれの幸せを思う)

世の中に出てから、思い通りには全くならないという、重い重い現実と日々格闘、この年齢までよくぞ生きてこられた、と実感する。そのことへの天運のよさを、ただ素直に感謝している。手術後、私はまもなく丸5年を迎えるが、日々折々、五十鈴川だよりを更新できている。


話は変わる。長くなるので簡略に、先日突然次兄から、亡き父の書いた歌の歌碑と、赴任していた中学校の校歌の作詞した歌碑の写真が送られてきた。ちちは83歳で冥界へたびだった。その父の年齢までは何としても生きねばならないという、(先のことはわからないけれども)見果てぬ覚悟がにわかにわき起こっている。

前回の五十鈴川だよりに、晩年の両親の写真をアップしている。苦労に苦労を重ねた末に、(当時、母は少し健康を損ねていたが、両親ともに頭はしっかりしていた)迎えた晩年、両親は幸せそうであった。その事が(姉と二人の兄が側でよく面倒を最後までみた)私には嬉しい。だからなのだ、今も私は安心して姉、二人の兄のいるふるさとに帰るのは。

頭がしゃんとしている間に何が出来るのかは、いまは判然とはしない。だが、かじまやぁと再会したこと、猪風来さんと出会えたことで老いの夢が(実現するしないではなく)、自分にとって大事な事柄がくっきりとしてきたように思えている。誕生日直前、次兄から送られてきた写真は、これからの私の指標になるのは間違いない。

PS 大いなる 望みをもちてひたすらに つらぬきとおせ ひとすじのみち。臆面もなく打ちます。このような親を持て幸せである。

2026-02-11

徒然、お金では買えない世界の、目に見えない世界の、ワンダー(フル)な芽吹き、宇宙感覚、感性を孫たちに伝えたい、お爺です。

久しぶりの雨があがっている。他の方の事はいざ知らず、私はよく眠れる。ねむることが好きである。よく働きよく眠る事が、今現在の私の一番の健康法である。還暦を過ぎてからは、何よりもよく眠り、そこそこ栄養をとり、けっして夜更かしはしない。出来なくなった。当たり前である。よく自分に言い聞かせる。昔できたことに想いを馳せるよりも、さて、今日をいかに生活するのかに腐心している。

さて、選挙が終わり、意外なほどの圧勝で自民党の票が伸びて過半数を大きく上回る結果となった。私は一庶民、ひとりの老人であり、その事実にコメントする、気力も関心も持ち合わせてはいない。やがては時がすべてを物語るというにとどめる。

今はなき生家の前で晩年の両親

ただひとつ、老婆心ではなく老爺心としてきになったのは、働いて働いての高市さんの連呼である。私は思う。昭和27年生まれ(終戦から日本が再び独立をした歳に生まれた)明後日74歳を迎えるが、おおよそ物心がつくころから55年の世の中の推移を、そのかなりの渦中を生きてきて思うことは、いかに人心が時代の流れに、流され身動きが取れないほどに取り込まれてゆくのかという現実である。

今も東京一極集中のながれは止まず、地方は超高齢化、なんとも嫌なことば、限界集落、まばら田舎は超過疎地で、日本の根源ともいえる水田風景景観は寂れゆく一方である。

一言でいえば、全てはお金がないと不安であるという構造に投げ込まれているからなのであるという認識しかない。私には経済のことは(株価の上下などほか一切合切)。だから世の中に出て、働いて入ってくるお金で何とかみすぎよすぎ、今現在もそのような塩梅なのだが、果たしてお金とはなんなのであるのか、高市さんの言葉の逆で、考えて、考えて、考えてみる、、、。といったことも私の場合は必須である。

入ってくるお金を、大事に無駄遣いをできるような経験をしたことがないのでよくはわからない、というのが正鵠を得ていると思う。世の中に出てから、今にいたるも、お金では買えない、もっといえば見えないけれども、いきてゆくのには絶対に必要な、心を穣にしてくれる世界のほうに、感性のアンテナを磨くように、小さな器で生きている。

だからなのだとおもえる。今も足りる幸福感にひたれるのは。家族。大切な友達。安心して眠れる場所、食べ物、私が高齢者でも働くのは、働けるからであり、出会えた大切な家族や友達と過ごしたいからである。好きなことで未だ実入りがある。なんとありがたいことか。

話をもどす。両親が他界して50歳を過ぎてから、過疎かする一方の我がふるさとに年に数回必ず帰っているが、命の終わりをいやでも見据え、考えるようになってきて思うことは、お金では買えない、五十鈴川や、小倉が浜のあまりのすばらしさである。

高度経済成長からバブル崩壊までの、18歳から40歳までを東京ですごし、その後岡山で今まで生きてきて思うことは、お金では買えない世界の豊かさのきづきである。お金がなくても、五十鈴川は夏はいつでも泳げる(昔はプールはない)。小倉が浜では一年中サーフィンができる。

コカ・コーラが入ってくるまでの私の小学生の頃まで、砂浜にはゴミひとつなかった。人心も限りなく穏やかで、貧しくも私が小学校への往復路で(四キロ)出会う、お百姓さんや、漁師さん、鋳掛けや(割れた鍋を修理してくれる)さん、鍛冶屋さん、畳屋さん、床屋さんやなどなど、のどかそのもので、おおらかで、子供心に、毎日が魔法のように面白く愉しかった。

家には怖い父がいて、慈母のような母、想えば名コンビである。幼少期に辛いばかりの記憶しかなかったら、気の毒というしかない。幸い、貧しかったけれど、飢える事は無かったし、川には魚や、川エビ、大漁だと漁師さんがただで魚をくれた。山野にはワラビや、ぜんまいなどの山菜、木苺、山柿、山芋、などなど。

国豊かになり。あまりにも管理され、自然との付き合い方を現代人は忘れてしまった。山河は荒れて、子供たちは時に過酷で厳しい自然と真剣に対峙することがもうほとんどなりつつある。が私はけっして失望はしていない。我が孫たちと触れあっていると、全く子供は変わらないということがわかる。だから努めて、東京でも岡山でも、自然のなかに努めて連れ出す。自分の五感、体で自然と一体化してたくましく育って欲しい。

このようなことを綴っていたら、またもや小倉が浜に帰りたくなってしまった。一年でも長く、小倉が浜にたち、波と戯れ、五十鈴川で下半身浴に興じる年寄りの姿を孫たちに遺したい。


2026-02-10

平日の早朝、コメントを頂いた方にご返事を打つ、五十鈴川だより。

 私にとっての異変とでも言うほかはない、一度しか(たまたま)お逢いしたことがないかたから、一昨日打った五十鈴川だよりにコメントを頂いている。

それと2月2日に打ったチョンダラー長崎公演の五十鈴川だよりにも、スタッフとして参加されていた(忙しくしていてお話をする時間がもてなかった)Sさんから嬉しいコメントを頂いた。他にも言葉を交わしたこともない、兵庫県のかたからもコメントが。

説明不可能、凄い。

私の五十鈴川だよりにはほとんどコメントがないので、これは私にとってのちょっとした異変とでも言うしかない、綴り打ち続けてきたものにしか、わからない喜びである。。

特に今回の帰省で、日向市の駅からすぐに小倉が浜に直行、裸足になり、ふるさとの感触を確かめ、たまたま偶然そこに居られた、2匹の可愛い犬を連れた女性(多分サーフィンをされる)に、私は写真を撮ってもらった。多分そのかただと思うのだが、2度もコメントをくださった(いる)。

あの日、真冬サーフィンを(そのかたのご家族だと思う)していた人以外、あの広い小倉が浜には他に人の気配はなかった。もし、あの女性が居なかったら自撮りするしかなく、素足の老人の私の姿、全身、小倉が浜の波と青い空を五十鈴川だよりにアップすることは、かなわなかった。

あの日出逢えた女性は、私の五十鈴川だよりに、小説家のような文章だとのコメントを寄せられている。このようなコメントを頂いたのももちろん初めてである。折々五十鈴川だよりを還暦以後打ち続けているのは、自己慰撫、自己激励、自己満足以外のなにものでもない。

ただ脳内に浮かぶ、よしな無し事を打ち続けているだけである。古希目前、大きな手術をして、肩の力が抜け、徐々に日々是好日的なエッセイ風に変化してきているのかも。といった塩梅で、歳と共に、やはりあの五十鈴川や小倉が浜の幼少期、青少年期の、宝の(辛いことも悲しいことも嬉しいことも全てが)思い出が、私の今を、限りなく支えているのは間違いない。

若き日、18歳から二十代の終りまで、大都会で演劇を学び、分けてもシェイクスピア作品から、大きな影響を受け、その事で(シェイクスピアはこの世は舞台、我々は全て役者だと言っている)日々の生活を、物語る癖のようなものが私のなかにあるのかもしれない。

いわゆる名台詞の数々に、若き日の私は酔い続けていた。その影響は拭いがたい。消せないし落ちない。そして今、しみじみ思う。シェイクスピア作品に出会えて心からよかったと、おもうのである。このようなことをぬけぬけと打つことも含め、 もう私は厚顔無恥の老人なのであるから、ご寛恕願いたい。

たった一度の人生を、どこかフィクション的(全くシェイクスピアがそうである)に彩りたい、といった願望は、なんびとにもあるように思える。これ以上は打たない。老人の私だが、幾ばくかの羞恥心は未だ持ち合わせている。野暮は大嫌いである。

ところで、あの女性だとおもったのは、あの日大分から来ていると言う言葉。コメントに湯布院で雪かきをする、とあったからである。(岡山で再会する前に、私が帰省、小倉が浜か、湯布院に途中下車すれば逢える)

それからチョンダラーで出会えた、杉本さん(お名前が記してあったので)、お話しができなかったので、良健さんの春の個展には行くので、その際にお話が出来ることを望みます。貴女が終演後、梱包している姿、純子さんをサポートしている姿が焼き付いています。

PS 湯布院の方へ。あの73歳最後の小倉が浜での写真、気に入ってます。その日のうちの五十鈴川だよりへの反応、リスポンス、誠にありがとうございました。

2026-02-08

選挙の朝、老人は静かにこの国の行く末におもいを馳せ、そして思う。

 選挙の朝である。しかし、私の心は弾まない。世の中に出て、選挙権を得、この年齢まで何度も選挙には行くのだが、正直あまり政治には興味が持てない。その理由を縷々綴るのは気が重いし控える。

縁もゆかりもお目にかかったこともないかたから、突然電話があったり、郵便物が送られてきたりする。私のような時代とズレタ遺物にはまずもって、このような行為事態がゆゆしく呆れる。つまりはそういう世の流れに、無感覚ではないので、従ってそういう世の流れからは、遠く離れたところで静かに、五十鈴川だよりを打ちながら、ちっきょするのである。



今ゆっくり読んでいる池澤夏樹さんの本[また会う日まで]のなかに、書斎ひとつが我が領土、と言う言葉があった。全くもってそのことの気持ちが理解できる。

私が信頼する養老孟司先生も政治が苦手だとおっしゃっている。できれば、そのような大きな世間的な社会からは、もうひたすら距離を置いて(老いて)いたい。

そういうわけもあって、自分と向かい合って、(もう歳なので何でも打つ)、自分に期待する、自分のなかに希望の種を撒いて、それを自分で育てる、かのような人生を、今も歩んでいる。とはいっても、絶対矛盾を常にかかえてはいる。

経済成長、手取りを増やす、移民政策、国防、消費税、少子化、環境、教育、などなど、まさに乱世である。どの党に一票を投ずるのか。甚だもって私の頭では困難をきわめる。有権者の半数がネット世代、私の感覚には程遠いSNS時代、私のような輩はすでに時代の枠からはズレているのを認識している。

甚だ無責任に述べるが、勇ましい言葉の羅列、不安を煽りたてるような候補者にはご用心である。今年最初に花隆さんの天皇と東大で、近代、現代、終戦、までを読んだことで、あらためて無知を自覚している。そしてなんと人間は同じ過ちを繰り返すのかと。

戦後80年をすぎ、今回の衆議院選挙は、政治家も、有権者も(私を含め)戦前を皮膚感覚で知らない世代が多数を占める時代、だから大きな節目になる。その事だけは間違いない。この国の舵取り、リーダーをどの党の党首に委ねるのか、選んだつけはいずれ国民全員が払わなければならない、のは歴史が証明している。

この国の行く末ではなく、世界の行く末、人類の行く末をまで、射程にいれた(自国ファーストではなく)スケールの大きい人新世の、奇跡の水の惑星のリーダーの登場を祈らずにはいられない。

そして思う。国民を飢えさせず、外交努力でもって、有事を回避する胆力のあるリーダーを持てない国に(その事を真剣に考えない国民は)明るい未来は訪れない、と考える。

PS 今日の写真はかじまやぁ長崎公演でお会いした、Gさんがお勤めの長周新聞(このような新聞の存在を初めて知った)の2月2日の一面です。2年前からM新聞の購読を止めていましたが、2月から長周新聞を購読することにしました。小数の声を伝える新聞、Gさんの熱が私に伝わりました。




2026-02-07

五十鈴川だより、アクセスが130を超える。うたかたはかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。

 ちょっと今週は頑張って働き、嬉しい土曜日の朝が来た。立春が過ぎ、気持ち夜明けが早くなってきた。とはいっても今夜から平地でも雪が降るとの予報、北国の人々の生活のご苦労を想うとき、わたしは宮崎に生を授かった、ありがたさを思わずにはいられない。あの途方もない忍耐力は雪国、寒冷地の風土がもたらした、力であると認識する。

30年前、初めての沖縄で求めた良健さんの画

話題を変える。五十鈴川だよりにちょっとした異変が起こっている。チョンダラー長崎公演を終えて、新鮮なうちにと、私には頑張って、労働のあと2月2日に、私なりの一部始終を記録し、なんとかアップした。

桑江純子さんに読んでもらいたくメールしたところ、なんとも身に余る(これまで頂いたメールでもっとも嬉しい)お言葉を2通頂いた。

私の五十鈴川だよりにはほとんどコメントが入らない。が、まる13年五十鈴川だよりを綴ってきて、初めていきなり4人ものかたから、有り難いコメントをいただいた。

そのコメントは先の長崎公演の裏方ワンチームから頂いたものである。そのことの嬉しさは、同士的結びつき、一朝一夕には生まれない類いの何かである。

それは、齢あとわずかで満74歳になる私に、大いなる、これからどの方向に向かって歩を進めて往けばいいのかの示唆を与える。老いゆく未来の明るさをあのワンチームは照らす。大変貴重なひとときを、チョンダラー長崎公演の裏方、ワンチームと過ごした(せた)幸せがいまだに私を包んでいる。(あの面面と未来について語り合いたい、何かがあの面面となら起きるように思えるのである)

一糸乱れぬ、あうんの呼吸で全てが進行してゆく気持ちの良さを私は体験、体感した。この気持ちの良さは、一体全体何処から生まれてくるのか。揺るがない信頼感に支えられた、真の意味でのイベントを、かじまやぁのお二人は果てしなく持続してきたのである。その厳然たる事実の重さに、脱帽、感動する。

そして、考える。思う。動かない限り人は出会うことはない。現世に、私自身限りなく縛られて、時に身動き出来ないほどにガンジガラメなのではあるが、やはり縁(えにし、よすが)に時折ジャンプする勇気を持たないと、意外性は生まれない。意外性こそが芸術の真髄である。老いて守りに入るのは愚である。かけがえのない人に会いにゆく。これこそが宝でなくして何の人生、喜びか。チョンダラー長崎公演のワンチームで、謎のような気持ち良さに私はおそ(教)われた。

その謎を、今私は年齢をしばし忘れて、少しでももっともっと知りたい、のである。古希を過ぎて、またもや懲りずに企画を始めた私だが、可能ならあのワンチームのような企画を、と夢みる。

お二人に出遭って30年になるが、裏方として参加したことで、あらためて私は本質的に、お二人が心血を注いできた、かじまやぁ(52年の歩みの重み、凄さに)に出会ってしまった、のである。(もう年齢的に怖いものはなにもないので何でも打つが)地に足のついた、根のあるイベント、企画には(私が知らないだけである、と思うけれど)この数十年ほとんどお目にかからない。

数多の根のない、造花の(もっといえば消費するばかりの根のない、関係性がふかまらない、つまりは人間力が乏しい、痩せたイベント)無味乾燥なイベントには、もう私の感性は閉じている。かじまやぁはほとんど自力(地力)根がある、何よりも体の力、夢の創造力でもって、子供たちの想像力、 未来に働きかける。かじまやぁにあやかり、老いの花を今しばらく夢見たい。

年上の凄い先輩、猪風来ご夫妻、今年は早々に桑江ご夫妻、本質的に再会できた重み、幸運を五十鈴川だよりに綴りうたずにはいられない。

2026-02-02

1月31日、長崎で人形劇団[かじまやぁ]桑江純子、良健さんの最後の公演、チョンダラーを観ました。そして思う。

 昨日午後、予定より1日早く帰って来ました。ふるさとで二泊、長崎で二泊、4泊5日の小さな旅は、私にとって大きな旅となった事を、気持ちが新高揚しているうちに打っておきたい。


人生は出会いと別れの集積である。摂理、始めたことは終わりが来る。30年前、かじまやぁ、桑江純子、良健さんご夫妻二人で全てを切り盛り、こなす人形を当時働いていた美星町の廃校で企画したのがご夫妻との出会いである。

30年の交友、関係性が持続し、最後の公演に立ち会えた事実の重み、幸福である。記録として五十鈴川だよりに記しておきたい。何よりも孫たちが大きくなったときに読んでもらいたい、とのおもいが私に、私に五十鈴川だよりをうたせる。

おととい30日午後6時前、3年ぶり(飯田でのに人形劇フェスティバル以来に、よもやまさか最後の公演での再会になるとは思いもしなかった)長崎のホテルで桑江さんご夫妻と再会、公演前日の夕食会に私も呼ばれたので参加した。

ご夫妻、出演、兼舞台監督のYさん、照明のNさんほかスタッフ含め9人での、慎ましく静かな夕食会であった。桑江さんご夫妻のこれまでの活動、歩みに魅せられた長い関係性の上に、強固に築かれた人達が集まっておられた。今回私はスタッフとして最後の公演に参加した。岡山からはそのスタッフに、長年かじまやあの公演を引き受けておられたHさんもいた。

スタッフ、参加者紹介を兼ねた夕食会を終え、裏方5人での本番当日の流れを舞台監督のYさんを中心に打合せをして、早めに宿に引き揚げた。

一昨日、本番当日朝八時半にホテルでに集合、そこからマイクロバスで約10分、公演が行われる長崎市平和会館ホールに。静かな緊張感、すぐに舞台の仕込みに入る。私とHさんの岡山二人組も年齢をしばし忘れて、かじまやぁ組の裏方に専心した。手慣れた舞台監督のYさんの指示で10時半には舞台が見事に組あがった。(10時過ぎ長野の飯田からGさんも裏方として駆けつけてきた)

組上がったら、もう私のやることはなく、舞台稽古をただただ見守り、純子さんの体調、無事の公演を願った。


この公演の主催は、宗教法人大谷派の九州教区長崎組、青少幼年部門❲こども報恩講実行委員会❳。原爆80年 非核非戦こどものつどいである。

13時30から始まり、人形劇は14時30開演。純子さんはスタスタと歩いて颯爽と登場した。芸人魂の塊となって、希望の声で250人位の親子に向かって、沖縄の言葉でハイサーいと語りかけた。始まった。チョンダラーの世界へと導いてゆく。

私は一部始終を眼底に焼き付けた。かじまやぁ、チョンダラー最後の公演はあっという間に無事に終った。子供たちは手を叩き、体を揺らして、チョンダラーの冒険活劇に釘づけ、全身でみいっていた。

一時間10分動きっぱなしである。純子さんは私より年上、夫の良健さんは今年78歳になる。なんと言う肉体の動かしかたか。長年培った蓄積の上に、人形と桑江ご夫妻、Yさんが一体化、寸部の乱れもなく、舞台が進行してゆく。素晴らしいと言う言葉しかない、最後の公演に立ち会えた幸運を五十鈴川だよりに刻んでおく。

16時終演後、すぐにスタッフとなり、解体、梱包のお手伝い。久し振り全身体を動かした。老いの体から汗が流れた。全てを終え、ホテルへ移動。小休憩の後、主催者主催の打ち上げ、居酒屋に。(移動は全てワンボックスカー)。午後7時過ぎから10時まで、楽しい交流の宴が盛会で行われた。

そして桑江ご夫妻、裏方全員、10名での二次会が、ホテルのGさんご夫妻の部屋で(一番広い)その後午前一時まで行われた。このワンチームの、それぞれの方のお話が素晴らしかった。その事のいちいちは私の筆力では不可能である。裏方として、スタッフとして参加したからこそ、二次会に参加出来た。宿が違うし、一次会で引き上げようかと思ったのだが、良健さんが声をかけてくれた。

沖縄を背負って、(凄まじいまでの覚悟に)人形劇に打ち込んで来られた純子さんの純真な一途さ、夫良健さんの画業もしかり。52年の歩みの確かな重みを、二次会に参加された各人各様のお話に私は教えて貰った。

かじまやぁに対する、思いの丈の深さ、この二次会に参加したことで沖縄の事を、この日出逢えた若い面面と共に学びたくなった。桑江さんご夫妻との新たな交遊が始まる。沖縄詣でを体が動く限り続けたい。(と念じている) かじまやぁ美術館は沖縄の宝である。


2026-01-30

30日午後、長崎に着いて小ぢんまりとしたアットホームなやどのロビーで寸暇打つ五十鈴川だより。

 長崎についた。日向市駅を午前7時45分に発ち、大分小倉回りで博多から特急、武雄温泉で初めて新幹線カモメに乗り換え、午後2時半に長崎駅に。そこから宿まで徒歩10分ですんなり宿についた。NHK長崎放送局のすぐそばの、ちょっと昔若い頃の旅を彷彿とさせるドミトリーの宿で、狭いながらもスタッフの対応が素晴らしく、疲れもなんのその、桑江さんたちとの待ち合わせ時刻まで、寸暇五十鈴川だよりというわけだ。

犬を連れた女性が撮ってくれた

坂之上にあるこの宿は、いろんな由緒ある長崎の史跡がすぐそばにある、いかにも長崎と言う景観雰囲気が漂っていて、すでに旅人気分である。

さて、ふるさとに門川でのわずか2日の滞在ではあったが密度の濃い、姉や二人の兄、義理の長兄の姉と、老いて健康に今を活きている幸せを確認できる語らいが持てた幸福を、そっと五十鈴川だよりに打っておきたい。何せ私が一番若く、まもなく74歳。最高齢は義兄の84歳、体は年相応だが、私との会話が全員十分にできた、そのよろこびは老いてこそである。

おととい、水曜日着いたのが午後2時半、迎えに来てくれた兄の車で、日向市駅から小倉が浜に向かった。娘達が小さい頃連れてきたことがあり、わたしが高校生にときには何度も来ていた、最高の思いでの場所である。歳と共に染み入って来る思いでの場所、そのような老いてもなお血が騒ぐ行きたい場所が在ることのなん足るうれしさよ。

厳冬季わずかな人しかいなかったが、数人サーファーが冬の海にいた。たまたまおられたそのサーファーのご家族の2匹の犬を連れた女性が写真を撮ってくれた。(なんと五十鈴川だよりにコメントしてくださった、岡山に帰ってらゆっくりお礼の返信を打つつもり)、これだから私は老いても旅に出るのである。(だってまだゆきたくなるのだから、今ようやく行けるのだから)裸足で砂浜にたつ老いた弟を兄は呆れていた。

いきなり、ふるさと小倉が浜でよき時間を過ごして兄の家に、すぐお風呂をいただき、いつものように義理の姉登紀子さんが、美味しいお鍋(鳥とお魚の)での夕食を用意してくれていた。すべてが美味しく幸福感に浸った。

姉と登紀子さんが作ってくれたお昼のおむすび🍙

昨日は起きてすぐ夜明けを眺め、お墓参りを済ませ、次兄を訪ねコーヒーをいただき、お互い元気での再会の時間を過ごし、兄の家に戻って朝食。

朝食後、姉の旦那さんとしばし歓談の後、まもなく80歳になる兄が、私を都城にちかい青井岳温泉まで私を連れていってくれた。素晴らしい温泉であった。お湯がとろとろの。

往五時間(二人でゆっくりおいしい夕食して午後6時帰路についた)も運転してくれた。その事への感謝も五十鈴川だよりにキチンと打っておく。もう十分に我が姉兄弟は全員高齢者なのである。一期一会、全員健康にしぶとく生活していた。その事がたまらなく嬉しかった。幼き日共に苦楽したかけがえのない我が姉兄弟よ。有り難うございます。

だが、年明けそうそう縁起でもないということなかれ、摂理、遠からず、この世のお別れがやって来る。その日に備えて、いざというとき冷静に明るくお別れができるように、、、。今回もよき時間が持てた幸運、幸福を感謝する。

とここまで打ったら、桑江純子さんからメールが来たので五十鈴川だよりは中断する。



2026-01-28

昨年夏以来、ふるさとに還る前、寸暇打つ今朝の五十鈴川だより。

 早起きは三文のとく。(あくまでも私にはである)今日からふるさとに久し振りに帰省し、お墓参りをし、しばしぼーっと彷徨し、桑江さんご夫妻の最後の公演にゆく。少し時間がある。

そとはまだ夜明け前、まだ暗い。もう覚えていないくらい打ったが、私は夜明け前の一時が大好きである。どのように疲れていても、いまだ有り難いことに、我が体は一晩熟睡すると、まるで生き返った(死んだことはないのだが、眠っていた時間が魔法のように思えるほどに)かのような案配である。

今回の旅のお伴の一冊

昨日の自分と今日の自分は、明らかに微かに異なっているかのように思える。だからこそ、飽きもせず、五十鈴川だよりを打つという、敢えて言葉にするなら今を活きている幻想、一文を綴るのだとおもっている。

さて、来月私は74歳になる。我が姉兄弟は3歳見事に3歳違いである。なかなか会えないが、タイで生活している弟もおそらく今年71歳になる。迎えに来てくれる長兄は80歳、次兄は77歳、姉は83歳になる。

私は兄弟の誕生日を知らない。帰ったら、いまさらだが訊いてみようとおもっている。わが家のお誕生日はお正月元日に家族全員で祝う習わしであったので、今風のイメージのお誕生日、極めて西洋風にお祝いをすることはなかった。父は全員の子供に、新しい服を与えてくれた。その事がとてもうれしかったことをおぼえている。

がその事も、父の仕事で小学六年生になるとき、私と弟は両親と共に転校し、祖父母、姉兄たちとの全員一緒のお正月はなくなってしまった。その時一年間を過ごした美々地小学校は延岡を流れる五ヶ瀬川の上流に位置し、銅を産出する山の中に忽然と現れた炭鉱町であった。当時生活に必要な物はすべてが揃っていて、大きな商店、テニスコートから映画館までがあった。

春からわずか一年間しか過ごさなかったのに、この六年生の炭鉱町での記憶はいまだに私の中に大きな出来事として消えない。翌年、中学一年から都城に近い、僻地の四家中学校にまたもや転校した。(今は廃校である)中学校の2年生の夏休み一人美々地小学校を訪ねた。様子は廃墟一変していた。

やがて廃坑になるという噂は聞いていたが、あまりの様変わりに、茫然自失した。思春期の真っ只中、あの凄まじい様変わりが、私に与えた最初の無常感である。この年齢になっていよいよ思い出したくはない記憶も含め、過去の思い出が甦る。打っていると、きりがない。だけれども、自分という不確かで絶えず移ろう存在のほとんどの礎は、五十鈴川を含めた、18歳までの体験、記憶で(言語、方言が大きい)成り立っている。

その記憶の跡地を特に還暦以後、五十鈴川だよりを打ち始めてから繰り返し、ふるさとに還る度に訪ねているが、やがては帰ることも叶わぬようになる。お別れが来る。だから、一期一会、体が動くうちは帰る。とくに一番上の大陸引き揚げの邦子姉には直接御礼を伝えるつもり。小さいころから、世の中に出て、フラフラと腰の定まらない私を、姉は天真爛漫ずいぶんと支えてくれた。このような姉と出会えて幸せである。

おかげで私は、現時点でいまが一番幸福感に包まれている。だから、のうのうと五十鈴川だよりが打てる。有史以来の人類の歩みを想うとき、何と有り難い時代に生を受けたことかと、感じ入り、痛み入るのである。祖父母しかり、両親しかり、おもい叶わず倒れていった数多の途方もない死者たちの日本各地の慰霊を訪ねたくなっている。長崎の地で桑江さんご夫妻の最後の公演が行われるのも、どこかお導きのようにおもえる。老いてこそ、沖縄のことも桑江さんご夫妻から学びたい。

2026-01-27

立花隆著、[天皇と東大、下巻]を読み終えた朝に思う五十鈴川だより。

 昨年暮れから読み始めた、立花隆著、天皇と東大上下巻を年明けから、尺取り虫のように、主に朝、頭がすっきりしている時間帯に読み進め、ようやっと読み終えた。読み終えたばかりである。

昨年は戦後80年であった。[天皇と東大上下]は2005年に刊行されている。20年前である。20年前と言えば、私が53歳である。まだ中世夢が原でバリバリ働いていて、娘達は中高生であった。が乏しいお小遣いの中から本は買っていて、長いこと本棚の中に眠っていた。

学べる体を養生したい

が、何時かはきちんと読まねばという思いは消えることがなく、ようやく機が熟して、ようよう読み終えて思うことは、つくづく読んで良かった、という言葉しかない。その思いを長々と綴ることは控える。五十鈴川だよりに読み終えた事を、まずはキチンと打っておきたい。その上でもう少し打つ。

立花隆さんが逝かれて5年が経つが、このようなお仕事、ご本を著されたことに新ためて畏敬の念を覚える。求めて後20年後この本を読み終えて、私はすっかり老人の今、さていよいよこれからをいかに人生を降りてゆくかの、細き路をさ迷っている。

が、天皇と東大を読み終えたことで、一念発起、近現代史、分けても戦前までの昭和史を学び、自分なりに知りたくなった。新た老いを生きる目的が拡がっている。

その自分にとっての、第一の入り口として出会った本、選んだ本が[天皇と東大]になったという事、感謝の念しかない。割愛するが私の両親は大正時代の生まれ、軍国主義教育を受け育ち、戦前北朝鮮で二人共に教師をしていたが、敗戦で一切の財産を無くし、塗炭の苦しみを体験、3歳の姉と、生後半年の兄と共に、今の韓国の大空港仁川から(当時はしなびた港町であった)命からがら引き揚げてきたのである。私を含めた3人は戦後生まれである。

(同じ昭和、戦前と戦後の教育の歴然とした相違に愕然とする。そして教育というものの恐ろしさ、この本は一筋縄では答が出ない日本民族の出自、国体、いかに日本民族のアイデンティティーを確立して未来に向かうのかの重い問いを内包していて多義的に照射する)

重い重い避けたくなるテーマ。平和国家とは何か。今も過酷な国状況下や戦禍の中で難民となり、国を否応なく脱出、漂流するニュースが途切れることはない。難民キャンプの映像、もうそのようなニュースに、老人の私はリスポンスするのが、萎びているのを、どこか自覚している。二人称の困難や困窮、死にはかくも敏感に反応するのに、三人称の死にはかくも鈍感な私なのである。

しかし、私には両親のおかげで、どこかに微かに、ほんとうに消え入るかのようにかすかなのだが、難民の両親の末裔だという自覚がある。だからといって、どうともならない。またいうこともとりたててない。だがときおり何かが心の奥深くで蠢き囁くのである。その蠢きは、古稀を過ぎて、消えるのではなく、より蠢くのである。その内的な消えない老いの揺らめきが、[天皇と東大]を読ませたのだと思う。

そして思う。いよいよこれから、あの戦前の昭和(もちろん大政奉還、明治からも)、天皇、軍人、知識人、学者、学生、一般大衆、日本人、(全部)民族がどのように生きて、決断し、選択し、戦後を迎え生きてきたのかを、まずは知らないといけないのだということを、立花隆さんが心血を注いで著してくださった本を読み終えて、いま私がおもうことである。

このような内的な老いの変化移ろいを、五十鈴川だよりを打ち、どこか孫たちにお爺の思いを伝えたいのである。

2026-01-25

1月24日午後、倉敷市玉島市民交流センターで山中惇史ピアノリサイタルを聴きました。そして思う今朝の五十鈴川だより。

 縁あって、昨日午後倉敷の玉島市民文化交流センターで、山中惇史(あつし)ピアノリサイタルを聴いた。

昨年11月15日、下関で妻とともに千住真理子さんのヴァイオリンリサイタルを聴きに出掛けた際のことは、すでに五十鈴川だよりに打っている。その時のピアノが山中惇史さんであった。会場でたまたま昨日の山中さんのピアノリサイタルのフライやーが配布されていて、場所がなんと倉敷の玉島、しかも妻の誕生日(妻は仕事でともにゆくことはかなわなかった)。

妻のお誕生日プレゼントになった

妻が行ってきていいよ、といってくれたので言葉にあまえた。事前に電話したら、充分に席の余裕があるので、当日券で大丈夫とのことだったので、寒いし車で余裕を持って出掛けた。着いて残席のなかから席を選んだ。満席で200から250位の小ホール、50位しか座席が埋まっていない。しかも最前列が空いている。私は最前列の7の席を選んだ。

これまで私は最前列で演奏を聴いた記憶がほとんどない。この席からは演奏家の息づかい、手の動きが(わずか五メートル先の)演奏家のその日の全てを直に体感出来るまたとない座席だった。

一部 ハイドンのピアノソナタ 第47番ロ短調(初めて聴いた)。つづいてショパン ピアノソナタ第3番ロ短調(これも初めて) いきなり別世界に連れてゆかれた。来て良かった本当に。

休憩後第二部、自作曲 上を向いて歩こう、ただし足元にお気をつけて、(ユーモアのあるタイトル、パリは美しく誰もが憧れる都市であるが、足元に気をつけて歩かないと大変なことになる。このタイトル、若き日パリを歩いた私にはよくわかる)。

すこしくらい濡れたって歩きたい気分、(彼の繊細な詩人のような感性がキラキラしているピアノ曲)ドビュッシー月の光、ショパン 舟歌、ショパン スケルツォ第2番 変ロ短調(もちろん初めて聴いた)。カーテンコールはドボルザークほか、短い小品を3曲も。素晴らしく堪能した。

長くなるので簡略に記す。山中惇史さんは35歳、おそらく知る人しか知らない存在でである。千住真理子さんのリサイタルに行かなければ、まず昨日の山中さんの出掛けることは無かっただろう。だが言葉は不要、出掛けてしかも最高の席で聴くことが出来た幸運を五十鈴川だよりに打たずにはいられない。(これからも彼の演奏を聴き続けたい)

わずかな聴衆を前に、全身全霊で演奏される、若くても独特の感性、世界を感じた。ある種の清々しさ、繊細で大胆、ユーモア、お辞儀の仕方に深くうたれた。演奏家であり作曲家でもある。まさにショパンの世界に初めて触れさせて貰えたような若き水先案内人、音楽のことにはまったくの門外漢であるわたしだが、構成選曲、すべてが繋がって、山中惇史さんの音楽性に聴きいった至福の時間であった。

さすがは千住真理子さんが競演されている音楽家である。出会いは出会いを紡ぐ。老いゆく細道に新たな楽しみを見つけられたように感じる。音楽、芸術は万人に開かれている。これまでの我が人生ではクラシック音楽に蒙が拓かれるような体験がなかったのだが、いきなり千住真理子さんの演奏を聴いてからは、まるで我が老いの体に、音の神秘が降臨してきたかのような、オーバーではなく体が喜んでいるのが覚る。

まさに季節が熟して、ぽろりと体と心が変身してゆくかのような塩梅、感じたこともない音の景色の世界をさ迷える愉しさを感じている。

これまで音楽を聴きながら五十鈴川だよりを打ったことはなかったのだが、今朝も聴いている。言葉のない音、好きなアーティストの演奏を聴きながら、五十鈴川だよりを打ちたくなっている。(旅先では無理だが)

2026-01-24

1月24日、妻の生誕の日の朝に思う、五十鈴川だより。

 1月24日、今日は妻の生誕の日である。以前の私であったら、だからといって、臆面もなく五十鈴川だよりに打つことは、無かったであろう。

だがやはり年齢が、打たせるのだと思う。それだけ共に歳月を、刻んできた歩みへの、ある種の感慨と、妻への尊敬の念を五十鈴川だよりに(家族に遺しておきたい)打っておきたいのである。

1月23日の朝に見たオーバーザレインボウ

いずれにせよ、打てるときに打っておかないと、後々打とうと思っても叶わぬと言うことは充分にあり得るのだから、そのようなことにおもいをいたすとき、いざ、という気持ちになる。

これまでも厳冬期、妻の誕生日が来ると何か打ちたくなったのだが、のうのうと打つのが気恥ずかしかったのだが、加齢のせいで厚顔さが増してきているのと同時に、そのようなことにおもい煩うことは、もう馬鹿馬鹿しく思えてきたのである。

したがって今後も加齢と共に、あの爺さんまた連れ合いのことを打っている、と五十鈴川だよりを読んでくれなくとも、もう私は現時点でもまったく構わないのである。誤解されても構わないのだが、社会人としては、すでに終わったヒトとして存在している自覚がある。が社会の動向への関心は無くしてはいない。(解散選挙報道が過熱、世界も益々カオス化しているが、自分の足、体で考えないと、危ない時代の足音を私はますます感じる)

しかし、社会人としては終っても、妻との老夫婦時間は、これからどれだけ二人時間があるのかは未定にもせよ、その未定の夫婦時間の老いの旅路がいよいよ始まる、という自覚は深まるのである。(夫婦老い路旅を五十鈴川だよりで綴りたい)

新ためて出逢い、遭遇の不可思議を思う。34歳の不遇のとき、39年前、吉祥寺の ビデオシアター(当時は映画館とはことなる、マニアックなビデオ作品が上映されていた。上映されていた作品はアルフレッド、ヒッチコック自作を語る)で出逢ったのときの出来事は、まるで映画のワンシーンのように、思い出せる。甦る。

映画の内容はほとんど忘れているが、ヒッチコックがインタビューに答えて、最後の方で、あなたにとって幸せを感じる時間は、どういった瞬間ですか、と訊かれてヒッチコックが応える。それは日没を眺めているときであると。ヒッチコック作品が大好きな私は、、茶目っ気たっぷりに応えた、その言葉が忘れられない。

(私も日没を見るのが好きである。老いの力が増すにつれ、夜明け、日没、月、星、大樹、滝、霧、雪景色、虹、雨、鯨、パンダ、虫などなどの命、万物、縄文土器、、、に一体化、みいる。人知を超えた大宇宙の創造物に、敬虔に祈る)

その作品を観ていたのは、私と妻の二人だけであった。その後の顛末を詳細に打ったら、お里が知れるし、これまたフィクションのようになるので、今朝の五十鈴川だよりでは割愛する。

ともあれ、あの出逢いなくして今は無し、結婚、岡山移住、二人の娘に恵まれ、娘達が巣立ち、それぞれが伴侶を見つけ、それぞれ男女の子供に恵まれ、私はお爺さんになっている。(これいじょうもうなにも不要である)

話を戻す。どちらが先に宇宙に還るにせよ、これからは夫婦時間最優先で生きたい(往きたい)と、妻の誕生日の朝に念うのである。我々は全てが正反対である。だからお互い助け合って今日も飽きることなく、生活できているのだとおもう。その極めて平凡な気付き、共に生活していて飽きないのは、お互い微妙に変化し続けているからだとおもう。季節が移ろうように我が心も移ろう、その事に静かに五十鈴川だよりを打ちながら向かい合いたい。

これ以上は打てない。愚の骨頂、野暮である。知恵を絞り、工夫し、平凡な日々を、非凡な日々と感じられる感受性を、一ミリでも(老いの摂理に逆らうのではなく、受け入れる生活力を養いながら)磨きたい。

2026-01-17

一月末、桑江さんご夫妻に会いに長崎に往く。厳冬期の朝に思う五十鈴川だより。

 土曜日の朝が来た。月曜日から昨日まで今週は水曜日以外フルに(午前も午後も)働いた。この仕事は自分の裁量で、自由に時間を調整できるので老人のパートタイマー仕事として、甚だしく私にとっては、おそらくこの仕事を持って、一瞬先は未知ではあるものの、お手当てがある仕事は最後になる。(以後は健康であればボランティアを、猪風来美術館の草刈りをしたい)

さて、お正月早々フルに仕事をしているのは、一月末、長崎にどうしても行かなければ、往きたいからである。沖縄のご夫婦でやられていた人形劇、かじまやあ(沖縄の言葉で風車を意味する)の最後の公演を視るためである。

何度読んでも打たれる

桑江純子(作演出、自分の作品の人形も創る、唯一無二の登場人物たち)、桑江良健(画家、独学で唯一無二の作品を今も画き続けている)。

出偶っておおよそ30年になる。ただ二人の沖縄の友人である。昨年末、本当に久しぶりにお電話したさい、純子さんからその事をしらされた。その場で、長崎に往くことを告げた。

そういうわけで、一月末、一週間以上お休みする。だから働いている。したがって私の一日は、あっという間に過ぎる。ルーティンの本読み他、わずかな時間であれ、中世夢が原を辞した後継続していることも含めると、私の一日は、本当にあっという間にすぎる。妻はそのような老人の私をどこか諦めの(幸い見放してはいない)様子である。

話は変わるが、昨年秋、那須塩原に住むI君(33年君子の交友が続いている。)を訪ねて、その際おもい知ったのである。会える時に会っておかねば、と。十数年ぶりに再会、二人きりで温泉に浸れて、交友を温め合えた、その至福のひとときの有りがたさは言葉で表せるものではない。

至誠、私には似合わない言葉だが、たまたまこの世に生を受け、廻り合い、付かず離れずの、言わば君子の交わりが長きにわたって続いている、方たちとの交友だけは、逃したくないのである。

再三、五十鈴川だよりに打っているが、晃かに昨年の猪風来さんご夫婦の縄文の企画に関わったことで、これからの人生時間をいかに生きてゆけばいいのかが、自分のなかで整理されたことは間違いない。ボンクラの私、人生は有限なのだと頭では理解していたつもりなのだが、そのことの重さが、ようやっと体で理解(分かって)きたように、寒中体動かしながら感じ、思うのである。

なにを隠そう。小さい頃から、生と死の不思議を、なぜ自分は存在しているのか、なぜ涙が溢れ、感動するのか、思春期、なぜ女の子(人)をみるとドキドキするのか、やがては死ぬ運命を、いかに生きてゆけばいいのか、人には相談できないような、悩みを抱えてなんとかこの年齢まで生きてきて、ようやっと、言葉では言えないが、少し安堵している。

当たり前、老いると感受性も脚力も弱くなる、そのことを普通の人はもっと早く感知しているのだろうが、私は能天気あらゆる点で世間とはズレまくっている。が、有り難いことに、未だ感動し涙が溢れてくるし、充分に脚力もあるからこそ、動き回って働ける。だからこそ、今のうちに働くのはそこそこにして、会いたい人、お世話になった人には、直接出向いて、お礼を伝えたいのである。桑江さんご夫妻は、その筆頭に位置するヒトである。

どのような天才であれ、普通の無名の人であれ、万人等しく死は絶対訪れる。いかに生きてゆけばいいのか、いけないのかは、万人の永遠のテーマである。ハムレットは死んで戻ってきた人はいないから、死後の世界は未知の邦だから、人は死を畏れるという。

ある哲学者は人が死ぬのは生まれてきたからだという。何度も読んでいる養老孟司先生は、死んだことがないのでわからない。だから考えないという。そんなわからないことにおもい煩うより、生きていることに悩むほうがいいと。もっと素晴らしいとおもうのは、悩むのも才能のうち、と仰っている。このよううなかたが日本に存在していることに安堵する。私もだから考えない。

せっかく生まれて在るのだから、老人ハムレットのように悩み、生きる側に私は存在したい。虫だって、おけらだって生きている。私だって同じ、生き物として等かなのである。そのような視点にようやっとたどり着いた、在りがたき実感が私の今の生活を彩っている。

というわけで、一月末、桑江さんご夫妻に長崎でお会いするのが楽しみである。人形劇公演は終わるが、ご夫妻とのゆったりとした老いゆく時間は、いよいよこれから始まるのである。そのために、沖縄詣でをするための旅費を稼ぐために、一年でも長く肉体労働をする。(のだ)

PS 千住真理子さんのCDを聴きながら打っていたら、すーっと文章が流れた。今朝の五十鈴川だよりでした。


2026-01-10

頂いた方に拝復お年賀を書き、よいよ厳冬期、休日薪作りに励む、今日の五十鈴川だより。

 一月六日から労働開始、昨日まで働いての土曜日の五十鈴川だより。アメリカのベネズエラへの驚天動地の介入を始めとする、世界の(イランほか)予断を許さないニュース、国内の山火事、地震、薄気味悪い事件などなど、年明け早々飛び込んできて、老人の私はすっかりお正月気分は消えた。そのようなニュース報道を横目、斜めに見ながら、私は静かで穏やかな日々を土の近くで生活している。

さて、話題を変える。古稀を過ぎる前くらいから、私は年賀状を書くことをやめた。義理のお付き合い他、儀礼的なことも年々しなくなった。そのような私の生活ぶりは、かなりの人に伝わっているはずと、私の方では一切お年賀の義理を欠いているのだが、それでもどういうわけか、今年も20枚以上のお年賀を頂いた。

2005年に出版されている。

私の性(さが)、頂いたお年賀には、例年寒中見舞いのお葉書で済ませている。が今年は、午前中手書きで松の内に、すべての方に拝復お年賀を書いて、先ほど投函してきた。郵便局の年賀状ではなく、妻が持っていた絵はがきと記念切手を使っていいとくれたので、有りがたくもらって万年筆で一気に3時間位かけて書き終えた。私は何事も気がのらないと、一筆たりとも書けない質である。(終えてちょっとホッとしている)

私のお返事年賀は、ほとんど文字でうまっている。小さな絵はがきの半分に文字を書いているだけの短い手書きの一文だけである。頂いたお年賀はプリントされたものがほとんどで、わずかに手書きが添えられているのもあれば、まったくないのもある。

私が年賀状を出す気力が萎えたのは、まず肉筆が消えたことが大きい。上手下手ではなく、指紋、声紋、と同じように、その人にしか書けない癖が、文字には滲み出る。アルファベットは横文字、タイプライター文化、五十鈴川だよりは必然的に、タブレットで打つから横文字日本語である。

だけれども私は日本人である。私の娘たちを含め、すでに直筆でもかなりの日本人は横書きであるし、小説なんかでも横書きがある。今後あらゆる日本語が横書きなるようなすうせいである。だが私は直筆は手が動く間、文字が書ける間は縦書きに徹したい。悪筆我流だが、筆書きを私はこよなく愛す。昔(53歳の時)書家の達人石川九楊先生の[縦に書け]という本を読んで目から鱗が落ち、以来縦に書く事に決めたのである。

今でも気が塞ぐと、父が愛用していた硯に墨をすり文字を書いているとあら不思議、気持ちが落ち着く。作用、私の老人ライフはデジタルには程遠く、未来に向かっているのではなく限りなく過去にむかっている。人生の持ち時間がすくなくなっているにもかかわらず、敢えて時間のかかることをこそ、楽しみたいとという、絶対矛盾を私は生きている。

生成AIに頼めばあっというまに(生成AIは敵ではない。最後は私も多岐にわたってお世話になるかとはおもう。老いては便利にまかせる他ない)やってくれるだろう。だがまだ私は自分の手で書く幸せを手放したくはないのである。手間をかけて事を為す喜び、達成感、を私は、富良野塾と中世夢が原で見つけたのである。そして今もアウトドアバイト先で、自分で言うのもなんだが、その延長線上で、日々の達成感、幸せな晩年が送れている。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、は至言だとおもう。

再び話は変わる。いよいよ厳冬期にはいる。この連休、私は職場に我が家の薪ストーブ用の薪作りにゆく予定である。冬、昔のお爺さんは山に芝刈りにの体(てい)で、2000年に家を建て替えて以来、冬の薪の調達は私の必須仕事なのである。もう25年にもなる。継続力。

私のバイト先には常緑樹の枝が伸びて邪魔(風通しよく枝落とす、伐る)になったり、枝が枯れたりしてしているのがあるので、休日に行って薪作りに励むのである。直径十センチ以内位の枝をノコギリで30センチ位の長さに伐り、葉っぱ、細い枝は焚き付けにする。3時間もやると、かなりの薪が出来る。(薪ストーブでお湯を沸かし、湯タンポにする、したがって灯油は少ししか使用しない)

大空の下での運動を兼ねて、ノコギリを引き束ねる。もう何十年もやっているので体がコツを体得している。全身労働はお腹がすく。労働を終え帰宅、暗くなってストーブに火を入れ、冷えた体をお風呂にひたしたときの愉悦、例えようもない。身の丈に合う生活、そして健康に体が動くからこそ成せる事実に、ありがたやと、ただ呟くわたしである。


2026-01-07

2026年、一月七日、寒さを体感しながら、夜明け前に思う五十鈴川だより。

 昨日から労働に復帰しました。月曜日長女家族が移動し、年末年始まる一週間(次女家族とは3日間)我が家は怒涛のような賑やかさに包まれました。あっという間でした。

宿から撮った一枚

昨日の夜、老夫婦だけの静かな夕飯、お正月が終わったことを実感しました。が私の心と体には、3世代でお正月を迎えることができた喜び、余韻がまだ抜けてはいません。だけれども、世のなかは、すでに、一気にどころか激動の2026年の幕開けのように思えます。

がしかし、つくづく私は思うのです。このようなご時世であるからこそ、じっと揺るがない山の姿や、川の流れ、夜明け、日没、雲の流れなどを、ただポカンと眺めることの出来る、つましくも平凡な有りがたさを噛み締める自由自在を、感性をなくしたくない、のです。(スマホもお金も使うもの、逆はちょっと虚しい)

今年は2日、3日は湯原温泉で長女家族と過ごせたことが、老いの実りとでも言うしかない、初めて経験した孫たちとのお正月小さな旅は、今年もまた、地に足をつけて生きてゆく老いの覚悟を深めてくれました。

家族での、私の少年時代の頃の記憶のなかの、お正月風景とは、今は昔の有り様ではありますが、今年孫と過ごしたお正月は、時代の表面の風景は変わろうとも、移ろいゆくなかで、しかし移ろはない、大事なことが確認できたお正月となりました。

さて、今年はどのような年になるのか皆目わかりません。(世界情勢はいよいよ魑魅魍魎世界へ突入してゆくかのようですが、付和雷同だけはごめんです)ただひとつ思うことは出来るだけ静かな、カントリーライフ、本を読んで、散歩に重きをおいた労働生活がしたい。(揺るがないこと、普遍的なことににのみアンテナを磨きたい)

あるがままに流れてゆく。老境、老いの細道を堪能するための生活を、いかに一日一日過ごせるか、過ごせないのか、を思索思念、老いの小学的哲学時間を大事に生活したいと。

これまでの人生を振り返りつつ、手にしてこなかった先人たちの書物に触れて、老いの血流ををよくしたく、未知のゾーン時間を充足したい、とそのようなことを年の始めに念っています。


2026-01-02

明けましておめでとうございます。皆さまのご健康心より祈念します。

 明けましておめでとうございます。昨年五十鈴川だよりを読んでくださった方心より御礼申し上げます。

孫たちと、ハッサク採って、お正月。

これから長女家族2泊3日お出掛けするので短い五十鈴川だよりです。ともあれ、本年もよろしく御願い申し上げます。

30、31日全員ぞろってお正月をむかえることができました。昨日次女家族が移動し今日から長女家族とすごします。

さて、今年の五十鈴川だよりはどのように流れてゆくのか、皆目わかりませんが、はっきり自覚していることは、一日一日を大切に、もう出来るだけ我儘、(いい意味で)自由自在に過ごしたいと思います。

昨年最後の五十鈴川だよりに打ったように、謙虚に学ぶ、学べる時間重きを置いた生活を心掛けてたいとおもいます。刻一刻変化する未来に対応するのは、困難なことではありますが、出来るだけ、暫し年齢を意識せず過ごしたい、と思います。

おそらく、ゆっくり集中して五十鈴川だよりを打てるのは、長女家族が帰ってからになるかと思います。それまではこのお正月家族時間をおもいきり感謝、楽しみたいと思います。

皆さまにとりまして、よき一年となりますことを祈念します


                  2026年、1月2日。日高奉文。