ちらほら桜の開花が告げられる季節の到来、等しく万人に春はやってくる。ウキウキ嬉しい。今日から三連休である。五十鈴川だよりを打つ気はなかったのだが、休日でも、ほぼいつもの時間に目が覚めたので、ゆっくりとコーヒーを飲み、ボーッとしていたら、なにやら綴り打ちたくなった。
私のことだから、いつまで続くかはわからないが、今年は年明けから、真面目に気に入った文章や、歌などを書写している。2月の中頃図書館でボブ・ディランの歌詞集を見つけた。長くなるので、簡潔に打つ。私はボブ・ディランの熱いファンではまったくない。
だが、思春期にライク、ア、ローリングストーン、風に吹かれて、時代は変わる等の、ハーモニカをぶら下げ、あの独特の声と歌いかたに、直感的に引かれ、影響を受けたことは間違いない。見果てぬ世界への誘い、とでも言うしかないなにかに、田舎者の私は連れ去られたのである。
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| 学ばせていただきました |
あれから55年以上の時が流れ、まさに時代は代わり、あの当時の生活にはなかった品物(武器を始め、世はまさに隔世の感)が溢れ、音楽も、小説もAIが(まったく私はその方面に疎いが)作れる、私には理解の及ばない、奇異な時代を、お爺さんになった私は生きている。
そのようなときに、たまたまボブ・ディランの詩集にであったのである。52年前、1974年に出版された本で、かなり落丁がある本であったのだが、書写をしたくなったのである。一月位かかると踏んで始めたのだが、結果3週間とちょっとで終えることができた。(ノート一冊とちょっと)
ボブ・ディランの詞を、翻訳日本語で読むことは、限りなく別な作品を読むことなのだと思いながら、書写を続けた。終えて思うことはやって良かったということである。
(今の日本にボブ・ディランのようなソングライターがいるのかいないのか、浮世離れの老人の私は、寡聞にしてしらないが、多くの名もなき弱き人々の声を、救いとる歌人の不在が、時代の不幸なのだと思える)
そして、岩波から出版されている新しい翻訳を手元に欲しくなったこと、この年齢で再びボブ・ディランを聴きたくなったことである。(千住真理子さんをきっかけに、何十年ぶりにわたしは好きな音楽を再び聴きたくなっている)
話は変わる。私は好事家的に本を読んだりはしない。あくまでも本を読むのは生きるためであり書写を始めたのも、そうなのである。五十鈴川だよりを打っていると自己満足の安寧がやってくる。書写もそうなので続けられる。もっと打てば、日本語の文字を手で書いていると、この老いゆく体が言霊に癒され安らぎ、気持ちが良くなるのである。
昔の人が詠んだ、俳句や和歌なども書写していると、なにやら昔人と交信しているかのような心持ちになる。枯れつつも微かな想像力の翼にたゆたい、荒涼とした潤いのない現世から逸脱時間が過ごせる(のだ)。
自己満足以外の何物でもない。しかもまったくといって良いほど自己完結、他者に迷惑をかけない。お金が不要、ノート、紙、インク代位である。書写以外に最近私がはまっていることがもうひとつある。それは明日打つことにする。

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