大晦日である。さんさんと陽光がわが部屋に差し込んでいる。静けさがあたりを支配し、穏やかさに我が身がつつまれる。正直、この一年を振り返る余裕は今のところ私にはない。
何といってもいまだ、終息の気配の見えないコロナウイルスに、まさに人類が右往左往し続けている、ウイルス には大晦日も関係ない、だからなのだろう。こんなにも形容しがたい大晦日の気分はまさに初めてである。だが老いつつもこの初めて感じる感覚を大事にしたい。
誤解を恐れずに書くが、心からの終息を願いながらも、きわめて個人的には、またとない静かに考え続ける時間が持てたことに関しては、私にはよかったという思いも否定できない。
とにもかくにも身近な方以外とのコンタクトを避け、静かなる生活を心がけたことで、今のところコロナウイルスに感染することもなく、大晦日を無事に健康に迎えられて、このように五十鈴川だよりを綴れることができる、生きていることへの感謝である。
よしんばコロナ渦騒動がなくとも、この年齢ともなると、つつがなく健康に一年暮らせただけでも私には大いなる感謝なのだが、はじめてのコロナ渦中生活を何とか大みそかまで、それなりの充実感をもって生活できたことへの感謝の念はひとしおである。
そもそもヒトはひとりでは生きられず、誰かに迷惑をかけ誰かに頼らないと生きられない存在だが 、限りなく自力的に、つつがないつましいながら生活が送れたこと、家族や身近な方が生活できコロナに感染しなかったことは、慶賀の至りである。
想像を絶するコロナ渦中生活を、送らざるを得ない人たちのことを想像すると沈黙するしかない。コロナウイルスの行く末は、いまだ変異し続けようとしてわからない。不安を抱えたまま大晦日を過ごし、新しい年を迎えるしかほかに方法はない。
だがいたずらに不安を抱えても致し方ない。医療関係者はじめ、多くの心ある方々が懸命にウイルスとたたかっておられる。個人個人が節度をもって生き延びる方策を考え、行動実践するしか今のところない。特に私のような前期高齢者は考えて行動しないといけないと自戒する。
話を変えるが、世の中に出て半世紀、動くことで生き延びてきた私がこんなにも静かな生活ができるとは思いもしなかった。人間は状況によってかくも変わる、ことができるのだということを、またしても教えられた。
だが、行動範囲が狭くなり、ヒトには極端に会わなくなったが、この一年の肉体労働をはじめ、(声を出すことは少なくなったが)弓ほか、体を動かしながら考えるという基本生活、コロナ以前からやっていたことはほとんど変わらなくやれた。この一年の大きな変化は、土に親しみ作物を育て、天界地面との対話時間が増えたことが大きい。
風の歌を聴け、もさることながら、雨のしずく、光、土の匂い、芽吹きの妙、枯れた落ち葉の美しさ、やがて根に帰り、新たな生命となる。大いなる命の循環。土の声を聴けである。
命はどこから来て、どこへ向かうのか。今を生きる居場所で最も大切なもの、大事な人たちの存在への感謝の気づき。コロナ渦中生活は、老いゆく我が身に、手の届く範囲の居場所、足元を磨き耕すことの重さを知らしめる。