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2020-06-01

6月1日の五十鈴川だより。

ブログなるものを書き始めた時、まだ中世夢が原で仕事をしていた。囲炉裏通信を書き始めたたいがために、私はパソコンにキィを打ち込む訓練から始めた。

その時言われた。ブログを書くなら毎日書かないとだめですよ、と。囲炉裏通信から五十鈴川だよりに変わってもう丸7年以上が経つが、このところ私の日常は、五十鈴川だよりを綴らなくても、何ら支障もない。(数少ない五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方には申し訳ない)

でもまだ心のどこかに、ああ、今日も五十鈴川だよりを書かなかったなあ、との思いはどこかにあって、なぜ書かないのかを書くためには、またずいぶんと書かなければならないので、ただ億劫なだけである。

そのような億劫なきもちで過ごすのは、一日がとてももったいないので、もっぱら気持ちが上向くようなことに時を過ごしているのだ。メディア報道に、一喜一憂している時間はもうすでに初老凡夫の私にはないのである。

この数か月の世界の変容というか、(オーバーではなく歴史的大転換の渦中に身を置いているかのような)様変わりに私自身の身体が追い付いてゆかないというか、置き去りにされて行っているかのような、(それでも一向に私は構わないのだが)妙なおそらくこれまでの人生では経験しなかったような、あるいはたまたま経験しそびれていたような感覚というか、感情が初老凡夫の体に生じているといったあんばいなのである。

だからこの言うに言われぬ、感情を言葉か、文字かすると誤解が生じるかのような気がして、億劫なのである。だが、そうは言うものの私が信頼する方々は、身を賭して発言されたり、あらゆる表現行為をなさっているのに、支えられながら生きている。

ハイテク、今やナノテク、マイクロチップを体に埋め込まれ、個人のデータや行動記録がビッグデータがに管理され、監視されているといった社会がもうすでにきているのだということが、コロナ騒ぎのこの全世界的な騒動の渦中で顕わになったということを、初老凡夫はしかと認識した。その丸裸にされる気持ちの悪さ、ごまめの歯ぎしり、きちんと書いておきたい。【人間は秘すれば花の存在が気持ちいいのである】

一言でいえば、気持ちの悪い、気色の悪い、超管理化された時代の到来の不気味な時代の足音を感じるのは私だけではあるまい。画面を通して、あるいは言葉や文字を通して、の情報をうのみにしていると、とんでもない世界へと連れ去られてゆくのではないかと、いう気が抑えられない。私は画面ではなく、命の下である大地を、地面をしかと眺めて暮らしたい。移りゆく花の色、波の音や鳥のさえずりに、耳を澄ませたい。見えないものを感じたい。
謙虚に学び知る勇気を与えられるお二人の貴重な対談

初老凡夫は体を動かして、感覚を砥ぎしまし、自然が放つ豊香に身を置き、自分のかけがえのない体が喜ぶようなことにコロナ騒ぎの渦中を生きている。

もう初老凡夫の私には余分な情報は不要である。つつましくもかくも美しく勇気をもって生きて遺した、先人たちの残した言葉の素晴らしさに撃たれる日々を、コロナ騒ぎのおかげで、私はいただく日々を生きている。

コロナ騒ぎがなかったら、落ち着いて読むことがかなわなかった素晴らしいというしかない多くの書物に巡り合えた。まさにコロナの功名というほかはない。何をしていても時は過ぎゆく、ならばいかに生きるのかを。大事な方々と、一回こっりの人生を生きてゆくための方図を初老凡なりに、書く回数は少なくても、きちんと綴れる五十鈴川だより、でありたい。

コロナ騒ぎの渦中、今私は土に親しむ時間を大切にしている。土との対話といってもいい。自分の体に根を張らないと、簡単に時代の趨勢に染まってしまう、流されてしまう。

自分という便りのない杭を勇気をもって地中深く撃ちこまないと、危ない時代が来ているとの嫌な予感が、外れることを祈らずにはいられない。

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