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2020-06-06

わずかな夏野菜を収穫し、そして想う。

コロナ騒ぎのおかげと思うことの日々を、送るにしくはなし、といった気持ちでこの数か月を過ごしている。大方の社会的な役割を終えた現在を生きているがゆえに、このようなある種能天気な、初老凡夫ブログを書けるのだという、自覚がある。

おそらく想像を絶する過酷な状況生きざるを得ない、あまたの生活困難を抱え、途方に暮れておられる方が、全世界に無数におられる。そのような中、脳天気に戯れ文を綴れる己が我が身の現在を、私は心から有難いと思っている。

コロナ渦中のこの数か月、とにもかくにも五十鈴川だよりを書けるほどの元気さをキープできているのは、身体が何はともあれ元気だからである。遊声塾のレッスンができなくなったことと、遠距離の移動がかなわなかったくらいで、それ以外は基本的に変わらない生活が持続できている、ありがたいというほかはない。。

私のアルバイト先は、三密には程遠く野外であり、ひとり仕事なので気持ちがらくに働ける、私は18歳から生活者である。生活者を全うしたい。話は変わるが、コロナ騒ぎの渦中、いやでも自分の生活の中での優先順位、大切な事柄の再確認、見直しをしている。

毎週水曜日夜の、遊声塾のレッスン ができなくなってちょっとさみしいが、7年間何事もなく続けられたことが今となっては、ありがたい時間であったのだと身に染みて痛感している。

まさに一寸先は闇、予期せぬ不可抗力的な出来事が こうもあからさまにわが人生にも起こるということを、身につまされれている。でも下を向くのは性に合わない。元気に生きている初老凡夫、動いてものを想う律動は押さえられない。

五月のはじめバイト先で借りているわずかな土地に夏野菜(ジャガイモ、ピーマン、オクラ、トマト、ナス、きゅーり、シシトウ)を植え、先日初めて茄ときゅーりをわずかだが収穫できた。
夏野菜・お日様のもと・生え光る

土を耕し、雑草を取り、肥料をまき、苗を買い移植し、水をやり、生育を観察しながらようやく収穫。おおよそひと月以上。

この間天に向かう枝ぶりの成長、ナスの花、きゅーりの花の愛らしさ、トマトの花芽の小さな可憐さ。神は細部に宿り給うというが、然りである。その恵みをいただく。あの暑いお日様の力なくしてはいただけぬ夏の恵み。

実をつけ、やがては枯れるのではあるが、枯れるイククオール 死ではない。枯れて次の生命を生み出す偉大な土の一部と化すのである。輪廻転生。死と生は隣り合わせ、まさに密接不即不離なのであるのが摂理として腑に落ちる。水が豊かで作物が育ち、その恵みをいただける環境に、風土に生をいただいていることのありがたみを、この齢になって初老凡夫は深く自覚する。

命をいただき、自分の命となる。コロナ騒ぎがなく、自粛もなかったら、こんなにも夏野菜を観察し、手をかけいつくしむ気持ちは育たなかった気がする。





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