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2020-06-14

梅雨本番、鬱陶しい季節の雨の合間にに想う。

私のいる窓から望める空は分厚い雲に覆われている。先ほどまでは雨音が聞こえていたが今はしない。パソコンの応答がなかったので、散歩に出掛けようとしていたらアクセスできたので、しばし散歩はお預け後回しに。

もう6月も半ば、五十鈴川だよりを綴る回数が極端に少なくなっている。この調子では月に数回くらいにしか流れない五十鈴川だよりになりそうである。でもまあこれが今のところの自分としては、自然なのであるから、本人は書く回数が少なくなっても、まったく頓着していない。
妻は何かしら季節の花を欠かさない

なる様にしかならない雲の流れに身を寄せて老いの想像力にすがって生きる。努めて前向きに生きる。これまでもそうしてきたし、これといって私には他に気持ちよく生きるすべは見当たらない。

これまで歩んできた道のりの自分が、これからの歩む時間を照らしてくれるかのような、支えてくれているかのような塩梅なのである。それと書物、これまで読んできた多くのすぐれた先人たちの本を再読する。老いゆく私の足元をてらしてくれる。

話を変える。先のことは予断を許さないにもせよ、コロナウイルスも峠は越えたかのような感は漂うが、あきらかにこの度のコロナ騒ぎショックが、元通りの生活には戻りえないほどの後遺症が多面的に我々の暮らしに及ぼす影響は、初老凡夫の理解の遠く及ばないところである。

もうほとんどの社会的役割を終えた初老凡夫だからこそ、責任のない一文を書けるのだとのやんわりとした自覚がある。自分がもし子育て真っ最中であればと想像すると、きっとてんやわんやの日々を送っているのかもしれない。早い話、物事の真実は、置かれた境遇の各世代ごとの、万人の諸事情で異なる。運命は過酷である。
こちらは果肉植物

ただ人間は、社会的な一人では生きられない生き物であるから、このコロナ騒ぎがどこかしら、私の内面にも目に見えない心理的な影響を与え続けているのは間違いない。

にわかには言葉では表現不可能な、もっと言えば、言葉が無化されるかのような、ある種の恐怖を与えずにはおかないほどの大きな出来事の渦中を、まさに生きているとの認識である。

このようなことを書くと何やら深刻だから言葉は始末が悪い。おおよそ4か月、青天の霹靂のような、自粛的生活を強いられる羽目になったり、移動自由時間が少なくなったとはいえ、動かない静かな時間の過ごし方(の大切さ)は、増えたように思える。軽やかに深刻を生きるすべを見つける。

梅雨時、重苦しい雲の層の厚さに、気分も鬱陶しさを増しがちな日々だが、沖縄は梅雨が明けた。身体に精神の風を自由自在に入れ替える想像力、体力を日々保ちたい。


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