9月11日。ニューヨーク同時多発テロが起きた年。あれから20年が経つ。忘れもしないあの夜の画面を通してみた、空前絶後のあの惨劇。たまたま一緒に共に見た長女が小学校の5年生だった。
(脳天気に、穏やかに、平和を享受していた 私の生活に、いったい世界で何事が起きているのか、考えないと大変なことになるといった、漠然たる不安がにわかに沸き起こったことをおもいだす)
その娘が 31歳になり一児の母親になっている。あれからの本格的なインターネット時代が私の中で始まったような記憶がある。私自身が遅まきながらパソコンの海の扉を自覚的に開くようになった。
一口に20年、この間の凄まじい時代の空前絶後の推移。出来事の諸相、テクノロジー革命といってもいいほどの急激極まる大変化を我々の生活に、今現在ももたらしている。(後年いろんな角度から語られるであろうがその時には私はいない)そしてコロナブルーが、鬱ぜんと世界をおおう。
その渦中を何とか生きている、生きられているというのが正直な私の気持ちである。人間はやがてなれ、忘れる。どんな悲惨にも。だから、私のようなものは生きられるともいえる。
忘れないと、とてもではないが息がつまる。深呼吸、月や青空雲の流れ、花々、美しき普遍的な物語や音につつまれないと身体がきっと病んでしまう。
鬱になったり、病んでんでしまう人の方が、ある種の動態平衡感覚があるのではという気がしてしまう。善と悪がこうまで曖昧模糊として判然としない、割り切れない時代がやってくるとは。だが、人類はあまたの受難を引き受けてきた、先人たちの偉大な営為にまなぶ、コロナブルーの日々である。
まさに時代の明日は、皆目初老男にはわからない。だがギリギリ、心と体が喜ぶことを念い積み重ねる日々をいきるほかはない。。
とまあ、朝からちょっと意外な展開の 五十鈴川だよりになってしまったが、ほぼ社会的な役割を終えた初老凡夫としては、ことさらに時代に添い寝するような感覚はとうの昔に、うっちゃったので、もう何事が起きても驚かない(でもやはり驚くだろうが)。
このようなことを書くと、何やらわびしさが漂うが、きっと老いるということは、(何しろ初めて老いているので)現時点では、そういうことなのだろう。だが今しばらく絶対矛盾を抱えながら、老いてゆく体にしがみつき面白可笑しく生きてゆく術を模索したい。少し涼しくなった 秋の気配の朝に想うことである。
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