昨日で体動かしアルバイトを無事に終えることができた。今年もあとわずかになり、一年を振り返るのは大晦日にしたいと思う。
さて、30代に向かって人生の進路の岐路に立たされていたころ、20代の終わりの3年間所属し、蕁麻疹が出るまで鍛えられた、劇団シェイクスピアシアターを主催してこられた出口典雄さんが亡くなった。一報を友人からもらって知った。感慨無量である。
高校生の時に見た映画が私のシェイクスピアとの出会いだが、上京し、昼はアルバイト夜は演劇学校の二重生活を送っていたある日、二十歳の時に千駄ヶ谷の日本青年館で観た文学座の【十二夜】の演出が出口典雄さんだった。映画はゼフィレッリのロミオとジュリエット、舞台は出口さんの十二夜がシェイクスピアとの出会い。
あんなに笑い転げたシェイクスピア作品をその後私はみたことがない。道化を演じた江守徹さんはじめ次々に出てくる魅力的な役者たちの演技には圧倒された。マルボーリオを唾を吐きながら奇妙奇天烈に演じた北村和夫さんももうこの世にはいない。書いていると時間がワープして帰り来ぬ青春時代の記憶思い出がつーんとよみがえってくる。甘くもほろ苦い。
その後自分が後年シェイクスピアシアターに所属し、直接出口さんからレッスンの薫陶を受けることになろうとは夢にも思わなかった。人生の運命の糸の綾の見通しは、まことに持って予測不可能である。
このようなことを書き始めたらきりなく書いてしまいそうになるし、そっと個人的な大切な宝の記憶としてわが胸のうちにしまっておきたいが・・・。1970年上京してからの、18歳から23歳くらいまでの間に出会った数々の多士済々の才能が群雄割拠、寺山修司、唐十郎、つかこうへい、蜷川幸雄、佐藤信、(野田秀樹や渡辺えりは少しあと、書ききれないくらいの才能が咲き誇っていた)多分野の劇場での観劇体験は私の中の黄金の記憶の宝というしかない。記憶の中の怪優たちの声が今も私の中の脳裡にしみこんでいる。亡くなられた方もいるが、私の中ではくっきりと今も生きている。
一期一会の、オンライン観劇とは全く異なる、前列の客は役者の口から放たれる汗と唾液の飛沫を浴びながらの、演じる方も観劇する方も一体感が劇場の空間を横溢していた。今となっては考えられないの熱気と狂気とが充満していた小劇場体験は、テントであれ、アンダーグラウンドであれ、田舎から出てきて間もないうぶな少年の心をわしづかみにし、震撼とし(させ)大都市の闇に咲く、うごめく、人間の情念の吐露に、私は恐れおののいたのである。(1970年11月25日三島由紀夫の割腹は少年の私の度肝を抜いた)
30代に入り、まるで 記憶を封印するかのように普通人としての生活にシフトしていった私だが、あの時代を懸命果敢に生きた演劇人や、映画人他、モデル、歌い手、イラストレーター等々同時代の方々の訃報を目にすると、いまだ初老凡夫の血がざわめくのである。
話を戻す。あの時代に小田島雄志先生が翻訳したてのほやほや本になる前の台本を、出口さんは並走するかのように若き劇団員たちと共に、六年近くかかって日本でのシェイクスピア作品の全作品を、当時渋谷にあった客席数一〇〇人の地下にあったジャンジャンという小屋で上演し演出した。誰が何といおうと前人未到の快挙である。
その快挙の最終コーナー八作品に参加することができたこと、今となってはわが青春の終わりの誇りである。半分近くは日本初演の知られていないシェイクスピア作品。わけても 上演時間九時間に及ぶヘンリー六世三部作(傑作である)にいろんな役でとっかえひっかえ出演できたこと。とくに(セイ卿の役)で私は褒められた。出口さんに褒められ上京後の苦労が報われた。(ヘンリー六世、声が出るうちにコロナが終息したら何とか機会を作り仲間と音読したい)ジャンジャンではなく六本木の俳優座劇場で、朝昼夜と連続上演したことはけっしてわすれない。
あの時代東京で、縁あって同時代に居合わせた方々から、縁あってすれ違った方々から、無数の縁、何と多くのことを肌を、声を、肉体を通して教えてもらったことか。今私がこのコロナ渦中を運よく生活できているのは、おそらくあの時代をどこかで共有し、情熱熱の果てに召された方々の記憶が今も私を支えてくださっているからに他ならない。
口角泡飛ばして飛沫を浴びせあいながら激論を交わしあったすべての縁あった方々が懐かしいが、懐かしんでばかりはいられない。元気に生きている、いられる者としては、死者たちのおもいを無駄にはできない。何かせねば。
五十鈴川だよりに、シェイクスピア作品の上演、演出に心血を注いだ、出口さんのことをまとまらずともわずかでも書いておきたい。あの三年間がなかったら遊声塾はない。ご冥福を祈り、いつの日にかコロナが終息したら、ご霊前にお線香を立てに行くつもりである。
0 件のコメント:
コメントを投稿