あっという間に一週間が過ぎての五十鈴川だより、コロナウイルス、初冬を迎えての感染増加の脅威は収まる気配はない。この8カ月間極めて行動範囲の狭い暮らしを続け、家族や近親者以外の人たちとの会話や対話をほとんどしていない私である。(例外は土取利行さんのみ)
この間 弓の稽古だけは持続している。弓道場はほとんど青天井、多方向からの風の 流れがある。居合わせた方々と少ない会話を交わすことはあっても、面と向かっての長い会話はない。
アルバイト先は野外、他者との交流は皆目ないので、今のところ私は極めて以前と全く変わらない健康な生活が営めている。そのことに対する有難さは筆舌に尽くしがたい。
新聞ほかのメディア報道によればこの(異国を含めた)コロナ渦中の多くの国民の多岐にわたる職種、世代ごとの生活困窮者は凡夫の想像力をはるかに超えている。冷静に考えても粛然とする。(自殺者の急増他、置かれた立場の困難には言葉がない)
経済とは何なのであろうか。お金とは何なのであろうか。一方で期限切れ賞味期限切れの食品廃棄物がわんさかある、方や飢餓にあえぐ地球上の生活困窮者が億人という数字上の単位で存在するという、不条理現実に唖然とする感覚を有する初老凡夫である。
先日読んだ永六輔さんの伝言(矢崎泰久さんがまとめた、素晴らしいお仕事)に、やなせたかしさんの言葉【正義とは世界から飢えをなくすことである】とあった。
あまりにもの理不尽というしかない格差、そのバランスの悪さに人類につけこんできたかのようなコロナウイルスの猛威は何を暗示、示唆しているのか不気味である。
理解を超えた理不尽不条理がまかり通る世界の現実を知らせてくれてくれるのは、この100年の映像の世紀、電波通信、移動乗り物、書物物流の発達のおかげ、この数十年のデジタル革命インターネットである。過酷なアフガニスタンの辺境大地から警鐘を鳴らし続け、一隅の緑の大地を創り上げたた中村哲先生が言うように、爆弾よりも安全な水と食い物なくして、ヒトは人らしく生きられないのだ、その言葉を心の片隅に私はこれからの人生を歩むつもりである。
どんなにテクノロジーや科学が発達したとしても、飲み食う排泄する人間の基本生活は普遍である。足元の自分が立っているところから、こころの闇をさまよいながらも物事をつつましく思考する勇気を失いたくはない五十鈴川だよりでありたい。
老いつつもあらがい、身軽に小回りのきく下る身体を持続するためには、今日一日どのように過ごしたらよいのかいけないのかを、以前も書いた気がするが(何度でも書くのだもう老いているのだから)ハムレットのように、永遠の問いをくりかえすしかない。
悲しいかな自分や身近な存在のことで精いっぱいではあるものの、無数の不遇をかこう他者の存在をどこか心の片隅に留め置く想像力を養い、書ける間は五十鈴川だよりを書きつつ、アフターコロナを見据えたい。
日差しは万物を包みあまねく降り注ぐ、今夜は徐々に月の形がまあるくなりつつ輝く、その光を浴びつつ思考し何かを蓄えたい。
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