わが二階の部屋に、日々深まる秋の朝の陽光がさんさんと降り注ぎ、初老凡夫には言うに言われぬ在り難き気持ちよさである。世の中がコロナブルーに染まって久しいが、そのようなことをこの晩秋の陽光はしばし忘れさせてくれる。
昨日ちょっと個人的な用事で、ひとり津山まで車で運転したのだが、久しぶり車の少ない中山間地域を走ったのだが、日本の秋を満喫した。そこかしこにいろんな種類の柿がたわわに実り稲刈りがまだ行われていたりして(それとコスモス)、景観が刻一刻と変化し、情緒的な昭和男子としては、きわめて個人的な物思いに身をゆだねながらの運転を十分に楽しめた。
行きの途中美作では、市営の安い露天風呂にしばし浸かったのだが、まだ午前中であったせいなのか、湯船につかっていたのは私一人であった。目の前の川、色づく里の秋を眺めながらの湯あみは、これぞまさに至福のひとときというほかはなかった。
ゴートゥートラベルなどは私には無縁である。 小さい秋見つけた、ではないのだが、今の年齢の私にとっては小さき身の丈に合った、さやけき暮らしを、日々の中に見つけることこそが、生きがいとまではいわぬにせよ、大事なのである。
大事なことは、つましき中に今現在のおのれにとっての小事をゆるがせにしないような生き方ができないものかと、カッコつければ思案している初老生活なのである。
沢木耕太郎さんの本のタイトルではないが、貧乏だけど贅沢な暮らしのようなものを、私は還暦を過ぎてからは目指しているし、あれからもうすでに8年が過ぎようとしているが、その思いは、いよいよ晩秋の木の葉の色づきのように深まってきつつある。
やがては時の摂理、その木の葉ははらりと落ちるのではあろうけれど、それまでは命の輝きのようなものを、わが内なる体に見つけられたらと、詮無い望みを抱くのである。
それにしても身体が動き、運転ができるというのは有難い。後期高齢者までは何とか安全に運転ができることを望む私にとって、交通量の少ない田舎道をのんびりと走るのは、これからの今しばらくの楽しみである。
津山での用事を済ませ、帰りは吉備中央町を抜け総社へと。日没がまぶしかった。着いたのが午後5時過ぎ。 7時過ぎまで居合わせた仲間と弓の稽古をした。かなり冷えたなか空には白く光る半月が浮かんでいた。月のエネルギーをいただきながら、しばしままならぬ体で弓を射った。贅沢な時間がおのれの躰を流れた。
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