もう何度もかいているから重複は避けるが、この3週間、特に4月に入ってからは不要な外出はしていない。アルバイトには出かけているが、ひとり野外での仕事なので 仕事中はマスクもしていない。
先のことは、ゆめゆめ予断を許さないが心身ともにおかげさまで今までとほとんど変わらない生活ができている。都会をはじめ盛り場からは閑古鳥が鳴いているかのようにヒトの気配が消えている。極端に人影が消えている。(ようである)
私を含めた多くの人が自宅で過ごしているのだろう。自由気ままに行動できないということが、ヒトに(特に動き回るのが大切な子どもに)これほどの負荷を心理的な抑圧を与えるのかは、個人差が大きいとはいえ、狭い団地やアパートで過ごさなくてはならない状況下に置かれている方々の、やり場のない閉塞感は想像に余りある。
軽くて最高、希望のマスクである |
話を変える。一人一人が嵐の過ぎ去る方図を試行錯誤するしか、今のところ対策特効薬はないと覚悟するしかない。妻は手作りのマスクを作っている。だから私はマスクを買っていない。東京の娘たちにも送るそうだ。
心ある企業人たちが消毒液を寄付したり、国内外善意の支援を差し伸べたりしている方々のニュース映像も目にしている。方や便乗悪徳の輩のニュースも。人間というものは(私自身も含む)実に厄介至極である。
ヒトはそれぞれの置かれた状況を生き延びるしかない、というのが冷静な私の認識である。だから余裕のあるうちはきれいごとが書けても、いざとなったらわからないくらいの自己懐疑力は持っていた方がいい、と思う。
とはいうものの、できる限りギリギリまでは付和雷同しないための力を養っておきたいと念う 。いざという時、危機に人間の本質が図らずも露呈する。他人れんさのごとではなく、自分が感染した時にどうするのか、どうなるのかを考えてどうにもならないにもせよ、考えねばならない、いよいよのこれからのひと月のゾーンに入ってきたかの認識を持っている。
まったく他人ごとではない、自分自身のこととして考え行動し、生活し、大切な命と日々向かい合わなくてはならない。オーバーではなく覚悟がいる。
全編日本語で書かれている(外来語はカタカナのルビ、すばらしい) |
欲望の肥大化した便利快適、グローバル人類都市化社会に、コロナウイルスは変幻自在に姿を変異し忍び込む。脅威である。文明の恩恵を被って生きていられる私自身の生活の今を、根底からコロナウイルスが脅かす。
足るを知らない、消費資本主義グローバル化社会の行く末、近いうちにコロナウイルスがもし終息したとしても、未来、果たして今後どのようなウイルスの新たな脅威にさらされるのか。コロナウイルスは前代未聞の問いを人類社会に向かって投げかけているのではと、蒼穹の下春の訪れを告げる草花を眺めながら凡夫は想う。
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