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2020-07-24

野火のように全国に広がる2次的なコロナウイルスの感染者の広がりに想う。

オオサンショウウオではなく、小さな小さな山椒魚にあやかるかのように、コロナ渦中以前から、基本的に静かな生活を心がけていたわが初老凡夫生活である。

だがこの4カ月は、コロナウイルスの猛威の前に、社会的生活激変の渦の中、否応なく私も静かな生活を以前にもまして送らざるを得ない状況を生きている。

若い時のようにはニュースやメディア報道ほかに、一喜一憂することはほとんどなくなった、限りなく少なくなった気がする。これは年齢のせいで感性が鈍ってきている証左なのではないかと思う。(浮世の世相とはかけ離れた居場所で私はうすらぼんやりと生きている)

老い老いの小さき命の日々の下り坂、物思い風情を能天気につづる、自分で自分に語り掛けるかのような、唯我独尊妄言的戯れ文五十鈴川だよりに、なってゆくような予感がする。

とはいっても他の人はいざ知らず、コロナ渦中のさなか、私個人は以前とほとんど変わらない(東京の家族や、遊声塾の面々に会えないことをのぞいては)生活が送れていることに関して、日々感謝している。早い話、火急の事態が出来したら、五十鈴川だよりどころではなくなるのは、あきらかである。

ある意味では、コロナのおかげで日常の些事に、よりストイックに真面目に取り組むようにさえなってきているようにさえ感じている。

俗に足るを知る生活というが、足るという認識は現代人の常識では、おのずと千差万別であろうと思うが、18歳で世の中に出て半世紀、この年齢で遭遇したコロナウイルスはあらためて、生きるということの回帰原点感覚を、覚醒させる。

五十鈴川だよりを書かなかった(書けなかった)この10日間のコロナウイルスの地方都市部にも及ぶ増加傾向は、能天気な初老凡夫にも じんわり不気味である。見えない、感染経路がわからないというのが。だからといって、やたら付和雷同し怖がっても致し方ないというのが、偽らざる正直な気持ちである。

前回も書いたが、できるだけ自分をコントロールしながら行動するようにはして命の防御を図るほかはないが、都会で現役でバリバリ働いている世代の心身の健康状態は想像するに余りある。だからなのかもしれない、 能天気に初老凡夫生活、五十鈴川だよりを書けないのは。
今しばらく、私も奥の細道をじたばた歩む、素晴らしい御本。

とはいえ、時は過ぎゆく。生活の細部、小事に随分と時間をかける、手間を惜しまない暮らしの実践をこの4カ月ささやかに心かけている。ときおりにしかやらなかったこと、例えば自分の部屋の雑巾がけとか、を意識的に。面白いことに変えてしまう。

大昔にまで帰らなくても、テレビやラジオ、車社会以前の生活、つまり私は幼少期の生活に限りなく近い生活をコロナの終焉まで、何とかやりながら心身の調節機能をはかりたいと思うのである。

だが、この先のウイルスの変容や拡大によって、社会生活が急激に変化しないとも限らない。社会の一員として、絶えず世の流れ動向に左右されるのではあるが、危機を生き延びた先人たちに習って、辛抱の時と言い聞かせている。

そんな私の今の一番の苦楽はひとりでできるいろいろな事、中でも今は弓の稽古 である。長くなるので端折るが、故郷の幸節館道場にはなかなか帰れないので、師の言葉に従ってとある道場での稽古を再開したのである。

先の帰省から戻り 時間を見つけて、週に平均2回程度続けている。過密を避け言葉もさほど不要、丹田呼吸ができるので実に心身が安らぐ。的前に立つにはいやでも心身の集中力持続が不可欠なので、初老凡夫には有難い。

コロナウイルスとの共生生活は、長期戦を覚悟している。収まるまでの間、受け身になるのではなく、能動的に静かに敵を迎え撃つくらいの覚悟をもっておのれを律しないと、この難敵は手ごわい。

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