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2025-06-30

今日夕刻岡山に帰る、その前に小島京志さんの2階の私が寝た部屋の机で打つ、五十鈴川だより。

 6月30日午前10時、私は今福岡は春日の小島京志さん、京ちゃんの家で寸暇五十鈴川だよりを打っている。昨日日向市発8時56分の特急でふるさとを後にし五語1時28分博多に着いた。なんとホームまで京ちゃんが迎えに来ていた。とも遠方より来る、有り難くこの事実は書いておきたい。

二人でお昼にかこつけて、早速約2か月ぶりの再会を祝し、ビールを飲んで、博多らしい駅地下の居酒屋で、鰹のたたきや、目光のフライ(あげたてでサイコーに美味しいかった)などなどいただいた。その店でお腹も気持ちも満たされ、在来線で博多から3つ目、京ちゃんの家がある大野城駅で降りると、パートナーのKちゃんが車で迎えに来ていた。

Kちゃんが撮ってくれた、感謝。

パートナーのKちゃんとは10年、もっと会っていないかもしれないのだが、記憶のなかのKちゃんとほとんど変わっていなくて、スーっと久方ぶりの小島家のリビングの雰囲気(Kちゃんの美意識て統一、洗練されていている)にも馴染む私がいた。夕刻一番先にお風呂をいただき、リラックスしていると、京ちゃんは4月30日のライブの写真をDVDに落とす(私が着いてすぐ頼んだ、私はパソコンを持っていないので)作業をたんたんと進めていた。Kちゃんはもくもくとお料理を準備していた。

午後6時半Kちゃんお手製のお料理が次々出てくる。前菜、(山芋のスライス、もづく、ほかにも)餃子(手作りでジューシー、韮の香りが、)桃とモッツァレラチーズのサラダ(意外性の極致美味しかったです)、スパゲッティはズッキーニのお花つき、Kちゃんは洋風料理が得意で、義理の姉の登紀子さんは和風が得意、今回の4泊5日の帰省旅の最後の夕食はkちゃんの手料理で、私としてはもうなにおかいわんや、今年の前半を締めくくる最後の夕食を京ちゃんの家で、Kちゃんのおもてなし手料理で締めくくれ、言うことなし。

記録として飲み物も書いておこう。ビールで始まり、シャンパン、そして焼酎を私はいただいた。小島京ちゃん、Kちゃんとの出会いは、桃山、土取さんのワークショップに参加して以来だから、もう35年くらいになる。テクノロジーの発達、人心、世相の変化の目まぐるしさのなかで、長きにわたって、関係性が持続していることの事実の重みは、私を幸福な気持ちに誘う。

さて、ゆっくりと愉しく美味しく夕食を終え、ドリンク歓談タイムへ。その歓談の合間も、京ちゃんはDVDをダビングし、結局10枚も。このようにマメで、無償でテキパキと私の出来ないことを、サーっとやってくれる京ちゃんのことを、有り難うと、五十鈴川だよりに打つことくらいしかできない。結局午前0時過ぎまで、京ちゃんと私の貴重な語らいはつづいた。

今朝は7時過ぎに起きたら、すでに京ちゃんは仕事に出掛けていた。すぐにkちゃんがオムレツとトーストの朝食を用意してくれ、低いテーブルの半分を持ち上げるとなんと座って楽に食べられる食卓となるすぐれもの。二人で並んで朝食をいただいた。Kちゃんとご亭主が出掛けたあと、並んでユニークなテーブルで二人で朝食をいただいた事、五十鈴川だよりに打っておかなくては。ティファニーで朝食を、ならぬ小島家のリビングで朝食をである。

話は続く、朝食を終え、なんと二人でネットフリックスでKちゃんお薦めの、【ラッキー】という韓流映画を観たのである。その事も書いておかなくては。kちゃんがソファーのボタンを押すと、なんと緩やかなベッドになったのだ。小島家でのリビングでの予期せぬ朝食後映画鑑賞のひとときは、帰省旅の白眉として打っておく。

これから、仕事を半ドンで切り上げてくれる京ちゃんと博多でお昼をしてから岡山に帰る。今回の旅の総括は、岡山にかえってしばらく後に、ゆっくりとかくつもりでいる。(小島夫妻への感謝を五十鈴川だよりでお伝えします)

2025-06-28

6月28日、五十鈴川に近い、日向市のマクドナルドで打つ五十鈴川だより。

 兄の家で土曜日に朝を迎え、姉の登紀子さんの美味しい朝食を済ませ、門川にはワイハイの飛ぶところがないので、以前帰省したときに利用したことのある、日向市の入口にあるマクドナルドにきて五十鈴川だよりを打っている。

姉と私の五十鈴川遊び

ざっと昨日の過ごし方を打っておく。五十鈴川だよりを打った後持参した本、すぐに読める河合祥一郎先生のシェイクスピア名言集を兄の家で読み、お昼を兄と義理の姉と私の3人で、延岡のおぐらという店まで食べに行った。チキン南蛮が有名なお店で、3人ともそれをいただき、私だけトッピングでハンバーグを頂いた。兄はノンアルコールビール、私は朝日の中瓶をのんだ。満足した。

戻ってお昼寝を3時過ぎまでして、それから姉を誘って二人で念願の五十鈴川に遊びに行った。姉はまもなく82歳、数年前長いこと足首の痛みに悩まされていたが、数年前思いきって手術をしてそれが成功し、いまでは痛みがなく、スムースではないものの、生活には不自由しない程度まで歩けるようになった。私が五十鈴川に誘うと、予期していなかったからか、ゆくゆくととても嬉しそうであった。

兄の家から車でものの10分もしないで五十鈴川に4時過ぎに着いた。長い夏の日の夕刻だが、充分に明るい。我々のほかには誰もいない。老人の私と、老婆の姉の二人である。鴬の鳴き声が聴こえると、姉は童心に還ってきゃっきゃっとはしゃぐ。いくつになっても三つ子の魂の持ち主である。わけいってもわけいっても山野の緑が眼前に広がり、私と姉を慈しむかのように包み込む。

私は登紀子さんが用意してくれた水着に着かえ、五十鈴川に入る。全然冷たくない。深くないところを対岸まで歩いた。姉も日傘をさして足を水に浸けて、メダカが足をつつくと騒いでいた。よもやこのようなひとときを姉と過ごせるとは、予定しなかったので、誘ってよかったと、私は満たされた。だからこのような老いた弟と姉のつかの間のひとときを五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

最後私は泳いだ。まだ泳げることを確認した。来年の夏は泳げるかはわからないが、今年は泳げた。人の体力は千差万別、私のモットーはヒトとは比較をしない。自分は自分の人生を、ただひたすら肯定的に生きる。この頑固なまでのポジティブさ、人様に披露することはないのだが、こういうもののみかた、考え方は、ひとえにシェイクスピアの聳え立つ作品群のなかの登場人物の台詞、言葉からまなんできたことである。

話がそれた。短い時間ではあったが、姉と五十鈴川で水遊びに興じることができ、その事を五十鈴川だよりにきちんと打つことができて、ただ私は嬉しい。この30年でデジタルライフにまるで置いてきぼりになっているかのような、暮らしぶりではあるが、少なくともこの数十年、毎年のように、私は時折帰省しては、姉とのささやかな再会を慈しみ楽しんでいる。姉もまた私の愚弟ぶりを俳句に詠んだりしてくれる。

戦争の爪痕が、微かに残る戦後昭和の、田舎の幼少期を、共有生きた姉や兄たちは、今となっては、かけがえのない人たちであると歳をふるごとに思い知るのである。赤ちゃんの一年ばかりがすごいのではなく、老いゆく一年もまた、時間は同じ、素晴らしいのであるとの認識を私はもつ。

戻ったのが5時。午後6時神田川と言う名の門川では唯一の人気のお寿司屋さんに二人の姉、兄、私の4人でゆき楽しい夕食時間を過ごした。もどってすぐわたしは横になった。そして今朝まで約10時間私は夜中トイレに一回起きただけで、ひたすら寝た。この半年間の岡山での疲れが緩やかに吹き飛んでいった。


2025-06-27

昨日ふるさと帰省、五十鈴川に程近い、門川町新庁舎で打つ五十鈴川だより。

 昨日から200日ぶりくらいにふ、るさと門川は兄のところに帰省している。ふるさと五十鈴川だよりを門川町の新しい役場のロビーで打っている。兄のところにはワイハイが飛んでいないので、役場に勤めている若いかたがあっという間に設定をしてくれたので、打っているというわけだ。

生と死を、梅雨空感謝、五十鈴川

家にいても、小さな旅に出掛けても、五十鈴川だよりは今や私にとっては、日々の生活の活力根源とでもいうほかはないほどに、必須なので、意味もなく何ほどかの文章がつむぎだせれば満足なのである。昨日はお昼過ぎに日向市駅について、若山牧水の生家に近い、道の駅で兄と手打ちそばを食べ、ついでに道の駅で地元の食材を義理の姉のおみやげに買い求め、午後2時過ぎ兄の家に着いた。

姉の登紀子さんが、買い求めたトウモロコシをすぐにラップに巻いてチンしてくれたのを、兄と共に頂いた。兄は腎臓ガンを患ってはいるのだが、あれから4年近く生き延びていて、トウモロコシを2本キチンと平らげていたのには、驚くと共に安堵した。

夕刻まで暫しゆっくりとお昼寝をし、16時半、登紀子さんお手製の夕飯(スズキのお刺身、煮物、おみそしる、等々、ふるさとの味、格別であった)をいただき、食後は兄や姉と歓談しながらのんびりと過ごした。今朝は朝一番、兄とお墓参りに行き、墓前にあれやこれやの儀式、報告をした。いつものことだが、ほっとする。もどって朝食(ニラ玉、トーストコーヒー、すいか、大満足)をいただき、門川町役場まで兄に送ってもらい、五十鈴川だよりタイムというわけだ。

私が73才、次兄が76才、長兄が79才、姉が82才である。この数年打っている。毎回これが最後の帰省になっても悔いのないように、私としては帰っている。幸い身の回りのことを、キチンとこなしながら生活しているのを、今回も確認でき、こうやって五十鈴川だよりを打てる小さな幸せを噛みしめている。やがては当たり前、お別れがやってくる摂理を受けとめねばならない。だがしかし、生きて元気な間は、ふるさと詣でを限界までやりたくおもう私である。

この惑星に、生を受けた場所、原点に回帰、過ぎし来しかたを、ふるさとの海山川草木の風景の中で、思いを馳せる時間は、いよいよのこれからの人生はなはだもって大切なひとときなのである。だからこそ、ほんのわずかな時間ではあれ、思いの欠片を、綴っておかねばと、おもうのである。

目に見えるふるさとの風景は、激変しているが、五十鈴川ほか、海に浮かぶ無人島、乙島、山並は不変である。普遍な風景にふれると、我が心は満たされるのである。【梅雨さなか、お墓参りや、五十鈴川】写真はお参り手を合わせる兄、私も撮ってもらった。本日はこれにて。

2025-06-23

昨日猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を終え、思う夕刻の五十鈴川だより。

 昨日夕刻午後4時半、猪風来さんの【我が縄文芸術人生を語る】を無事に終えることができた。正直何か打たねばとの思いはあれど、体が(それでも午前中働いた)この湿気と暑さのせいで、モワーッとしていて思考がまとまらない。

だがしかし、そのような私の体ではあるのだが、打てばかいろのひよりあり、短くてもいまの心境を綴っておかねばと、我が煩悩体がささやくのである。いまもあの、猪風来さんが高揚して、時に老いた獅子が吠えるかのような絶唱とでも言うしかない声が、私の体に渦巻いている。予定を30分もオーバーし、77歳の猪風来さんは水を飲むのも忘れて、2時間半立ったまま語り続けた。(関係者見含35名の人がお話に聞き入った)

縄文世界にとりつかれて50年間の、苦難のまさに激闘の歴史という他はない、貴重極まるお話の、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたいとは思うものの、いまの私の体調では無理である。ただ事実として映像記録(瀬政さんと那須さんの尽力による)が遺ったことが、企画を立案したものとして一番嬉しい。

私が挑んだ企画は、これまでほとんどがライブ音楽会や一人芝居であり、初めてトークライブ(単なる講演会の枠を猪風来さんのトークは超えていた)を企画したのだが、やるのだと決めさせたのは、猪風来さんのもつ唯一無二の、あまりにも一途、純粋無垢なその存在力の魅力である。

原野さんの小説、冬じっくり読むつもりです

このような傑物芸術家の存在を一人でも多くのかたに知らしめることが、企画する醍醐味なのである。40才から企画を始めて、企画を実現することで、振り返ると幾ばくかの取り組み実現した仕事の思い出が、我が体には記憶の宝としてのこっている。自己満足であれ何であれ、一番新しい企画として、猪風来さんのトークが加わったのである。素直に名誉である。

今は実現したばかり、’疲れはてているが、この老いたからだはきっと次なる企画を産み出しそうな予感がする。少しの夏休みの後、秋の20周年記念イベントに向かうことになる。

さきのことは皆目分からないにもせよ、猪風来さんご夫妻の回りには素敵な仲間がたくさんおられることを、今回知ることができたし、何よりも新しい未知なる世界を知り、小さな企画で大いなる気付きを頂いた気がしている。いずれにせよ猪風来さん、村上よし子さん、原野さんのファンになったことを五十鈴川だよりにキチンと打っておく。企画は未知の縄文世界の扉を拓く、先ずは自分の老いゆく体が悦ぶ企画を夢見る。

2025-06-22

猪風来さんのトークライブの朝が来た。そして思う五十鈴川だより。

 6月22日の朝である。昨日、今日の猪風来さんの【縄文芸術人生を語る】については五十鈴川だよりで打ったににもかかわらず、蛇足であれなんであれ、朝の時間他にはやりたいこともなく、簡単な準備は昨日のうちに済ませているので、何か打ちたいという老人妄想五十鈴川だよりである。

オシント情報(オープンソース)のみで、ほとんど表面的、一方的なニュースを受けとるばかりで、世界の複雑怪奇なあちらこちらでの出来事に関しては、もうまったくうんざりしているというのが、老人の偽らざるおもいである。(イスラエルのイラン核施設への突然の一方的な攻撃は、遠い島国の老人をも、気持ちを萎えさせる)

村上原野さんの縄文造形作品

さて、梅雨のこの季節にしては、異常気象という言葉の虚しさを感じるほどに、日中の陽射しは老人の我が体にはきつすぎる。がしかし、ぼやいてばかりではよけいに虚しい。そのような陽射しを浴びながら、今週もなんとか労働し、日々をやりくりし猪風来さんのトークライブの日の朝を迎えた。ちょっとうきうき、企画を発案したものとしては嬉しい。

今のところ25名の事前申し込みがある。先日レディオモモ(FM)で事前申し込みはしなくていいので、関心があるかたは当日直接いらしてくださいと、私が話したので、効果があることをねがっている。がしかし、昨日も打ったが、25名来ていただけるだけで、私としては充分にありがたく嬉しいのである。

心からやりたい企画が私の足を動かす。ゆっくりしか歩けず、今や走ることは不可能な我が体ではあるけれど、確実に歩を進められる。そのことの老いの醍醐味の気付きの深まりをかろうじて我が体は感じている。老人は時代に置いてきぼりにされる。私自身にそのような自覚がある。だが、置いてきぼりなりの企画がやれる。仲間もいる。わたしは元気に今を生き存在している。

そして、なによりかにより、猪風来さん御夫妻に(このお二人は2卵生双生児であるかのようである)なにやら本質的に、この年齢にして出会えたことの偶然的な必然の恵をかみしめている。お二人が放つ、縄文世界の豊かさのオーラを以前にもまして感じる。

感じる。うきうき、そわそわ、文字のない縄文時代に思いを馳せるとき、なんという天然大自然のなか、日本列島に奇跡的に出土した縄文時代の一万年にも及ぶ長きに花開いていた空前絶後の文化をお二人から教えられる。自由自在にその土地、風土、環境の中で命の讃歌を土偶や器に魂をこめていたのかと。老若男女、畏怖し、感動し、悦び、全身で創る。邪念のかけらもない。

気の遠くなるほどの豊かというしかない縄文時代にとりつかれた猪風来さん、さてもさても、今日は暫し企画者であることを忘れ、猪風来さんのお話に耳を澄ませたい。

2025-06-21

明日県立図書館デジタル情報シアターで行われる猪風来【我が縄文芸術人生を語る】前日の朝に想う五十鈴川だより。

明日は県立図書館デジタル情報シアターでの、猪風来さんの【我が縄文人生を語る】14時から16時(開場13時半)の日である。企画したのは私である。

詳細は割愛するが、昨年暮れ猪風来さんから今年秋の(10月12日)猪風来美術館開館20周年記念イベントの企画応援のお電話をいただいてから、すでにおおよそ8ヶ月以上の時が流れている。

企画者冥利である。

40才で岡山に移住し、仕事としての企画を美星町の中世の歴史公園中世夢が原で一から始めて(61才から69才まではまったく企画からは遠ざかっていた。その間は生活しながらひたすら、シェイクスピアの翻訳日本語の音読、リーディングにエネルギーをかたむけていた)70歳から再び企画を再開して今に至るのだが、よもやまさか、猪風来さんから直接お電話をいただくなどとはおもいもしなかった。

私は企画応援を引き受けるのにあたって、昨年暮れから新見の猪風来美術館に先ずは通うことから始めた。猪風来さんの過ぎし来しかたをほとんどなにも知らないといっても過言ではなかったからである。

何回か通って、年が明けてスパイラルアームズの公演に向かいながら時間を見つけては猪風来美術館に通っている時に、これほどの芸術家の存在が、私も含めてあまりにも、 この岡山で知られていないことに、愕然としたことが今回の企画の発端である。

先ずは私自身が少しでも猪風来さんの歩み、縄文造形人生を知るために本人に、改まった場所、空間で他者の前できちんとお話ししてもらう機会をつくり、その事を記録として遺しておきたいというのが動機である。(ゆく度に猪風来さん、急逝されたご子息原野さんの縄文造形作品の圧倒的なまでの、独創性、生命力の輝きにいまも打たれ続けているからである)

40才から、企画することをヒトに教えてもらったわけではなく、馬鹿の一つ覚えのように、感動する器、体がかろうじてあったからこそ、我が体が発熱するのを頼りに、(老人ではあるがいまだ発熱するそこにしがみついて企画をしているだけである)

トーク、(猪風来縄文造形デザイン語り世界)を企画するのは初めてである。この年齢で初めてのことを経験する、出来るなんて、私には実に贅沢なことなのである。お金をふんだんに持ち合わせている御仁ではなく、私のような生活労働者、一庶民が猪風来さんのトーク、物語を企画できるなんて、夢のようである。ましてこの年齢になると、元気にワクワク企画できることは何物にも換えがたい【何か】おおいなるものからのプレゼントに思えるのである。

企画をすることは、謙虚に學ぶことである。老人妄想癖企画者と受けとられてもかまわない。あえて打つ。他に誰もがやらないような企画がなせるなんて、企画者冥利に尽きる。参加者の多い少ないではない(多いに超したことはないが)。自分がやりたい、嬉しい遊び心のない企画は私には出来ない。私がほとんどの企画をやれたのは、中世夢が原(フィールドオブドリーム)の場と空間があったからである。(あそこだったから企画が成せた)

一万6000年まえからおおよそ10000年続いていたと言われている人間らしい、穏やかな縄文時代の、日本列島の北から南にかけて百花繚乱出土している縄文土器、言葉を凌駕してやまないあまりの敬虔な祈りに満ちた、遊び心の極致とでもいうしかない変幻自在な渦の紋様の美。その世界に導かれ、人生50年を捧げた猪風来さんのお話に、明日来られる参加者と共に耳を傾けたい。


2025-06-19

6月19日夕刻、瀬政さん我が家にやってくる。U氏からお葉書いただく、そして想う。

 6月19日の夕刻、ちょっと時間があるし、五十鈴川だよりタイム。今瀬政さんが秋の猪風来美術館の20周年記念イベントの後援名義の申請の件で、わざわざ家まで来てくれて、ちょっとお話をして、帰られたばかりである。

正直あまりの暑さのために、思考がほとんどおぼつかないし、何をするきもおきない。が、瀬政さんとちょっとお話が出来たことで、五十鈴川だよりが打ちたくなるのだから、われながらいい加減もここに極まりとでもいったような案配である。

内実が伝わる。有り難き幸せである

インターネットを利用しながら、五十鈴川だよりをうちながら、絶対矛盾を生きている私として、発信ししながら、内心まったく時折嫌になるときがあることを、正直に告白する。やはり私は骨の髄までアナロ人間である。だからといってデジタルワールドの世界を否定するのではまったくない。いや、あえて言えば、もうインターネットののない世界には私はおそらく存在できないだろう。

そんなこんな、なにを打っているのだろうかと、自分でも嫌になるが、昨日手書きの思いもよらぬかたから、お葉書を頂いたからである。この今の時代に、手書きのお葉書をいただける、もらうことの、ある種の贅沢、稀少価値に私の老いた体は悦びにうち震えるのである。

インスタントラーメンの、ある種の美味しさ、またときおりいただく我が身としてはその事実を否定するものではないが、自筆のお葉書をいただく嬉しさは、自分で育てた野菜をいただく嬉しさに例えれば、ご理解いただけるのでは、と思える。

今週日曜日、岡山県立図書館で、猪風来さんの縄文世界に半生をかけたトークを、発作的に企画した私であるが、反応は少ない。だが本番目前、私の心は穏やかである。企画するときにいつも想うことは、自分のなかで企画をしたいことがあるから企画しているのであって、他にはなにもこと更な理由はないからである。

猪風来さんのお話に耳を傾けてくださるかたが、一人でも多く来てほしいとはおもうが、誤解を恐れずにあえて打つが、参加人数の多い少ないではなく、猪風来さんという稀有な縄文造形アーティストの存在をひとりでも多くの人が知ってもらえればと、私としては企画をしたことに、どこか安堵するのである。

話の論旨がまとまらなくなってきたので、これ以上打つのは控えるが、言えることは、U氏のお葉書をいただくことがなければ、きっと五十鈴川だよりを打つことは無かった。この世に今存在する老人の私にとって、肉声、肉筆ほど、心を震わせるものはないのである。そのような、家族、友人に恵まれた私は、野暮を承知で打つ。企画をすることは愛する存在を確認するためなのである。お前には愛する存在がいるのかいないのか、それが大問題なのである。