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2023-12-30

2023年、今年最後の五十鈴川だより。

 今年は岡山に移住して以来、夫婦二人だけで過ごす初めての、お正月になる。そのためにいつもはなら帰省してくる娘たち家族のお迎え準備ほかで、慌ただしい年の瀬を過ごしているのだが、これほど落ち着いて静かな年の瀬は初めてである。

身を捨てて・浮かぶ背もあれ・師走かな

その事を、私はただ事実として前向きに受け止めている。このような大移動混雑時に帰省しなくても、帰省できる時節や都合のいいタイミングで、余裕をもって帰れるときに帰ってきてくれれば、もうそれで十分なのである。年に数回家族が行ったり来たりすれば、数ヵ月おきに孫たちの成長にふれあえる生活がキープできれば申し分なしである。

若い頃、不安定きわまりない生活を余儀なく生きていた私は、よもや家庭に恵まれ、子供に恵まれるなどということは思いもしなかった。

34歳で富良野塾を卒塾した私はひたすら平凡な生活者になりたかった。今の妻と出会い、37歳で父親になり40才で岡山に移住、背水の陣新しい仕事に没頭し、金銭的には余裕がなくても、妻のおかげで充実した子育て生活を経験させてもらい、その事は我が人生に言葉に尽くせぬ恵みをもたらしてくれた。

この岡山の地で娘二人は信じられないくらいすくすく育ち、学業を終え巣だち、それぞれの家庭を持ち、私自身も妻も新しい生活へと再出発した。5年前長女に最初の子供が授かり、私はおじいさんになった。穏やかな生活が続いていた矢先のコロナ禍、世界がパンデミックに突入した。

時は流れ、あれから4年近くコロナが5類に指定され、普段の生活に戻りつつある今年の秋、ウクライナに続いて、今年秋パレスチナとイスラエルの間で正視に耐えない終わりの見えない戦争が勃発し続いている。

この間、(コロナが5類に移行する前)69才になったばかりの2月、私自身が人生で初めての大きな手術を経験した。この経験は大きかった。同じ年の7月24日、次女に初めて男の子が授かり、まだコロナ報道生活で大変な最中、面会も叶わぬ中娘は出産した。その事は女性というジェンダーの母性のすごさを、私に実感させた。そして今年、ようやくコロナ自粛生活から解放され2023年の今年5月2日、長女に第2子女の子が授かった。その女の子も年が明けるとあっという間に8ヶ月である。

この新しい生命、孫たちの輝きが、昨年今年と2年連続で10年ぶりに企画者の血を目覚めさせ、なんとか企画を成すことができた。人類が抱え込んでいる宿痾、戦争と平和。私ごときの頭ではなんとも絶望的な困難、ややもすると厭世気分陥りがちになる。だが絶望を希望に変える事こそが人間にできる知恵なのだと思いたい。考えられるときに考えておくことを習慣化しやれるときにやっておかないと、後々取り返しがつかない事になるのではという老婆心(老人妄想心)は止まない。

老婆心がすべて杞憂になることこそが、私の願いである。孫たちの笑い声に耳を済ませ、未来のいまだ見知らぬ聴いたこともない世界子供たちや痛みの声にも、想像力を馳せたい。年寄りなりにやれることを、今しばらく模索します。

今年もつたない五十鈴川だよりを読んでくださったかた、心から御礼申し上げます。来年も中庸、よきいい加減な五十鈴川だよりを打ち続けられればと念います。どうかよいお年をお迎えください。



2023-12-28

ヴィクトル・ユゴー原作レ・ミゼラブル全3巻読み終え、そして想う。

 希望は絶望的な困難の先にあるという言葉を,昨日の五十鈴川だよりに打ったが、その言葉に触発されたのだとおもうが、2日連続五十鈴川だよりを打つ。

嬉しいのは打つ時間があるということと、打ちたくなるおのれがいるということである。ラジオ深夜便で時おり過去の文学者他が残した絶望名言がオンエアーされるのを、今年からたまにだが耳にすることがある。

第一巻の背表紙

いつの時代も困難を抱えながら、窮地のなかでもがき苦しみ産み出されてきた珠玉の言葉に、私は限りなく響いてくるなにかに時おり、限りなく励まされる。文章、文言、言葉の音が、膨大な私の中の無意識領域を刺激する。

無知こそ私の原動力であることは、お恥ずかしきながら、いまもってまったく変わらない。無知を今更ながらこの年齢になってますます感じるような自覚があるのが、微かな拠り所、救いである。

今年11月韓国は釜山を20数年ぶりに旅し、わずか滞在丸3日間であったのだが、普段の生活とはまったく異なる時間を過ごすことができた。(心から出掛けてよかった。なにか無意識に突き動かされないとこういう旅はまず出来ない)

この旅で(海外旅行は10年ぶり)たまたまミュージカル、【韓国版のレ・ミゼラブル】を釜山のドリームシアターという素晴らしい大劇場で見る機会があり、エンターテイメントとしてあまりの韓国の舞台水準の高さにびっくりした。(市内中心部はすっかり洒落た大都市へと変容を遂げていて、その事は舞台芸術分野でも痛感させられた)

そのことがきっかけになって、読んだことがない長編原作がにわかに読みたくなり、遅読の私なのだが旅から戻って時間を決めて集中して読み始めたのだ。2巻まで読み終え、3巻はお正月に読もうと思っていたのだが、思わぬ早さでクリスマスイブに、読み終えてしまった。

長くなるのではしょるが、原作の小説レ・ミゼラブルと映画や舞台のレ・ミゼラブルとのあまりの相違に驚いたことは2巻を読み終えた時点で、すでに五十鈴川だよりで打った。重複は避ける。ともあれ、3巻まで全部読み終えたことで私が学べたことは、読んだものだけにもたらしてもらえる類いの、なにかおおきな実感である。舞台や映画では決して学べない異質なものである。その想いは全巻読み終えさらに強まる。

ひとつだけ記す。ジャン・バルジャンが負傷したマリウスを背負いながら人体の迷路のようなパリの地下、下水道出口を求めてさ迷いゆく描写の前に、何百年にもわたる花のパリの迷路のようにはりめぐらされている、岩盤工事の困難苦難の歴史がヴィクトル・ユゴーのペンで克明に記される。一見物語とはまったく関係がないかのようなのだが、深読みすればあるのである。

この気が遠くなるほどの、何世紀にもまたがる難工事に駆り出されたのが、囚人をはじめとする最下層のレ・ミゼラブルな人々なのである。物語の大団円、レ・ミゼラブルな困難を一身に引き受けたかのような、ジャン・バルジャンは、希望の象徴、生きるエネルギーの根源のコゼゼットへの愛(犠牲)のために(人間は愛する人が一人いれば生きるのである)コゼットの恋人負傷したマリウスを背負い、明かりのない闇の下水道を、希望の明かりを求めて超人となり、歩を進める。フィクションの白眉である。

脱出口で、物語として下水道出口で悪魔のようなテナルディエと出会う。またもやフィクションならではである。ジャン・バルジャンの崇高さの対局にあるかのような生き方のテナルディエの多面的な描きかたは、(映画や舞台はあまりにも悪の側、一面的にしか描かれていない)ジャベール警部にも通じる。ひとつだけ触れたが、複雑な糸が絡み合い、物語とは関係のないような描写がページをめくる度に随所に現れる。

とにかく時代考証背景が綿密、魅力的老若男女多彩な登場人物の描写、自然の描写もしつこく独特で、詩人的感性がときにあふれでる。私が胸打たれるのは浮浪児のガブロウシュ(プサンの舞台でも感動した)の描きかたである。(このような子供が今もガザにもいるような気がする)変幻自在にペンが進んでゆく。

善も悪も含めその人物のキャラが、存在感が際立ってくる筆力。このような小説を私はこれまで読んだことがない。ユゴーでしか書けない、と痛感する。元気なうちに手にすることができた幸運を、老人の私は噛み締めている。

結果、マリウスはコゼットと結ばれる。ジャン・バルジャンはもとの名前になり家を出る。クライマックス、マリウスがテナルディエと会い真実を知る。これ以上は記さない。老いのみに涙が出た。

話を変える。私が読んだ本は新潮社世界文学全集、翻訳者は佐藤朔、1971年に出版されている。私が19才の時の翻訳である。できればもっと大きな文字で新しい日本語での新しい感性での翻訳で読みたい箇所を読んでみたい。いずれにせよ71才もそろそろ過ぎようかという師走、読めたこと、何かのお導きと受け止めたい。老人性塞ぎの虫からの脱出口としては、最適な本、レ・ミゼラブル。タイミング、サイコーのクリスマスプレゼント🎄🎅🎁✨となった。


2023-12-27

【希望というのは困難の先にしかない】年の瀬その言葉を噛み締める、五十鈴川だより。

 昨日で肉体労働バイトは終えた。今日から5日間ただひたすら静かな年の瀬時間を、妻と二人ですごすつもり。打ち始めたとたん我が部屋に穏やかな冬の日差しが眩しいほどに降り注ぎ始めた。

陽光を背中に浴びながら、打てるのはありがたい。一年先がどのような出来事が起こるのかまったく予期できない時代の流れのなか、もう12年も右往左往五十鈴川だよりを打つことで、精神のバランスを取りながら、老いゆく時間と向き合いながら、今年もなんとか自分なりに、充実感をもって過ごせたことに、天に向かって感謝の気持ちである。

夕方図書館を出るとフルムーンが。

何をもってして成熟というのかは皆目未だわからないが、毎年を重ねながら初めて経験する老いゆく時間の過ごし方を、私なりにあくまでも今をいきる一人の生活者としての徒然を、どこか全身にすがりながら、いつもふうふう生きているといった塩梅、それが正直な気持ちである。

コロナ禍ウクライナで戦争が始まり、コロナが5類になりにわかに人々が移動を楽しみ始めた最中、パレスチナのガザエリアで途方もない戦争が勃発、両エリアとも今も終息の兆しも見えず、遠い異国の一老人である私も、時に塞ぎの虫になる師走である。

だが、塞ぎの虫(読んだことはないが塞ぎの虫というタイトルの小説がある)に陥ったところでなにもいいことはない。五十鈴川だよりはあくまで能天気、でくの坊、どこか馬鹿馬鹿しい、イワンのバカならぬ、五十鈴川だよりバカでありたいと想う気持ちは、古稀を過ぎ深まってきつつあり、自在に静かに、しかし時おり蟻のように生き発言したい。

それが叶わなくなったら、五十鈴川だよりを打つのは潔くあきらめ、風に吹かれる旅人になりたい、とおもう今日の私である。五十鈴川だよりを打つことで、かろうじて自分と向かい合う一時を確保し、老いの体を蛇行しながら、このままでいいのかいけないのかと、老いゆくハムレット時間を大事にしたい私である。

能天気に打つが、生活に、体に新鮮な活力を与えてくれる本というまるで魔法のような宝、読書の喜びを、69才での人生で初めての手術以後、以前にもまして感じられるようになってきた。遅読ではあるがよい本に出会うと、未だにからだが活性化する。悪い言葉、ひどい言葉に出会うと心は病む。つくづく人間は言葉でできているのだと痛感する。

ところで、昨日夕方図書館に行き、わずかな時間ではあったが、詩人の長田弘さんと今はなき河合隼雄先生の対談集を目にしたのだが、長くなるのではしょるが,その中に【希望というのは困難の先にしかない】という言葉が目の飛び込んできた。振り返ると18才で世の中に出て以来何回も分かれ道が訪れて来たのだが、あえて楽な道ではなくより困難な道を選んできた。

結果、その事がよかった。だからこそ今を生きていられる自覚がある。私との交遊が長きにわたって続いている友人知人は困難な道を選択している方がほとんどである。類は友を呼ぶというが、そういう得難い家族を含めた友人知人に巡り会え、おかげで今年もなんとかよい年の瀬時間迎えることができ、感謝するほかはない。


2023-12-17

年の瀬、森岡毅氏の【マーケティングとは組織革命である】を読み、そして想う。

 師走も半ばを過ぎちょっと寒い(これが当たり前)日曜日の朝だが、私は未だ我が部屋では暖房器具を使用していない。私ごときのせつぶんブログであれ、手をさすりながら打つくらいの方が老いの頭がつむぐ一文としてはいいのだという、痩せ我慢的な煩悩が働くのである。

ビジネス書の枠を越えている

世界の数多の、圧倒的大多数の人々が否応なく抱え込まざるを得ない困窮状態を、我が国の年末の喧騒をよそに静かに想像してしまう島国の一老人としては、ただ静かに年の瀬を生きている、私である。

ところで、レ・ミゼラブル第3巻はちょっと中断して(お正月集中して読むことにした、今年は夫婦二人のお正月だから時間がある)マーケティング介の勇者として、その名をとどろかせている森岡毅という方がかかれた本を読んだ。よもやまさかビジネス書を読もうとは思いもしなかった。お恥ずかしながら、片寄った好きな狭い世界の本を、それもわずかしか読んでこなかった私が、初めて読んだビジネス書が森岡毅さんの【マーケティングとは組織革命でである】。

業界用語や、今となっては老いた我が生活に関係のないところは、すっ飛ばして、今の私の生活にも刺激をいただけるようなところだけを、拾い読みしたのだが、このような若き侍のような、画期的とでも呼ぶ他はない、創造的なクリエイターが私の義理の息子たちくらいの世代から続々登場していることに、清々しい刺激を年寄りの私が受けたことを、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたいのである。

まず本の巻末の、4人の方との対談、セブンイレブンの創設者である鈴木敏文氏、作詞家の秋元康氏(他にもいろんなことをされている)湖池屋社長佐藤彰章氏、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏の4人の方との対談を読むだけでも価値があった。そして森岡さんのマーケターとしての誇りが満ちた本のあとがきに打たれた。素晴らしい。(古い思い込み世界に耽溺しがちな私は、目から鱗、大いに反省している)

時代の先端で颯爽と閉塞感をぶち破る発想力と行動力、知的胆力、戦闘力、総合的センスが、随所に溢れていて老人の私が読み物として読んでワクワクした。ワクワクしなくなったら終わりである。

森岡毅さん(と呼ばせていただく)のことを知ったのは、ラジオ深夜便の午前4時からの明日への言葉のコーナーで、たまたまお話を聞いたことによる。何に打たれたのかを説明できる言葉を五十鈴川だよりで打つのは難しいが、一言で言えばドリームオブパッションである。業績がが振るわず喘いでいたうUSJを7年賭けてVじ回復させた伝説的マーケターである。(その事をまったく私は知らなかった)

業績の振るわない組織を覚醒させ、夢を育める組織へと変革し、業績をあげるための方法論、森岡さんしかなし得ないオリジナル方法論が的確に示されていて、びっくりしたのである。

本当に物事を発想し、思考実践できる稀な人が、経済界(の枠を越える思想哲学がある、日々肉体労働している私でさえ学べるところがあるし、どうしてこのような方が生まれたのかにも関心がある)の今の日本にいることに安堵したのである。

このような新しい日本人の出現が、ややもすると時代の気分、空気に流されがちになる一老人の私に与えてくれ、にわかに単細胞の私としては明るい気持ちになれたのである。(おかげでよき師走時間を過ごしている)

長女にはこの本を是非読んでもらいたく、クリスマスプレゼントに送るつもりである。おこがましいが、私がこれまで企画してこれた原動力とも、分野は異なるが重なるところがあり、(一人でもやれるという)そうだそうだと老いの膝を打ったのである。例えば、組織を人体に例える。何一つ無駄がなく機能しないと体は、(組織は)幸福にならないという発想。

上下関係ではなく、対等関係、それぞれの得意な居場所で自分のスキルアップをはかり、連動し繋がり、生き生きと働ける組織を作る。凡人の私は深く感じ入った。新しい資本主義、民主主義、なんといっても根底に夢がある。

このような人の家族はきっと楽しさが溢れているに違いない、と私は想像する。我が家族もそうありたい。若い人から学ぶ勇気力を年寄りの私も持ちたい。ささやかであれ、からだの許す限り老いの持続力をキープし、微かにであれ成熟したい。ラジオ深夜便に耳を澄ませていたお陰で稀代のマーケター、森岡毅さん、ヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブルと、間接的に出会え、2023年の年の瀬よきひとときが過ごせている。


2023-12-09

師走【レ・ミゼラブル】第2巻を読んで想う、五十鈴川だより

12月二回目の お休みの朝、師走も早9日である。前回レ・ミゼラブルを読んでいることを打った。12月はじめての五十鈴川だより、この間日々の労働、生活の合間合間に、レ・ミゼラブル第2巻(487ページ)を読み終えた。いよいよ第3巻に入る。全部で1500ページの長編である。このような長編小説を読むのは、我が人生で初めてである。

釜山で観たミュージカルのパンフレット

2巻を読み終えた時点で、この小説を手にしたことの幸運を、師走、噛み締めながら五十鈴川だよりを打っている。大河ドラマ、大叙事詩19世紀フランスヴィクトル・ユゴーが生んだ小説レ・ミゼラブルは、一人の人間が生涯を賭けて心血を注いだ途方もない作品であると言うことが、老人の私にも腑に落ちる。(とだけ打っておこう)

ユゴーが若いときから書き綴り、途中、中断して晩年再び書き上げたと解説で知った。ユゴー自身19世紀フランスの激動の時代を生き、私生活含めあらゆる困難を生き、その壮絶な人生のすべてをレ・ミゼラブルに投影している(のだ)。一筋縄ではゆかない人間という生き物への観察が随所にしつこく込められている。(病的といっていいほどだ)

フィクションであることをまず踏まえながらも、その細部の、例えば当時の歴史や時代背景、地理、流行風俗、人々の町や人物の特徴描写力は半端ではない。大きな幹の物語を芯に据えながら、枝葉の部分を自由自在に時間の経過も含め行きつ戻りつ、螺旋状に展開して行くのだが、正直よもやまさかこのような小説であったのかと今更ながら驚き、本当にこの年齢だからこそ染み入るように読めている自分がいるのだ。映画や舞台ではまったく描かれていない、ほとんどカットされている。小説でしか表現し得ないことが書かれているのである。

その事は、全部読み終えてまた打つことになるかもしれないが、このような全体小説というか、登場人物たちが時代の(おかれた)なかでもがき苦しみ、なおかつ生きることを、善悪含め選択してまるごと描く壮大な思想哲学小説が、【レ・ミゼラブル】なのである。

ガザエリアの報道に接する度に、レ・ミゼラブルの置かれた当時の人々とガザエリア、の人々の置かれた状況があまりにも重なるのには驚きを禁じ得ない。

飢えたことも身近に爆弾が炸裂し、大切な家族を失ったこともなく、理不尽に血を流したこともない島国日本で平和りに生きていられる一庶民老人には、痛みや想像力の限界があるのを百も承知で打つが、人間がやっていいことといけないことの限界がとうに越えていることは、ガザエリア(どちらの側にりがあることの問題ではなく)の事実が示している。食い物と水がないと生き物は死ぬ。

穏やかに生きられる島国の年寄りの一人として、声をあげ世界の良心ある人々と共に声をあげ続けたい。ヴィクトル・ユゴーはレ・ミゼラブルを書くことで、レ・ミゼラブルな人々に寄り添い(目をそらさず)人間とは何か、悪心と良心とを行き来しまるごとぜんぶ描くことを、闘争した作家であったのだと気づかされる。自分自身も生涯内的葛藤を続けていたのに違いない。このような作家がいたのである、19世紀に。登場人物のすべてが、ジャン・バルジャンだけではなく魅力的に人間として描かれている。一面的ではないところが素晴らしい。

2023-11-30

ヴィクトル・ユゴー原作【レ・ミゼラブル】読み始め、想う。

 11月も今日で最後である。老いのフリーター的肉体労働は火曜日で終わり、昨日今日と肉体労働はなし、昨日も買い物や散歩以外、外に出ることはなく終日家で過ごした。私はアウトドア仕事をしているので、それ以外の時間はほとんどを家で過ごすような老人気ままライフを、手術後特にするようになってきている。

全集に掲載されていたユゴーの写真

18才まで本をほとんど読まずに過ごしてきた私が、あれから半世紀以上、わずかな時間本を手放さない生活を続けている。相変わらず本を読むスピードは遅いのだが、超スローペースで本好きになってきたのはなぜなのかは、やはり18才で上京し、小さな演劇学校に入って、あまりの我が無知と出会ったトラウマが、いまだに続いているからである。

あれから53年の月日が流れたが、古希を過ぎていよいよもって本を読むことに割く時間が増えてきている。年を重ねるにしたがって本を読む体力が落ちて来るのが当たり前だと想うのだが今のところより好きになっている。(気がする)

先のことはわからない。今に集中するだけである。コロナ下になり、人に会う生活が極端に少なくなったこと、人に会わずに過ごし、静かに本を読んで暮らす生活がすっかりこの4年間で身に付いたのだと思える。

コロナ下の否応なしの引きこもり的時間の到来で、降ってわいたかのような自分との内省時間が増えたことで、超ノロノロ読書時間が増えたことが、以前にもまして私が本を手放せなくなり(オーバーではなく)大きなパラダイムシフトが起こったのだ。(とおもう)

さて、今私はヴィクトル・ユゴー原作の大長編【レ・ミゼラブル】を読んでいる。新潮社世界文学全集一巻だけで515ページある。ゆっくりお休みの日に集中して読み進んでいる。夏、猛暑でほとんど長編を読む気力がなくなっていたのだが、ようやく秋から冬にかけて、これから来年春まで、読める間に古典を中心に読みたい長編を読むことに決めたのである。

長くなるのではしょるが、こないだの釜山への旅で韓国版のミュージカル、(経済だけでなく舞台や映画での韓国の文化は目を見張る)レ・ミゼラブルをみたこと、戻ってから古いのと、最近の映画、ミュージカルのDVD3本を見ていずれも感動したことによる。

映画やミュージカルは原作をどのように抽出したのかが、にわかに知りたくなったことと、ヴィクトル・ユゴーという大作家の小説をまったく読んだことが、この年齢までなかったからである。朝頭がスッキリしている時間帯(しか長編は読まない)で読み進め、いまワーテルローの戦い、(ナポレオンとイギリスとの戦い、映画やミュージカルではカットされ、そこだけで50ページ以上書かれている)400ページまで読み進んだところである。

当たり前だが、小説は映画やミュージカルとはまったくといっていいほど異なる。映画やミュージカルは視覚聴覚にダイレクトに迫り手軽に触れられる表現であるが、小説はページを捲りながら文字を通して想像しながら、自分のからだのリズムで読み進む。ゆっくり高い山登りをするかのように。レ・ミゼラブル、小説ならではの物語で、原作を読もうと思ったことが正解であったという気持ちが、私に五十鈴川だよりを打たせる。

あの時代の背景、戦争シーンの長い描写力ひとつとっても原作を読まなかったきっと浅い理解でしか、レ・ミゼラブルをとらえられなかったかもしれない。いずれにせよ、ヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブル(虐げられし人々という翻訳が一番正鵠を得ていると思える)がこうも繰り返し世界中で上映、上演され、世界中で読まれるのは、世界中に多くの良心を失っていない多くの人間がいる証左だろう。

ウクライナ、ガザエリア含め、今も理不尽というしかない極端な偏見、差別、格差、不正、隠蔽が繰り返され、人間を人間とも思わない野蛮性には言葉がない。人間の痛み、貧困、人民の気が遠くなるほどの流血の歴史のうえにようやく獲得した人権と言う言葉。大事に、大切にしたい。

戦争は人間を狂気に放り込む、そうなってからでは遅いのだ。【レ・ミゼラブル】は数多の苦難の果てようやく築かれつつある人間の尊厳の崇高性、良心を描いた先駆的な作品なのだと、遅蒔きながら老人の私は(まだ途中だが)理解した。遅くはない。平凡で平和りに、島国に生きられているる一老人として念う。流血、報復の連鎖をたちきるためのにヴィクトル・ユゴーが心血を込めた小説がレ・ミゼラブルなのである。



2023-11-25

【紅葉狩り・裸足散歩で・事もなし】五十鈴川は流れる。

 ガザエリアの戦争、わずか4日間でも、双方のとてつもない駆け引きの上、砲火の音が止むとの報道。だが先の予断はまったく想像を絶するほどに先が見えない。遠い島国で哀しいかな平和に生きられるありがたさに、埋もれている一老人、折々もう五十鈴川だよりでは打つことは控える。が、ガザエリアの戦争、ウクライナの戦争の行く末には(もちろん他のエリアの戦争にも)関心のアンテナだけは持ち続けたい。

小説を読むのに理屈は要らない、面白い。


老人の鬱々、嫌な予感をわずかでも払拭するために、何はともあれ自分の気持ちを日々上向きにキープするために、ルーティンワークを続けている。69才の術後から継続、すでに2年以上続けているから、三日坊主の私としてはよく持続している。

それは何回か打ったかもしれないが懸垂である。60代でも弓を引いていたとき時おりやっていたのだが、69才で手術右腕の下を10センチほど切ってから、もう弓に割ける時間は諦めたので懸垂をやることもないと、諦めていたのだが、再開している。

再開し、最初の一回ができたときは、再生、嬉しかった。その時に思ったのだが、なにかを諦めてもなにも全部諦めることはないし、なにかを手放すことで、他のなにかまた新たな可能性が生まれてくる可能性もあると気づいたのである。

若い頃から運動、分けても懸垂は大の苦手だった。考えてみると読み書きも大の苦手だったし、肉体労働もまったく自信がなく苦手だった。だが、人生はわからない、追い詰められると不思議としかいえない力がわいてくる。逆転する面白さがあるのだ。追い詰められないとこれだけは決してわからない気がする。苦手だったことが苦手でなくなる。自分の中の奥深いなにかに光が辺りうごめき出す。やはりどこか嬉しいし私みたいな単細胞は自信がわいてくる。

古希を過ぎて想うのだが、18才で世の中に出て、まったくなんの取り柄も自信もなかった私が、曲がりなりにも、今もこうやって生きていられるのは、自分の中の弱点を、ほとんど諦めながらもどこか諦めず、往生際悪く土俵際(だから私は相撲が好きである)で踏ん張りながら、ときに撤退しながらも、また前進し、その繰り返しの果て、気がつけば、薄い薄い皮をめくりながら、思わぬ新しい自分と出会い、だからこそ、生きてきてこられたのだ。そしてその新しい自分があればこそ新しい他者にも出会えたのだ。

そして想う。当たり前のことなのだが、人生は超高齢化社会とはいえ有限なのである。与えられたこの世をいかに泳いでゆくのかは、厳しいが各々次第である。有限なる健康寿命というものが、いったい私にあとどれくらいあるのかは知るよしもないし、敢えて申せば知りたくもない。ただ想うことは、私なりのこれからの人生時間を面白おかしく生きられば、もう他になにも不要ということなのである。

おもえば、18才から可能な限りの種々の肉体労働仕事で、モヤシのような我が体は、世の中の時代のなかの労働で鍛えられ、徐々に細い体ではあるが強靭になり、そのお陰でもって今も草刈り他の労働が、年齢のわりに苦もなくやれるというのは、たぶん継続の賜物なのだと、自分勝手に天に感謝している。

私を育ててくれたのは、築地の市場であり、富良野の広大な大地であり、中世夢が原なのである。ただただ体を動かし、いろんな道具を動かせるようになり、なんとか自分を含めた家族共々生き長らえ、いまも生きていられる幸運をただ私は生きている。ただそれだけなのである。

平凡な生活の日々の持続が今の私にはもっとも大事なのである。休日の今朝も朝日を浴び、裸足散歩を15分、懸垂を5回(それ以上はやらない)、深呼吸を繰り返す。青い空と雲を眺め、ハラリハラリ舞い落ちる紅葉樹木に眺めいる。老いの多幸感、高徳は老いないとわからない。若くなろうとは思わない。今をお金に頼らず面白おかしく生きられればことも無しである。

2023-11-23

五木寛之さんの【シン・養生論】を読み、そして想う。

 五十鈴川だより、うつうつ悶々の日々の最近だが、すがるかのような精神の調律といった案配で、肉体労働に勤しみながら、日々多種多様な本を手にしている。体が動くから働けるし、目が衰えたとはいえ本が読める、優れたDVDを観ることができるというのは、今の生活のなかで本当にありがたい。

風のよう、深刻さがない、そこがすごい。

この先加齢と共に嫌でもおうでも、体が衰え不調が増えてゆくことの覚悟を日々深めながら、世界の痛みにも鈍感になり、自分のことの行く末のみに、心の比重が重くなってゆくのだろうと、ぼうばくの彼方をおもう。(だが私は世界の民の一人として、民に寄り添う視点をぎりぎりまでなくしたくはない)

今はまだ五十鈴川だよりを打ちたいと言う気持ちが、体のどこからか沸き上がってくるので、その想いを綴り打つことで心の調律をはかるしか、私には他に方法が見当たらない、のだ。

私よりも20才年上、現役作家五木寛之さんの【シン・養生論】をほぼ読み終えた。この本を書かれていたいたときが90才である。作家として遅咲きデヴューして50数年、いまも手書き、万年筆で書かれていると言う。内容は割愛する。一言脱帽する。とにかく体の衰えを赤裸々に述べられつつ、老いの可能性に言及する。そこがそんじょそこらの養生論とまったく異なる。

私がもっとも感銘を受けたのは、体の衰えとは逆に、そのあまりにもという他は言葉がないほどに精神の、好奇心に満ちた崇高な唯我独尊的若々しさである。そのたゆまぬ好きなことしかしない、できない、だから自分なりの方法での努力の持続、自分勝手に自分の体が喜ぶことを正直に全うしつつ、90才を迎えられたことを、泰然自若として述べられている。

最後の方で死生感を覆す、老生感は実に斬新な提言とでも呼ぶしかないほどユニークである。古い老人像をまったく覆してしまう。繰り返す、体のあちらこちらが満身創痍であるのにも関わらず、前向きに新しい老人像を未来に向かって提言する一文は、外見は枯れていても、体の芯に赤々と火が点っているからだ。

五木寛之さんの70代以降の主に新書版の著作、手を変え繰り返しまるでお題目、念仏をどこか唱えてでもいるかのような境地で書かれるエネルギーの源が、12歳での引き上げ体験であることは、これまでの著作から明らかである。

随所重複しながらもこの本には新しい境地が縷々書かれている。ご本のなかでも書かれているが、アフガニスタン、ミャンマー、新疆ウイグル自治区、シリア、ウクライナ、パレスチナ、他の戦争地帯と、老いた自分自身の体が連動していると五木寛之さんは書いている。12歳で難民となった五木寛之少年はいまも世界で突然難民となった数多の難民と心が連動しながら日々今を生きておられるのだ。

そして今戦後は終わり、新しい戦前が始まる予感がすると老作家は書かれている。その感性の予感の冴えは、12歳の頃と変わらない。すごいと言う他ない。最初の方で述べられている。明日死ぬとわかっていてもするのが養生だと書かれている。(明日世界が終わるとしても私は花を植えるといった偉人と重なる)

大先輩、大人間五木寛之さん(生まれ落ちた場所が近く、九州弁、父親が先生であり、北朝鮮からの引き上げ者なので勝手に私は親近感を抱いている)に私は学び、連動しつめのあかでも養生せねばとおもう。


2023-11-19

うつうつとした気分を抱え込みながら、島田雅彦さんの小説【時々、慈父になる】を読む。

 日が昇り目覚め、朝一番メルの散歩を済ませ、8日ぶりに五十鈴川だよりに向かう。極めて普通にことさらな不安もなく、家族、親族、友人知人が元気に過ごせていることに対する自分自身も含めた、身の回りの存在が、平凡に生きていられることに対する感謝の念は毎日深まる。

ガザエリアの知らされる現実の想像を絶する戦争の言葉にならない、あまりにものおぞましき実態に慄然とする。正直、71才の老人の気持ちは鬱々としてさえない。だがこれは自分だけが抱えているうつうつではなく、多くの見知らぬ世界中の民が気持ちを共有しているのだと、どこかで自分を都合のいいように慰撫している(のにすぎない)という忸怩たる思いは消えることはない。

そのような消えぬおもいを抱え込みながら、日々出口なし的な状況を好転させるかのような人の出現、世界の良心を顕現化する出来事の到来を、遠い島国の穏やかなエリアに生を受けたものとして、祈らずにはいられない。有史以来途絶えることのない殺戮の上に人類はなんとか絶滅せずに、いまも生きながれられているその事実を、今日も老いたる我が身に冬の陽射を受けられる至福を噛み締める。

広島や長崎をないがしろにするかのような、前代未聞の人智を越えた愚かしき悲惨な出来事が起こらないように祈り、五十鈴川だよりを打てる間は、繰り返しさざ波のように打つしかない。

夜中の3時のNHKニュースで、インドのモディ首相がガザエリアの人道上あるまじき戦争に対して強い危機感を表明していたが、利害の絡まないエリアの良心が届くことを祈るくらいしか、老人にはできない。

そのような日々の暮らしのなか、相も変わらぬ金太郎飴のような生活をしながら、とにかくうつうつしがちな我が体の風通しをよくすべく、ただ肉体労働をしているといった案配である。そのような生活のなか、島田雅彦さんの【時々、慈父になる】という小説を読んだ。

これを気に同世代の作家の本を。

小説はあまり読まない私だし、特段に島田雅彦さんの熱心な読者でもないのだが、うつうつを抱え込みながらも、一気に読み終えた。内容は割愛するが随所に共感を禁じ得なかった。私よりも9才若く、生まれ落ちた環境も異なるが、ほぼ同世代を生きてきた小説家の40年間の私生活(一人息子ミロクの成長の記録を親として見守りながら、時代の流れを冷静に見据え、小説家の感性で、折々オペラの台本を含め多彩な作品を産み出してゆく)交遊関係含め実名で書かれている、いわばノンフィクション小説である。

このような小説家の存在は、現在をうつうつと生きている私に限りなく元気を与える。それにしても島田雅彦さんにしか書けない、才能とはこういった類いの人のことを言うのだろう。私生活の自分の不始末の顛末も赤裸々に書いている。こぎみいいほどに筆がのびやかで自由自在に思えるのだが、そのように感じさせるのが才能のなせる賜物なのだろう。ともあれこのような才能ある小説家と、同時代を生きていられることの嬉しさが、私に五十鈴川だよりを打たせるのである。

2023-11-11

無関心と無知が、我が身にも、取り返しのつかない事態が出来する、老いの想像力を養う。

 前回同様、もやもや、忸怩たる思いを抱え込みながら、能天気な五十鈴川だよりを打つ気がしない。打つ気がしないのに打つのは、自己分析の苦手な私自身にもよくはわからない。気持ちを落ち着かせるため、とでも言うしかない。

末世信頼できる著者から謙虚に学ぶ

無意識の我が体の領域の広さは自分でもまったくわからないが、いちにちいちにちの気持ちのバランスをどこかで暗黙の内にとりながら、風通しよく過ごしてゆくために、私の場合は五十鈴川だよりを打っているにすぎない。

隣に飢えた人がいても、自分が飢えたことがなければ、その飢えたひとの困窮のそこの果てはきっと悲しいかな永遠に感知し得ない。私もその一人である。その一人である私は、今日も老人としての一日を生きるために五十鈴川だよりを打つ。(無関心と無知はきっと我が身にもやって来る)

ウクライナ、ガザエリアの報道には沈黙をキープしつつ、自分なりに目をそらさず考え続けたい、とだけ打っておくにとどめる、が無関心の愚だけは避けようと思う。遠い異国の地では、地獄そのものの状況が続いている。水食料がない。トイレが汚物で溢れ返る。瓦礫のなかで人間の生活の基本が失われている、数多の民の置かれている状況がますますひどくなってゆく。泣き叫ぶ子供たち、母親、父親、お祖父さん、おばあさん、妊婦のかた、障害を持ったかた、あらゆる力を持たない弱者に無情な砲弾の嵐。逃げ場所がないこの世の地獄の縮図。世界の人たちに見捨てないでくれと、訴えていたジャーナリストの声が私の耳に届いた。あまりにもの絶対不条理。

老人の憂鬱を抱え込まないために、私が私なりに日々のささやかな祈りにもにた気晴らしに、欠かさずやっていることがあるのだが、そのような何気ない普段のよしなしごともまったく打つ気がなくなるほどに、パレスチナとイスラエルの戦争は、私の内面にいいようのない影を刺す。

いま私は、初冬の日の射す穏やかな部屋で五十鈴川だよりを打っているが、いちにちでも一時間でも無用な流血の惨事がやむことを願い、五十鈴川だよりを打つくらいしか出来ない。言葉が虚しい、が、(忸怩たる思いを、綺麗事ではなく和らげる方策を考え続けねば)



2023-11-05

釜山への5泊6日旅からもどって思う、とりとめなき五十鈴川だより。

 ほぼ10年ぶり、近い異国釜山への5泊6日の旅を終えて、昨日のお昼我が家に戻ってきたばかりで、穏やかそのものの我が部屋で気持ちがふわふわしている。ふわふわを押さえるには五十鈴川だよりを打つしかない。ともあれ無事に釜山から帰ってきた。行きと帰りフェリーに宿泊したので、実質釜山にいたのは丸3日である。

釜山港を出るフェリーの部屋の中からみた夜景

月曜日朝早く西大寺をでて、釜山に31日朝着いて、昨日11月4日土曜日、朝早く下関につき、お昼前には我が家についた。月末まとまってお休みが取れ、急に思い付いて行動したのだが、この選択がよかった。

ウクライナに続いてイスラエルとパレスチナの間に戦争がはじまらなかったら、10年ぶりの旅に出ようとは思わなかったかもしれない。居心地のいいところで、ただ安穏に生活し、五十鈴川だよりを打ち、世界の現実の風があまりにも遠く届かないところにいると、ヤバイというしかない本能的な内なる声が、未だ高齢者の私に聴こえて来たのである。

高齢者の私が行ける近くて一番日本語が聞こえてこず、静かにものを考えられる場所として、韓国は釜山にゆこうと思い付いたのである。釜山では金属加工町工場がひしめくまさに額にあせして働く労働者の街の安宿に泊まった。カンジャン市場がすぐそばで、働く人々が食べる安い食堂がいっぱいあり、ほとんどの食事を私はそこでとった。まったく普段の私の生活環境とは異なる場所に身をおいてみることの大切さを今回の旅で思い知った。

現実、いま高齢者である私が、その思い知ったことの実感は、今後のこれからの生活時間のなかで試行錯誤実践してゆきたいと考えている。

わずか5日間日本語が聞こえないところにいて、戻ってきてニュース映像をちょっとみただけで、能天気な五十鈴川だよりを打つ気がなくなってしまった。イスラエルのガザ地区へのあまりものジェノサイド、という以外に言葉がないおぞましい戦争映像。イスラエル側の論理、パレスチナ側の論理、双方のあまりもの不公平とずれ、泥沼、不毛、混沌、悲惨、無情。言葉の虚しさ。私の頭では理解のしようもないのを承知で敢えて打つが、正視に堪えない映像をわずかでも見たものとして、沈黙しつつも、我が身に、我が家族にせめて置き換えて、思考想像することを(結果的にみてみぬことになる)しなくなったら、終わりである。

私は釜山に観光旅行に出掛けたわけではない。ただ何時もとは違う場所に身をおいて体を動かし、考えたかっただけである。現地では交通費と宿代、レ・ミゼラブル(ユゴーの原作をじっくりと読みたい、子供が戦い、死ぬシーンがガザとだぶった)のチケット代、食事代、以外なにも使わない旅をしてきた。(十数年前ソウルにいった際に換金したWウォンが机のなかに残っていて、現地ではそのウォンで十分に足りた)

日本語が聞こえてこない世界、居心地のいい場所とはちょっと異なる時空間に身をおいて考える旅がただしたかっただけである。これ以上くどくど打つことは控える。寺に詣で、山に登り歩き、底辺庶民(観光客は誰もいないエリア)が生活し暮らす、人間臭い地域周辺をただうろつき歩いただけである。

だがゆっくり自分と向かい合える貴重な老いの時間が持てた。老いてはいても、今後も居心地のいい場所にいてものを考えるのではなく、動ける間は体に負荷をかけながら、物事をゆったりと考える自由時間旅を持たないと、ますますもって思考停止老人になる、ということが自覚できた。

世界の不条理不毛理不尽、運命、おかれた命のあまりもの不公平に五十鈴川だよりを打つものとして、どのような大義があろうと納得することはできない。一番小さな犠牲者、小さな命を奪い取る現実に、目をそらさず抗議する。

2023-11-03

釜山最後の日の朝釜山駅の近くのカフェで打つ五十鈴川だより

11月1日の夕飯、しみた。約800円
3日の朝、ホテルをチェックアウトして地下鉄を乗り継ぎフェリー乗り場の近くに移動した。わずか3日だがずいぶん地下鉄になれた。50だいの終わり、韓国語をわずかだが習った経験がよみがえって来て、文字をいくばくか読めたことがどれほど役にたったことか。東京の地下鉄に比較したら釜山の地下鉄はなんてことない。

出港は夜の9時なのでそれまで時間があるので、どこかに荷物を預けて釜山最後の一日を過ごしたく思っている。ところで昨日の夜は、なんとミュージカル、レミゼラブルを見た。大変感動した。その事はまた岡山にもどってうちたい。思い立って来て本当によかった。今日も快晴の釜山である。

2023-11-02

釜山への旅3日めの朝に思う、五十鈴川だより。

釜山3日めの朝を迎えている。連日素晴らしい快晴に恵まれ、言葉に表せないほどの充実した、近くて遠いとややもすると感じがちな韓国という異国への、10年ぶりの旅は、老いゆく時間をいかに生きて行けばいいのかの、ターニングポイントとして、最高の選択であったと、いま感じている。
私は今朝の釜山での五十鈴川だよりを、ササンという地下鉄の駅の近くのカフェで打っているのだが、ここまでは宿の近くのバス停から138のバスに乗り適当に降りて、いつものように感じのいい店員さんがいるようなお店を見つけて五十鈴川だよりを打っている。 今日はまったく予定がないので、ゆっくり五十鈴川だよりを打てるのがとてもうれしい。昨日はポモサという山寺に詣で、そのあと山登り、山歩きを午後一時半まで、単独で完歩した。ために、ふくらはぎ他、いつ以来か思い出せないほどの、なん十年ぶりかの筋肉痛なのである。だが歩けるし、どこか筋肉痛になっている我が体が嬉しい。 着いて丸二日が過ぎたばかりなのだが、いつもとはまったく異なる釜山単独旅、このカフェの女性も含めすでになんと多くの普通の働く人たちに助けられていることか、そのことの有り難さがしみる。 老人の私を出会ったひとの9割りは親切に接してくれる。来て良かったと心から思えるからこそ、五十鈴川だよりが打ちたくなる。これが逆であったら、全く異なることなる印象を持つに違いない。旅は出会いであるとあらためて痛感する。おそらく年齢が一段とそのおもいを深めているのだと想う。 とはいってもここは異国、しかも10年近く外国を旅していなかったし、 バスや地下鉄、食事をするにせよ言葉の問題があるので神経の使い用は半端ではない。動き回ればあらゆるセンサーを老いゆく体で瞬時に判断しないといけないから、ボケ防止には老人一人旅が、私にはいちばん似つかわしい。昨日は心と体を限界近くまで動かした一日を過ごした。午後8時すぎ遅い夕飯、豚肉のチゲを頂いたのだが、このように美味しいご飯は初めてといってもいい美味しさだった。普段の食事では味わえないほどの。体が本当に欲していたときに頂いたからだ。 人間というのは、悲しいかなやはり日々の日常生活のなかで、知らず知らずのうちに安穏な日々にながされてゆくのだとおもう。だからなのだとおもう異国への旅に誘われるのは。溜まりにたまった目にはみえない何かを洗い流すには、私の場合日本語の聞こえてこない場所への移動がいまも必要なのである。そして実践できているその事が本当に心から有り難いのである。やがてはもっともっと老いて、旅をしたことさえ 忘却の彼方に消えゆくとしても、五十鈴川だよりを打つことで、しばしの間は孫や家族が読んでくれればそれでいいのである。 釜山には40代元気な盛りに来たことがありそれ以来、初めてきたかのようにアジアの大貿易都市に変貌している。たった二日ではあるが街ゆく人々、働いている人々を傍観者として眺めて想うことはエネルギーに満ちている。ホテルのそばにカンジャン市場があるのだが、体を駆使して働く姿に感動する。私は体を張って働く人たちに強く引かれる。若い頃築地の市場で働いたことがあるのであの頃を思い出す。 そういう意味で今回釜山にーいたのは大正解といえる。旅の目的はほぼ達したが、まだ2日ある。今日はこれから海を見に行こうかと思う。

2023-11-01

ポモサという釜山で一番有名な山寺に詣で、それから山に登り五時間のトレッキングを終え、寸暇カフェでうつ五十鈴川だより。

 

必死に働く姿がすばらしい

釜山気ままな思いつき五十鈴川だよりです。今午後三時すぎ、朝やどの近くの地下鉄の駅、カムジョンから釜山で一番有名なポモサというお寺に詣で、そこから約五時間かけてのトレッキングを終え、カムジョン市場でおそい昼食をすませ、親切な若者がやっているカフェで、五十鈴川だよりを打っています。

スッゴク疲れているのですが、親切な若者のおかげで五十鈴川だよりを打てるのがしあわせです。きっとたまたまであった韓国は釜山の若者が五十鈴川だよりを打たせているのだとおもう釜山の旅二日めの、超短い五十鈴川だよりになりますが、岡山に戻ったらゆっくり打とうとおもっています。取急ぎカフェの写真をアップします。充実しているのは釜山の人たちがすばらしいからです。

2023-10-31

フェリーで無事に釜山に着きました。なん十年ぶり、71歳の旅はじまる。

 

10月31日釜山最初のブランチ

釜山につき、138番のバスでホテルにたどり着き、近くのカフェで親切なアジョシにインターネットに接続してもらって、とにかくラインをつなぎ家族に無事にホテルについたことをしらせたので、いままででもっとも短い五十鈴川だよりになる。なん十年ぶりに訪れた釜山は大都会に変貌をとげていた。

さて古希を過ぎた私にとって、これからの3日間の旅がどのような展開になるのか、若いときと違っていくばくかの不安はあるが楽しみである。ともあれホテルのチェックインまで付近を歩いて見よう。

2023-10-30

下関釜山往復フェリーで、釜山に向かう久方ぶりの旅の朝に想う。

 パスポートを使うのは、長女の結婚式でドイツはドレスデンに出掛けて以来だから、本当に久しぶり。来年の6月まで有効だからギリギリ使える。眠っていた旅の虫がむずむず動く体があるのが嬉しい。

おじじの私が読み染みる本


この10年、音読や企画など、に随分とエネルギーを使う日々を続けてきた果てに、再び原点である旅に、これからの時間、重きを起きたいという気になってきたのは、やはりこのコロナ禍での思索思索とその渦中生まれてきた、新しい命、孫たちとの出会いが大きいと思う。

そのことを今朝の五十鈴川打よりで、打つことは時間的に不可能だが、自由ということの素晴らしさを孫たちにあらためて再認識させられたのが大きいと思う。この年になると、あらゆるしがらみに、ややもするとからめとられそうな不自由を感じてしまう。年齢は関係ないのだ。気持ちに正直に生きるのである。

今後は自由感覚を最優先、義理を欠いてもしようがない、というスタンスで、秋風を浴びに旅行かばの気持ちで、五十鈴川だよりに向かう朝である。夜の出港なので下関までは、本を片手の鈍行旅である。下関発のフェリーで釜山に行き3泊、もどりもフェリーである。昔一度下関釜山往復フェリーにのって以来だから、ずいぶん昔のことである。

あれ以来だから、老いたりとはいえ、どこかワクワクそわそわする自分が未だいることが嬉しい。孫たちは天真爛漫、自由自在の極致を生きている。その事が私にエネルギーを注ぐ。万分の一でも孫のように自由に風に当たり、老いゆく下山旅で体に新鮮な風を入れたい。ただそれだけである。

フェリーで一泊、釜山の宿に3泊し周辺をぶらぶらするだけのあてのない旅である。出来るだけ余分な情報は入れず、ガイドブックも持たないのは、若い頃から変わらない。情報は体で、足で得る。旅で出会った一期一会の匂うヒトからの情報をこそ起点にして動く旅。リアルな虫のようにうろつく旅がわたしは一番楽しい。

そのためには普段から動き回れる最低の足腰をキープしていないと、旅はまったくといっていいほど、わたしの場合つまらなくなる。歩ける範囲は狭くても孫たちはまったく退屈しない。無理しないで休み休み釜山の人間のすむ町を歩く、ただそれだけの旅である。そのなかで溜まりになまっている精神の紋切り型を洗えれば、と夢想するのである。

大昔からヒトは旅をする。古希を過ぎ、可能な限り、すべてをリセットするにはわたしの場合旅が一番、それしかないのである。単独で見知らぬ人たちが暮らす異国の町を歩き回り、思考しないと、ボケる。(のだ)

2023-10-28

おおよそ10年ぶりくらい身近な異国、韓国へ旅することにしました。

 10月の肉体労働バイトは25日で終え、来月4日までお休みをとった。すでにお休み3日目の静かな朝を迎えている。妻が児童館に出掛け(午後3時過ぎには帰ってくる)一人静かなひととき五十鈴川だよりを打てるのが、私にとっての、ささやかな喜びである。

巨石の写真を見ていたら旅がしたくなった

秋の朝の陽光を浴びながら、穏やかによしなしごとを打てるのは、ありがたきかなという他はない。10日間もお休みをとったのは、たぶんこの4、5年では初めてである。今週は家でじっと過ごしたのち、来週月曜日から週末金曜日まで、韓国は釜山経由光州まで旅をすることになっている。

40代から50代にかけて、ソウル中心に何度も韓国には足を運んでいるが、この10年は行っていないので、きっと浦島太郎的な気分に陥ることになるのではという気もどこかでするのだが、幸いなことに妻にお伺いをたてたところ、すんなりとお許しが出たのである。

その上、予約他デジタル音痴(この際返上し学ぼうという気になっている)の私の指南役を務めてくれ、安心してゆける。50代までは思い立ったら、ほとんどなにも考えず出掛けていたが、さすがに古希を過ぎ無謀なことはしなくなってきた。老いの功徳は至るところで私に変容を迫る。その事を私は努めて冷厳に受け止めながら、老いを見つめる新たな旅を見つけられればと、どこか風任せに構えている。

とはいえ、何せ随分と近いとはいえ、外国にゆくのだから私にしては用意周到にと、今日は旅の準備をするつもりである。昔に比べたら比較しようもないほどに、静かな生活が板についたかのような塩梅だが、やはり未だ旅心がうずくのは、きっともって生まれたカルマのようなものだろうと、自覚している。

どんなに好きなこともやがてはできなくなるのだから、動けるうちに、行きたいと思ううちに実践したい。ただそれだけである。理由は要らない。行きたい。行けるということが自由ということである。いつもとは異なる環境に身を置くことできっと新鮮な風が体に入る。未知の風景、未知の人に会う。その事を大事にしたい。

金銭的にも身の丈に合う生活、身の丈に合う旅を若いときから続けてきたので、そのスタンスはまったく変わらない。

静かな生活と、時おりの異国への旅。先のことはわからないにもせよ、健康で動けるうちは、続けたいという欲求は健在である。旅と読書の非日常体験と、静かな日常生活、この2極を往還する70代を送りたく思う。そのために日々しっかり生活したい。

2023-10-27

静かに生活し暮らす、沈黙の秋。

 前回打ってから随分と打っていない。イスラエルとパレスチナの間での戦争(もはや紛争ではない)ウクライナで続く戦争が、遠い島国の一庶民老人の気持ちを萎えさせている。そのような世界の痛み、出来事に無関心であるのは、なぜだかの理由はおくとしても、忸怩たるおもいが、どうにも能天気に気軽に五十鈴川だよりを打つ気にならないのである。だからこれ以上はその事に関しては沈黙する。

私にとっての今の時代、鬱ぎの虫におちいりがちな生活のなかで、いちばんの精神の免疫力をキープできる安寧の支えは好きな肉体労働アルバイトと、真夏は控えていたが10月から再開した、シェイクスピア作品の長い台詞の書写である。すでに16作品の書写を終えたところである。この調子で継続すれば、健康が持続すれば、来年中にはほぼ終えられそうな目算がたってきた。(困難な時代、まさにシェイクスピア作品の数々は私の羅針盤である)

書写には音読とはまたまったく違う興趣があることが、続けてみてわかってきた。(ひっかく)何事も好きでないと持続は難しいが、松岡和子先生の丁寧な注釈を読みながら新しい翻訳日本語で、新たな気持ちで書写する。シェイクスピア作品だからこそ続けられる。(運命的な困難状況と格闘するオセロー、ハムレットの台詞は何度読んでも素晴らしい、随所に新しい挑戦がある。。この作品に巡り会えただけでも生まれてきてよかった。絶望に立ち向かえる)

この10月中旬から、余っていたノートの隙間を、シェイクスピア作品をより深く味わい学ぶため心機一転、松岡先生の翻訳の文庫本の注釈を書写する勉強も始めた。一番始めに注釈を書写したのは、やはりハムレットである。以後ロミオとジュリエット、オセロー、ベニスの商人の注釈書写を終え、今、ウインザーの陽気な女房たちの注釈書写の一幕を終えたところである。

肉体労働と、土いじりと、シェイクスピア作品の長台詞と注釈書写と、散歩が今のところの私の日常生活の4本柱である。もちろん他にもいろんな雑事をこなしながらの日々なので、一日が瞬く間に過ぎてゆく。平凡この上なく我が人生で初めてといっていいほどの静かな暮らしである。

素晴らしい日本語翻訳で読める幸せ

執着しない。手放すということを知らず知らず進めているかのような案配。身軽になりたいと思う。古希を過ぎあらゆる関係性の見直しを進めている。そのような日々を生きていると、手放せないものの大事、小事が感じられる、見えてきたように思う。

以前も打ったような記憶があるし、きっとこれからも金太郎飴のように似たようなことを打ち続ける老人一人呟き五十鈴川だよりになるのだろう。今はもうこの世に存在しない方たちのことを追慕し、思い出に生き死者のエネルギーにあやかり、今を大切に生きたいと私は考えている。

2023-10-14

イスラエルとパレスチナの間での映像のすさまじさに沈黙する今朝の、五十鈴川だより。

 どんよりと曇り空の土曜日の朝を迎えている。気分もまた同じように晴れない。イスラエルとパレスチナの正視にたえない映像は、(報道されない映像がほとんどであろうと想像する)この世の地獄そのものである。


78年前の広島、長崎、東京をはじめとする大都市圏も時代が違うとはいえ、言葉を失うほどの地獄絵惨状であったのだろう。体験したことがない世代として、綴り打つことが虚しくてならない。だからこれ以上の言及は止す。ただ一個人として、人類の上に降りかかっている、ウクライナ他、戦争地域、その他報じられる扮装地域の国々に暮らす、数多の普通の人々の困難を想像すると、五十鈴川だよりを打つ一人の老人として、解決の糸口が見つからないかのような歴史的世界が厳然と存在することに、絶望的に憂鬱になる。

今朝も運動公園にいって、老人ライフ、ゆっくり大地を踏みしめ裸足散歩を行ってきた。地球の反対側ではイスラエルとパレスチナの間で、複雑極まる歴史の糸がほどけないほどに絡まり、戦争になっている。

穏やかに裸足で秋の朝を、過ごせることの平和(この言葉が日常生活のなかで軽くなっていると感じるのは私だけではあるまい。平凡のありがたみはなくしてみないとわからないというのが、人の世の常なのかもしれない)のありがたさをひしひしと感じた。

ひしひしと感じるからこそ、五十鈴川だよりを打つのだろう。老いたりとはいえ、日常生活のなかで揺らぎ、揺蕩い、様々なことにおもいを馳せながら生きる。それが私にとっての当たり前なのである。遠い国の出来事、皮膚感覚では知覚できない、耳を塞ぎたくなるかのような悪夢のような映像に無感動、無感覚になってしまったら、終わりである。

もっと老いて、そのような感覚に自分がなってしまったら、五十鈴川だよりを打つのは止めると思う。いまはまだ辛うじて五十鈴川だよりに打っておかねばという気持ちがあるのが救いである。

五十鈴川だよりというよりは、最近は老いの五十鈴川だよりになりつつあるのをどこかで、自覚していて、正直自分の皮膚感覚に遠い出来事を、五十鈴川だよりに打つことは、気があまり進まないのだが、世界が嫌でも抱え込まざるを得ないようなような、気が遠くなるほどの難問課題に、無関心を決め込むようになったらそれこそ高齢者である。(と思う)

日常感覚と非日常感覚の加減をいったり来たりすることのなかで、感性のアンテナに耳を澄まさないと危ない。善きにつけ悪しきにつけ、平和ボケではなく、平和にならされると思考低下は免れない。だからなのだと想う、五十鈴川だよりを打つのは。打つことでなにがしかの思考が起きる。答えを求めて生きるのではなく、知らないことをわずかでも知る。その事を続けることで安易な思考の落とし穴にはまらないように、留意したい。



2023-10-09

ラグビーワールドカップ、日本対アルゼンチン、名勝負にワクワクしました。そして想う。

 雨が上がって静かな午前中、一仕事終え五十鈴川だよりタイムである。昨日夜、ワールドカップ日本代表ラグビー対アルゼンチン戦、一昨日の夜、日本代表男子バレーボール対スロベニア戦を見て、静かに感動した。相撲以外、もう特別なスポーツしかテレビを見なくなっているのだがじっと、画面に見いった。

二日連続して、若い男子の流す美しい涙を見て、若いときにしかできないスポーツの醍醐味、不可能を可能にする姿勢の情熱の発露に、老人の私はただただ打たれた。先のバスケットボールのワールドカップの日本男子の活躍でも、思い感じたのだが、明らかに世界に通用する新しい世代が育ってきている。その事が老人の私にはとても嬉しく、頼もしい。(日本の経済政治は無惨である)

今日はこの本を読みます

限られた報道のなかで、目にする範囲では、ネガティブな報道に時代の閉塞感が増すなか、ややもすると気が塞ぎがちになりがちなのだが、そのような閉塞感にまさに風穴を開ける快挙を目撃できたことは幸せである。老齢ライフに喜びを与えてくれる新鮮な新しい世代、選手たちが躍動している姿を目の当たりにすると、俄然元気がわいてくるのは、私だけではない。多くの方々が世代を越え勇気と感動を共有できた一夜であったと思う。

前回のワールドカップラグビーからのにわか🏉ラグビーファンの私だが、笑わない男である稲垣選手始め、松田選手、姫野選手、レメキ選手他、全員の汗と涙には心から感動した。勝負の勝ち負けではない、言葉にならない、なにかにヒトは感動する生き物なのである。理屈ではなく、スタジアムがまるで生きているかのような興奮の坩堝に包まれたのが、画面を通して伝わってきた。

それにしても、ラグビーというスポーツのなんという激しさ、厳しさ、容赦のなさ、ひたむきさ、男同士のなんとも言えない武骨極まる美しさに、老人の私は限りなく打たれた。大きな男たちの俊敏な動き、全力で走り飛ぶ、空中トライ。手の届かないゾーンを必死で追いかける、あの厳粛な美しさはラグビー🏉ならではの世界である。

その事を改めて眼底に刻み込み、老齢である私も、下り坂肉体を引きずり、こけつまろびつ必死で下らなければと、あらためておもわされた、その事が私に五十鈴川だよりを打たせる。

感動する。ワクワクする、その事が人間に与えられている特権である、と私は思っている。イデオロギーや民族、宗教を越え、人間の根源に迫り届く世界。すれすれを戦ったものだけが関知しうる他者をおもいやれる深淵世界。

日々の辛抱とやる気、辛い稽古に耐えてきたものだけが放つ唯一無二の輝き。日本代表の野武士軍団に、無私の美しさを感じたのは私だけではないだろう、狭義の愛国者軍団ではまったくない。美しい人類愛、多国籍友情軍団が日本代表であったことが、新しく素晴らしいのである。

ノーサイド、相手アルゼンチンも素晴らしく、フェアプレー、まさに名勝負に私は酔った。名勝負には勝者も敗者もない。勝負を越えた世界があることを、おもい知らされた試合だった。


2023-10-08

突然の秋、とにかく適応し頭を切り替え、日々を生きる。

 一気に季節が進み、すこし戸惑いつつも、私にとってはありがたい秋の到来である。手術後弓の稽古を諦め、(もう2年半になる)好きなシェイクスピア作品他、書写を折々やっている。だがこの夏の間まったくといっていいほどやる気が起きなかった。だが10月2日から再開している。

主に10行以上のなが台詞を書写しているのだが、長台詞が少ない作品は8行までを書写している【冬物語】の5幕から再開、それを終え今【尺には尺を】(この年齢で読むとまた味わい深い)第3幕の途中であるである。口のなかでぶつぶつ呟きながら、長い台詞のところになると書写をする、といった案配で進んでいる。

まるで尺取り虫のように書写していると、一人時間が瞬く間にすぎてゆく。灯火親しむ秋、私にとっての秋の老齢時間の過ごし方が実現できている。頭の中を涼しい風が吹き抜けるかのように書写をするのが楽しい。手を休め、松岡和子先生の丁寧な注釈を読みながらゆっくり読み書き進むのだが、幸いにして一人時間には事欠かないので、まさに言うことがない。

小泉八雲と節、私はこういう小説に弱い

書写の効用は、生活の面でも微妙な変化が芽生えている。せっかちな私なのだが、万事何事にもゆったりと(しか出来ないのだが)を楽しめるようになってきている。(気がする)五十鈴川だよりだってゆったりと、画面を開くまでなにも考えていない。

ただ、思い付くよしなしごとを手がかってに打っているだけである。一行打って又一行、枯れた落ち葉がはらりはらりと落ちて地面にたまるように、何とはなしにその日の五十鈴川だよりが生まれるといった塩梅。

ところで書写をしていない長い夏の間、生活、労働だけをしていたのでは勿論ない。枯れつつも本を読むのが遅い私なのであるが、この夏はふるさと帰省や、長野への往復などでの非日常時間涼しい電車のなかで、随分と読書が出来た。今年の猛暑を乗り越えられたことは、来年からの夏の過ごし方の過ごし方のヒントになった。夏の移動読書は最適である、ということをこの夏はひときわ学べた夏となった。

若い頃誰だったか、読書は真の体験足りうるか、といった議論がなされたことがあったと記憶するのだが、私にとって読書はまさに体験足りうる。本を読まなかったら旅をしようとは、私の場合まったく思わない。旅と読書はほとんど同義なのである。旅では思わぬ意外性が起こるし、意外性と好奇心こそが心身の健康には欠かせないのである。

要は加減、塩梅、日常生活と非日常時間とのさじ加減、バランスこそが大事なのである。そして眠りこそが薬、私はとにかく肉体労働者なので体調管理には(とくに術後)気を付けていて、体が疲れたら横になり眠るのである。見たいテレビなどがあっても見ない。体第一である。そのために時代の話題についてゆけなくても、まったく頓着しない。

無為を楽しむ。体が喜ぶこと、気持ちがよくなるようなことに集中するように心かけている。書写も続けていると疲れる。あかんと思ったらほかのことをし、気分を変え、体を休めまた進む。楽しいから続けられる。無理はもう決してしない。

古希を過ぎたら義理を欠き、他者に迷惑をできる限りかけず、一人遊び時間をこそ大事にしたいと想う私である。

2023-10-04

筑前琵琶演奏会、第7回光の会~つなぐ~を聴きに出掛けました。そして想う。

 先週の日曜日、大阪の国立文楽劇場小ホールまで筑前琵琶を聴きに行ってきた。忘れもしない、筑前琵琶を生まれて初めて聴いたのは5年前のことである。場所は梅田のとあるホールであったと記憶する。奥村旭翠というかたの。これまでの人生で何回か琵琶の演奏は聞いたことがあるのだが、このかたの筑前琵琶を聴いたのは初めてである。

妻が丹精した秋の向日葵

なぜ聴きに出掛けたのか。聴いてみたかったからとでも言うしかない。当時リア王の発表会を終えたばかりで消耗していた私は、なにか聴いたことも見たこともないような世界に触れたいという欲求が強くわいていていたのだ。そんなおり新聞でたまたま大阪で奥村旭翠さん(気軽に呼ばせていただきます。人間国宝であられる)の演奏会があるのを知り出掛けたのである。

以来今回も含め3回、奥村旭翠さんの演奏を聴いている。ただ前2回と異なり、今回は無料の発表会。というのは長くなるのではしょるが、奥村先生が後進の指導育成のために7年前から始めた光の会の発表会だからなのである。

中学生、高校生、大学生、社会人30才未満、計8名(男性2名)による発表会。奥村先生はお弟子さんたちの演奏会に足を運んでこられたか方たちのために最後に一曲【熊谷と敦盛】を謡い演奏してくださった。流れるように自然体、素晴らしかった。

筑前琵琶を伝えてゆくために、後進の育成に心血を注いでおられる先生のお姿を遠くから拝見できただけでも出掛けてよかったことを、ただ今日の五十鈴川だよりに打っておきたいだけなのである。

琵琶のつま弾き、音色謡いにききいる体、そういう年齢に自分がなっているのだとしか言えないが。奥村旭翠先生のなんとも言えないお人柄が演奏から伝わってくるから、それに触れたいがために、多分足を運ぶのである。今聴いておかねば(それは多嘉良カナさんにも通ずる)

それは気品の香り、日本人の伝統の粋(すい)が匂いたつからとでも言うしかない体のものである。まろやかな物言い語り口も先生は独特(凛として静かで琵琶独特の佇まい)自然(じねん)まったくお上手がない。ひたすら芸道に真摯に邁進しておられる。それが私のようなものにも伝わってくる。

縁というものはまったくもって不思議という他はない。聴けば聴くほどすこしずつ染みてくる。音色が耳に優しい、心身が休まる。先生の演奏姿は美しく比類がない。老いの美が燦然と輝く。無比だから先生がお元気であられる間は聴いておきたいと、今後も私は出掛けるのである。最初に聴いたときに住所を書いておいたら、以来案内を送ってくださる。いまや奥村旭翠さんの私はファンなのである。

PS 文楽小劇場は大阪の盛り場道頓堀の近くにある。小ホールには100にも満たない観客ではあったが、その中の一人として若い方たちの筑前琵琶を受け継ぐ情熱に触れることができ、出掛けて本当によかった。

2023-09-30

友人から秋の味覚梨が届き、お礼のお便りをしたためカボスと共に郵送、そして想う。

 一昨日栃木にすむ友人I氏から立派な梨が送られてきた。氏と出会ったのは、今は昔の富良野である。私が31才、氏は当時北大の学生であった。志を果たし獣医になられ今は栃木で働いている。あれからすでに40年の歳月が流れ、氏と私は性格も世代もまるで異なるのだが、どういう訳か関係性が途切れることのなく、いまだに君子の淡い交遊が持続している。会う機会は滅多にない。だが、わたしにとっては青春の終わりに出会った大切な友人の一人である。

あまりの博学、前向きさに感動する

まったく利害が伴わない関係性こそがわたしにとって大事である。大事な友人であるからこそ、深入りしない程度に君子の交遊を大切にしている。お返しに、ささやかに我が家のかぼすを昨日妻が収穫したので、一文を添えて送ることにした。こういうことでもないと、短い一文を添え、手書きで書くという営為は、現代人生活からは久しく失われてゆく。私だって例外ではない

私は時代の流れに当の昔に置いてきぼりにされているのは自覚している。デジタルライフも、必要最小限にとどめて、結果的にまるで時代に抗うかのように、手間隙のかかることを人生時間が少なくなるにつれ、あえて楽しんでやっている、

昨日珍しく10才年上の姉から電話をもらった。人生ではじめて足を手術し入院先からであった。声の調子が明るい。手術がうまくいって、入院先の食事が美味しく、嫁いでから毎食作ってもらって初めて極楽気分で過ごしていられる嬉しさが、ビンビン電話から伝わってきた。

姉は私以上にアナログ人間であるから、姉にも久しぶりにお便りを出そうと思っている。手間暇を惜しむのではなく、手間隙かけることを楽しむくらいの余裕生活こそが、今後ますます私が望むところなのである。ゆっくり丁寧に骨折しないように注意深くいきるのである。老いては義理を欠きわがままに、しかし大切な方はとことん大切に想う、このセンスは失いたくない。

掃除や炊事他、生きている限りは動き生活しなければならない。ならばとことん生活を面白がって生きることにシフトする覚悟なのである。さて、いただいた梨、妻と私で半分いただき、お裾分けすることにし、沖縄のK夫妻に昨日送った。もちろん短いを一文添えて。一文は万年筆で書く。何回か打っているが、私は万年筆が好きで5本持っているが、ふだん使用するのは安い万年筆、で十分である。

長じて人から筆、万年筆であれ書くことに関して習った記憶がない。ついでに文章を書くことも習ったことがない。本を読むことが好きになり、気がついたら文章も自然と、文法は滅茶苦茶だが打てる(書ける)ようになっていた。書きたい相手、読みたい本があれば、書けるし読める。要は情動が動くか動かないか、古希を過ぎたらうまい下手ではなく、からだが喜ぶか喜ばないかである。そこのところを芯に据え文字を書く(書ける)喜びを見つけたい。

指紋のように、自分らしい文字や一文がお便りという感じで、大事な友人や知人に書けるようになれると楽しいので、いよいよこれからはお便りを出したくなるような友人知人との関係性を深めながら、手で文字を書き一文を綴りたいわたしである。



2023-09-28

夕刻、まあるく満ちてゆく月を眺めながら裸足散歩、そして想う。

9月の肉体労働仕事は昨日で終わったので、今日から4日間お休みである。いまだ日中は暑いけれど、それでも朝夕はしのぎやすくなったので、私としては言い様のない嬉しさが体全体に満ちている。

未知の荒野をゆく著者に脱帽

さて、幾ばくか涼しくなったお陰で、落ち着いて本を読んだり、静かに誰かにお便りを書いたりしたくなってきた。今日からの4日間を大事に過ごしたいと考えている。言うは易く実践はかたし、ではあるが緩やかにしか動かない老いの身を限りなく大事に、本日も老い楽ライフを面白がれるように過ごしたい。

今朝も朝一番、運動公園に行って早朝裸足散歩を、わずか20分程度やってきたのだが、足の裏がジンジンして気持ちがいい。この裸足散歩は手術後、真夏と真冬は避けているのだが、主に夕刻わずかな時間であれ、継続している。以前も打ったことがあるが、私なりに大地を直に踏みしめ、気分転換を図る、のだ。この数日、月が徐々にまあるくなってゆくのを眺めながらの歩行は、なんとも言えない。我一人・大地踏みしめ・秋をいく。

このところの、シンプル唯我独尊的安寧生活の深まりは、自分で言うのもなんだが、極楽ライフにかなり近くなっているのでは、と言う気がするほどに、足るを知ると言う感じである。植物の根が暗中模索水分を求めて延びてゆくように、私も老いゆくからだに、日々ささやかに潤いを注ぐかのように、自分の体が喜ぶことを日々見つけてゆきたいと、いわばその事だけを考えて生きているのである。

以前は執着していた(大切なことに関してのみの執着と好奇心は絶対的に必要不可欠である)事柄をこのところつぎつぎにあっさりと手放し、どうしても手放せない事柄にのみ、エネルギーを傾けるように生きる時間が集約されてきた。

新聞の切り抜きも、この夏でもってやめることにし、新聞の購読もちょっと考えている。新聞を読む時間を(デジタルでも読めるし)もっと本を読む時間に当てたくなってきたのである)。もっと読まねばならない本があるのだと言う自覚が一段と深まるのだ。

一日をいかに面白おかしく(誤解をまねいてもいいのだが、面白半分こそがこれからを生きる要諦である)正直に自律してゆくことができるか、と言うゾーンに入ってきた自覚がある。これは恐らく18才から働きながら、なんとか生活し、しのいで生きてこられた末に、今想える感覚なのである。

自由、自らに由って立つ、とでも言うしかないような感覚が、ようやっと生まれてきたのである。色々なヒトや本から影響を受け(現在もだが)、尽きせぬ感謝をうちに秘めつつ、一区切り、多事を卒業し、可能なら再び自由にこれからの未知の時間を生きてゆきたいのである。言うは易く実践はかたし。手放し、限りなく身軽になり大切な人や、手放せない本、生きているうちに読みたい本、生きているうちに観ておきたいもの、などなど、移り変わる自分と対話しながら、と夢見る今朝の私である。


2023-09-24

秋分の日の翌日の朝に想う、五十鈴川だより。

 昨日は秋分の日、朝一番妻と義父のお墓参り、その後は終日家のなかで過ごし、午後6時過ぎ運動公園で散歩をかねたルーティンワークで一日を終えた。天上に🌓が。

お彼岸のこの季節、ようやく待ち望んだ秋の気配と共に、しのぎやすい時候となり、私のような老い人には嬉しいという以外に言葉がない。年齢を重ねる度に猛暑がこたえるようになってきているのは事実である。

9月17日、ふくろうハウスにて、H・A子さんと

だが未だに月に120時間(コロナ禍労働時間が増えた)肉体労働バイトに励んでいられる体力が、この暑さのなかしのいで持続できたことの喜びは、当人である私にしかわかり得ない。69才で手術後、まもなく2年半になるが、動ける体にたいするありがたさがしみる。私は歳寄り移動人間である。

労働と旅、やりたいことが、すれすれのところでうまく時間調整がとれ、4月からこの9月までを、なんとか乗りきれたことの安堵が、今私を静かに五十鈴川だよりに向かわせる。あれほど打ち込んでいたことに興趣が向かわなくなり、それと同時に書写とかこれまでほとんどやっていなかったことに興趣が移ってゆくことが、つまりは老いてゆくことなのであろうと、移り変わる自分に抗わず、従っている自分である。(あきらかに60代の自分とは異なる)

いい歳なのであるから臆面もなく打つが、そんな私がことのほか嬉しいのは、実入りのある生活労働仕事が楽しいからである。古希を過ぎてからの気付きの深まりと共に、年間の季節の変化のなかで、草木と直に向き合い、自分の体と向き合いながら、やれるこの仕事がいまの私にとっては、一番重要で大切である。(家族にとって)

心身の健やかさを持続できるこの仕事は、ただただ自分の内面との対話に終始できるので、人生の下山の季節をいきる私にとっては、かけがえのない場所なのである。足元には日々変化する大地、見上げれば天空、雲の流れ。ときに雨に打たれる。ただただ私は蟻のように安心して動き回る。なにか大いなるものに見守られている安堵感がある。生きている実感が限りなく味わえるまたとない場所なのである。(中世夢が原もそうだった)

大地にひれ伏し、雑草を抜いたりする単調な労働などは以前はやりたくはない労働であったのだが、何かに見守られている安堵感があるせいか、最近は楽しみながら体を動かす術のような感覚が身に付いてきて、すべての労働が楽しめている。健康体だからこその。これが成熟感なのかもとときに思わせる。

コロナ禍の私の手術、術後この2年半で男の子、今年5月女の子の孫が生誕と、わたしにとって禍福が続くなかで、ありがたい、ありがたいという言葉を日々唱えながら私は過ごしているのである。


2023-09-23

上京旅第2回、十数年ぶりH・A子さんに会い、ギャラリーふくろうハウスと再会、Hさん宅に泊まり想う。

 前回の上京旅、

ギャラリーふくろうハウス
時熟、という言葉があるのをこの歳になって知ったが、親友と二人で、16日土曜日夕刻、十数年ぶりに千葉県の内房上総湊に住んでいる、どうしても元気なうちに会っておかねばならない人を訪ねて、東京駅発のバスで東京湾を横断し、再会一晩泊まった。記憶が鮮明なうちに少しでも打っておきたい。

今は、上総湊の東京湾が一目で見渡せる眺めのいい3階建てのかなりの広さの家に、H・A子さんは十数年前ご主人をなくされてから、お一人ですんでいる。この方との出会いのつれずれはまた折おり打つが、今回は事実としての訪問を五十鈴川だよりにわずかにではあれ記したい。

H・A子さん、今は上総湊に住んでいるが、出会った頃は浜金谷のフェリー乗り場から、歩いて行ける距離の山小屋風の家に、当時まだお元気だったご主人とお二人で住んでいた。出会ったのは、私が富良野熟を卒塾したばかりで、今の妻と出会う前である。私が33歳、38年前のことである。

当時、単身これからいかに生きてゆけばいいのか途方にくれていた私は、後半の人生の再出発、仕切り直しのために富良野で学んだことをいかして、親友と(仲間十数人に声をかけ)小さい丸太小屋(12畳、中二階が寝室)を建てたいとおもい土地探しをしていたのだが、たまたま夕刻、車一台通るのがやっとという細い道を歩いていて出会ったのが、Hさんご夫妻だった。

妻と出会う前のことである、まさに運命的なご夫妻との出会いが、思えば私を決定的に変えたのだと、今にして思えば言えると思う。はしょるが、出会ったその日に意気投合、親友と私は我々の思いを伝え、なんとあったばかりなのに夕飯をごちそうになり、その日泊まったのである。ご夫妻の芸術家としか言えない暮らしぶりに私はすっかり参ってしまった。今は亡きご主人が世俗を超越したような、まさにふくろうを彷彿とさせる雰囲気の持ち主で、我々を歓待しもてなしてくれたくれたこと、未だ記憶に鮮明である。

ご夫妻は我々が本気でやるなら、全面的に手伝うとおっしゃってくださり、土地探しから完成までおおよそ一年かけて、結果カサ・デ・マルターラ(白い家)が完成したのである。毎週末東京から三浦半島から出ているフェリーで通って完成にこぎつけたのだが、何かにとりつかれたかのように情熱のあらんかぎりを振り絞った出来事が今にして思えば夢のようである。

丸太小屋が完成する頃、妻と巡り会うのだが、岡山に移住するまで、丸太小屋は私にとって魂の安息所となり、結婚、長女が生まれ、またもや私の人生は大きく展開する。丸太小屋にはゆけなくなるが、丸太小屋が後半の人生を乗りきってゆく大いなる自信を私に与えてくれたことは間違いない。その後Hさんが献身的に丸太小屋の維持管理をしてくださり、解体して上総湊の現在のHさんの住まいのすぐそばに移築、ギャラリーふくろうハウスとして蘇り現在に至るのである。

時熟再燃、私、親友とHさん3人、一晩思い出に話がつきることはなかった。心から出掛けてよかった。岡山に移住し31年、H・I子さんはまったく変わっていなかった。年月を重ね彼女の芸術家人生は枝葉を広げ深まり、流木アートの作品群が、一階のアトリエに静かにたたずんでいた。

そして思う。この歳になり、あらゆる俗世のしがらみから解放され、私は心からHさんや、これまでの人生で出会えたかけがえのないかたがたとの、再会交遊時間をこそ、許される限り大切に生きることを確認し、上総湊をあとにした。


2023-09-19

14日から18日まで上京旅してきました。忘れないうちに第一回を打つ。

 先週木曜日から昨日まで上京してきた。その事を忘れないうちに少しでも時系列に沿って打っておこう。

14日は家を6時に出て新幹線で上京、新橋で親友と待ち合わせ、日比谷公園で音読レッスンお昼まで。(間違いの喜劇・イジーオンのながセリフ)稲城の長女のマンションのゲストルームに夫婦で泊まる。

両国駅にて

15日、長女の息子のノア君の保育園の行事に私と妻、つまりおじいさん、おばあさんとして参加した。来年から小学生となる孫の5才の最後の保育園行事、爺バカにになるが夫婦で孫の成長ぶりをしっかりと見届けた。この保育園は京王線の稲城駅のすぐそばにある公的な保育園なのだが、よき先生方のご指導で、孫たちのクラスの全子供29人の歌や躍りを堪能し、共に折り紙や、紙コップでけん玉を作ったり、カルタをしたりして遊び、最後は子供たちが先生の指導で作ったお味噌とか、稲城の特産である梨、手作り梅ジソの特性美味しいランチをいただいた。長くなるのではしょるが、老夫婦、私と妻にとってはまたとない、貴重な時間が過ごせた。

午後少し休んで、妻と娘は生後まもなく5ヶ月になるミア(未彩)とお買い物。私とノア(望晃)は二人で初デート、稲城から今相撲をやっている蔵前国技館まで観光に出掛けた。京王線で新宿へ。中央線でお茶の水、そこで総武線に乗り換え、秋葉原、浅草橋、国技館がある両国に着いた。着いたらなんとかなりの雨、雷もなっていた。幸い折り畳みのかさと、ノア君の雨ガッパを持参していたので、なんとかしのいだが、それでもかなり濡れた。

相撲のチケットは売り切れで、あいにく国技館のなかには入れなかったが、国技館の出入り口で大きな力士たちの姿を、ノア君は初めて見ることができた。二人して国技館を一周し、珍しい刀剣のお店を見学したりして、稲城のいつも過ごしている生活空間とは異なる下町の賑わい探訪が5才のノア君とできたことの喜びは、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたい。

国技館回りの見学を終え、早めにラッシュを避け、行きとは逆のコースで家に近い調布に戻ったのが5時過ぎ、まだ雨が降っていたので、早めの夕飯を駅ビルの5階にある中華の店で二人でとった。ノア君は好きな醤油ラーメンをチョイス、他にも餃子や、小籠包、チャーハン、肉まん等を注文、ノア君が食べきれない分を私がいただいた。(一番驚いたのはは家で食べているときよりきちんと箸を使ってたべるようになってきたこと)

それでも食べきれずに残った肉まんなどは、きちんとテイクアウトで持ち帰ることができて、よかったし、なによりも孫との二人だけの夕飯も含めた半日デートがことのほかわたしには嬉しく楽しかった。よもやまさかこのような時間を孫と過ごせるとは。娘もレイさんも心配していたが、ノア君は雨でも動ずることなく、困らせることもなく、全く大人数の大都会大雑踏ののなかをすいすいと5才の足で、好奇心満々で歩いていた。その事もまたきちんと打っておきたい。ずっと私の手を離さなかったことも。今、五十鈴川だよりを打っていても、ノア君の5才の手の温もりが残っている。

2023-09-10

京都までの日帰り旅のお供に、日本文芸家協会編2019年ベスト・エッセイを読む、そして思う。

 今だ厳しい暑さが続くこの夏ではあるが、朝夕は幾ばくか涼しくなり五十鈴川だよりを穏やかな気持ちで打てる朝が、オーバーデはなく言葉にならないくらいに嬉しい。

さて昨日は、思い付いて老春18切符で京都まで往復してきた。目的は作家佐藤優さん(私にとっては先生であるまれな方だが、さんと呼びたくなる)が若き日学んだ同志社大学、そして今は腎臓透析をされるお体でありながら、今も時おり教えておられるという神学部の建物を見てみたかったことである。大学のある今出川キャンパス界隈を歩く、ということくらいの軽い気持ちでの日帰り旅をしてきた。休日だったので神学部の建物に入ることは叶わなかったが、出掛けてよかったことだけは、五十鈴川だよりにきちんと記しておきたい。

書物は人との間接的な出会いである

このエッセイ集には様々な職種の方々の76人のエッセイが納められている。いずれおとらぬ個性あふるるきら星のような一文が掲載されている。身につまされたり、じーんと目頭が熱くなったり、へえーっと驚かされたり、とまるで魔法のようなそれぞれの書き手の、その人らしいエッセイが紡ぎだされていて、まさに読書の喜びを私は堪能した。

76本のエッセイのうち名前は知っていても、その方の文章は読んだことがない方が50数人いた。フリーライター・歌人・理学研究家・詩人・教育者・著述家・小説家・作家・劇作家・演出家・日本文化研究所教授・ドイツ思想家・リベラルアーツ研究家・批評家・ノンフィクション作家・エッセイスト・芸人・歌手・映画ライター・国立博物館館長・霊長類学者・落語家・弁護士・映画監督・国際日本文化研究せんたー教授・精神科医・随筆家・音楽文化研究家・SF作家・翻訳家・振付家・ダンサー・作曲家・フランス文学者・社会学者・書道家・音楽家・映像作家・俳人等本当に多種多様な現代の日本語の言葉の豊かさを思い知らされた。

全く知らないかたたちののエッセイを、いきなりたくさん読んだのだが、その事がどれ程我が体に新鮮な喜び、新たな未知の世界の扉を垣間見させてくれたことか、あえて五十鈴川だよりに打たずにはいられないほどに、多様な肩書きの方々の個性アふるる一文が掲載されている。このような方々の文章を読むと、超マイノリティ世界に生きる人間の素敵さをこつぜんと知らされる。

一昨日の夕方、旅のお供の本を図書館に探しに行った際にこの本を選んだのは、社会学者である一度読んでみたいと思っていた岸政彦さんのエッセイが収められていたからである。エッセイのタイトルは[【猫は人生】これが実に素晴らしかったからである。(もし関心のある方いらしたらおすすめいたします)生きて、動いて、世界と出会い、今を生きる自分に出会うのである。老いの旅はますますもって一期一会である。


2023-09-03

青春18切符の旅で、18才の青年に出会う、古稀を過ぎた私の意外な展開、ふるさと帰省老春旅の結び。

 ふるさとを朝6時10分延岡発の在来線で佐伯に向かった。駅までは兄が朝早いのに送ってくれた。以心伝心のいつもの短い言葉のやり取り。暫しふるさととはお別れだが、五十鈴川だよりを打ち続け、つまり生きている私の中には、いつもふるさとへのある種の名状しがたい思いが、消えたことはない。特に両親が亡くなってからの、この20数年は何度も何度も足しげくお墓参り、帰省旅を繰り返している。

理由はない。あえて打つなら、私が生を受けた土地だからというしかない。命のルーツ、そして幼少期を共に過ごした、姉や兄が今だ健在だからである。年に数回帰省することで、生き返るかのように体が元気になるのが不思議である。

さて、在来線で約一時間佐伯に着いた。(この間の鉄道山越えの風景は、この半世紀ほとんど変化がないのが素晴らしい)そこで約30分大分行き在来線待ち合わせ、駅のベンチで、登紀子さんが作ってくれたおむすびを2個ほうばり、朝食とした。

大分に着き、すぐに9時14分発の在来線で中津へ、10時20分到着。小倉行きまで30分近い待ち合わせ、そこで前回打ったように、ベンチでおむすび2個をほうばり早めの昼食とした。延岡から中津まで車中、養老孟司先生の新書版の本、半分生きて半分死んでいる、を読み終えた。(この度の帰省旅では3冊養老先生の新書版の本、人の壁、自分の壁を持参、すべて読んだが、あまりの教養の深さ、思考の柔軟さに何度も膝を打った。これからも繰り返し先生の本を読んで心のビタミンとする)

レイさんが送ってくれた一枚

おむすびを食べていると、一人の若者と目線があったが、それ以上の出来事は起こらなかった。10時47分の在来線で小倉へ向かい、11時14分の在来線で下関へ。そこでまたもや乗り換え小月へ。ちょうどお昼頃、新山口、徳山へ向かう在来線を待っていると、あの中津で見かけた若者がホームで写真を撮っていた。彼もあれから同じ電車を乗り継いでいたのである。

ベンチで休んでいると、私のとなりにかなりの荷物と共に彼も座った。すると彼の方から、飲み物を買ってくるので、荷物を見ていてほしいと頼まれたのである。お安いご用オーケーの指をたてた。驚いたのは冷たいお茶を私の分まで買ってきてくれたことである。

その事が縁で話をするようになったのだが、彼の落ち着いた話し方から、20代半ばくらいの年齢に見受けられたのだが、なんと高校生18才だというではないか。私の中で純粋直感、好奇心が沸き起こり、にわかに会話が転がりはじめ、ほとんど私が質問し、彼が答えるという形で車中気まま旅が進行した。

この夏の終わり、高校生最後の夏を、四国、屋久島と旅し、昨日は別府に泊まり、今日青春18きっぷで家のある兵庫まで帰る途中だというではないか。彼は何台かのカメラを持参していてた。来年から大阪の写真の専門学校で学び将来は写真家を目指すという。この夏の旅で撮りだめた屋久島の写真他を暫しスマホで見せてもらったのだが、写真のことはよくわからないわたしにも、18才が撮ったとは思えない、センスのきらめきのような(今しか撮れない)感性を感じたのである。

何よりもあの若さで、古稀を過ぎた私と世代を越えて普通に話が転がってゆく、その事がたまらなくわたしには心地よかった。初対面なのにライン交換をしてしまうほどに。話に夢中になっていたら、山口の富海(とのみ)という駅でおおよそ一時間以上、トラブルで列車が停車。その間に私は彼がスマホのデザリング機能で五十鈴川だよりを打てるようにしてくれたので、即興で車中で打つことができた。

このトラブルで、旅の行程が変更を余儀なくされ、今日中に兵庫に帰るのは無理になり、彼は広島に泊まることになり、私も広島から新幹線で帰ることにした。広島に着いたのが午後7時過ぎ、宮島を過ぎる頃、海上に浮かぶかなりまあるい月を二人して眺めたのだが、彼は月の写真もたくさんとっていて見せてくれた。打っていると彼のしぐさや動じない態度が思い出される。

臨機応変、想定外のことが生じても、前向きにスマホであっという間に宿を見つけてしまうところに、彼の素直な適応能力の高さを見た。そして、こつぜんと18才で急行高千穂(当時一番安いチケットに乗り25時間かかった)に乗り体ひとつで上京した自分を思い出した。

あれから半世紀以上の歳月が流れ、今の私は老いゆく我が身なれど、今だ時おり在来線でののんびり鈍行旅を楽しんでいるからこそ、神がこの若者との出会いを設定してくれたのではないかと思える(物語かしたくなるほどに)。

ともあれ、世代を越えて語り合え私は幸福だった。広島の駅で私たちは再会を約束し、かたい握手をしてお別れした。

PS 彼とのご縁を機に彼と同じLUMIX カメラを私も購入することに決めた。

2023-09-02

帰省旅徒然、忘れない打ちに、記録として打つ五十鈴川だより。

先週末から今週火曜日まで、恒例のふるさと帰省旅をして、即翌日から昨日まで肉体労働アルバイトに励んでいたので、五十鈴川だよりを打つことが叶わなかったが、今日明日はお休みなので、ゆったりと打てる、その事がたまらなく嬉しい。 毎度毎度似たようなことを、というか日々の生活、私にとっての手の届く範囲の日常的な細々をこそ打ちたい五十鈴川だよりなので、何はともあれ、今打ちたい徒然を、打てる範囲の常識的なのりを越えない五十鈴川だよりでありたいと、わがままに想う私である。 さて、今回は行きは途中まで在来線で、途中から新幹線と特急を利用、帰りはふるさとから広島まで在来線、広島から岡山までは新幹線を利用した。 私は基本的に在来線のゆっくり旅が好きなのである。その傾向は年を重ねるごとに深まってゆくようにさえ思える。確かに長時間座っているのは大変と言えば大変ではあるのだが、長年の修行のお陰と言えるかもしれないが、読みたい本さえあれば、6時間くらいは平気である。平均すれば2時間に一回くらい乗り換え待ち合わせ時間があるので、その間にトイレ他気分転換ができる。手前みそではなくそのような旅ができるのは、健康であるからこそなのはいうまでもない。 その様なわけで、4日間のあいだ2日間は在来線の中、兄の家にいたのは丸二日であった。初日まずはお墓参りを済ませ、兄と二人で終日日南海岸(なん十年ぶりにドライブしたがお天気に恵まれ最高でした)ほか、この数年ほとんど足を延ばしたことがないエリアをドライブした。 兄は昨年、ステージ4の腎臓ガンを告知されているからだなのだが、幸い治療の効果が出ていて、進行が押さえられていて、すべての行程を運転した。兄は傘寿、77歳である。告知されて以後、毎回ある種の覚悟をもって、一期一会のふるさと温泉入浴ドライブ小さな旅を続けている。お昼は兄の好きな鰻を食べた。宮崎は鰻の養殖が盛んで、兄は鰻が美味しい店をたくさん知っているので案内してもらった。3700円の定食、大満足した。午後3時近く、もう都城の近くにある古い渓谷にあるひなびた温泉に二人ではいった。露天風呂からのせせらぎの音、緑の眺めが染みた。 夜は日向市の繁華街にある、とある兄が昔飲み歩いた店が並ぶ一角にある、小さな焼き肉の店で、兄がご馳走してくれた。私は4種類の肉をいただいたが、すべて美味しくご飯をおかわりした。昼も夜ももういちど行ってみたいと思わせるに十分なお店で私は大満足、兄も嬉しそうであった。 翌日月曜日、義理の姉の美味しい朝食(純和風でいうことなし)をいただき、少し休んで熊本は阿蘇の麓ににある田楽の里に案内してもらった。義理の姉も同行。着いたのがちょうどお昼。そこは茅葺き屋根の完全炭火焼き囲炉裏の里で、本家と別棟がありいずれも家の中が相当に広く、数十台の囲炉裏が備え付けてあり、お昼時ほぼ満席、平日なのに次から次に遠来の客が押し寄せ、若いカップルから、家族連れ、一人の男の老人、親子、外国からの10人近い予約団体まで大勢のお客が押し寄せていた。 何せすべての囲炉裏に火が灯っているのだから暑いのである。クーラー、扇風機がフル稼働、はだか電球の大きいのが灯っているのみで全体的に明るくはない。何やら宮崎駿さんのアニメの世界に迷い込んだみたいであった。働いている人がこれまた昔風の和風の庶民が来ていたような衣服で、懐かしい私の原風景、中世の里に長く働いていた私としては、いっぺんに気に入ってしまった。私だけビールを一本のみ、田楽の定食(2800円位だったとおもう)をゆっくり雰囲気を堪能しながら完食した。 食後、義理の姉の好きな場所、ヒゴダイというアザミに似た植物が群生する雄大な阿蘇の風景が望める公園に連れていっていってもらった。ここがまた素晴らしかった。長くなるのではしょるが、義理の姉から、いろんな野生の花ばなの名前を教えてもらった。姉は若い頃高山植物を見るために山登りをしていただけあって花ばなの名前に詳しい。私もようやくそういった野生でけなげに咲いている花ばなにゆっくりと眺めいることの格別に思いを馳せるようになってきたのはやはり年の功だと思える。この感覚をこそ大事にしたい。
その雄大な絶景をあとに帰路は大分に入り、いつものように温泉に浸かり、午後7時過ぎ家に着いた。ちょっと遅めの夕食、姉登紀子さんが手早く私の好きな宮崎の餃子(市販のものだが、宮崎は餃子が美味しい)他4、5品あっという間に拵えてくれ日帰り旅を終えた。丸二日あちらこちら連れていってもらい、まさに命の洗濯がまたもや叶った帰省旅の出来事を、忘れない打ちに打っておく。 火曜日、朝6時10分、延岡発の在来線でふるさとをあとにしたのだが、登紀子さんが、おむすび5個、唐揚げ、卵焼き、うまい沢庵のお弁当を持たせてくれた。佐伯、大分と乗り継ぎ、中津に10時20分に着いて、小倉行きの待ち合わせ時間、ベンチでゆっくり早めの登紀子さんのお弁当をいただいた。と、そのときに一人の若者を見かけたのだが、よもやまさかの意外な展開が、この後起こることになるとは思いもしなかった。 人生は一度きり、この年まで生きてきて今さらながらにおもうことは、出会うことの、縁の不思議である。その若者とのこと、前回ちらりと打ったが、改めて明日打ちたい。

2023-08-29

ふるさとから岡山に向かう、在来線の車中で、爽やかな青年と出会い。車中で五十鈴川だよりを打つ。

 青春18切符の車中で初めて五十鈴川だよりを打っている。3拍4日のふるさと帰省旅旅を終えて岡山に向かっている。現在地は山口県の富波というところで停車している。

なぜ急に五十鈴川だよりを打ちはじめたかというと、一人の18才の高校生で同じく青春18で旅をしている青年とであったからである。旅は道連れ世は情けというが、このような人との出会いが、極めて少なくなった時代、まれなことである。

写真が大好きな好青年との、急なにわか徒然旅を老いつつある私は意外や意外楽しめているのはこの青年のあまりなまでの、爽やかな風のような対応ぶりにすっかり参ってしまったからである。

青年はあっという間に、スマホにさわり、五十鈴川だよりが打てるようにしてくれたのである。台がないので打ちにくいのだが、ほんのちょっと記録記念に打ちたいのである。樹(いつき)というのだが、いい名前である。

大分の中津くらいから共に汽車を乗り継いできたのだが、どういう風な訳か、彼の方から声をかけてきてくれたその事が、じつに意外で嬉しかった。

このようなことは滅多に起こらないので、わずかであれ。一行でも、この夏の終わりの思い出に打たずにはいられない私なのである。

たぶんこのようなことは、きっと偶さかにしかおこらないであろうから、この先この青年がどのような人生を歩むにせよ、私としては交遊を続けたい気になっている。その事がたぶんわたしに五十鈴川だよりを打たせるのである。

彼さえよければ、世代を越えて君子の交遊を続けたいのである。彼がこの夏の旅で撮った写真をわずかだが見せてもらったのだが、素晴らしい。彼がお声かけしてくれたので思わぬ、五十鈴川だよりタイムとなったが、縁はいなものあじなものという他はない。

即興老春五十鈴川だより。妙な一文であれ、打たずにいられない私がいる。情熱の欠片が未だあるという証だと、想う。ともあれ世代を越えた関係性が始まる。


 


                 

PHOTO: 竹村 樹



2023-08-20

猛暑の夏、ギリシャ悲劇、ソフォクレス作、オイディップス王を演出した石丸さち子さんと40年ぶりに再会、そして想う。

 お盆を過ぎても相変わらずの猛暑が続いている。私なりに猛暑のやり過ごし方を考えてはいるにしても、正直もううんざりしている。が、生きねばならない。そのような日々のなか、思わぬことが起こる夏である。

昨日午後2時半から兵庫芸術文化センターで行われた【石丸さち子演出のギリシャ悲劇の最高傑作といわれるオイディップス王】を見てきた。なぜわざわざ観に出掛けたのか。石丸さち子という名前を新聞紙上で見つけたときに、ひょっとしたら、シェイクスピアシアターの同期生で共に芝居をしたことがある、あの石丸さち子さんであるかもしれない、と思ったからである。結果はやはりあの当時の記憶しかない石丸さち子さんであった。

何せ40年近くお会いしたことがないのに、会ってくれるかどうかもわからないのに、いきなり劇場に訪ねても失礼にあたるかもしれないという気もしたのだが、この機を逃したら、という気持ちのほうが勝って、開演前、楽屋口から私の名前を出してお会いしたい旨を伝えると、腰の柔らかい有能な女性のマネージャーのかたが出てきてくれて、わざわざ遠方から来てくださり、とお礼を言われ、リハーサルを終えたら石丸が会うと言っております、と告げられた。

その瞬間、来てよかったと心から思った。その上チケットは完売であったのだが、たまたまキャンセルが一枚出たその席を私のためにあてがってくださったのである。開演前客席に座っていると、日高さんと、私を呼ぶ声が通路から聞こえてきた。40年ぶりのさち子さんであった。ロビーで寸暇立ち話(当時まだ彼女は早稲田大学の学生ではなかったか)演出家として見事に大成された、石丸さち子さんとの再会が叶った。紆余曲折、お互い苦楽の果ての再会は、同時代を熱く生きたものだけが味わえる喜びである。

遠いところよく来てくださったとお声かけしていただき、恐縮しつつも嬉しさが込み上げてきた。大人の女性になられていた。再会の握手をした。私のほうがずいぶん年上だったので、当時ずいぶん生意気な口を利いたかもしれないのに、柔らかく暖かく対応してくださった。東京公演以外は兵庫芸術文化センターだけ、千秋楽でてんやわんやの最中、寸暇わざわざ会いに来てくれたことが本当に嬉しかった。電話とメールのアドレスのメモをいただき、東京での再会を約束した。

開演前の舞台

私はギリシャ悲劇として名高い、ソフォクレス作、オイディップス王を石丸さち子演出で初めて観劇した。昔ともに芝居をしたことのある仲間が、大輪の華を咲かせたとでもいうしかないほどに演劇人として立派に成長したお仕事をされていることに感銘を押さえることができなかった。

正攻法の演出で戯曲を読み込み、奇をてらったところがなく、私の知らない三浦涼介という俳優さんが主役のオイディップスを演じたのだが、徐々に彼の演技に引き込まれた。演技人のチームワーク、アンサンブルがとてもよく、演出家が自然に俳優の良さを、力を粘り強く引き出しているのが、私には伝わってきた。

現代の俳優がオイディップス王のおかれた苦悩を全身で表現し、現代劇としてよみがえり、それを私は観ることが叶った喜びを、五十鈴川だよりにうたずにはいられない。これからの彼女の演出家としての仕事が楽しみである。今後、石丸さち子さんのお仕事は可能な限り、見届けたく想う。

2023-08-15

出口治明先生に学ぶ猛暑の夏。(独学は老いを豊かにする、居ながらにして学べる)

 台風が近づいている。従って今日は労働仕事はおやすみである。こういう日はただ静かに生活し、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。

話は変わる。このコロナ禍の3年以上で、私自身の生活のなかで以前とはちょっと異なる変化のひとつは、本を読む種類がいくぶん変わったことがあげられる。人生の残りの持ち時間を、どうしても意識するので、これまであまり手にしなかった分野の本も読むようになってきた。それはこの十数年かなりの時間手にしてきた佐藤優さんの本の影響が大きい。本は次の本を呼ぶ。

というわけで、出口治明先生(私にとっては先生と呼ぶにふさわしい)の仕事に効く教養としての【世界史】という本を読み終えたばかりである。昔だったら、仕事はとうにリタイヤしているから手に取らなかったと思うが、教養という言葉に引かれて手にした。正解、教養という言葉を凌駕してあまりあるほどのあまりの博覧博識に一驚した。読み進めながら何度も感嘆した。

この本は2014年に出版されている。出口治明先生がお話したことを優秀な編集者がまとめた本なので実に読みやすく、読み出したら一気に引きずり込まれ、時間を見つけて3日ほどで読み終えた。

目から鱗、蒙が開かれるとはまさにこの事である。そのいちいちは割愛するが、第6章のドイツ・フランス・イングランド、3国は一緒に考えるとよくわかるというところを読むと、シェイクスピア作品にヘンリー6世三部作があるのだが、じつによくわかるのである。この作品は英国とフランスとの100年にわたる、俗に薔薇戦争を題材に描いた長大な作品であるが、その時代の地理的、政治的時代背景がわかれば数倍楽しめる。(異国の私にも人間ドラマとしても十分に楽しめ、現代にも十分に通用する普遍的な作品)

出口先生が理路整然と表にして図形かして説明してくださると、がぜん分かりやすく、なるほどなるほどとと府に落ちるのである。そして時おり関西弁でユーモアを交え、日本の歴史に置き換えて説明してくださるので分かりやすいのである。

先生は学者ではない、長く大企業の第一線で体をはって仕事をされてきた方である。企業で働く傍ら、独学で人類5000年史を独自の視点で学んでこられ、読書と旅が趣味の、私に言わせれば達人的な生き方をされている方である。このような先生に、無知がバネの私は一度でいいから学んでみたい。

シェイクスピア作品には、イタリアやギリシャ他、シェイクスピアが実際に生きた時代よりももっと昔を描いた異国の作品が多く、多くの国々の地理地名が出てくる。ひとつ例をあげるといわゆるルネッサンス以前の大航海時代が、どういう時代であったのか、私のような無知な輩にもすとんと落ちるのである。

そのアウトラインを知って【ベニスの商】を読むと、シャイロックのおかれていた苦悩が一段と理解できる。(気がするのだ)宗教の成り立ちや、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の変遷の歴史についても、簡潔に述べられていて、私のような輩には本当に、世界史の入門書として最適の本に出会った、喜びに満たされる。この歳になって、今更ながらの無知の洗礼を浴びている私である。

出口先生に学ぶ猛暑の夏

だが、遅いということはない、と自分に言い聞かせている。またひとつ私のなかでの世界史の扉が開かれた喜びが私の体を浸している。この感覚があれば、まだまだ学べるという喜びがわいてくる。要は自分の人生は自分で学んでゆくことが、面白いのである。

長くなるのではしょるが、先生はライフネット生命を創られた方である。そして現在はとある大学の学長をなさっている。このような方がおられ、独自の視点で世界史を学びなさいと、説いておられる。紆余曲折、万事塞翁が馬、いきる叡知の入門書として複眼的に学べる、まれな本に猛暑のなか出合えた幸運を五十鈴川だよりに打っておく。

2023-08-13

次女の子供葉くんとつかの間の夏休みを、海とプールですごせたことに感謝する五十鈴川だより。

10日午後やってきた次女夫婦と2歳になった孫の葉君が、昨日午後5時過ぎの飛行機で帰京した。

我々老夫婦は、この間密に葉くんとのつかのまの2日間を過ごした。一昨日は玉野の入り江に設けられた海水浴場で(娘は幼馴染みと再会交遊)旦那さんの周さんと我々4人で、午前中お昼近くまで、葉くんと遊んだ。初めての葉くんとの海水浴、もちろん葉くんにとっては自分の足で胸まで海水に浸かりながら歩くという体験は初めてである。
葉くんの・命を浴びる・老いの夏


その場におじじとして立ち会うことが叶って、私としてはつかの間の幸福感に酔った。私は娘二人しか育てた経験がないので、男の子の扱いはまるでわからないが、そこは男同士私なりのやり方で、自然体でいつも葉くん望晃君と遊んでいる。

妻はもっぱら写真と動画で記録係、私と周さんとで葉くんのお相手をした。そのいちいちを私の文章力では到底表せない。一言爺バカ承知で打っておきたい。葉くんは好奇心がいっぱいで、最初は恐る恐るであったが数十分もしないうちに自分の足で歩くようになった。未知との遭遇、好奇心が人間を育てる、と私は確信する。

そして昨日午前中、朝一番お墓参りを済ませ、再び(むすめは家で昼食の準備、天ぷらをあげ素麺をゆでてくれていた。午後イチ大学の友人宅にゆく予定があり別行動)我々4人で長船にあるプールへ。9時過ぎについたらなんと我々氏かおらず、約一時間以上ほとんど貸しきりで、幼児用プールで葉くんのお相手をしながら、時おり大人用のプールで泳ぎ、妻もともにプールに入り、葉くんと遊んだ。

葉くんはプールがすっかりお気に入り、時間が来たのでプールから上がろうとすると、泣いて周さんを困らせた。夢中になって遊んでいるのを中断させられたのであるから、泣いて抗議するのは当たり前である。が仕方がないのである。こうやって葉くんは成長してゆくのである。

午後3時、岡山の友人宅で娘をピックアップして空港まで行き、次女家族を妻と見送った。この慌ただしくも楽しいひとときは瞬く間に流れてゆき、葉くんの笑顔泣き顔しぐさのいちいちが今も脳裡をめぐる。その帰りきぬ2才の輝きの一瞬を、わずかでも五十鈴川だよりに打たずにはいられない、お爺である。

数年前には存在していなかった命。そして今2才の命を眩しく浴びる老いゆく私。その摂理、命の循環の有り様を、私は蝉時雨を聴きつつ静かに受け止めている。そして想う、一年でも長く孫と遊べるお爺であるべく、老いをいかに生きるか自分に問うのである。

PS 父親である周さんが(長女の旦那さんも)実に豆に葉くんのお相手をしていることに、私は感動を覚えた。

2023-08-11

次女夫婦が昨日帰省しました。老母にわかに活性化、そして想う8月11日の朝。

 ひさしぶりに余裕をもって五十鈴川だよりが打てる、夏の静かな朝である。昨日午後次女夫婦と先月24日で2歳になったばかりの葉君がやって来た。というわけで一気に我が家は葉君中心に賑やかになり、91才になる義理の母が、ことのほかの喜びようで活性化、夕刻葉くんのお相手をくたびれるであろうに、しっかりと楽しんでやっていたことに、驚かされた。

2歳になったばかりの葉君の後ろ姿

その事は老いてゆくなかで、ある種の喜びをいかにキープして行くことができるのか、個人差があるとは思うのだが、我が母の振るまいには心が動かされ、葉くんの存在がいかに老いてゆく人間に与える大きさを、感じないではいられなかったことを、打っておきたい。

さて話題を変える。梅雨が明けてからのこの猛暑、(これからも続くだろうが)を今のところ、肉体労働を続けながら、自分のやりたいこともやりながら、充実した夏を過ごせている。

報道では熱中症という言葉を聞かないことがないくらいであるが、私はあくまで自分の体の声を聞くように心かけ、とにかくよく食べ、よく休むようにしている。以前も打った記憶があるのだが、ことさらな暑さ対策はしていない。特に私は肉体労働者であるので、家族はとても心配してくれる。

その事はとても有り難く受け止めているが、私はこの年齢で、動けて働ける場があることに、言い知れぬ喜びを日々感じながら働いている。もしこの場がなかったら、きっと私はオーバーではなく生き甲斐のひとつが失せてしまうほどの打撃を受けるに違いない。

だが、特にコロナ禍に入ってからの3年間以上、天空の下今も働いていられることのありがたさは、言葉では言い表せない。遠い将来きっと肉体労働者であることは諦めなくてはならないだろうが、そのときはそのとき、きっぱり諦められるように、今をしっかと生きて働くのである。

五十鈴川だよりを打ち始めて12年目に入っている。12年前、娘たちはまだ学生であったし、当たり前孫も私にはいなかった。(今私は3人の孫に恵まれている)これから私にどれ程の人生時間が与えられているのかは神のみぞしるであるが、私はもうほとんど先の人生に思いを馳せることはなくなってきている。一年一年をいかに生きるのか、生きないのかという念いしかない。

もっと打てば、一日一日、与えられた命を気持ちよく大事に生きたいということのほかに、もうなにもないのである。限りあるエネルギーを大切に、孫や家族、友人、私にとって大切な人たちとの時間を最優先に、生きたい。

と、まあ今朝はこのような五十鈴川だよりになってしまったのは、きっと91才の母の振るまいを見て、いつの日にか自分もあのように振る舞いたいと思ったからである。

2023-08-07

飯田から帰ってきたばかり、だが、徒然わずかであれ五十鈴川だよりを打つ。

 昨日8月5日、飯田人形フェスティバルに参加している、桑江純子、良健夫妻が主宰するかじまやの【チョンダラー】の公演が午前10時半、午後2時半2回飯田市内から車で約10分位のところにある、鼎文化センターで行われた。

来年春企画することにした

私はスタッフとして9時半に入り、2回の公演を見届け、午後4時過ぎ無事に、滞りなく公演が終わった。終了後、裏方として舞台のばらしを手伝った。舞台上の片付けを終えたら午後6時を回っていた。

(桑江ご夫妻と安田さんは20年も、最小のスタッフでチョンダラーの公演を続けて来たのである。ほんのちょっと裏方を体験してその事に脱帽せずにはいられなかった)

公演した鼎文化センターから移動、近くにある、桑江良健さんのパリ時代の友人Kさん(なんと45年ぶりの奇跡的再会をした方)の息子さんがたまたま飯田でやっている素敵なイタリアンレストランで、身内だけの打ち上げが行われた。

それにしても、停滞する台風の最中、夫妻を乗せた飛行機が飛び、中部国際空港から電車で名古屋に出て、そこからバスで飯田へ。奇跡的という他はない偶然の神のお導きで飯田での公演が実現したこと、そしてその事にたまたまご縁があって、立ち会うことができ、見届けることができた幸運、なんと形容したらいいのかわからない。

桑江ご夫妻と安田さん(出演者でもある)Kさん、そして私の5名での打ち上げは、オーバーではなく奇跡的なお導きで実現したとでもいう他には、言葉がなく、桑江さん御夫妻の、まさに感無量の歓喜の表情は決して忘れることができない。

上記の一文は、昨日朝宿泊していたシルクホテルの部屋で早朝打ったものである。ここからは家に戻ってきて打っている。昨日はその後桑江ご夫妻と来年春岡山でチョンダラーを企画したくなったことを直接伝え、2時間以上話し合いをした。(このことに関してはまた後日打ちたい)午前中は川本喜八郎人形美術館(初めて知った)にいったり、昼食を共にしたりした。午後はさすがに疲れが出てホテルの部屋でお昼寝をした。

午後6時、昨日と同じKさんの息子さんがやっているイタリアンレストランで、桑江純子さんが親しく信頼している飯田人形劇センターのG氏、照明担当のS氏との夕食会に私も誘われて参加し、実に有意義で楽しい時間が過ごせたことを五十鈴川だよりに記しておきたい。

今日はホテルで朝食を済ませ、7時半の飯田発のバスで名古屋に出て、そこからは青春18きっぷで西大寺に帰ってきた。正直まだ飯田ボケの状態なのではあるが、3泊4日の飯田人形劇フェスティバルに参加した、かじまやのチョンダラーの公演に裏方として参加し、桑江ご夫妻とすごしたこの夏の強烈な体験は、生涯の晩年の宝の思いでとして決して忘れることはない。


2023-08-05

8月4日、奇跡的に沖縄から飛行機が飛び、昨夜桑江ご夫妻飯田にはいる。

昨日早朝岡山を発って、新幹線で名古屋に。そこから名鉄バスで長野の飯田に向かいお昼に着き、駅前のホテルが一室空いていチェックインした。


飯田に来たのは、知り合って30年近くなる、桑江良健、純子さんが主宰する人形劇団かじまやあが、飯田人形劇フェスティバルに参加するので、それを見るためである。

予定より一日早く来たのは、台風で参加することができるかできないのかが、危ぶまれるなかでなにかお役にたてることがあればとの思いで飯田に来たのだが、結果、昨夜中部国際空港から桑江夫妻が無事に飯田に着いて、チョンダラーの舞台の仕込みを終えたのが午後11時だったとのことである。(公演会場に着いたのが、午後八時過ぎ、すぐそれからリハーサルをされた。

(私はちらっと御夫妻の無事の到着を見届け、じぶんが泊まるホテルに引き上げた)

さて、今私は五十鈴川だよりを飯田のシルクホテルのロビーで、朝食後(良健さんと、スタッフの安田さんと一緒に朝食ができた)つかのま記録の意味もかねて打っている。いきなり飯田に入り慌ただしく一日をすごし、いよいよ今日は午前と午後2回チョンダラーの公演があるのを見届け、舞台のばらしを手伝うつもりである。

何はともあれ、奇跡的にあの台風のなか飛行機が飛び、桑江夫妻が飯田にこれ、公演が実現する。その事に立ち会え、これからの飯田で過ごせる時間の、まさにドラマチックな展開が、いうに言えないワクワク感をもたらしている。

普段の日々とはちょっと異なる非日常時間を、どこか旅人感覚でわがままに楽しみたいと私は思っている。飯田、初めて来た。人口10万人、まだ一日しかたっていないが、岡山の私がすんでいるところとは、まったくといっていいほど風景が異なる。桑江夫妻がフェスティバルに参加することがなければ、来ることもなかったかもしれない。広い盆地のなだらかな傾斜が広がる町である。もちろん回りはかなりの標高の山々が連なる。空気がおいしい。

3泊4日の小さな旅、ってな感じで非日常時間を、言わば自由をからだいっぱいに鋭気を取り込みたい。さあ今日はどんな一日になるのか楽しみである。


2023-07-31

老いの身体を活性化する真夏の読書を、ちびりちびり持続する。


7月最後の一日である。先週金曜日で7月の労働は終えたので、今日月曜日は労働はなし、したがって毎度の五十鈴川だよりタイムである。シェイクスピア作品の循環音読以外にも、当たり前だが私はいろんな本を読んで、日々の生活を送っている。

またか、思われる向きもおられるかもしれないが、私は速読ができない。せっかちな性格であることは自認しているが、せっかちであることと本を読むことが早いことは一致しない。ただ以前にもまして、本を読むことが(老眼でめがしばしばするにも関わらず)楽しくなってきているのは事実である。
人の砂漠、沢木さんの本には刺激を受けた


本さえあれば、猛暑でも耐えられるくらいの集中力でもって、本が読めている今年の夏である。これは乱読であれ継続してきたからこそ与えられた喜びなのだと思う。若い頃、遊ぶことにかまけて、文庫本の文字を追うのがあれほど苦手であったのが、嘘のようであるが、事実である。

というわけで昨日、一昨日と買い物と菜園場以外はどこにも出掛けず、家で集中的に本を読んで過ごした。午前中はじっくり読む本、午後は気楽に読める本。私がこの10数年もっとも手にしている佐藤優さんの本と、ひさしぶりに手にした沢木耕太郎さんの本である。

自分の読書が片寄っているのではないかという自覚はあるのだが、こればかりは直感が働くというしかない。今現在の私の日々の生活に何らかの知的刺激、潤い、感動をもたらしてくれるような本を選んでしまう。もうそれでいいのである。

時間は有限なのであるから、チェーホフの作品も今後繰り返し手にするだろう。音読にせよ、黙読にせよ、体力持続力がないと無理である。好きだからこそ、体が喜ぶからこそできることである。無知の蒙が開かれ、想像力が刺激される。未知の世界へと誘われる。身も心も活性化される。これこそが読書の醍醐味である。

二十歳の時に読んだ、中野好夫訳によるチャップリンの自伝から、本格的に読書に目覚めた私である。すべてのことに関して気付きが遅い私ではあるが、何とか右往左往ここまで生きてこれたのは、ささやかに本を手にしてきたからである。(としか言えない。本を読むこと、言葉に出会わなかったら、と思うとゾッとする)遅きに失した感がぬぐえないが、年のことは気にせずちびりちびり、草を抜くように、季節によって老いの体が活性化するような読書を、古典を中心に続けたい。生きているからこそできる、今やれることに悔いなく集中したい。






 

2023-07-29

シェイクスピア作品の音読に再び挑み、猛暑を乗りきる私の夏。

猛暑の夏が続いている。蝉時雨の音が今も我が家の回り、かまびすしい。が、お陰さまで私は五十鈴川だよりを打てるほどに元気である。それはたぶんに普通に老いてゆくなかで、色々とやりたいことの焦点を、今年から本格的に絞り、やれることのみに、エネルギーをかたむけるようになったからだと思う。


さて、急にやりたいことの焦点を絞った果てに、これから忙しくなりそうである。第一弾、夏休み、小中学生対象のシェイクスピア音読ワークショップを8月から毎週水曜日、午後2時から4時までやることにしたからである。(場所は吉備路文学館他検討中)テキストはシェイクスピアの【間違いの喜劇】である。
色々な日本語訳で読めるのが楽しい

相も変わらぬコロナ禍ではあるのだが、我が人生の有限を噛み締めながら、老いを見据え覚悟を決めたのである。気のすむまで済むまでやろうと。

おそらくNさんのような協力な助っ人が、理解者が現れなかったら、こういう事は実現の方向にはむかわなかったであろう。そういう意味で、手前勝手に私は運の強さのようなものをどこかで感じている。まずは一人でも参加者がいれば、私はやる。

昨年暮れ10数年ぶりに交遊が一気にひょんなことから再開し、多嘉良カナさんのポスターデザインを無償でやってくださり、夜間中学でのシェイクスピア輪読の扉を開いてくださったNさんが、7月のはじめ久方ぶりに私との話し合いのなかで、私の色々な思いを受け止めてくださりい一気に事を進めてくださっているからである。8月はすぐやって来る、がはじめる。

それと、親友が69才にしてシェイクスピアの音読を始めた事が、私にいうに言われぬ新たな情熱の発露を促しているのは間違いない。親友から先日メールが来た。8月岡山でレッスンを受けたいと。私とのレッスンのために新幹線🚅でやって来るというのである。

あとにも先にも親友とレッスンしたのは、日比谷公園での雨のなかでの二日間の、路上レッスンのみである。もちろん私が上京するときには、わずかではあれレッスンするつもりではいたが、岡山までやって来るとは。意表をつかれるとはこの事である。親友は、私が音読レッスンをしないのはもったいないとまで言ってくれたことが嬉しく、やる気に拍車をかけているのである。

私は、自分でいうのも気が引けるが、遊声塾を立ち上げた頃とは全く異なった自分がいるような思いにとらわれている。長くなるので割愛するが、70代のこれからは、60代とは全く異なるレッスンがやれるような予感がするのである。だからやりたい。そのレッスン感覚は雨の日比谷公園路上ライブレッスンでにわかに私のなかにもたらされたのだ。

ヒントは親友が与えてくれたのである。シェイクスピアを理屈ではなく、400年も前に書かれた、かくも魅力的な登場人物が、あたかも今生きているかのように音読する醍醐味、それを面白がって音読するかしないかによって、現代人の我々身体は喜び豊かに変化する、とでもいうしかない事実の気付きである。

そしてその事は、いかに自分自身とういうかけがえのない器を大切に、生きるのか生きないのかという、きわめてシンプルな気づきにあったのである、シェイクスピアのあまりにも人間らしい絶対矛盾的つきぬ言葉の泉は、複雑な現代人の心も揺さぶる。

新しい翻訳日本語の素晴らしさを、己の身体で無欲無心に発する愉しさを。私も親友も見つけたのである。言葉でキャッチボールをするようにただプレイし、今を遊ぶのである。



































































































































い。

2023-07-23

運動公園のヒマラヤ杉の木陰でシェイクスピア作品【冬物語】を音読する日曜日

朝一番 、昨日に続いて菜園場の草取りにいってきた。最近は周に2、3回のペースで五十鈴川だよりを打つことで、自分で自分にエールをいれ、生活に一定のリズムを刻めている。毎週毎週やっていること、やれていることを自己確認するための必須アイテムが五十鈴川だよりなのである。

さて、打つのは初めてだが、今年からNHKのラジオ深夜便を意識的に聴くようにしている。特に朝4時からの明日への言葉という、各界の著名な方へのインタービューが素晴らしい。今となってはもっと早くからラジオ深夜便を聴けばよかったと、思わないでもないほどに、素晴らしい人間が、人がこんなにも存在していることに、驚かされること度々である。

新鮮にシェイクスピア作品に向かい合う夏

特に私が驚かされるのは、私より年長者で、あまりにも素敵に年齢を重ねておられるかた方が何と多くいらっしゃるということに対する驚きである。自分という器の狭さに気づかされる。ラジオ深夜便を聴くということがなかったら、知らずにやり過ごしていたかもしれないと想うと、遅蒔きながらラジオ深夜便の明日への言葉に、今年どれ程感銘を受けながら刺激を受け生活していることか。

亡き母がラジオ深夜便を聴いていたことを、今更ながら思い出す。母もきっと今の私と同じように、過ぎてきた人生に想いを馳せながら、老いの日々をしっかと生きようとしていたのに違いない。

心身を奮い立たせてくれるような生き方を、実践してこられた諸先輩の言葉は深いところに届く。今朝も絵手紙を書くことを、大学の授業で若いかたたちに教えておられる、79才になられる渋谷とも子先生のお話をベッドで聞いたのだが、感動した。

感動するとまだ、身体が充電されるかのように元気になる自分がいる。一日の始まりによき言葉に出会って目覚めると、単細胞の私などは終日元気に過ごせる。気に入った言葉は忘れないようにメモる。人間なので体調が優れないときもあるけれど、知恵の泉のように身体のすみに宿っていて、今の私の日々の生活に勇気をくれる。人は真に言葉で活かされるのである。

話は変わる。【ペリクリーズ】の一人ぶつぶつ音読を終え、昨日から【冬物語】のぶつぶつ音読を始めた。週に一作品位ずつ、ゆっくり音読すれば月に4作品は音読できる。シェイクスピア作品循環音読。一日に一時間集中音読。気に入った長い台詞は書写する癖をつける。松岡和子訳は初めて読むのだから、初心に帰って読む。暑い夏を乗りきるのには私の場合これしかない。運動公園のヒマラヤ杉の木陰で音読すれば。頭が涼しくなる

2023-07-22

【梅雨が明け・老いの細道・妻とゆく】

 梅雨が明け、一気に蝉時雨勢いをまし、夏本番がやって来た。今朝少しでも涼しいうちにと、バイト先の菜園場の草取りに出掛け、約2時間ほど汗だくになって草と格闘してきた。手入れをしないと、わずかな菜園場のトマトやピーマン、オクラなどが草に埋もれてしまう。

草取りができない人は、トマト🍅一個でさえきちんとは育てられないのではないか。もうまもなく、このバイトを始めて丸5年になるが、この菜園場のお陰で、草取り修行の甲斐あって、無農薬なので、かなり虫にやられるのだが、老夫婦には十分足りるほどに愉しみながら恵みをいただいている

今朝収穫したミニトマト

さて、戻ってみずを浴びさっぱりしての五十鈴川だよりタイム。この間から書斎の片付けと寝室の整理整頓、それと衣類の整理整頓を妻のお陰で無事に終えることができ、寝室空間、書斎空間以前にもまして居心地がよくなった。居心地のいい場所があれば、もうこの歳になれば私などは満足である。

中世夢が原退職後丸10年が経つ。この間の家族の変化は目まぐるしい。一口に10年、おおよその変化の流れが五十鈴川だよりに記されている。よたよた打ち続けたからこそ、いまがある(のだ)。臆面もなく充実した10年間であった、と打っておこう。

あっという間に古希を通過などと打てるくらいに、お陰さまで元気に夫婦ともども生活できていられれる今に喜びを感じ、それをのうのうと打てる厚顔無恥を、私は生きている。もう古希を過ぎているのだから、ありのままに老いの細道を悠々自在に生きるのである。

妻の意外な一面というか、特技に、生活してゆくなかでの日々の創意工夫がある。このところ体調がいいということもあいまって、私の苦手な整理整頓、見てはいられないと思ったのか、一気呵成にやってくださったことにたいして、私はある種の感動を禁じ得ない。

これ以上打つと、老いらくのなんとかと、誤解されるといけないので控えるが、人間は老いつつも思わぬ変化、意外性、成長を見せるという事実に、初めて経験する未知のゾーンのプラス面を知るのである。お互い様の相乗効果で、老いゆくパートナーとしての妻の変身ぶりに(もとからあった資質が顕在化してきたとしか思えない)感動するのである。

お陰で老いの細道時間、ゆっくり動きながら、よく休みながら、好きなことだけに熱中して過ごす夏である。




2023-07-16

いよいよ猛暑の夏到来、知恵を工夫して夏を乗りきる覚悟を想う朝。

 居座る梅雨の前線が九州はじめ、列島各地に、今も秋田や東北エリアでは水害のニュースが伝えられる。経験したことのないことは、悲しいかな推し量りようもない。一寸先の事は、これだけテクノロジー、文明の総叡智でさえ予測がつかないのだから、手の打ちようがない。(我が身にも十分に起こりうる)

読むたびに発見がある

ひるがえり、我が暮らしは、つましくもたんたんと老人生活が遅れていることに、感謝の日々である。年と共によほどのことがない限り、でかけなくなってきた、この3連休もほとんど家からは出ず、主に室内で静かに過ごしている。(音読は早朝の涼しい時間運動公園でやっている)昨日も先週の続きで、部屋の整理整頓、机を交換したりして、机、ベッドの位置も変えた。すべて妻の指導のもとに行ったのだが、ずいぶんさっぱりと片付き、居心地のいい空間になった。(学ぶことが愉しい)

机の位置が東向になった。因みにこの机は渋谷の東急百貨店で買ったもので、40年以上使っている。値段ではなく、愛着がある逸品である。電気スタンドも富良野で買ったもので、ちょうど丸40年使っている。別に物持ちがいいわけではなく、少々値がはっても気に入ったものを長く使うというのは、今もって変わらない。

着るものもずいぶんと長く使い込んでいる。というのは以前も書いたかと思うが、現在体重が60キロ、2年前手術して退院したときは53キロまで落ち込んだが一年以上かけてもとに戻した。夢が原時代より3キロくらい痩せたので、夢が原時代に着ていた、衣服のかなりは着れるし、ジーパンの類いは、まったくもって買う必要がなく、今もはいている。

貧しかった時代、兄や親友にいただいた衣服の数々は、今もって愛用している。小さい頃の生活で衣服の足りなさに十分に苦しんだトラウマ体験が、いい意味で染み込んでいてなかなかに衣類を捨てられない。妻が整理整頓してくれるというので、お任せすることにした。

健康に生活できて、やりたいことさえできれば、あとはもうこともなしである。有限なる聖なる時間、あるがままに気持ちよく生活できれば、もう私は足りている。今朝も運動公園で、久方ぶりに、シェイクスピア作品、ペリクリーズ一幕を音読したのだが、新しい一日を新しいからだで音読する、楽しい。意味もなく体が喜んでいるのが、分かる。

老いつつも、日々新しいからだ、細胞で音読する、贅沢な時間の過ごし方である。足りているということの感覚の深まりは、世代と共に薄い膜が積み重なって、ある日突然体に舞い降りてくる、(ように最近感じる)

言葉・言葉・言葉。からだ・体・身体にしがみつく、私の夏の過ごし方である。


2023-07-12

【間違いの喜劇】イジーオンの長台詞で、本格的にシェイクスピアの魅力的な登場人物を音読する夏。

 労働バイトはお休みである。基本的には水曜日はお休みなのだが、この梅雨の時期は激しい雨のときはお休みしたりするし、上京したりするとまとめて休んだりするので、時間の調節を自分の判断でできるこの労働仕事が、ことのほか私は気に入っている。

話は変わるが、親友がシェイクスピア作品の音読を、果敢にあの年齢から始めた勇気、挑戦に心からの賛辞を送るために、私自身ももう一度まっさらな気持ちで、音読を再開している。

もう十分に小田島雄志訳は音読したので、これからは松岡和子訳、と河合祥一郎訳で、先の事は考えず一年、一年音読を続けたい。同じエリアには住んではいないが、相棒も音読しているかと思うと、同行二人ではないがやる気が出る。

もう十分に生きてきたし、元気に声が出せる時間は限られているのだから、好きな作品の好きな登場人物の長い台詞を、繰り返し音読してゆきたいと思う夏の朝である。で、一番初めに読んでいるのが、【間違いの喜劇】のイジーオンの長い長い台詞である。

シェイクスピアシアターで29歳のとき、最初にもらった大役がイジーオンであった。若造の私がよくもまあ、あの老人イジーオンの一代身の上話を語りきったものである、と今にして思う。

シェイクスピアシアター率いる、まさに鬼のような演出家出口典雄(昨年お亡くなりになった)さんの厳しいダメだし稽古の事は、いまだに忘れようもない。結果、あの稽古を耐えたことで、今振り返り思うと、私はその後の人生を生き延びることができ、簡単には諦めないという腹がすわったのではないかと思える。

だから今、実人生でイジーオンの年齢を迎え、新たな気持ちで、新しい翻訳で一番先に音読するには、間違いの喜劇のイジーオンの長台詞が一番ふさわしいのである。親友の挑戦が私を奮い立たせる。これは45年、人生の半分以上、家族もいなかった頃からの交遊の果てにもたらされた至福の果実、実りのようなものなのだと、謙虚に私は受け止めている。

そしてこの果実は、意外な力を私の生活にもたらしている。それは妻の力にもお世話になったのだが、これまでの生活でなかなかに手放せなかった資料や、個人的に大事にしていた、品々のかなりをこないだの日曜日、思いきって処分したのである。

過去の思い出を大切にしながら、過去の珠玉のような思い出にエネルギーを繰り返しいただきながら、これからの未知の時間を泳いでゆくために、限りなく身軽でありたいと思うのである。ふるさとでの行脚、そして親友の新たな挑戦が、過去の荷物の処分をさせたのだ。

ひまわりが・一輪咲いて・夏が来た

だから今私はスッキリしている。身も心も軽やかな老人感覚に浸っている。このような感覚が老いの体に満ちるとは、思いもしなかった。人間という動物は動く生き物、今にして思うことは、18才で世の中に出て、動ける範囲は狭くなっては来ているものの、精神と想像力の動く範囲は、若い頃よりも深くなってきているという、認識が私にはある。

老いゆく日常生活のなかで、あのあまりにも魅力的なシェイクスピアが創造した劇的な登場人物を音読できる幸せを、相棒と共に噛み締めたい夏である。