昨日は秋分の日、朝一番妻と義父のお墓参り、その後は終日家のなかで過ごし、午後6時過ぎ運動公園で散歩をかねたルーティンワークで一日を終えた。天上に🌓が。
お彼岸のこの季節、ようやく待ち望んだ秋の気配と共に、しのぎやすい時候となり、私のような老い人には嬉しいという以外に言葉がない。年齢を重ねる度に猛暑がこたえるようになってきているのは事実である。
9月17日、ふくろうハウスにて、H・A子さんと |
だが未だに月に120時間(コロナ禍労働時間が増えた)肉体労働バイトに励んでいられる体力が、この暑さのなかしのいで持続できたことの喜びは、当人である私にしかわかり得ない。69才で手術後、まもなく2年半になるが、動ける体にたいするありがたさがしみる。私は歳寄り移動人間である。
労働と旅、やりたいことが、すれすれのところでうまく時間調整がとれ、4月からこの9月までを、なんとか乗りきれたことの安堵が、今私を静かに五十鈴川だよりに向かわせる。あれほど打ち込んでいたことに興趣が向かわなくなり、それと同時に書写とかこれまでほとんどやっていなかったことに興趣が移ってゆくことが、つまりは老いてゆくことなのであろうと、移り変わる自分に抗わず、従っている自分である。(あきらかに60代の自分とは異なる)
いい歳なのであるから臆面もなく打つが、そんな私がことのほか嬉しいのは、実入りのある生活労働仕事が楽しいからである。古希を過ぎてからの気付きの深まりと共に、年間の季節の変化のなかで、草木と直に向き合い、自分の体と向き合いながら、やれるこの仕事がいまの私にとっては、一番重要で大切である。(家族にとって)
心身の健やかさを持続できるこの仕事は、ただただ自分の内面との対話に終始できるので、人生の下山の季節をいきる私にとっては、かけがえのない場所なのである。足元には日々変化する大地、見上げれば天空、雲の流れ。ときに雨に打たれる。ただただ私は蟻のように安心して動き回る。なにか大いなるものに見守られている安堵感がある。生きている実感が限りなく味わえるまたとない場所なのである。(中世夢が原もそうだった)
大地にひれ伏し、雑草を抜いたりする単調な労働などは以前はやりたくはない労働であったのだが、何かに見守られている安堵感があるせいか、最近は楽しみながら体を動かす術のような感覚が身に付いてきて、すべての労働が楽しめている。健康体だからこその。これが成熟感なのかもとときに思わせる。
コロナ禍の私の手術、術後この2年半で男の子、今年5月女の子の孫が生誕と、わたしにとって禍福が続くなかで、ありがたい、ありがたいという言葉を日々唱えながら私は過ごしているのである。
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