パスポートを使うのは、長女の結婚式でドイツはドレスデンに出掛けて以来だから、本当に久しぶり。来年の6月まで有効だからギリギリ使える。眠っていた旅の虫がむずむず動く体があるのが嬉しい。
おじじの私が読み染みる本 |
この10年、音読や企画など、に随分とエネルギーを使う日々を続けてきた果てに、再び原点である旅に、これからの時間、重きを起きたいという気になってきたのは、やはりこのコロナ禍での思索思索とその渦中生まれてきた、新しい命、孫たちとの出会いが大きいと思う。
そのことを今朝の五十鈴川打よりで、打つことは時間的に不可能だが、自由ということの素晴らしさを孫たちにあらためて再認識させられたのが大きいと思う。この年になると、あらゆるしがらみに、ややもするとからめとられそうな不自由を感じてしまう。年齢は関係ないのだ。気持ちに正直に生きるのである。
今後は自由感覚を最優先、義理を欠いてもしようがない、というスタンスで、秋風を浴びに旅行かばの気持ちで、五十鈴川だよりに向かう朝である。夜の出港なので下関までは、本を片手の鈍行旅である。下関発のフェリーで釜山に行き3泊、もどりもフェリーである。昔一度下関釜山往復フェリーにのって以来だから、ずいぶん昔のことである。
あれ以来だから、老いたりとはいえ、どこかワクワクそわそわする自分が未だいることが嬉しい。孫たちは天真爛漫、自由自在の極致を生きている。その事が私にエネルギーを注ぐ。万分の一でも孫のように自由に風に当たり、老いゆく下山旅で体に新鮮な風を入れたい。ただそれだけである。
フェリーで一泊、釜山の宿に3泊し周辺をぶらぶらするだけのあてのない旅である。出来るだけ余分な情報は入れず、ガイドブックも持たないのは、若い頃から変わらない。情報は体で、足で得る。旅で出会った一期一会の匂うヒトからの情報をこそ起点にして動く旅。リアルな虫のようにうろつく旅がわたしは一番楽しい。
そのためには普段から動き回れる最低の足腰をキープしていないと、旅はまったくといっていいほど、わたしの場合つまらなくなる。歩ける範囲は狭くても孫たちはまったく退屈しない。無理しないで休み休み釜山の人間のすむ町を歩く、ただそれだけの旅である。そのなかで溜まりになまっている精神の紋切り型を洗えれば、と夢想するのである。
大昔からヒトは旅をする。古希を過ぎ、可能な限り、すべてをリセットするにはわたしの場合旅が一番、それしかないのである。単独で見知らぬ人たちが暮らす異国の町を歩き回り、思考しないと、ボケる。(のだ)
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