労働バイトはお休みである。基本的には水曜日はお休みなのだが、この梅雨の時期は激しい雨のときはお休みしたりするし、上京したりするとまとめて休んだりするので、時間の調節を自分の判断でできるこの労働仕事が、ことのほか私は気に入っている。
話は変わるが、親友がシェイクスピア作品の音読を、果敢にあの年齢から始めた勇気、挑戦に心からの賛辞を送るために、私自身ももう一度まっさらな気持ちで、音読を再開している。
もう十分に小田島雄志訳は音読したので、これからは松岡和子訳、と河合祥一郎訳で、先の事は考えず一年、一年音読を続けたい。同じエリアには住んではいないが、相棒も音読しているかと思うと、同行二人ではないがやる気が出る。
もう十分に生きてきたし、元気に声が出せる時間は限られているのだから、好きな作品の好きな登場人物の長い台詞を、繰り返し音読してゆきたいと思う夏の朝である。で、一番初めに読んでいるのが、【間違いの喜劇】のイジーオンの長い長い台詞である。
シェイクスピアシアターで29歳のとき、最初にもらった大役がイジーオンであった。若造の私がよくもまあ、あの老人イジーオンの一代身の上話を語りきったものである、と今にして思う。
シェイクスピアシアター率いる、まさに鬼のような演出家出口典雄(昨年お亡くなりになった)さんの厳しいダメだし稽古の事は、いまだに忘れようもない。結果、あの稽古を耐えたことで、今振り返り思うと、私はその後の人生を生き延びることができ、簡単には諦めないという腹がすわったのではないかと思える。
だから今、実人生でイジーオンの年齢を迎え、新たな気持ちで、新しい翻訳で一番先に音読するには、間違いの喜劇のイジーオンの長台詞が一番ふさわしいのである。親友の挑戦が私を奮い立たせる。これは45年、人生の半分以上、家族もいなかった頃からの交遊の果てにもたらされた至福の果実、実りのようなものなのだと、謙虚に私は受け止めている。
そしてこの果実は、意外な力を私の生活にもたらしている。それは妻の力にもお世話になったのだが、これまでの生活でなかなかに手放せなかった資料や、個人的に大事にしていた、品々のかなりをこないだの日曜日、思いきって処分したのである。
過去の思い出を大切にしながら、過去の珠玉のような思い出にエネルギーを繰り返しいただきながら、これからの未知の時間を泳いでゆくために、限りなく身軽でありたいと思うのである。ふるさとでの行脚、そして親友の新たな挑戦が、過去の荷物の処分をさせたのだ。
ひまわりが・一輪咲いて・夏が来た |
だから今私はスッキリしている。身も心も軽やかな老人感覚に浸っている。このような感覚が老いの体に満ちるとは、思いもしなかった。人間という動物は動く生き物、今にして思うことは、18才で世の中に出て、動ける範囲は狭くなっては来ているものの、精神と想像力の動く範囲は、若い頃よりも深くなってきているという、認識が私にはある。
老いゆく日常生活のなかで、あのあまりにも魅力的なシェイクスピアが創造した劇的な登場人物を音読できる幸せを、相棒と共に噛み締めたい夏である。
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