またか、思われる向きもおられるかもしれないが、私は速読ができない。せっかちな性格であることは自認しているが、せっかちであることと本を読むことが早いことは一致しない。ただ以前にもまして、本を読むことが(老眼でめがしばしばするにも関わらず)楽しくなってきているのは事実である。
人の砂漠、沢木さんの本には刺激を受けた |
本さえあれば、猛暑でも耐えられるくらいの集中力でもって、本が読めている今年の夏である。これは乱読であれ継続してきたからこそ与えられた喜びなのだと思う。若い頃、遊ぶことにかまけて、文庫本の文字を追うのがあれほど苦手であったのが、嘘のようであるが、事実である。
というわけで昨日、一昨日と買い物と菜園場以外はどこにも出掛けず、家で集中的に本を読んで過ごした。午前中はじっくり読む本、午後は気楽に読める本。私がこの10数年もっとも手にしている佐藤優さんの本と、ひさしぶりに手にした沢木耕太郎さんの本である。
自分の読書が片寄っているのではないかという自覚はあるのだが、こればかりは直感が働くというしかない。今現在の私の日々の生活に何らかの知的刺激、潤い、感動をもたらしてくれるような本を選んでしまう。もうそれでいいのである。
時間は有限なのであるから、チェーホフの作品も今後繰り返し手にするだろう。音読にせよ、黙読にせよ、体力持続力がないと無理である。好きだからこそ、体が喜ぶからこそできることである。無知の蒙が開かれ、想像力が刺激される。未知の世界へと誘われる。身も心も活性化される。これこそが読書の醍醐味である。
二十歳の時に読んだ、中野好夫訳によるチャップリンの自伝から、本格的に読書に目覚めた私である。すべてのことに関して気付きが遅い私ではあるが、何とか右往左往ここまで生きてこれたのは、ささやかに本を手にしてきたからである。(としか言えない。本を読むこと、言葉に出会わなかったら、と思うとゾッとする)遅きに失した感がぬぐえないが、年のことは気にせずちびりちびり、草を抜くように、季節によって老いの体が活性化するような読書を、古典を中心に続けたい。生きているからこそできる、今やれることに悔いなく集中したい。
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