五十鈴川だより、うつうつ悶々の日々の最近だが、すがるかのような精神の調律といった案配で、肉体労働に勤しみながら、日々多種多様な本を手にしている。体が動くから働けるし、目が衰えたとはいえ本が読める、優れたDVDを観ることができるというのは、今の生活のなかで本当にありがたい。
風のよう、深刻さがない、そこがすごい。 |
この先加齢と共に嫌でもおうでも、体が衰え不調が増えてゆくことの覚悟を日々深めながら、世界の痛みにも鈍感になり、自分のことの行く末のみに、心の比重が重くなってゆくのだろうと、ぼうばくの彼方をおもう。(だが私は世界の民の一人として、民に寄り添う視点をぎりぎりまでなくしたくはない)
今はまだ五十鈴川だよりを打ちたいと言う気持ちが、体のどこからか沸き上がってくるので、その想いを綴り打つことで心の調律をはかるしか、私には他に方法が見当たらない、のだ。
私よりも20才年上、現役作家五木寛之さんの【シン・養生論】をほぼ読み終えた。この本を書かれていたいたときが90才である。作家として遅咲きデヴューして50数年、いまも手書き、万年筆で書かれていると言う。内容は割愛する。一言脱帽する。とにかく体の衰えを赤裸々に述べられつつ、老いの可能性に言及する。そこがそんじょそこらの養生論とまったく異なる。
私がもっとも感銘を受けたのは、体の衰えとは逆に、そのあまりにもという他は言葉がないほどに精神の、好奇心に満ちた崇高な唯我独尊的若々しさである。そのたゆまぬ好きなことしかしない、できない、だから自分なりの方法での努力の持続、自分勝手に自分の体が喜ぶことを正直に全うしつつ、90才を迎えられたことを、泰然自若として述べられている。
最後の方で死生感を覆す、老生感は実に斬新な提言とでも呼ぶしかないほどユニークである。古い老人像をまったく覆してしまう。繰り返す、体のあちらこちらが満身創痍であるのにも関わらず、前向きに新しい老人像を未来に向かって提言する一文は、外見は枯れていても、体の芯に赤々と火が点っているからだ。
五木寛之さんの70代以降の主に新書版の著作、手を変え繰り返しまるでお題目、念仏をどこか唱えてでもいるかのような境地で書かれるエネルギーの源が、12歳での引き上げ体験であることは、これまでの著作から明らかである。
随所重複しながらもこの本には新しい境地が縷々書かれている。ご本のなかでも書かれているが、アフガニスタン、ミャンマー、新疆ウイグル自治区、シリア、ウクライナ、パレスチナ、他の戦争地帯と、老いた自分自身の体が連動していると五木寛之さんは書いている。12歳で難民となった五木寛之少年はいまも世界で突然難民となった数多の難民と心が連動しながら日々今を生きておられるのだ。
そして今戦後は終わり、新しい戦前が始まる予感がすると老作家は書かれている。その感性の予感の冴えは、12歳の頃と変わらない。すごいと言う他ない。最初の方で述べられている。明日死ぬとわかっていてもするのが養生だと書かれている。(明日世界が終わるとしても私は花を植えるといった偉人と重なる)
大先輩、大人間五木寛之さん(生まれ落ちた場所が近く、九州弁、父親が先生であり、北朝鮮からの引き上げ者なので勝手に私は親近感を抱いている)に私は学び、連動しつめのあかでも養生せねばとおもう。
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