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2023-12-09

師走【レ・ミゼラブル】第2巻を読んで想う、五十鈴川だより

12月二回目の お休みの朝、師走も早9日である。前回レ・ミゼラブルを読んでいることを打った。12月はじめての五十鈴川だより、この間日々の労働、生活の合間合間に、レ・ミゼラブル第2巻(487ページ)を読み終えた。いよいよ第3巻に入る。全部で1500ページの長編である。このような長編小説を読むのは、我が人生で初めてである。

釜山で観たミュージカルのパンフレット

2巻を読み終えた時点で、この小説を手にしたことの幸運を、師走、噛み締めながら五十鈴川だよりを打っている。大河ドラマ、大叙事詩19世紀フランスヴィクトル・ユゴーが生んだ小説レ・ミゼラブルは、一人の人間が生涯を賭けて心血を注いだ途方もない作品であると言うことが、老人の私にも腑に落ちる。(とだけ打っておこう)

ユゴーが若いときから書き綴り、途中、中断して晩年再び書き上げたと解説で知った。ユゴー自身19世紀フランスの激動の時代を生き、私生活含めあらゆる困難を生き、その壮絶な人生のすべてをレ・ミゼラブルに投影している(のだ)。一筋縄ではゆかない人間という生き物への観察が随所にしつこく込められている。(病的といっていいほどだ)

フィクションであることをまず踏まえながらも、その細部の、例えば当時の歴史や時代背景、地理、流行風俗、人々の町や人物の特徴描写力は半端ではない。大きな幹の物語を芯に据えながら、枝葉の部分を自由自在に時間の経過も含め行きつ戻りつ、螺旋状に展開して行くのだが、正直よもやまさかこのような小説であったのかと今更ながら驚き、本当にこの年齢だからこそ染み入るように読めている自分がいるのだ。映画や舞台ではまったく描かれていない、ほとんどカットされている。小説でしか表現し得ないことが書かれているのである。

その事は、全部読み終えてまた打つことになるかもしれないが、このような全体小説というか、登場人物たちが時代の(おかれた)なかでもがき苦しみ、なおかつ生きることを、善悪含め選択してまるごと描く壮大な思想哲学小説が、【レ・ミゼラブル】なのである。

ガザエリアの報道に接する度に、レ・ミゼラブルの置かれた当時の人々とガザエリア、の人々の置かれた状況があまりにも重なるのには驚きを禁じ得ない。

飢えたことも身近に爆弾が炸裂し、大切な家族を失ったこともなく、理不尽に血を流したこともない島国日本で平和りに生きていられる一庶民老人には、痛みや想像力の限界があるのを百も承知で打つが、人間がやっていいことといけないことの限界がとうに越えていることは、ガザエリア(どちらの側にりがあることの問題ではなく)の事実が示している。食い物と水がないと生き物は死ぬ。

穏やかに生きられる島国の年寄りの一人として、声をあげ世界の良心ある人々と共に声をあげ続けたい。ヴィクトル・ユゴーはレ・ミゼラブルを書くことで、レ・ミゼラブルな人々に寄り添い(目をそらさず)人間とは何か、悪心と良心とを行き来しまるごとぜんぶ描くことを、闘争した作家であったのだと気づかされる。自分自身も生涯内的葛藤を続けていたのに違いない。このような作家がいたのである、19世紀に。登場人物のすべてが、ジャン・バルジャンだけではなく魅力的に人間として描かれている。一面的ではないところが素晴らしい。

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