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2022-12-27

【音読に・筆写で過ごす、師走かな】【冬光・浴びて音読・古稀の朝】

 シェイクスピア音読自在塾、昨年一人のかたの参加があり、コロナ渦中ではあったがやっていた、がそのかたが参加できなくなり、そうこうしているうちにウクライナでの戦争が始まり、暫し音読どころではなくなり、10年ぶりに企画をすることとなった。

ウクライナの戦争は未だ収束の気配は見えない。この間、日々のルーティン生活を送りながら、今もだが内面の忸怩たる閉塞感は消えない。だが揺れるおもいを五十鈴川だよりを打ちながら、なにかせずにはいられない不確かな自分がいる。

音読で・老い活たのし・古稀をゆく

10月沖縄を訪れ、畏友、K夫妻にお会いしたことが奇縁で、多嘉良カナさんという稀代の音楽家と出会うことができた。多嘉良カナさんを来年企画することを、決めたことで、何やらどこか体に風が入り込むようになり、いっこうに終息の気配の見えないコロナ渦中ではあるのだが、とりあえず音読自在塾を再開することにし、中断していたYさんにお声をかけたら、やるとのお返事をいただき、11月から平均月に2回のレッスンをやっている。

昨日で年内のレッスンを終えた。ハムレットから始め、今40年ぶりに、二人で長大なヘンリー6世3部作の一部、二部の一幕を音読し終えた、ところである。Yさんは、遊声塾で丸3年以上声をだし続けていたので、素直に素読する基礎がかなりできていたので、初見で新しい松岡和子先生の翻訳による文体にも、そこそこ必死に食らいついているので、期待が持てる。

寡黙でお上手がなく、現在地のギリギリのところで、踏ん張って、ともあれレッスンを積んでいる。初見でいかに音読するか、これは私だって全く同じことなのである。その後何回も繰り返し、音読する作品であれ、なんであれ、すべては最初の音読が肝心である。

40年ぶりのヘンリー六世3部作だが、20代の終わり、ジャンジャンと俳優座劇場で、端役で出演したことがあるので、あの当時のことが思い出され、音読していてなんとも言えず、嬉しく楽しい。松岡和子先生の翻訳でハムレットもヘンリー六世も、鮮やかに新鮮な感覚でもって音読できるえのが、なんとも言えず嬉しい私なのである。

音読と平行して、時間を見つけては、ただ静かに時間を過ごしたいがために、松岡和子先生の翻訳文体の長い台詞の(好きな作品の)筆写も始めたことは、すでに書いたが、これがまた意外なことに思ったよりもはかどっていて、楽しいのである。

一月で、ハムレット、オセロー、間違いの喜劇の主な長い台詞を筆写し終え、昨日から夏の夜の夢に取り組んでいる。ボールペンで大学ノートに書くのだが、打つのと、書くのとでは全く感覚が異なる。読み、音読、書く、打つ、インドアで。そしてアウトドアで肉体を天の下で動かす。基本ルーティン生活がほぼ決まってきつつある、古稀生活である。


2022-12-23

師走も残すところあとわずか、明日は長女家族が帰省する、とりとめなき五十鈴川だより。

 昨日で肉体労働アルバイト仕事を終えた。このアルバイトを始めたのは66才の時の夏のことであったので、もう丸4年以上が過ぎたことになる。晩年時間のこの4年間、この肉体労働アルバイトができていることに対する、日々天を仰げる環境で体を動かせ、今年も無事に終えたことに対する、個人的言い知れぬ充実感は、私のみが知る喜びである。

特に人生で初めての、大きな手術を69才にして以後の、一年9ヶ月リハビリをかねて再び肉体労働に復帰できたこの日月は、例えようもないくらい健康に過ごせていることにたいしてのありがたさは、年を重ねるごとにしみてくる。

T氏が撮ってくださった多嘉良カナさんの写真

健康でなければ、なにをやっていても喜びという感情がわいてこないのは、道理であり、摂理でもある。手術を無事に乗り越え、古稀を迎えてからの私は、どこかがやはり言葉では言い表せぬ微妙な老いゆく感覚の深まりを感じている。

今年もあとわずかとなって来たが、何はともあれ、年末まで無事に生きていて、外は寒気のなか、部屋で冬の日差しを浴びながらこうやって五十鈴川だよりを打てる平凡さを、ただありがたく噛み締める私である。

明日は長女家族が帰省する。ごく平凡なおじいさんの私としては、4才9ヶ月の孫に会えるのが楽しみである。平凡な極みのこの喜びは、おじいさんにならなければ決して味わえぬなにかである。世の中にはお孫さんに恵まれぬかたもおられる。だが、私は長生きし恵まれた。ただ感謝である。

話は変わる。昨日朝前回の五十鈴川だよりで触れた、10年ぶりに再会の奇縁に恵まれたN氏から、まだ一週間もたっていないのに、来年の企画のチラシの叩き台のラフがラインで送られてきた。想像以上に素晴らしい。びっくりし、じわじわと嬉しさが今も続いている。予定よりも早くできそうである。

再び話は変わる。原発の再稼働、次世代の新しい原発の開発、とてつもない軍事予算の増加、ウクライナの見えない収束、どす黒い思惑が渦巻くロシアと西側諸国、アラブや中国との軋轢、経済格差のあまりのー広がり、ウイグル他、目をおおいたくなるほどの、人権無視、権力の恐ろしさ。気候危機の問題。理解不可能な無力感に教われる。が、凡ぷではあるにせよ無関心ではいられない問題意識が、辛うじて私のなかにはいまだある。

孫の未来は、この惑星に生まれた子供たちの未来である。どんなにささやかではあれ、穏やかな生活時間が広がってゆくような未来であってほしい。取り返しのつかない多国のむこの民が巻き込まれるおぞましい戦争だけはノーである。ただそれだけである。気の遠くなるほどの値段の戦闘機や迎撃ミサイルの値段。凡人の想像力を越えた、なにか得たいの知れない悪魔のような産業が私たちの知らないところで、跳梁跋扈活性化している。(気がする)とりとめのない五十鈴川だよりになったが、とりとめない世の中なので、これも又致し方ない。




2022-12-18

Nさんという、とある方との、10年ぶりの再会に想う師走の朝。

 先日22年間働いた、中世夢が原のMさんから思わぬ、オーバーではなく青天の霹靂のような、嬉しいお電話をいただいた。かいつまんで記すとまだ私が働いていた10年前、園内の武士の屋敷で、とある親子と私は出会っていたらしいのだが、当時の記憶は私にはない。

そのかたNさん親子、お嬢さんは当時まだ小学校3年生だったそうだが、なぜかその一度の出会いの奇縁でお嬢さんがアーチェリーを(私は武士の屋敷の縁側で子供に弓を引かせて遊ばせていた)始めたのだそうである。

毎年妻が飾るサンタの絵

その後お嬢さんは精進を重ね、あれから10年高校3年生の今、なんと国体の選手に選ばれるほどに成長されておられるとのこと。そのお嬢さんのお父さんが、私との出会いがすべての始まりなので、その奇縁を感謝し、是非会いたいとのことで、私の消息を訊ねるメールを中世夢が原に送られたことに対する、Mさんのお電話であった。

即、私えはNさんにこちらからお電話を差し上げた。なんとも声のトーンが柔らかく、話しているうちにこちらから是非お会いしたいと思うほどに、このような一途なお嬢さんを育てておられる父親に、こちらから    無性に会いたくなってしまったのである。

というわけで、一昨日の金曜日の午後、我が家までお住まいの倉敷から来ていただいた。いきなりの再会であるにもかかわらず、Nさん56才、世代が異なるのに、ほとんど私の話に終始したにもかかわらず、独特の相づちを打つ絶妙の間のとれる聞き上手さにのせられ、なんとも話の夢が転がってゆく。楽しい、久方ぶりの男二人の充実した幸せなひとときが過ごせたことを、なんとしても五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

Nさんは一言ではとても形容できない、現代教育に不可欠と私なども思う、なんとも豊かな、個人での教育事業を多分野で展開されているユニークな方であられた。今日はこれくらいで打つのを控えるが、師走一年を振り返るにはちとまだ早い気もするが、古稀のこの一年は個人的な思わぬ再会が度々起こった一年として、思い出深い年として記憶されるかもしれない。

晩年時間の私の今、このような意義ある意外性のある嬉しい再会は、そうは起こり得ないように想う。あえてよき方向に物語化して考えたい私としては、閉塞感が重く垂れ込めて、明るい話題が見えにくく乏しく感じてしまう時代のなか、このようにユニークな人物が存在することにホットしてしまう。ありがたいという他はない。

氏が関わっている夜間中学でシェイクスピアの音読を何て話も具体化しそうな話の展開、来年の私の2回目の企画、多嘉良カナさんのチラシも流れで氏に依頼することに決めた。意外性の賜物、クリスマスプレゼントが降りてきたのである。


2022-12-17

松岡和子先生の翻訳によるシェイクスピア作品の筆写に冬の自由師走時間を過ごす。

 ほぼ2週間ぶりに五十鈴川だよりを打つ。この間、一人自由時間なにをしていたかというと、シェイクスピア作品の音読と、筆写(10行以上の長い台詞の)をしていたのである。

11月29日、ハムレットから始め、今朝オセローの筆写を終えたところである。20日間で2作品を終えたことになる。特に深い理由があって始めたわけではない。しずかに師走時間を過ごすために始めたのである。この一人時間の過ごし方に熱中していたがために、五十鈴川だよりに向かう時間がなかったのである。五十鈴川だよりを打たなくても、よき時間が過ごせていたのである。

筆写して静かに過ごす師走かな

それと11月から一人、遊声塾時代から3年以上熱心にシェイクスピアの音読をされていたYさんが、我が家で月に2回の個人レッスンに来られていて、そのかたとのレッスンのためにも、優先してやることが増えたために、五十鈴川だよりを打つ余裕がなくなったのである。

Yさんとのレッスンはハムレットで始まり、ハムレットの音読を終え、先日からシェイクスピア作品の中でもっとも長い、ヘンリー6世3部作の第一部の音読を始めたところである。レッスンにこられるかたがいなかったら、なかなか読むことが少ない作品である。ほぼ40年ぶりに松岡和子先生の翻訳で音読している。私はシェイクスピアシアターにいたときに、1984年日本初演、上演時間9時間にも及ぶ舞台に端役で出演したことがある。なんといっていいかわからないくらいこの年齢になると、思い出深い作品なのである。

初期の、最初の作品とも言われている。人間の救いようのない業の深さ、権力への執着、家柄への執着、愚かさを、100年にもわたる英国の歴史薔薇戦争を軸に大河ドラマ娯楽作品に仕立てている。後年次々に傑作作品を書いてゆくのを予感させるに十分な作品である。意味もなく音読している。時間の流れ、展開の早さ、スピーディーな筆の運びはやはり天才と唸ってしまう。面白い。

筆写は古稀の手習い。松岡和子先生の翻訳による音読。60代の頃とは異なり、又どこか新鮮に音読できるような気がするのは、確実に老いて行きつつあるという自覚がの深まりがあるからなのかもしれない。今やらねばとの思い。

ともあれ、労働する、読み書く、打つという基本的な生活ルーティンは変わらないが、五十鈴川だよりを打つ時間は、今後さほど増えないだろう、一日の時間は有限、なにかに集中していたら他のことはできないからである。とまあ、この様なわけで久しぶりに打つ五十鈴川だよりなのだが、どこか嬉しいのである。特にぶつぶつ言いながら筆写を始めて、落ち着いて静かに過ごせるのはいい意味で、年寄りの過ごし方としては、宝のような時間の過ごし方であることを、わずか20日間であるとはいえ実践してみて感じている。一行一行書き進めてゆく喜びは行ってみて、体得の喜びのような感覚が古稀の体に沁みるのである。

何事も思い付いたら実践する。へたうまな文字であれ私の文字である。上手下手は古稀を過ぎるとそのようなことはどうでもいいのである。まして好きなシェイクスピア作品の素敵な言葉、台詞を筆写できることの喜びは例えようもない。充実した時が流れ、松岡和子先生のシェイクスピアの翻訳にかける情熱のほとばしり、作品への愛情の半端ではないこだわりが随所に感じられ、襟をただして私は謙虚に筆写するのである。松岡和子先生による翻訳は、今をいきる初老の私に新たな喜びをもたらしている。


2022-12-04

ワールドカップ、カタール大会日本代表選手に打たれました、そして思う。

 私の寝起きする昔娘たちが使っていた部屋は、広いので部屋全体を暖めるには暖房効率が悪い。だから、すぐに暖まるちいさなスペースにタブレットを移動し、すぐに足元が暖まる、ちいさな電気ストーブをつけ、書写をしたり、五十鈴川だよりを打ったり、新聞を読んだり、師走から始めた。つましく、だが贅沢に生活を希求する、のだ。

今、一番狭いお風呂場の脱衣場で打っている。妻が大工さんだったなき父が使っていた板を用意してくれテーブルがわりにしてくれた。時おり朝食もここで済ます。気分も変わるし、元々4畳半生活が世の中に出て長く続いたお陰で、狭いスペースで過ごすのはさほど苦にならない。

岡山に越してからは、人生で初めてといっていい広いスペースでの生活が30年も続いたので、からだが広い空間に馴染んでいるのだが、ものを考えたりするのには、私の場合狭い空間のほうが、性に合っている。

今朝の我が家のはな

きっと世の中に出て、経済的にあまりにも苦しい生活が長く続いたことが大きいと想うのだが、その当時のハングリーさを嫌でも思い出す狭い空間は、やはり私にとって大事である。それに現代という魑魅魍魎世界の奈落にいつ落ちるかもわからない、世の無常に思いを馳せるとき、普段から慢心しないように心かけての生活は、必要だと考える、のだ。

というわけで、頭が新鮮なうちに休日の朝、ハムレットの書写もこの空間で初めてやってのち、遅めの朝食を終え気分転換五十鈴川だよりに向かっている。

昨日とは打って変わっての曇り空、ブ厚い雲におおわれ気温も低い。だが、重い曇り空と寒さのなかの休日を、少しでも気分よく過ごすためには、何か考えて気分が上向くようなことをしないとまずいという気がして、五十鈴川だよりをうち終えたら、妻が仕事で不在なので、運動公園に散歩に行き、少し体を動かして、午後はしずかに部屋でしずかに過ごすつもりである。

世の中、ワールドカップの話題で持ちきりだが、かくゆう私だって五十鈴川だよりではまったく触れていないが、ジーンとさせられている。勝者と敗者の残酷なまでの明暗、歓喜の雄叫び、スタジアムが興奮のるつぼとかす。サポーターの熱狂、心とからだが一体合一、選手監督コーチのなりふり構わぬ熱い抱擁。やったものだけが感じる連帯、まさに絆の結晶。美しいという他はない、奇跡的な動き輝き。吉田麻也キャプテンが、言葉にならないと言葉で語ってくれたが、まさに神がかり、何かが降臨してきたとしか、思えないような場面を、リアルタイムで目撃できたたことへの感謝を、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

古稀の体をかくも熱くさせるサッカー。ボール一個を奪い合い、あの限定ネット空間へのゴールに世界中のサッカー、私のようなにわかファンまで含め熱狂するのはなぜなのだろうと、冷静に考えてみてもわからない。ただひとつ私が思うのは、いい意味で予想を裏切った素晴らしい結果はいかにしてうまれたのか。当の選手たちは自信をもって試合に望み、監督も寸歩も負けるとは思わないチームを造り上げてきた自信が、あのような穏やかさに現れている、気がする。

自分を信じきれないものは、他者に感動を与えられることはないという厳然たる真実。厳粛な事実を、古稀のわたしはこの度の日本代表の選手たちから教わっている。それにしても思う。若さとはなんとかけがえがないものであるかということを。人間が人間と見えない糸で結び付く一瞬の光のような、すべての全世界の苦悩を瞬間忘れさせてくれたかのような、場面展開に老人の私ははしびれたのである。老け込んではいられないのだ。

思いもしない五十鈴川だよりになってしまったが、これも又、狭い空間で打ったから、生まれてきたのかも。ともあれ今回の日本代表は、暫しすべてをいい意味で忘れさせルほどチャーミングである。



2022-12-03

好きなシェイクスピア作品を、書写して過ごす師走時間を大切に生きる。

 師走になって、とほぼ同時に寒さが冬らしくなって、一気に町中のイルミネーションがまし、人の心はうつろいゆく。かくゆう私もその一人である。2000年、我が家は家を立て替えたときに、薪ストーブにしたので冬の薪の調達は主に私の仕事である。家の近所に建設用の柱他に刻んだ端材が出る木工所があるので、そこからいただけるので本当にありがたい。先日もいただきに行き往復二回の端材を段ボール箱18杯につめ持ち帰った。

チェーホフの白鳥の歌、書写。

老夫婦二人して、これからの冬の夜長を数ヵ月過ごすのに、なにはなくとも薪ストーブの暖があれば、もう他に私の場合はなにも要らない。そのような年齢なのである。ヒトはそれぞれの年齢での過ごし方があるのだと、この年齢にして思い知る。そういう意味ではゆっくりとゆっくりと年齢を閉じる、今風の好きではない言葉を用いれば終活生活に入っているののだと、私は深く、どこかで自覚している。

終活生活を自覚しながら、でも老いゆくなかで、肉体労働をやりながら、音読しながら、たまに企画をしs、わずかな野菜を育てたりしながら、共に一番長い時間を過ごすパートナーとのこれからの時間を、一番大事にしたいのである。というわけでこのところ、薪ストーブ時間がことのほか嬉しいのだ。

外は寒くてもストーブのある部屋に入れば、そこはもうなんとも言えない暖かさがあるので、風の冷たい冬、時おり辛く感じる野外肉体労働も、薪ストーブの暖かさがあればわたしは耐えられるのである。(ウクライナ他、暖もとれない人々のことをかすかにわたしは想像するアウトドア冬仕事をしながら)

と、ここでいつものように話が変わるが、11月からシェイクスピアの音読を松岡和子先生の翻訳で本格的に始めたことは、すでに書いている。これに加えて、最近本格的に始めたことに、シェイクスピア作品の好きな台詞を書き写すことを始めたのである。

心機一転、先ず音読第一回に選んだハムレットから、10行以上の長い台詞の書写を始めたのである。ハムレットだけではなく、それ以外の登場人物の長い台詞も、すべてではないが書写している。

まだコロナ以前、遊声塾をやっていた頃、特にリア王の長い台詞を書写したことはあったのだが、本格的に古稀を契機にして、書写する時間を大切にしたいと考えるようになってきたのである。おお行なことではなく、五十鈴川だよりを打つような気持ちで、素直に松岡和子訳の言葉を、我が体に流し込むような感じで、書写したいのである。

好きなことを自由自在にやりたい、ただそれだけなのである。先のことなど考えず、ただ今を、好きな作品の言葉を書写する。そして時おり毛筆で書写できれば、とやりたいことが増えてきたのである。とりあえず、一番好きなというか、音読していて飽きない作品のひとつであるハムレットから始めたのだが、すでに三幕一場の名台詞の場面を書写し終えたところである。

口でぶつぶつ音読しながら書写するだけ、意味はない。腕が動かないと、当たり前だが文字は書けない。パソコンで、デジタルで打つのも最近は全く問題はないのだが、やはり文字を手で書くのとではまったく、風合い情趣といったものが違うのである。私のように現代からまるで置き去りにされてゆくかのような感覚を持っている、輩の楽しみとしては、またとないお金に頼らなくてもできる、またとない楽しみを、またもやシェイクスピアは私に与えてくれたのである。

2022-11-30

2022年、11月最後の朝の五十鈴川だより、です。 

 今日で11月も終わり、だがこんなことを臆面もなく打てるのは、やはり古稀を迎え面の皮が厚くなってきた証左だろう。東京から戻ってきて6日間タブレットに触れていなかった。その間なにをしていたのか、当たり前だが他のことをしていたのである。年を重ねると、あらゆることの、動作を始め物事の対処、他がゆっくりとし鈍くなってくる。

文章を打つことだってそうである。コロナ渦以前は、なにかと気が急いたりしていたのが、まるで急かなくなってきたのは、老いの効用か、コロナのお陰ではないかとさえ、最近は考えるようになってきている。色々と打ちたいことがあるのだが、優先順位で思い付くよしなしごとを打ちたい。


さて、先週の土曜日、妻と二人で繁りに繁ってこのままでは鬱陶しいまでに延びた月桂樹の枝や幹を思いきって剪定した。片付け作業まで夫婦二人でやりほぼ半日を費やしたのだが、よき時間が流れた。狭い家の敷地に日が射すようになり、うっとうしさがなくなり、2階の部屋からの眺めも気持ちよくなった。

平日の午前中は、雨の日以外はアウトドア肉体労働に従事しているし、毎日何かかにかとやることがあり、私の晩秋古稀時間は過ぎ行くのである。枯れ葉の季節はイブモンタンの歌声がラジオから流れたりしてくる、しみじみ聞き入るのである。若き日の出来事に思いを馳せながら。

とここまで打って話を変える。月桂樹の剪定を終え少し冬のストーブの薪の準備を終えた翌日の日曜日、協賛応援をしてくださった(今もポツリポツリ入金がある)方々十数人に、殴り書きの一筆を万年筆で書き投函した。要した時間は、五十鈴川だよりを打つよりも何倍もの時間を費やした。が、わたしのこころは実に秋晴れのような爽快感に包まれた。

野暮なのでこれ以上はつまびらかには打たないが、古稀を迎え、手書きで筆や万年筆で文字を書くということが、こんなにも楽しいということの気付きが、より鮮明に深まったのである。いつの日か、企画や音読ができなくなったときに、最後にやりたいことがよりクリアーになったのである。当たり前だが、お便りは出したい相手があってこそ成り立つ訳であるから。

半世紀以上の人生で巡り会えた宝石のような友人知人、このような奇特な奇縁で巡り会えた方々の支えで、私は今を限りなく充実して生きていられるのだ。即興的に万年筆で文字が、言葉が紡ぎ出される、ありがたい。

もう古稀である。心が萎えたり萎れたりするような、映像や言葉には還暦以後極端に触れないようにしている。限りある人生、お会いして気持ちが上向く人や、物語、音楽やお話、等々に大切な一日を過ごしている。11月からいよいよ本格的に気持ちをリフレッシュ、松岡和子先生の翻訳でシェイクスピア作品の音読を始めている。

今年の8月、松岡和子先生との偶然の再会、そしてこの間の上京で寸暇お会いして、私のなかで松岡先生の翻訳で、もう一度シェイクスピア作品を音読しながら、つきることのない学び直しを始めている。明日の午後I子さんが我が家日にやって来る。ハムレットから始めている。苦しくも楽しい。他にも始めたことがあるのだが、それは又、次回打つことにする。

2022-11-23

東京に帰る日の朝、次女のマンションで五十鈴川だよりを打つ。

 三鷹にも吉祥寺にも歩いて30分くらいの距離に、次女の住むマンションはある。長女のところにも、次女のところにもリーディングルームがあるので、私は娘たちのところを訪れる度に五十鈴川だよりを打つ時には、このリーディングルームを使う。

雨のマンションでお散歩からかえっておやつを食べる葉君

今朝はまだ誰もいない。まるで我が家のように落ち着いて文章が打てるのがことのほかありがたい。デジタルにはまるで弱く、自宅以外では五十鈴川だよりを打ったことはなかったのだが、昨年古稀の生誕プレゼントに、娘たち夫婦4人がタブレットをプレゼントしてくれたお陰で、家以外でもタブレットを持参、このようにどこでも気が向くときに打てる。

今日は岡山に帰る日の朝である。昨日の青空が嘘のように、一転雨で気温も低く、予報では10度くらい気温が下がるらしい。いよいよ冬間近である。もの悲し秋の草笛、なんてフレーズが古稀男の頭に浮かぶ。雨に濡れた落ち葉と冷たい雨は、いやでもある種の感傷に、私のようなタイプは耽ってしまいがちである。

だが、今回の上京旅といい、前回10月の沖縄での旅といい、二月連続で私にとっては実りの多い旅となったお陰で、陰鬱な雨模様なのだが、私の心はどこか穏やかに岡山に帰れそうである。今日は次女家族とお昼を済ませ、夕方には岡山に戻る。長女のところに3泊、次女のところに2泊した。野暮を承知で打たせていただくが、娘たちの旦那さんとの相性関係性がスムースでなかったら、なかなかに心からの安心感をともなってのステイは、この時代なかなか難しい。

だが、ありがたいことに、私の場合ほとんどなんの気兼ねもなくステイできるのは、二人の義理の息子が大人だからである。時代について行けない、ついてゆく気もないデジタル音痴の私であるが、どういうわけかデジタル世代といってもいいのに、義理の息子たちとの関係性がスムースであるのが、どこか私には不思議であり、又ありがたいのである。

ほとんど浦島太郎といっていいほどに、世間とはずれあっている感覚を、私は常に感じながらとりあえず自分の居場所で、生活している。そのような古稀男の私が10年ぶりに突然変異のように、企画が辛うじてやれたりするのは、娘たち世代との信頼できる関係性があればこそである。

おそらく来年の多嘉良カナさんの企画も、娘たちとの関係性があればこそ実現できるのだと、想うとうれしい、ただその一言である。多嘉良カナさんのチラシ用の写真も、T氏のご尽力で届いた。ワールドカップが始まりどこか騒がしい世相だが、生活まるごと抱え、しずかに日々の生活を基本に、来年春の企画を見据え、牛歩で老人らしく進みたい。

2022-11-22

昼は大親友K氏に、夜は大先輩S氏に御馳走になり、じーんと幸せな一日をいただきました、そして想う。

 昨日夜から、次女のところに移動し、わずかであれ記録的に昨日の出来事を、うち綴っておきたい。昨日は長女のところでレイさん指導のもと、望晃くんのために午前中絵本を2冊読んで録音した後、お昼前に稲城から川崎に出て河合さんと待ち合わせ、美味しい焼き肉ランチをご馳走になって、午後3時過ぎ飯田橋に移動。

フェアモントホテルで、25年ぶりくらいにSさんと旧交を暖めるあためるべく落ち合った。わずか一度しかお目にかかったことがないにもかかわらず、あっという間に旧交が暖まるのに、時間はほとんど不要であった。

清水さんが週一回発行している新聞

やあやあ、と会話が途切れなかったのが不思議という他はないくらいに、旧知の間柄、以心伝心で思いが伝わりよき時間が流れたことが、いま五十鈴川だよりをうちながら、縁というものの目に見えない強き糸に、自分が支えられている幸運のお導きにいたく感謝するしかない。

お昼をご馳走してくれたK氏は、出会って44年の年齢も近い大親友。直にお会いするのが2度目のS氏は、私より10才くらい先輩である。長くなるのではしょるが、S氏は終戦のとき2才か3才で、台湾からの引き上げ者、日本が台湾を統治していた時代のS氏の祖父のご本を上梓したりしておられる。(とにかく昭和男の香りを残す、いい男である)

私の両親もまた、北朝鮮からの引き上げ者なので、その事の奇異なる引き上げ者としての末裔である私とのご縁が、S氏と私を結びつけている。とてもではないが、一気に五十鈴川だよりでのs氏との再会に至る過程を記す時間はないが、娘や義理の息子たちに、私の大切な友人を五十鈴川だよりに、きちんと記しておきたいのである。

さて、ホテルで暫しお茶の時間を過ごした後、そこから夕闇迫るなか歩いて、馴染みの町神楽坂に移動、とある感じのいい庶民的な老舗の路地裏の焼き鳥やさんに移動。久しぶりに外でビールで再会の乾杯をし、美味しい焼き鳥他をほうばり、ビールのあとほんの少し熱燗をいただき、S氏と歓談語り合った。2時間近いひとときが瞬く間に流れた。臆面もなく打つ、ほんと幸せであった。

事実として書くが、高齢者同士の再会の【ある夜の出来事】としてはまるで映画のワンシーンにでもなるかのような一夜であった。お互い元気であればこその幸福な再会。いまもS氏の声のトーンが耳にこびりついている。人生の晩秋の時間の得難い人との再会語らいは、かくもヒトを幸福感で満たすのである。そのことのありがたさをきちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

S氏は、私の孫や娘たちに群馬の名産のお菓子を、お土産にわざわざ持参してくださった。S氏は大人であり、紳士であり、いまではもう死語になりつつあるが、古きよき昭和という時代を体現している、まれなパトロニストである。芸術や文化の大切さを日々唱え、願いながら今も現役で、歩き回って私のような輩とも交誼を重ねてくださる、私にとってのまれ人なのだということを、再認識した一夜の出来事であった。お元気で、また。

2022-11-21

娘のところで、2回目の五十鈴川だよりを打つ。雨の晩秋の稲城の朝に想う。

 月曜日、長女のところに3泊して迎えた朝である。望晃君が保育園に出掛けるのを見送り、つかの間五十鈴川だよりタイム。

一昨日は稲城の隣にある、よみうりランドで次女家族もやって来て、全員でイルミネーションネーションに彩られた晩秋の紅葉と落ち葉のよみうりランドで、私も年齢を暫し忘れて、久方家族時間を堪能できた喜びを、忘れないうちにきちんと打っておきたい。

ノア君が作った見事な作品

夕飯を稲城のとあるスーパーで、お弁当他色々買い求めてからよみうりランドに直行した。全員ゴンドラにのって、美しくイルミネーションで彩られた園内を中空から中心部に移動した。ショウを楽しんだりしながら園内を散策し、少し肌寒いなか夕食タイム。次女の息子葉くん(まもなく1歳4ヶ月)もノア君(4才8ヶ月)もともに夕飯お弁当時間を過ごしたこと、きちんと打っておきたい。(二家族はきちんと身の丈に会う生活をしていた)

昨日は、午前中京王多摩センターにある、幼児を遊ばせる施設や、丘陵地帯の落ち葉舞散る公園を散策したりしてノア君とはすごした。二人の孫はとにかくよく遊ぶ。遊ぶことが、遊べることが、自分自身と遊ぶことがいちばん大切なのである。昼食はスシローで。昼食後萌さんや葉君とはお別れし、稲城に戻ってお昼ね。お昼寝から起きて、雨が振り出し始めたのだが、私とノア君とレイさんの3人で稲城の温泉へ。私は初めていったのだが、良い温泉で全身がリラックスできた。

また、ノア君、レイさんと男同士でのつかの間はだかでの時間が持てたことで、又よき思いで時間ができたことが、私としては本当に嬉しかった。友人であれ家族であれ、ともに同じ時間を過ごすことのなかでしか、生じてこない感情の襞のようなものを、私は感じるのである。

特に、4才8ヶ月の孫との時間は、年に数回しかない貴重なひとときなので、私としては可能ならノア君の記憶に残るような時間が(記憶に残らなくても無論いいのだが)過ごせることを願うのである。

だがともあれ、雨の露天風呂で、ノア君に頭にレモンをのせられた記憶は、老いてはいてもかなり記憶に残るので、些細なことではあれ、お金などをけちったら2度と訪れない時間、ここいちばんでお金を使うためにこそ、未だ働くというのが動機の源泉、そんなことに温泉のなかで思いを巡らせていると、まだまだ働き、動き孫たちとの記憶に残る時間を過ごすためにも、老いてゆくなかで、初めての古稀以後のこれから時間を、時おりこうやって検証するのである。

それにしても、爺バカを承知で打つが、手前みそでではあれ、年に数回しか会えないが、二人の孫は、親の愛情をたっぷりと浴びて、すくすく育っている。子供は親を選べない。お爺だって選べないのである。となれば、お爺の役割とはなにか。私は楽しく考えるのである。そしてその事はたぶん、限りなく今を生きる私自身を活性化させるのである。単なる爺バカに私は陥りたくはない。孫とも、そして誰とであれ、私は同じ人間として対等にお付き合いしたいのである。ともあれ雨の稲城温泉はとても楽しかった。帰り道、お爺はとても嬉しかったので、稲城のケーキやさんでピカイチノマカロンをノア君にプレゼントした。本日はこれにて。


2022-11-19

【今を生きるシェイクスピア 第7世代実験室 in演劇博物館】観劇。稲城長女の住むマンションで五十鈴川だよりを打つ。

 昨日稲城に住む長女のマンションに午後2時過ぎに着き、荷物を下ろし、その足で新宿経由高田馬場に向かい、そこから早稲田大学まで歩き午後4時、演劇博物館について、松岡和子先生の展示室で、ほぼ一時間ゆっくりとすごし、シェークスピア37本の完全翻訳の軌跡に見いった。

古稀にして初めて早稲田大学の演劇博物館に足を運んだ。きてよかったとの思いに全身に満ちた。たぶんきっとこれから先、上京する度に足を運ぶ頻度が増えそうな気がするほどに、演劇博物館は、情趣風情があり私の心をとらえ、分けても松岡和子先生とのご縁、はたまたささやかではあれ、私のなかでのシェークスピア作品とのご縁があればこそ、この場所にやってこれたのだと想うと、オーバーではなく万感胸に迫った。

エリザベス朝の建物を模している

さて、午後6時半から大学の別の場所、小野記念講堂で松岡和子先生の偉業を称えるシェークスピア作品を3人の男女の俳優によるリーディングと、松岡先生をゲストに招いてのトークが行われたのだが、これが又素晴らしかった。

よもやまさか、このような坪内逍遙記念館主催イベントを体感することが叶うなどとは、夢にも思わなかった。長くなるから簡略に打つが、【今を生きるシェイクスピア 第7世代実験室 in演博】という松岡先生のシェークスピア完全翻訳、特別関連イベントを、いきなり観劇できるという幸運に遭遇したのだ。

なまでシェークスピア作品の音読を、現役の舞台俳優が眼前でいろんなシェークスピア作品のの一部を松岡先生の訳で音読するのだが、このような試みを見ることは初体験だったし、全部ではなくとも、省略し部分音読だけでも、音読者に力があれば十分に可能だということが、理解できたという意味で、私にとっては得難い、学べた体験をさせていただいた。

実は、この催しすでに予約でいっぱいだったのだが、松岡和子先生の関係者ということで(一度しか言葉を交わしていないのに)岡山から駆けつけた私を、招いてくださったのである。先生の翻訳台本を、私の娘たちくらいの世代の方たちが、リーディングされたのだが、楽しそうに(深刻なシーンでも)音読された。

松岡先生の翻訳にに対する畏敬の念が随所に感じられ、わたしは豊かな深い関係性、信頼性に裏打ちされた清々しいリーディングに、気持ちが洗われた。来てよかったと、改めての思いにわたしは満たされた。そして、改めて年齢のことは暫し忘れて、自分も又新しい気持ちで、松岡和子先生の翻訳でもう一度、シェークスピア作品の音読を持続したいという思いがわいてきている。

最後に、第7世代実験室という演劇集団は、オンライン、YouTubeでもシェイクスピアのヘンリー6世3部作を配信しているという。まさにシェイクスピアは今を生きるデジタル世代にも魅力的なのだ。新しい世代が、シェイクスピア作品に新しい表現スタイルで挑んでいる。

その事がとてもわたしは嬉しかったし、これからの老いの花時間を求めたい私としては、多大なる刺激をいただいた。その事を今日の五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

2022-11-18

早稲田大学演劇博物館で開催中の、シェイクスピア劇翻訳家、松岡和子先生の展示会を見に出掛ける朝に想う。

 今日から5泊6日上京する。タブレットを6日ぶりに開いたら、鳥取のM氏から素晴らしいコメントが届いていて一気に嬉しくなった。私の五十鈴川だよりには、ほとんどコメントがない。そのことにはなれている。でもたまにこのような勇気がわいてくるコメントをいただくと、私にしかかわからない喜びがこみ上げてくるのである。

言葉を普段からまめにやり取りしていなくても、わかりあえる関係性というのが、私の中の人財産なのであると、これも又ある種の老いの花なのだと、ささやかに風雪を感じながら生きてきたものとして、暫しの感慨に誘われるのである。

そのコメントを、何度も読んでいたら、やはりちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。時間があまりないのだが(菜園場に娘たちにもってゆく、わずかな野菜を収穫にゆくから)ちょっとだけ。

松岡先生から送られてきたチラシ

さて、上京の目的のひとつは早稲田大学演劇博物館で来年の1月22日まで展示されている、松岡和子先生の、シェイクスピア劇翻訳に関する資料が閲覧されているので、見にゆくのである。というのは、来年から松岡和子先生の翻訳で、シェイクスピア作品の音読を始めることにしたからである。詳しく打つと長くなるのではしょるが、五十鈴川だよりを読んでくださっておられるかたは、理解が及ぶと想う。

古希を迎え、いよいよわたしは、これからの人生の持ち時間の過ごし方を考えるようになってきた。焦点を絞っていきることに決めたのだ。出来るだけ義理は欠くようにきめた。まず、家族や友人との生活時間を、第一番目にすごし生活する。2番目は松岡和子先生の翻訳で、もう一度新鮮な気持ちで、シェイクスピア作品の音読をはじめる。3番目に時おり企画をする、ときめたのだ。そのような折り、実にタイミングよく、先生の集大成とも言える翻訳に関するこれまでの歩みが展示されていることを、当の松岡和子先生から、チラシが送られてきたので知ったわたしは、なんとしても機会をつくって見たいと思ったのだ。

すでに11月から、個人的に一人で読み始めている、なかなか読めないヘンリー6世3部作を1部を読み終え、2部の3幕を読み終えたところである。小田島訳とは又異なる松岡先生ならではの解釈と細かな脚注が随所にある。文庫なので手軽に持ち運べる。読み始めると、次々と情熱のほとばしり、シェイクスピアへの畏敬と愛がふんだんに感じられ、私を魅了する。

なんだかはじめてシェイクスピア作品に触れるかのようなワクワク感が今の私を満たしているのである。もう何度も打っているが、私の好きな作品を中心に、高い山によじ登るようにゆっくり、ひとつずつ汲めどもつきせぬ数々の作品をじっくりと音読するつもりである。

実は、旧遊声塾のI子さんと二人で、昨日の午後松岡和子先生の訳でハムレットを2時間ほど我が家で音読した。年が明けたらささやかに音読する塾生を募集する手作りのチラシを作るつもりである。遊声塾とは全く異なる、敷居の低いどなたでも参加できる(音読したい意欲があれば)自由自在な前代未聞の、言わばシェイクスピア作品を音読することで、今を生きる人たちが新しい関係性を紡げるような塾ができないかと、想うのである。

これはきっと災い転じて、コロナ渦中を(今もだが)生きてきたなかで自然と私のなかで発酵して生まれてきた、ポストコロナを、あるいはウイズコロナをいかに生きるか、生きないのかという終わらざる問いのなかで生まれてきたものである。私たちは、全く新しいパラダイムの変換時代を生きているといった認識が、コロナやウクライナでの、いまも続く戦争で、いやでも深まってきている。時間がきた。

というわけで今朝はこれにて。タブレットを持ってゆくので、可能なら東京の娘たちのところでも、五十鈴川だよりを日録的に打ちたいと思っている。


2022-11-12

鳥取在住の親友、盟友M氏から【多嘉良カナ】琉球の歌と躍り、独演企画への支援振り込みメール届く、そして想う。

 鳥取に盟友というか親友と一方的に呼ばせていただいているM氏がいる。そのM氏とのご交誼は、出会って以来変わることなく続いている。もう25年以上のお付き合いである。出会いは氏のふるさとで行われた音楽祭のシンポジュウムに私がパネラーの一人として招かれて以来のご縁である。

春、惰眠をむさぼっていたわけではないが、企画をすることを中断、還暦から青春時代のやり残し、シェイクスピア作品を音読することに情熱を傾けていた私が、コロナ渦で音読ができなくなり、今年の春、ウクライナでの戦争が勃発したことで、突発的な10年ぶりの私の企画にM氏は、即反応してくださった10数人の中のお一人である。


私は来年の企画に向けて、11月初旬、ご交誼が現在も続いている方々に、封書を50通送ったが、いの一番に、(神奈川に住む親友K氏と同時に)メールで協賛支援のメールが届いたのである。企画は来年の春4月23日である。投函して一週間もたっていない。その上、県外在住者の氏は当日かなりの確率で参加できないのである。こういう友人たち数十人が私を影ながら支えてくださっている。だからこそ、わたしは0年ぶりであれなんであれ、あえて打つのだが、老いを迎え打つかのように、企画が出来るのだと想う。

何度も打っている、音読ほか一人でもやれることは、いっぱいあるが、企画だけはどんなに小さな企画でも一人ではできない。なん十年も企画をしてきたが。企画立案から実現するまでは、実に手間隙、時間がかかるのである。まして現在のわたしは仕事で企画しているのではない。ごく普通の生活者、庶民である。だが何を思ったか、子供がお砂場遊びをするように、老いの花を仲間と共に咲かせてみたい一念で、真剣に遊んで(企画するのにいちばん大切なのは遊び心である)いるだけなのである。

ややもするろと、遊び心で企画する何て打つと、堅物融通のきかない真面目な方からお叱りを受けそうだが、誤解されても構わない。そのような私の思いを汲んでくださる粋なかたがおられるからこそ、企画をやる勇気がわくのである。M氏のように芸術や文化というものを縁の下で支えてくださる物好きな方の存在があればこそなのである。(パトロンが・いてこそ実る・老いの花、である)

もう隠居して好好爺になり、孫の成長を静かに見守り、ものわかりのいいおじいさんになってもいいのでは、との声もしないではないのだが、わたしはあえてものわかりの悪い、でくの坊おじじでありたい。昨今のグローバル化の(この数十年の)なれの果てに、なんとも自分で言うのもなんだが、自分のことはさておき、自信なき所在無げなお年寄りが増えてゆく世相の在りように、一滴を投じたいのだ。

今しばらく体が動く間は、なにか企画しないと、老いの花どころではない、老いた屍のような体になってしまうのでは、何よりも自分自身がかわいそうである。自分にも孫たちにとっても、あまりにも情けない、というのが正直な私の心情あふるる軽薄さなのである。寺山修司は血はたったまま眠っている、とうたったが、老いたりとはいえ今だわたしはざわつく。体のほっするままに、有志と今をいきるだけである。

軽薄、単細胞、恥かき人生を18才から送ってきて、なんとかいまも、限りなく大地の近くで雑草の息吹に耳をそばだて、みすぎよすぎしながら大いなるものからエネルギーをいただいているが、いちばんのエネルギーは家族を含めM氏をはじめとする志のあるパトロンたちの存在であるである。一人一人の方にお礼状を書かないといけないのだが、伏してお礼感謝を五十鈴川だよりでお伝えします。(昨日の時点で12名のかたがら支援が届いています)

2022-11-06

来年の私の企画【多嘉良カナ】さんの応援依頼の一文を47通を投函した翌朝に想う。

 一昨日37通、昨日10通、計47通、一筆いれて来年の企画に向けて、私の企画への応援カンパの依頼のお願いの一文を送った。このような早い始動は記憶にない。だがわたしはゆったりと、おっとりと日々やれることを(あくまで足元の生活をしっかりと生きながら)やりながら、一歩一歩進みたい。

正直、もうこの年齢になると、大勢の集客を求めての企画はあまり望まない。岡山の中心部にRSK能楽堂ホールがすっかり私の心をとらえたのである。この能楽堂ホールの集客数は限られている。だからこのホールで企画したいアーティストをわたしは企画したいのである。私が企画するアーティストを、私が岡山に移住してからのこの30年間に出会え、応援してくださり、10年ぶりの、この春の突然の企画も、このかたたちの応援があればこそ企画が叶ったのである。

てが動く間は手でかきたい、縦に。

その事に対するありがたいという一念の感謝の思いが、今また再び来年に向けて、私の老いの体を活性化させているのは、まず間違いない。基本的に滅多なことではもうなかなか会えない年齢に達した同世代に向けて、おたがいに間接的なエールが送り会えるような企画が打ちたいのである。

だから、還暦以前のような企画はできないし、する気も起きない。もう十分に老いているし、その範囲で無理なく企画できる、ささやかな老い企画をこそ追求したいのである。そして今おもうことは、私より年上で、私にとって魅力的に生きておられる、そしてあまり世間では無名で(有名でももちろんかまわないが)私が強く惹かれるアーティストを企画したいのである。

なぜ企画するのか。私が元気になるからである。10年近く企画から遠ざかり、シェイクスピア作品の音読にかなりのエネルギーを注いでいたが、突然のコロナ渦で中断。個人的にちょっとした試練があったり、ウクライナでの戦争が勃発しなかったら、おそらく好好爺にはなったかもしれないが、企画を再びすることは、なかったかもしれない。

人生に、もしあのとき、ということがなかったら、何てことはどなたの人生にもきっと訪れているのだろう。私の人生もしかりである。ただ私の場合、若き日にかなりの時間を演劇を学び、打ち込んでいた時間が長かったことが、今となっては本当によかったと、しみじみ想うし、その学びの時間で体に叩き込まれた、経験がいまこの年齢で発酵するかのように活きてきて、現在の私を支えてくれているのは間違いない。

人生は一回こっきり、DVDのように再生不可能である。一言で言えば、演劇も一回こっきり、言わば2時間なり、長くて普通3時間のなかに、言わば人生がぎゆっと凝縮されているのが演劇なのである。このようなことを徒然打っていたら、もうずいぶん演劇を見ていない。

話はあちこちするが、今年は夏に下北沢の本多劇場で加藤健一さんの芝居を、なん十年ぶりかで見ることが叶った。元気なうちに再びシェイクスピア作品を舞台で見たくなってきた。チャンスがあったら、機会をつくって。そして企画と共に、松岡和子さんの新しい翻訳で、シェイクスピアの好きな作品音読を始めるつもりである。60歳代は小田島雄志訳、70歳代は松岡和子さんの翻訳でシェイクスピア作品を、新たに楽しんで学びつつ挑戦したいのである。企画とシェイクスピア作品音読は、自由自在に私のなかで背中合わせに繋がっている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2022-11-05

新聞一面、今朝の東アフリカ大干ばつの記事におもう、思わぬ五十鈴川だより。

外はまだ暗いなか、新聞を取りにゆくと一面トップに東アフリカエリア大干ばつ、気候危機の記事が大きく掲載されていて、数百万の動物と人間生活の危機が伝えられている。いささか 重い気分で、五十鈴川だよりに向かい合っている。昨日の夕方のNHKのニュース映像で、インドのニューデリーでの大気汚染の映像を見て、あまりのすごさに、目が吸いつけられた。

実は相当昔、20数年以上も前、初めて東インドカルカッタに行ったことがあるのだが、そのときの大気汚染のすごさを体感した記憶が、今回のニュース映像で、まざまざとあのときの記憶がよみがえってきたのだ。あれから数十年、インドの経済活動は目覚ましい。その一方で深刻な大気汚染が、西インドニューデリーまで及んでいることには驚かされた。かくも大気汚染が進んでいることに。命を脅かす大気汚染生活を多くの人々が強いられている。特に赤ちゃんを含めた未来の人々の命にたいして、排気ガス、二酸化炭素を大量にばらまく企業は、真剣に考え対策を高じるのが、21世紀の企業倫理であるのは言うまでもない。持続可能社会を急がなければ未来はないと、かなりの若い世代が意欲的に取り組んでいるのが、希望救いである。

経済発展という幻想強欲グローバル資本主義、とても私の頭、言葉では整理表すことは不可能ではあれ、このおおよそあまねくゆくわたりつつある全地球車社会、飛行機ほか、高速移動モビリティ、排気ガス社会がもたらしていることは、まず間違いない。コップ21気候変動対策が行われているが、そうこうしている間に、とんでもないことがもうすでに起こりつつあるのではないかという、恐ろしさが老人の私をとらえてしまう朝である。

色づく我が家のホウキ草

岡山に、日本に暮らしていると、限りなくピント来ないが、40才までに、そしてその後も50才までアフリカ、インドほか40か国近い国を旅したことがあり、異国から母国を眺めたことがことがある私には、もちろん私を含め、日本人は限りなく穏やかで平和に慣れきった、極楽とんぼ民族のように思えてしまう。

もう十分に、私を含めこの惑星に生存するかなりの人々は、人間のこの利便性の究極を求めてやまない一見快適な幻想性の上にたって進行してきた生活のなれの果てに、よもやこんなに生物多様性が失われ、結果緑が砂漠化し、結果人間の心、精神性までもが、カラカラに砂漠化していることに、気づいているのではないかと。

対岸の家事どころではない。この地球に生を受け、奇跡的惑星にすんでいられる70億以上もの人類は、草木一本までが、命で繋がっているのだ。水と光と土があればこそ、あらゆる生命は循環し生きることが出来る。まずは食えていきられる。その事があってこその文化健康社会であある。お札や金貨は食えないのである。基本のおろそかな社会は儚い。家族ほか、つまり人間が(ペット、家畜、すべての動植物)命を繋ぐことが出来る(自然に生と死が循環し)社会の構築こそが急がれると、初老盆ぷはおもう。手遅れにならないうちに。

排気ガスほかが日々撒き散らす、見えない空気のなかに含まれる、命に害をもたらす危険な物質が日々人々の体に蓄積され、ある日突然臨界点 に達してからではあまりにも遅い。ではどうするか、一人一人がやれることを考え続け、諦めないことである。(ということしかない)わたしは反省する。いたいけない無垢な孫の表情を見ると、老人のわたしはどこかがいまだうずく。少しでもきれいな酸素を吸わしてあげたくなる。(すべての子供に)未来の人たちに今を生きる大人は責任がある。

一分間酸素が途絶えたらヒトは死ぬ。日々の生活のなかで、もっとも大切なことを見失わない想像力と、見て見ぬふりをしない勇気、そしてこれは自分に言い聞かせる。書くことも含め、なにか自分に出来る事を実践することだと。(おもう)


2022-11-02

昨日11月1日、来年春の企画に向かって静かに動き始める、そして想う。

 すでに11月にはいっている。もうすでになんかいか打っているし、たぶんもっと老いて、五十鈴川だよりが打てなくなるまでの間、きっと認知機能が衰えるにしたがって、繰り返し打つことになるかもしれないが、打たずに入られないほどに、こうして打つことが、書くことが、言わば好きになろうとは、摩訶不思議といわずにいられない。二十歳くらいまで、読み書きは全く苦手だったのだから。人間は変化する。だから面白い、のだ。

さて、おそらく10年間以上、五十鈴川だよりを打ち続けているからこそ、手前みそではなくなんとか、心身機能を保ちながら、万座にお恥ずかしき一文をさらすという営為を続けていることに。でも、打ち続けているからこそ、なんとか平穏に生活できているのかもしれない。

妻の生け花

打つということと、書くということは、まったくことなるということを、どこかで認識しながら五十鈴川だよりを打っている。なぜこういうことを打っているかというと、昨日本当に久しぶりに、硯で墨を擦り30通ほど封書に名前を書く作業をつづけた、からである。

ゆっくり筆でお名前を書くだけなのだが、それなりに時間がかかったが、新鮮な気持ちでいい時間を過ごすことができた。

デジタルでの一文と、手書きの文字では、まったくといっていいほど異なるが、もうわたしはその事を、どこかで意識しながら、可能な限り両方を併用しながら、綴ってゆこうと決めている。そして回数は少なくても、筆で日本語を綴るという営みは、腕が動く限りますます大切な時間として続けてゆきたいと想う。

来年、71才の春の企画までは、今年の突然の10年ぶりの企画と異なって、ゆっくり進められるのがありがたい。老人はお便りを書きながら、150人の集客に向けて、日々の生活をまずはきちんと大切に送りながら、事を進めてゆくつもりである。

老人にもやれる、もっと打つなら、老人だからこその企画を見つけたいという、でくの坊(否定的な意味でのことばでは全くない)ならではの、世阿弥の言葉を胸に刻みながら、老いの花といえるかのような企画がやりたいのである。あえて打とう。満開で散る花のようにありたい、というのが老いのざわつき、なのである。ざわつく間はざわつく、その事に正直でありたい。これ以上打つと、野暮なので控える。

古希を迎えて、わたしはご活躍くださいとか、ご成功を、何て言葉に全く関心がない。成功なんて言葉からは全く遠い境地を生きているし、そういった現世的な常識や価値的なものにはとらわれない企画、老人力というものを謙虚に見つめ、未知の世界を堀り続けたいのである。

先月沖縄にゆき、【多嘉良カナ】さんの歌と躍りを体感することの奇縁を持てた。岡山で企画したいと、企画者の血がさわいだのである。今の私が出会えたアーティスト、能楽堂ホールは集客数150人、大規模な宣伝は不要である。わたしはまずは大切な友人知人に、足を運んでいただきたいと思っている。

一日一枚、ティケットを売るつもりくらいの気持ち、手書きで、まるで時代に逆行するかのような企画であるが、私にとってはこれが老いの花、贅沢なのである。このような私の老い力のこもった企画に、この世の片隅でアンテナをたて、心を磨き、そっと生息している方々に届くように、体を使って私の企画を届けるつもりである。

2022-10-31

36回目の結婚記念日の朝に想う、五十鈴川だより。

 10月31日は36回目の結婚記念日である。昨年も打ったかもしれないが、36年前はハロウィンでのお祭り騒ぎなどは全くなかったと記憶する。私などの世代にはまるで異次元のお祭り騒ぎのような感じでただ傍観者的に眺めている。時代は急激にあっという間に移ろう。

お隣の韓国イテイウォン盛り場では、狭い路地に密集した若者たちが犇めきあふれ、身動きがとれなくなり坂道を転げ落ち、日本人二人も含め154人もの命がなくなるという惨事が起きている。痛ましいという言葉が、どこかむなしいほどの、現代という世相をあぶり出しているかのような出来事である。

結婚記念日日だまりの花

地方に住んでいて、すでにほとんど社会的な役割を終えた高齢者の私ではあるから、今の若いかたたちの群れをなした、アノ集団行動には理解が及ばないにもせよ、だからこれ以上触れることは控えたいののだが、なにか不気味な嫌な予感の暗示を、私は感じてしまう。富と人口の一極が大都会に集中し、地方は高齢者率が上がる一方の過疎化のご時世である。

充分に老人であり、ほぼ親の役割を終え、地方にすむ古希の私は思う。あらゆるところにまるで毛細血管のように、経済力始め無数の格差が、この数十年で日本社会の隅々に張り巡らされ、未来に希望の出口が閉ざされているかのような今の時代、若者たちがハロウィンという格好のお祭り騒ぎに一夜熱狂するのは、十分に理解できるような気がしてしまう。もし私が若くて、なんの希望も持てなかったら、きっとあの匿名性の熱狂の渦のなかに身を老いていたかもしれない。

政治経済始め、あらゆる分野に人間力が落ちてしまった今の日本をわたしは感じる。日本社会はこの3年にもなるコロナ渦と、ウクライナでの戦争からの物価高騰続きでで、問題山積閉塞感極まる暮らしを大多数の庶民生活者が、都会人も田舎人も抱え込んで出口が見えない中を必死で生きている、というのが私の見立てである。かくいう私もその一人である。だから唯一のこの体でもって、この浮き世の世知辛さを、いかに生きるかまさに必死で考えるのである。私の場合は、五十鈴川だよりをうちながら。

解決策や、出口は容易くはおそらくは見つけられないだろうが、置かれた状況のなかで、いかに生きて行くのかいかないのかは、非情にも聞こえるかもしれないが、古希までなんとか生き延びてきた私に言えることは、まずはやれることは体が壊れない範囲で、何でもいやがらずやってみることだ。知恵を絞って考え、動いてみること。今の若者たちにエールをおくることはこれらいしか、私にはない。

世の中は甘くない、不可解、不条理、理不尽さに満ちている、のが偽らざる実感認識ではある。だが、太陽はあまねく全人類他生物すべてを平等に照らす。土と水と光があり大きめのプランターがあれば植物は育つ、希望は持とうと思わない限り永遠に持つことは叶わない。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、ということばに何度も救われた私に言えることは、簡単に絶望したりすることは、もったいないということにつきる。

いきなり話は変わるが、私がシェイクスピア作品が好きなのは(すべての作品ではない)多種多様な登場人物の、王様から物乞いまでの台詞のなかに生きてゆく上でのヒント、あるいは勇気をもらえる言葉がかくも豊かにちりばめられているからである。

その気に入った作品の言葉を呪文のように唱えると、気分が上向くのである。我が体は言葉でできていることがよくわかる。気持ちのいい言葉を音に出し、音のシャワーを浴びる。私もかなりお金の弊害が染み付いている、のを否定しない。がお金がすべてではない、のだ。もうこの年齢になると、必要なときに必要なことが賄えればそれで足りるのである。

足りなければ動けるからだがあり、必要とされる限り働き、足りていれば好きなことをし、疲れたらなにもしなければいいのである。お金に頼らなくても楽しみは見つけられる。要は見つけられる体と頭があるか、ないかである。畏敬する作家、佐藤優氏は拝金教といっているが、小さい子供は遊びを見つける天才である。その事をもうみんな忘れてしまったのである。

とりあえず、今日一日やることがあり、今日一日を平穏に生活できれば、ありがたいという他はない。


2022-10-30

昨日藤原新也さんのふるさとで行われている集大成、回顧展に出掛けてきました。そして想う。

 昨日日帰りで、北九州市立美術館別館まで、藤原新也さん(なんどかお目にかかったことがあるので、さんと呼ばせていただく)の50年にも及ぶ、集大成の、形容し難い多岐にわたるお仕事の回顧展に足を運んできた。

私ははそれぞれの人生の季節に、出会えた人や書物から自分でもおもいもよらぬほどの影響を受けてしまうことがある。他の人とは比較しようもないが、ことに私の場合はそのような傾向がある、ということを否定しない。

20代の後半から30代、40代まで折々藤原新也さんの書物、写真集をずいぶん手にしてきた。それらはすべてではないが、私にしては多い。いろんなことを学ばせていただいた。この年になってみるとずいぶん影響を受けたのだということがわかる。折々の人生の転機の決断をするときに、藤原さんの発する言葉や美醜の概念を破壊し創造するこれまで見たこともない写真に圧倒された。裏表、多面的複合的に対象に迫り、見据える強靭な眼差しに、何度もこの人にはかなわない、お見通し、と脱帽した。

藤原さんの発するコトバニ勇気をいただきました

修羅場を潜り抜け、土ぼこりの舞う荒野を一人歩き、おびただしい世界の多様性、世界の国々の多様とでもいうしかない人間の存在の豊かさ、生活の営みの上に築かれた人間の存在感のたしかさを知らしめてくれた写真家である。

若かった私はビックリした。自分も見知らぬ世界の人々をこの目でみたいと思った。だが、当時の自分にはあまりにも力がなかった。だからか細い自分を鍛え、真っ当にいきる勇気を身に付けないと、このまま時代の大きな流れの渦のなかに巻き込まれ、うたかたの泡のような人生を送ることになるのではないかという恐怖心のような気持ちにおそわれた。当時20代の終わりで、これからどのように生きて行けばいいのか途方に暮れていた私は、もし藤原さんの書物に出会わなければ守りに入って安易な人生を送っていたかもしれない、のだ。

それほどに、若かった私は藤原新也さんの特に言葉に触発され影響を受けたのである。そして今つくずく想うことは、影響を受けて良かったということである。31歳で富良野塾に参加しようという勇気がわいてきたのは、明らかに藤原新也さんの時代を深く見据える言葉に、まだ若かった私のからだが鋭く反応したからだと、おもえる。

テレビをあまり見ない私に、藤原さんの番組が日曜美術館であることを友人が知らせてくれた。藤原新也さんの集大成の回顧展が、ふるさとで行われているのを知った。足を運んだのは間接的ではあれ、感謝と、見ておかねば、という強い気持ちが動いたからである。

回顧展の集大成のタイトルは【祈り】である。ひとこと五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい、出掛けてよかったことを。藤原新也さんは勇気ある単独行動表現者である。50年間、この激動人類人間社会の行く末に絶望的危惧を抱きつつも、今も写真を撮り、ことばを発し、書をしたため、絵を描く。

78才、50年間の回顧展、一人屹立し、ただただじっと地球に生息する人間、風景を見つめ写真を撮る。ことばが生まれる。人間と同じように花や蝶もゴミも水滴も、生と死まるごと曇りなく見つめる。人類はどこに向かうのか。

独自、藤原さんタッチ、夢か幻のような写真の多様さ、紛れもなく氏にしか撮れない写真である。詩人的な感性は、自由自在に時代を地球を横断する。権力者の横暴に単独で古希を過ぎても怒る。畏敬するに足る希な表現者である。行動しSNSで発信する。香港の雨傘運動をこのような形で発信した写真家が他にいただろうか。私は知らない。みずみずしくやわらかくあたたかくやさしい。希な普通感覚で世界の不条理を打つ。能力は遠く及ばないが、この精神を少しでも藤原さんから学びたい。この希な表現者と同時代に生きて出会えたことの幸運を、きちんと五十鈴川だよりに打っておきたい。

2022-10-29

古希のこれからは松岡和子先生の翻訳で、ウィリアム・シェイクスピアを音読することに決めました。

 一昨日、日本で初めて女性でw・シェイクスピア全作品を翻訳された松岡和子先生から御著書【すべての季節のシェイクスピア】という本が送られてきた。直筆の一文も添えられて。

20代の終わりの数年間、私は当時渋谷のジャンジャンを拠点に、小田島雄志氏の、当時新しい翻訳で、シェイクスピア全作品の完全上演に挑んでいた劇団シェイクスピアシアターに在籍し、日本ではほとんど未上演の作品8本に、最後の数年参加することができた。(この体験はその後の私の人生をどこかで決定的に支えているように思える)


もう40年も昔のことであるが、その当時の記憶はいまだ生々しく脳裏に刻み付けられている。そのようなことを打ち出したら、長くなるのではしょるが、松岡先生はたぶん当時はまだ大学の先生で、シェイクスピアの翻訳はされておられなかったと思うが、よくシェイクスピアシアターの舞台を観に来られていた。まだみずみずしくお若くキラキラ輝いているお姿を、度々私は見かけていた。

あれから幾年月、歳月は流れ、私は40才で岡山に移住、中世夢が原に職を得て、全くやったこともなかったが、企画者となった。22年間の仕事を終え、子育ても終わり、61才で再びシェイクスピアを声に出して遊ぶ塾を立ち上げ、青春ではなくなったが老春を今一度ってな感じで、奇特な塾生とともにシェイクスピアの豊穣な作品群に挑んでいた。

松岡和子先生が筑摩書房から、文庫版でシェイクスピア全作品を翻訳しているということは知っていた。ある日丸善に足を運んだ。すでにかなりの作品の翻訳がすすみ、翻訳されたご本が並んでいた。私は小田島訳をテキストにしていたので、松岡先生の文庫版は読んでいなかったが、文庫の巻末に作品の日本での上演史が掲載されているのを知って驚いた。

【間違いの喜劇】の配役表のなかに、なんと私の名前が記されていたのである。今ではかなり名前の知られた俳優、吉田鋼太郎氏の名前とともに。面映ゆい気持ちとともに、青春時代の貴重な個人的な記録として、文庫本のなかに一行私の名前が残っていることに、私は嬉しさを禁じ得なかった。妻や娘たちはわたしの熱き20代を知らないからである。

松岡先生の翻訳は脚注が多く、私のような無知な輩は本当に学べる。そして学ぶことが無限に面白いのだ。細やかな女性ならではの配慮が、この小さな文庫本にはぎっしりとつまっている。このような視点での、全作品完訳の偉業をなされたかたと、ほぼ40年ぶり今年の夏8月、下北沢、本多劇場に加藤健一さんの芝居を見に行った際、芝居が終わったロビーで松岡和子先生と再会したのである。(その際のことは五十鈴川だよりに書いている)

私は完全翻訳のお祝いを言葉で伝え、上演史のなかに私の名前があることのお礼も直接伝えた。岡山に戻りいただいた名刺に梨を送った。(シェイクスピアへの無限の情熱的な愛が詰まった文庫本での翻訳の偉業に脱帽する)そしてそのお礼のご本が届いたのである。

60代は小田島訳、70代は松岡和子和子先生の翻訳で、無限にシェイクスピアを学びつつ、枯れつつも小さな声で音読できるかと想うと、燃える秋へと私は誘われる。

2022-10-23

10月23日朝、昨日の書評の一部を貼り付ける。そして想う。

 お休みの日でも、ほとんど起床時間は変わらない。起きて昨日土曜日の書評を読み、そのうち5つをノーとに貼り付けた。たぶんこのようなことを20年くらい続けている。内省時間を、静かに一人で過ごすにはまたとないひとときが持てるからである。そのうえ自分のあまりの無知をおもい知らされるからである。何故このような習慣が身に付いたのかは、きっとおこづかいが限りなく少ない子育て中に、お金不要で、部屋で居ながらにしての知見が広がりが持てるからである、とおもう。

老いつつも生きている精神を、かき回してくれる書評に出会いたいのである。今もどこかで、可能なかぎり有意義に存在したい、感じたいという、いわばあまのじゃく的なおもいの性なのである。


すべからく、やがては貼り付けたことさえ忘却の彼方へと誘われるとはいえ、愉しいことには抗えない、のだ。ことさらな理由はない。掃除しないと気持ちが悪いのににている。書評氏の読んでほしいとの切実なおもいが伝わり、読んで本当に良かったとの私のおもいが合致して、しっかり読みましたよとのおもいが、ノートに貼り付けさせるのだと想う。

どこかで徒労のようなこの行為、時になにをしているのだろうとのおもいも偶さかよぎるが、習慣化、どうにも落ち着かないのは、無知の扉を開くと老いつつある体に、新しい光が差し込んでくるかのような刺激をいただけるからである。(とおもう)

今朝は、小島ゆかり評、松村由利子著【ジャーナリスト 与謝野晶子】 鹿島茂評、矢崎泰久・和田誠著【夢の砦 二人でつくった雑誌、話の特集】川本三郎評、呉濁流著【アジアの孤児】中島京子評、松居直著【私のことば体験】佐藤優評、新美敬子著【世界のまどねこ】を貼り付けた。

特に、【世界のまどねこ】の書評、佐藤優氏の一文には打たれた。氏は腎臓ガンであることを告知されていて、現在週に3日、4時間の人工透析をされている。そのような日々の暮らしの中、ウクライナでの戦争を一日も早く止めさせたいという思いで、情報収集と原稿書きに追われている、とある。そして猫に見習い、日にあたって体調を整えている、と。そして私は、佐藤優氏の一文に、言葉の光を浴び、ノートに貼り付けるのだ。

2022-10-22

桑江良健さんからお葉書をいただきました。そして想う。

 数日前、桑江良健さんからお葉書をいただいた。桑江さんの絵に魅いる子供の写真のポストカードに、今後は風のように存在するとの言葉が記してあった。いたく同感する。やはり一仕事をなし得たものにしかわからない、本人にしか関知し得ない心境のようなものがあるのだと想う。芸術家は絶対的な孤独を生きている。私などの凡ぷには、計り知れないほどの画業時間を生きて、試行錯誤の果てに、氏にしかなし得ない作品群を創造してきた、氏の内的発露の思いの深さを前にして、ただ脱帽してしまう。

ヒトは心が動く生き物である

このような希な人とお近づきになれ、冗談が言い合え、その上お葉書をいただけるなんて、古希男は、ただ嬉しいのである。この喜びは四半世紀のご交誼の時間があればこその、喜びでもある。生まれ落ちた、言わば宿命のようなものから、人は逃れられない。いやでも自分という得たいの知れない、傷つき壊れやすい生命という器を抱え運びながら、人はあらゆるすべを身に付けながら、みすぎよすぎこの世、天国と地獄をいきる。

私が出会った、数少ない芸術家とでも呼ぶしかない一人の画家が、桑江良健さんなのである。絵のことは門外漢の私だが、出会って間もない頃に、氏の絵を一枚求めている。今となってはよくぞ求めたものである。本能で。

企画者と画家との風変わりな交流が、何故にこのような関係性が持続継続しているのか、自分でもよくはわからない。私のような企画者の端くれを、良健さんが面白がってくれていて、ほとんどなんの利害もないのだが、時おり忘れないでこのようにお便りをくださるからではないのかと、手前勝手に思っている。

良健さんは饒舌ではない、どちらかと言えば寡黙である。がしかし、心を許した相手には饒舌になる。私より4才年上の良健さんの話し相手になれるなんとことは誉れである。愚弟としては、一見静かで穏やかに振る舞っている氏の奥底に眠る、決して癒されることがないマグマが画業となり、桑江良健さんの絵となって無意識のうちに産み出される。

年上だが、四半世紀の交誼をふまえ友人と呼ばせていただく。この年まで生きて、初めての画家の友人である。この惑星には80億近い人間が存在しているが、ヒトが生涯に出会い、折々の人生の季節、交流できるのは150人程度と言われている。その中で、四半世紀以上の交誼が持続するのは、家族以外では極めて希な出来事である。ましてやこの70年間の時代の移ろいは、形容し難いほどの目まぐるしい渦中の最中にである。

人の心は、時に残酷なほどに移ろう。それもまた致し方ないとの側に私は立つ。だがしかし、ギリギリのところで、時代の行く末を見つめながら、限りない風圧と戦い根を張りながら生きている、そして作品を産み出し続けている画家の存在は、私に勇気を与える。桑江さんとの邂逅は宿命になりつつある。

(PS 私は古希を記念して桑江さんに絵を一枚発注した。ゆっくりと絵が完成するのを待ちたいと想う)

2022-10-17

企画者として30年(中断もいれて)、家族なくしてはあり得なかった。そして想う。

 来年の春の企画を決めたことで、そこに向けてゆっくりと進みながら、静かに穏やかな生活を、まずは足元の家族の日々の健康を願いながら、心がけたいと想う。今日は思ったよりも雨が激しくはないのだが、肉体労働はお休みにした。

自分では若いつもりでも、なんと言っても古希なのであるから、もうこれからは細心の注意をはらって、無理無謀なことは控えようと決めたのである。(とは言ってもやってしまうのかも)

だが私は老いのブレーキというふうに考え、初めて経験する70代を、家族や友人たちと生きているからこその喜びの時間が持てるように、一日一日を毎日は打てなくとも、五十鈴川だよりをうちながら、考え続けられれば、と思っている。

一度お会いしたかった尊敬する人

さて。家族LINEで来年の企画を決めたことをいの一番に伝えたことはすでに打ったが、いの一番に妻が手伝うといってくれたことが、何よりも嬉しかったことを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

30台半ば妻と廻り合い、娘に恵まれ、私に家族ができ、私の人生は一変した。18歳で世の中に出て、演劇などというまさに無謀きわまりない世界(まさに井の中の蛙でした)に足を踏み入れ、運が良かったというしかないが、なんとか今をいきられているのは、臆面もなく打っておくが妻との出会いのお陰である。そして家族のお陰である。

話は変わるが、コロナの出来からまもなく3年である。この間打ち込んでいたシェイクスピアの音読塾は閉鎖になり、人生で初めての大きな手術があり、次女に最初の子供が授かり、私は二人の孫のお祖父さんになった。そして今年の2月24日には、紛争というにはいうにはあまりにも大きな、人類の分かれめにもなりかねない、ウクライナでロシアによる侵略戦争が始まり、今もおぞましい戦争がやむ気配はいっこうに見えない。

そのような中、私の生活は続いている。私は家族のことはあまり五十鈴川だよりでは打っていないと思う。自分のうちわのことにふれるのは、妻も私もきが進まないからである。だが誤解されてもいいから打ちたいのは、他の企画者のことは存じ得ないが、私の場合、どこか家族が慎ましく穏やかに生活がなし得ていないと、企画ができないのである。

もっと打てば、具体的な応援ではなくても、精神的な応援がないとできないのである。身内に心配事があれば、きっと私のような輩は企画はできないのではないかと思われる。だから、私がつくづくありがたいのは、私のやることを理解するには遠くても、そこはかとなく家族の応援があればこそ、私はエネルギーが湧いて来るのである。

私は思想信条もあやふやな輩であることを、どこか心の片隅で、コンプレックストラウマとでもいうしかないほどに、認識している。だがその事をいい方向に考えることで、凡ぷなりになにがしかの企画が生まれてきたし、でくの坊世界、老いの可能性を見つけたいのである。やがて企画はできなくなり、必ずヒトは、私は死ぬ。

だが今は生きている。そして一人ではない、家族や仲間が応援してくれる。それが今のところの私の絶対的価値であり、宝である。最低のお金は必要だが、十分ではない。ギリギリのところでこそ命は輝く。

企画者の私を鼓舞するアーティストとの出会い。黒子に徹し水面下で支えるスタッフ。そしてどこからともなくやって来て客席を埋める当日の聴衆。まさに一期一会のイベント。40才で初めて企画をして以来、中断含め30年企画を続けているが、家族がいたからこそ、応援してくれたからこそ、企画が今もなし得ているのだ。ただ、感謝である。

2022-10-15

金井喜久子著【愛のトウバルマー】ある歌姫の物語、読みました。そして想う。

 沖縄から戻って、頭の中にこの旅で受けた刺激を整理できないまま、肉体労働仕事をしながら、五十鈴川だよりを打つことが叶わず、今日ようやく打っている。

来年春の4月23日、RSKの能楽堂ホールを押さえたので、多嘉良カナさんを企画することにした。まだカナさんにはお伝えしていないのだが、私の中の腹は決まった。その事は一番先に、家族に伝えた。家族に一番先に伝えたのは、春の私の10年ぶりの企画が実現できたのは、全面的な家族のバックアップがあったからである。

さて、詳しくは記す時間がないのだが、那覇を発つ日に、長年のカナさんの理解者であるT氏から一冊の本を手渡された。タイトルは【愛のトウバルマー】ある歌姫の物語である。カナさんのお師匠さん、初代可菜(カナ)さんのノンフィクション小説である。

数奇な宿命を生きた家族の物語

まったくカナさんのことを、存じなかった、無知な私である。仕事の前、新鮮な頭で5日かけてゆっくりと読み終えた。書いたのは可菜さんの妹の金井喜久子さんである。昭和59年に上梓されている。(私は32才、富良野の大地で悪戦苦闘していた)

川平家という宮古島の旧家に生まれ、激動の時代、太平洋戦争、沖縄戦を生き延びるまでの可菜さんの壮絶な人生が、綴られている。姉に対するおもい、琉球に生まれたおもい、比類ないふるさとへのおもいが、愛あふるる一念が、こもっている希な書物である。

読み終えたばかりなのだが、川平家の一代記というにとどまらず、音楽、歌というものに人生を賭した姉妹の物語である。羨ましいくらいの愛に満ちた姉に対する妹のおもいに打たれる。姉は沖縄の歌、妹は西洋音楽を学びながら、沖縄の旋律を取り入れながら、沖縄の現代音楽を創作してゆく。

今日はこれ以上触れないが、沖縄戦を生き延び、戦後可菜さんは養女を迎え、結果的に2代目となる、カナさんに歌と踊り一切を伝える。この事には触れられていない。来年私はこの初代可菜のお弟子であるカナさんを企画できるという、身に余る運命の糸を引いたのである。

愛のトウバルマー、沖縄戦の最後の姉が妹に語り伝えた、一文の悲惨さは、筆舌に尽くしがたい。ほんのページが残りすくなるにつれて、老いた私の体は想像力が刺激され、おもいはウクライナやアフガニスタン、他の戦争被災地で今も続く理不尽不毛不条理エリアに誘われた。

ありがたいことに、私はもう血気逸るほどには若くはない。若くはないことを、なんとかいい方向に向きを変えて考え、若いかたとはまた異なる。老いたからこそゆっくりと企画ができる世界もあることを、実証したい誘惑を押さえられないのである。

今朝はただ、来年の春へ向けて、暫し老いという言葉を振り払い、カナさんの歌と踊りをRSKの能楽堂でご披露したいおもいである。よき聴衆に来ていただきたく、微力をつくすもりである。


2022-10-09

岡山に帰る日の朝、ホテルにて五十鈴川だよりを打つ。

 充実した那覇滞在3日間が瞬く間にすぎ、岡山に帰る日の朝を迎えた。一昨日の夜は桑江さんご夫妻のよき理解者の方たちとのひとときの宴に招かれ、骨のある方たちとの楽しく、また未知の方たちとの語らいで、言葉にならない多くの刺激をいただいた。

そして昨日の夜は、桑江純子さんが私のために、純子さんイチ押しの芸能者、琉球舞踏家であられる、多嘉良カナさんの踊りと歌と演奏を生で眼と鼻の先で直接聴く機会を設けてくださった。演奏後思いもかけぬ語り合える会席の飲食時間をもうけていただき、わずかではあるが、私も久方ぶりに連日アルコールを体に入れ、饒舌に拍車がかかった。カナさんの人生、芸に対する念いの深さ、自信に圧倒された。

佐藤優氏の旅のお供に欠かせない

この連夜の、濃厚濃密な時間のあれやこれやを、しっかりと書き連ねるのは不可能である。が、日録的にわずかであれ五十鈴川だよりに打っておきたい。特に昨夜の多嘉良カナさんの踊りと、三線を手に全身で歌われた一夜の贅沢というしかない時間は、企画者の端くれにとって、深く脳裏に刻まれたことを、打たずに入られない。

今日はなんの予定もなく、チェックアウトまでの時間があるので、ゆっくりと我が家ではなく、那覇のホテルで朝の日差しを浴びながら五十鈴川だよりを打っている。まもなくコロナ渦中生活は3年になる。いよいよ人の移動も本格的になってきた。ウイズコロナの時代へとシフトしてゆく。そのような最中での今回の桑江良健さんの個展に合わせての那覇への旅は、今年古希を迎えた私にとっての、ささやかではあるにもせよ、大きな言葉にならない意味を与えてくれたように、思える。

今年の2月24日、ウクライナでの大規模な思いもよらぬ侵略戦争の勃発は私の企画者としての老いた血をたぎらせ、10年ぶりに多くの知人友人家族のお陰で企画ができた。そして戦争は未だ止まず、世界各地でのおぞましい戦争は続いている。いったい何故なのか。でくの坊のなりに、蟻のように考える。このまま時代の推移に傍観者的に何も企画しないのは、忸怩たる思いが押さえられない。思想信条もまったくない初老凡ぷの私だが、人と人が殺戮しあう狂気の戦争はどのような大義があれ、ノーの声をあげ続けねば、とおもう。

今もどこかで無念の思いを抱えている、むこの言葉を持たないあまたの民衆、分けても子供たちのことを想像する。やりきれない。ハムレットは、このままでいいのかいけないのかと問いつづけ、あとは沈黙といい死ぬ。桑江さん御夫妻をはじめとする沖縄のかた達の、無念極まる不条理、理不尽さの永遠に癒されない痛みの一端に、四半世紀のお付き合いだが、初めて耳にした。その事は桑江御夫妻の友人として、企画者として私に何ができるのかを、日本人の一人として考えさせずにはおかない。

私の現在のか細い知力、体力、能力で何が企画できるのかと、その重さが私にのしかかる。のしかかるのだが、そのことに躊躇っている時間はないというのが、正直な今の私の思いである。身のほど知らずであれ、これまでも全身で体当たりしながら企画をなし得たのだから、要は冷静に、高齢者の心意気企画を打ちたいとの思いが、今深まる。

2022-10-07

沖縄の那覇の個展会場で桑江良健さん、純子さんと再会しました。そして想う。

 昨日午前10時15分、沖縄についてモノレールで安里(あさと)へ。娘たちがまだ小さいときに訪れて以来の沖縄。ホテルに荷物を預け、すぐにパレットという県庁前にある大きなデパートの6階で開かれている、桑江良健さんの個展会場に向かった。こじんまりとしたスペースの会場に、氏独特というしかない作品群が掲げられていた。

多分良健さんと会うのは、我が家での葉書サイズの展示会以来である。パートナーの純子さん共々、相応に歳を重ねておられてはいたが、絵はもとより門外漢の遠来の珍客を、まったくおかわりなく笑顔で迎えてくださった。暫し作品群に視いる。独特というしかない、形、色彩、無限に創造的にキャンバスを埋め尽くす、沖縄の人々、家族、風景、裸婦、家、植物。樹木等々が。

ともあれ、このような唯一無二の作品を産み出す、桑江良健さんという画家と、ひょんな縁で出会って以来、縁が切れずにこのような形で、時おり再会が持続しているのが何故なのかは、自分でもよくわからない。だが、はっきりと五十鈴川だよりに打っておきたいのは、途方なまでに、頑固一途な画業時間を費やしてきた生まれてきた作品群を眼前にして、私は言葉を失うのである。

言葉を凌駕してあまりある作品を前にして、ただ私は脱帽し頭を垂れ感動し、打たれてしまうのである。まさに絵を描くために生まれてきた男というしかない。何故そのような男が沖縄の歴史、風土から生まれてきたのか。そのことの一端をほんのわずかでも知りたく、私は今回の個展に足を運んだのかも知れない。

私も古希を迎え、以前の稚拙な私ではなく、幾ばくかは歳を重ね、氏の画業に対する常軌を逸したかのような打ち込みの、佐藤優氏の言葉を借りれば、内在的論理が幾ばくかは感じ取れるようになってきたからではないかと、考えている。けっして手前みそで言っているのではない。そういう思いがあるからこそ、多分、氏の発する寡黙な向こう側の息づかい、業の深さ、思いの深さ、もっと言えば生半可ではない絶望の深さを、私は感じてしまうのである。

だが、絶望という言葉を、言葉尻でとらえたら浅い理解で終わってしまう危惧を私は覚える。私が良健さんにいたく魅いられるのは、その余人には理解不可能な絶望と真反対の人間に対する希望、未来への兆しのようなものを、あの物言いに感じるからである。

個展会場です。

私にとって沖縄は、桑江御夫妻をおいて、他にはいない。二人で一対の人間なのである。桑江良健さんの絵は、至らない私を沖縄から照らす。お会いする度に、今をきちんと生きていますかと、問われているような気がするのである。あの一見おおホラ吹きと自分では謙遜しているが、絵に込めた業の純粋さ深さは、門外漢の私でさえ、比類ない画家の存在力でもって圧倒されるのだ。氏の老いつつも枯れない絵に込めたオーラを浴びて、私もささやかに、何かを企画したくなる、のだ。(PS 夜御夫妻に沖縄の夕飯をご馳走していただきました。お昼は友人差し入れのお弁当をいただきました。完食しました。)


2022-10-06

沖縄に桑江御夫妻に会いに出掛ける日の朝の五十鈴川だより。

 起きたばかりで、あまり時間がないのだが、日録ふうに少し打ちたい。これから沖縄に出掛ける。8時15分発なので6時には家を出る。沖縄の友人ご夫婦、桑江夫妻のご主人の絵の個展が開かれるのに合わせ、本当に久しぶりに会いにゆくのである。

今まで、沖縄に出掛けるのはどこか内心忸怩たるものが自分の中にあり、そのことに関して打つのは容易ではない。だがようやく、その忸怩たる思いがなくなってはいないのだが、少しは以前よりは減ってきている。がその事に関しても打つのは、容易ではない。

理屈はともかく、ヒトがヒトに会いにゆくだけなのである。今、元気なうちに会って、いろんなお話をしたい人なのである。この年齢になると心から会いたいという人はそうはいない。なにはなくとも特に語り会いたいという人はそうはいない。だから嬉しいのである。

沖縄にかじまや、在りです。

たった二人の、だがとびきりの私の沖縄の友人に会えるかと想うと、嬉しいのだ。沖縄にゆくのはいったいいつ以来か。もうずいぶん行ってないのは事実である。コロナ以前も沖縄には行っていないので、いずれにせよ、ずいぶん出掛けていない。だから繰り返すが嬉しいのである。古希を迎えた高齢者ではあるが、どこかまだうきうきする自分がいるので、今回の沖縄への3拍4日の旅が嬉しいのである。ついこないだの故郷帰省旅を終えたばかりなのではあるが、続いて沖縄への旅ができるのは、ありがたいというしかない。

普段は静かな生活が続くだけなのであるが、時おり非日常生活が偶然連続して続いたりするのもまた、老いゆくなかでの楽しみのひとつとして、自由自在に流れてゆきたいという思いが強くなっている。いずれにせよ、もうこの年齢になると、すべてはお導きに身を委ねるしかない、というような心境なのである。

計算したようには、人生はまったくと言っていいほど進まない。生活しながらとぼとぼ歩いていると、これは私の場合だが思わぬことが起こるのである。だから桑江御夫妻似合うのが楽しみなのである。分けても、ご主人の良健さんと男同忌憚のない話ができるのは、無上の喜びである。

沖縄が宿命的に抱え込まざるを得ない途方にくれるあらゆる問題にたいして、絵筆一筋、人形劇一筋、これほど真摯に生きておられる御夫婦に、何故か出逢えたこの巡り合わせを、私は今回の旅で、しっかりと受け止め耳を傾けてきたいと考えている。耳をそばだて、企画が生まれてくる可能性を自分の中に期待したいのである。私には企画することしかできないからである。

2022-10-05

一般道を往復運転し、先週末ふるさとに帰省古希の旅をしてきました。そして想う。

10月に入って最初の五十鈴川だよりである。先週金曜日早朝から、車でふるさとに向けて運転し、日曜日午後9時過ぎに無事に帰ってきた。月曜、火曜と働いたので、落ち着いて五十鈴川だよりを打つことができなかったのである。

実は心のなかで、3日間でふるさと往復1200キロを運転するのは、少し不安であったし、妻にはちょっと、秋なので遠出すると伝え、ふるさとに帰るとは言えず、そっと家を出たのである。前日オイルを交換、タイヤやその他のチェックも済ませ、準備はしていた。(非常食、飲み物他)

私はこの数年、ほとんど高速道路を走らなくなった。自分の判断力、反射神経の衰えを感じているからである。万が一事故になったら、まず大変だからである。命は買えないのだ。したがって、ゆっくりと自分では安全だと思える普通の速度で一般道を走る。一般道路であれば、休息さえきちんととって安全運転を心かければ、事故に遭う確率は、普段の暮らしの中での運転と大差ないと考える。死ぬ確率は高速道路よりずっと低い。

信号待ち他、都市部を抜けるのは時間がかかる。だから私は呟く。リア王の台詞のように、神よ老人の私に忍耐を与えたまへ、と。音楽を聴きながら妄想老人は走る。車はコロナパンデミックが始まった頃、買い換えて普通車にした。シートを倒せば車内で横になって仮眠ができるようになっている。
小泉八雲記念館で求めました



広島まで走り、宮島のコンビニでゆっくりと休んでいたら、急にやはりお墓参りに帰りたくなった。兄に電話をしたら驚いていたが、嬉しそうな声で、とにかく安全運転で無理をするなと、当たり前なお返事。それから二時間に一度くらいの休憩をコンビニでとりながら、お昼過ぎ関門海峡を越え昼食、長めの休憩本を読んで昼寝、目覚めコーヒータイムをして、別府大分と走った。

日が暮れ、夜の運転は、このところほとんどしたことがないので、余計に慎重に運転し、大分で夕食を済ませ、再び少し横になって、両親がなくなって以後のこの20年、よく運転した大分から延岡に抜けるよく知っている、通行量の少ない道を走って午後10時無事に兄の家に着いた。

西大寺を出たのが朝の5時過ぎ。日にちが変わる前にたどり着いた。翌朝となりの姉の家を訪ねると、姉はビックリしていたが、愚弟の里帰りを喜んでくれた。義理の姉の美味しい朝御飯をいただき、すぐに姉と共にお墓参りにいった。お墓参りに帰ったのだから、もう目的は達した。

その日は終日兄の家で体を休め、姉と義理の姉が作ってくれる美味しい家庭料理の昼食を堪能し、兄たち姉たちと語らい会う時間を持ち、急な帰省の喜びに浸ることができた。午後、義理の姉が作ってくれた鯵のお寿司や、姉がくれたお土産を積み岡山に帰る準備を済ませ、兄夫婦と外食の夕飯を済ませ早めに寝た。日付が変わった真夜中地震で目が覚めた。兄も起きていたので、お礼を伝え予定より早く岡山に向かって故郷をあとにした。

関門海峡を抜けるまで、日曜日だったので車が少なく、途中何回かお休みしながら、コンビニで熱いコーヒーを飲みスムースに運転することができた。西日本に入ったら安堵l感におそわれ、下関で数時間仮眠した。

下関からは191号線で萩をぬけ、なんとも美しい入り江の日本海の海を眺めながら、9号線を走り、浜田の道の駅で日本海を眺めながら昼食休憩し、午後3時に島根、松江に入り、以前からゆきたかった小泉八雲記念館を訪ねた。ゆっくりと2時間近くをすごし、松江から新見へと抜け、岡山に入り高梁から総社を走り午後9時過ぎ、無事に帰ってきた。すぐに兄にメールを打った。

頭はまだ冴えていたが、一気に疲れが出てお風呂に入ってすぐに横になった。ちょっと時間的にはハードな古希の帰省旅となったが、兄や姉、義理の兄姉とも年を重ねたもの同士の、まさに一期一会の時間を過ごせたことが、ありがたかった。なにはなくとも、お互い元気で今をいきられていることを確認し、会えただけでも、私としてはいうに言えない満足旅となった事を、なんとしても五十鈴川だよりに打っておきたい。

老いてゆくなかでの、オーバーかもしれないが、私にとってささやかな冒険帰省旅であったのだ。コロナ渦中、古希を無事に迎えられたことに対する、自己満足帰省旅がしたかったのである。今現在の体力やあらゆる事を総合的に勘案しながらの老いゆくドライブ旅は、これからの70代をいかに生きてゆくのか、そのための出発点の旅となったように思える。

私だって無謀なことはしたくない。家族に心配をかけたくはない。やがては新幹線での墓参りになるのは承知しているが、今はまだ運転できるし、何よりも自由自在時間が、自分の判断で可能なのだから、やれるときにやっておかねばとのわがままが、言わば私の贅沢なのである。お金では変えない喜びを、我が体はこれまでの人生で体得したのである。自虐的ではまったくなく、今回の旅で今後の生き方の方向性がくっきりと見えてきたように思える。


2022-09-28

佐藤優氏の本を読んで、灯火親しむ秋をすごす、そして想う五十鈴川だより。

 新聞を取りにいったら、もちろん安部元総理の国葬が一面トップである。見出しだけ見てまだ新聞を開いてもいない。もう五十鈴川だよりでは、政治やその他のあらゆる世の中の出来事からは、遠いところから眺めているくらいの感覚を自認している。

だからといって、無関心なのかというとそういうことではなく、関心はあるのだが、迂闊に軽軽言葉にはできないほどに、初老凡ぷには悩ましくも五十鈴川だよりでは、あまり触れたくはないのである。あえて触れるなら、こんなにも国葬に賛成の国民がいる反面、不賛成の国民もいる。まさに我が国の世論の分断化がこんなにもはっきりと目に見える形で表れたことに、先行きの時代の行く末に、懸念を覚えてしまう私である。

素晴らしい本です

ただひとつ、私が強く感じるのは、表面は分断されているかのような印象が強いのであるが、多くの国民が、時代の先行きや、今の生活に、私を含めこれでいいとは決して思っていないことが、図らずも見える形で露になったということである。不安感という共通分母では繋がっているように思えるのである。

だから、政治や経済他、限りなく私が苦手なことには、個人的には関心があっても、五十鈴川だよりでは、よほどのことがない限り、触れることは今後減ることはあっても増えることは無いように思う。だが、不条理や理不尽、人間としてあまりにも痛ましく感じることなどに関しては、解答や正解が果てしなく遠くても、生きてささやかに思考できる間は、考えたいと思っている。

何故生きるのか、どのように生活してゆけばいいのかを考えるために、おそらくは還暦以降こうやって、五十鈴川だよりを打ち続けているのだから。お金という幻想、魔物にがんじがらめになら無いように、老いゆくからだで、ささやかに肉体労働で得た、私にとっては大切なお金で、書物を求め学ばねば、グローバル化という危うい美名のもとに、ただ消費することに人生を捧げ、結局は自分自身も消費されてしまうのではないかと、本能的危惧を私は抱いてしまうのである。

一回生の人生を、ギリギリ創造的に生きたいのである。あくまでも一人の生活人として。辛うじて還暦以後、五十鈴川だよりを打つことに、今もしがみついて、ささやか極まる思考錯誤(試行錯誤)を今日もまた打っているわけだが、もし五十鈴川だよりを打ち続けなかったら、きっと自分でいうのもなんだが、10年ぶりの企画も叶わなかっただろうし、家族も応援してくれなかったように思える。

だから今更ながらに思う。大事なのは答えを急ぐことではなく、自分が正しいと正当化することでもなく、考えの異なる他者の存在を否定することでもなく、その存在に磨かれながら、自分の沸き上がる気持ちに、できる限り真っ当に、正直にいきることなのだと。その上でが感動する作家、佐藤優氏をはじめとする多くの信頼する方々から、謙虚に学び続けたいという気持ちが深まるのだ。

どこにいても学べるということの醍醐味を、古希にしてまだ私の体は感じている。カタツムリみたいに学んでいる(つもりである)。なんと多くの学び直したいと思わせられる人間が歴史上に存在することか佐藤先生に教えていただいている。【老いてみて・学ぶひととき・有り難き】

2022-09-25

久々、岡山のイオンモールに出掛けました。そして想う。

 秋の代表的な花はなんといってもコスモスだろう。だから今日は時間が許すなら、秋の山野をドライブしてみたいという気分になっている。言えることは、秋は旅心が無性にわいてくることである。

昨日10月初旬、沖縄の大切な友人が個展を行うので、コロナでもう何年も会うことができないでいるその友人夫妻に会うべく飛行機のチケットを買いに、滅多なことでは足を運ばないイオンモールに行き、3泊4日のパックチケットを買った。(出発日によってかなり値段が異なるが、若いときと違って、この年になると時間は買えないと認識しているので、ほどほどの値段のチケットを買った。友人に会える喜びはどんな観光にも勝るのである)

そろそろ終わりの我が家のひまわり

インターネットでも予約できるが、元気に動ける間は、滅多なことではイオンモール等には出掛けることもないので、気分転換もかねて出掛けたのである。旅行代理店も商業施設のなかに組み込まれているので、致し方ないのである。

一ヶ所だけが賑わっているかのようなその商業施設のだだっ広さのなかで、時代についてゆく気もなく、ついてゆけない初老盆ぷは、用事を済ませたら車でさっさと帰ってきた。知人のいる西大寺のメインの通りは、シャッター街となり、個人商店は今は昔である。

昭和男の私は、面影の懐かしきQRコードのない人間商店に思いを馳せてしまうのである。たぶんあの私の源風景が懐かしく、失われてゆく風景を求めて、アフリカやアジアを私は壮年時代飽くことなく旅したのではないかと思う。だが今は昔である。

難しいことはわからないが、新自由主義的な強欲資本主義がインターネットテクノロジーの発達と共に、統合を繰り返し、ぶくぶくと太り一ヶ所ですべてのものが手にはいるような大型化商業え施設が、日本国のそこかしこに出現するようになってしまった。商いの面白さ、人間とのやり取り、会話の妙などは、雨散霧消、淡い交流等といったものは、文学のなかにしかなくなってしまったかのように感じてしまう。

あのおびただしい、商業施設の蛍光灯の明かりの洪水、(電気の節約などといった言葉が言葉がむなしい、なんとまあ人類は二極化が進んでいることか、享受できる側とできない側と)裸電球で闇の濃い幼少期を過ごした私には、なんとも居心地が悪い。これは生理的なもので、人工物が限りなく少ないく、自然しかなかった環境で10才くらいまでを過ごしたがためだと、はっきり言える。これはもうどうしようもないのである。私の感性のほとんどは10才までに出来上がっているのだということを、老いてますます知る、この頃だからである。

だから、そのことを深く自覚している私は、どこか覚めて、どこか諦めているのである。極端な事を言えば、別世界の人たちを眺めているかのような面持ちなのである。人は生まれてくる環境や時代を選べない。私はすでに社会的な役割をほとんど終えている人間なのではあるが、私の娘や孫たちはこの魑魅魍魎資本主義社会を生きて行かねばならない。

このあまりにものと、時に感ずる急激な社会の変化のなかで、人間同士の感性のずれといったものが、今後多面的分野に生じてくるのは、きっと現代社会を否応なく生きている人たちが抱える、避けては通れない問題なのかもしれない。そのようなことをぼんやり考える。どうしたらいいのか、いけないのか、この事に関しては私は諦めていない、考えるのだ。

それにしてもコロナ渦中、こんなに岡山にも人がいたかと思うくらいの休日のイオンモールを行き交う人々を眺めながら、居心地の悪さは何ともしがたく、早々にシャッター街のある、静かな町に帰ってきた私である。

2022-09-24

お休みの日、これからの時候のいい秋の季節は、暫し集中して佐藤優氏の著作を、丁寧に読む時間を大事にしたい。



 えもいわれぬ初秋の朝、徐々に外がしらみ始めるこの時間帯が無性に好きなことは、もう度々五十鈴川だよりに打っているが、きっとこれから先も何度も打つに違いないので、平にご容赦願いたい。暑くもなく寒くなく、ちょうどいい塩梅のこの季節の気持ち良さは、あの暑い夏を潜り抜けたからこその喜びであるのには、違いない。

さて今日は、3連休の中日の土曜日である。先週に続いて3連休が2回もやって来るのが、私としては嬉しい。昨日は今は書斎としてはほとんど使っていない、部屋の整理や片付けにほぼ半日を費やし、自分としてはかなり片付けたつもりなのだが、ぱっと見にはたいして片付いたようには見えない部屋で過ごした。

講義を受けたいと切に思う

たいして片付いてはいない、過ぎし日の写真や古い手紙などを整理してみいっていると、瞬く間に時間が過ぎてしまうからである。私のように空想癖があり、物思いに耽りがちな輩はきっと整理整頓には向かないのだと、諦める他はないのかもしれない。思いでの本や、手紙などはどうしても捨てられないので、古希を境にというわけではないのだが、新しく買うのは、よほどのコとがない限り勤めて買わないようにしようとは思っているのだが、やはりどうしても増えてしまうのは、もう仕方ないと諦めている。

どうしても捨てられないものに、取り囲まれながら、思い出に包まれながら、静かに生活しタイのだ。だから、遺す遺産はなにもない私だが、娘に私が成仏したら、思いでの品の数々の遺品をきれいに処分して困らない程度のお金だけは残しておきたい。が生きている間は、思い出の捨てられない品々と共に、暮らしたいのである。

塵も積もれば山という言葉があるが、真実である。今でさえ、書評を読んだりして老いの手慰みではないが、ノートに貼り付けたりしているのだから、大した量ではなくても、いつのまにやら数十冊もたまっていてお慰みである。でもいいではないかと、自分を慰めるのである。この年齢にしてようやく自分にとっての気持ちのいい自足自在時間が過ごせる部屋が2つもあるのだから、と。

どなたかに迷惑をかけるわけでもないし、その事は長女には伝えて了承を得ているし、私としては毎年、年を重ねながら、少しずつお別れできる品々を減らしつつ、2つの部屋が本や物で圧迫感がないくらいにはとどめるつもりである。(いうはやすしではあれ自戒するのだ)

さて、いきなりすっかり涼しくなり、まさに読書の秋来たりという感じで、お休みの日は、平日読めない分、集中して本を読んでいる。読みたい本が次々と現れる。学ぶ本、息抜きの本、様々だが、日々なにがしかの知的刺激を老いゆく体に注入するには、言葉の息づかいが聞こえてくるかのような、書物に出会えるのは至福である。

この十数年、該博な知的巨人、インテリジェンスの知性に満ち、私の遠く及ばない無知の分野のあれやこれやを教えてくださる、佐藤優氏の御本を(難しくても読む)できるだけこの秋は集中して読んでいる。読む前と読んだあとでは、なにかが変わる。へーット刺激をいただくのである。謙虚に知る。懐疑的に知る。難解な哲学書から、漫画やテレビドラマまで読み込み、時代のいまの、刻々と推移する時代情況を分析する、知的眼力には敬服する。

このような人間がいまの日本に存在することに、どこかで無知蒙昧の私は安堵する。

2022-09-21

妻が7拍8日の上京旅から戻ってくる朝に想う。

 台風が去り、一気に涼しくなり今朝などはいちまい多く羽織って膝掛けなどして、五十鈴川だよりを打っている。膝には妻がいなくて寂しいのだろう。花が珍しく乗っかっている。だから膝が暖かくて気持ちがいい。言葉を持たない、わがままな花と、すぐに尻尾をふるメルを妻は本当に家族のように大事にしている、その事の重みを、私も徐々に感じ始めている。

さてその妻が、今日午後帰ってくる。なんとか妻が不在中、花とメルの面倒を見ることができたので、それ だけである程度のお役には立てたとはおもう。食事もなんとか全部調理したし、掃除洗濯も。老いては妻からのいい意味での、自律脱却が肝要と努力した。その事をなんといっても楽しく面白くやらなくては、つまらないとおもう。

そのために自分の時間が少なくなろうとも全く構わない。そこをなんとかやりくりする、そのことがまさに醍醐味、老いの未知の分野にささやかにわけ入る、くらいの遊び心が必要ではないかと、シフトチェンジするのである。何事もゆっくりゆっくりとであれ、前向きに進むのである。

話はいきなり変わるが変わるが、手術をして退院してから、肉体労働はリハビリもかねてすぐに再開したが、右腕の下を切ったがために、それまで折に触れてわずかな回数ではあったものの、還暦以降懸垂を運動公園で継続していたのだが、その懸垂をやめていた。

だが、夏のまだ暑い8月半ばから、思いきって鉄棒にぶら下がることから始め、徐々に続けていたのだが、なんとか2回続けて懸垂が再びできるようになってきた、のだ。古希の再出発というとオーバーだが、できなくてもいい、勇気をもってやる。これまでもそうやって来たではないかと、自分に言い聞かせた。(母校冨島高校が私の体にカツをいれたことは間違いない)

このまま老いて、懸垂をやめたら悔いが残ると思ったのである。最初の一回ができたときの喜びは、手術後の古希のいまだからこそなのだ。大空のもとで、大地を踏みしめ体を移動し働き、秋の夕暮れ運動公園で手を天に向かって向かって伸ばし、大地の引力に逆らって我が体を引き上げる。

妻を待ちわびる今朝の花


たったそれだけの、シンプルと言えばあまりにシンプルな単純な所作。そのことがまるで幼児が初めて逆上がりができたかのように嬉しいのだから、単細胞お爺さんと笑われてもいいのだ。【黄昏て・古希の懸垂・今一度】ってな感じで一日の終わりを迎えるのである。

これからの70代は限られた範囲での自由自在をできる限り満喫する。これまで交遊関係始め、執着していたことなどの一切合切をリセットしたいのである。限りなく自分に素直に、生きなおしたいのである。そういう意味でいったん執着心を卒業し、家族に迷惑をかけない範囲でわがままに、ただ存在したいのである。

臆面もなく打とう、もう古希だから。妻が帰ってくるのが嬉しい。妻とのこれからの人生時間をいかに生きられるのか、私は考え続ける。

2022-09-19

台風の風音に耳を済ませ、生活し、今日の五十鈴川だよりを打つ。

 外はかなりの風が吹いていて、近所の樹木があおられているのが視界に入ってくるし、風の音も響いているが、まだ雨は落ちていない。この機を逃さず敬老の日というわけでもないのだが、母にささやかにお弁当やおやつを届けにいった。

起きてコーヒーをのみながら、昨日の書評を読んでいたら東京家族から電話が入り、わずかだがテレビ電話時間を楽しんだ。オンラインで間接的ではあれ、映像での会話、コミニュケーションができるのはありがたい。私の世代感覚では、現代はどこかしら魔法のような、バーチャルとリアルの境界が実に曖昧な時代ではないかという気がしてならない、がそれを生きるのだ味方にして。

だがそうはいっても、私は相も変わらず、アナログがた、デジタル感覚には疎い私であり、老いてますますその感は深まるが、いい意味で諦めている。だが己の体を必死に動かしながら、ゆっくりではあるものの、アナログの良さのようなものを大事にすべく、確実に一日一日やれることをカタツムリみたいに過ごしている。

歩みは遅いのだが、確実に手足を動かし、事をなしていると、家事はもとより、生活という私にとってもっとも大事なことがそれなりにはかどっていて、ほっと安堵するのである。矛盾するが、どこかを諦め、どこかは諦めないのである。暫し台風の風音も忘れての休日一人時間は、限りなく自己満足的にすぎて行くのである。

新聞の書評はもちろん電子版でも読めるのだが、相も変わらず一期一会的に読んで、もういい加減にやめてもいいのだが、今だハサミで切って、何割かの今の私に響く書評をノートに貼り付けている。

ささやかなお金不要の楽しみ、自己満足の極致である。積み重ねということがある。もうこの年齢になると、次から次へと忘れてゆくのではあるが、時おりこれはと思う本は買うようにしているし、なにしろ無知なる自分を思い知らされるのでやめられないのである。まさに知的人格に満ちた方の書評を読むという営為は、己の無知を知るための飽くことのない、好奇心の賜物なのである。

いい意味での無知というトラウマ的コンプレックスを、私の場合は武器に変えることで、辛うじて生き延びられてきたというきがどこかしているからこそである。一冊のほんとの出会いや、人との出会いがあったればこそ、絶望的にならず生きてこれたのである。昨日も打ったこととどこかでシンクロするかもしれないが、死を身近に感じる感覚が深まれば、より知的好奇心がどこか刺激されてゆくかのような、いわく言いがたい塩梅なのである。

老い行くなかでの好奇心の一日一日の継続持続こそが、私のいちばんの大事、いまの関心事なのである。これがなくなったら、おそらく五十鈴川だよりを打つことは叶わなくなるだろう。どんなことでもいい、日々なにがしかの、記事や言葉、人、花、あらゆる今を彩るこの世の気もち良さ、気持ち悪さに、関心のアンテナを立て、さび止め感覚で言葉に磨かれる年寄りを目指したいのである。

この方は私にとっては先生である

だから今日の体を動かして、一滴一滴汗をかき、やせ我慢のガマノ油。なにがしかの魑魅魍魎wonderful(不思議さに満ちた)ワールドを、煩悩に身を任せいきるのである。綺麗事ではすまない己という器を引きずりながら。

2022-09-18

超大型台風が近づいて来ている。一人ものおもう朝の五十鈴川だより。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 3連休ではあるが、超大型の台風が近づいていている。したがって静かに生活している。このままの勢力をキープしながら西日本に近づいてきたら、きっと大変な災害をもたらすのではと心中穏やかではない、まれな超大型台風である。

九州全域、我がふるさと宮崎も今日からか直撃を受けそうなので心配なのである。停電他に備えて、最低の家の回りの片付けなどを午前中には済ませるつもりである。お陰さまでという他はないが、この年齢まで大きな災害を体験することもなく、生きてこれたことには感謝しかない。だが、この異常気象都とでも言うしかない、この4ー5年の集中豪雨での各地の災害の悲惨極まる映像は、とてもではないが他人事ではない。

思考する時間を大事にいきる

やれるだけのことはやって、台風が過ぎ去るのをまつほかはない。外出は避けて、食料品も数日間分は買っておこうとおもう。小さい頃台風のすごさを体験しているので、宮崎人としては、この度の台風の規模は、ちょっと想像できない。岡山は九州エリアと違って災害が少ないと言われているが、真備町での悲惨さは記憶に新しいし、こればかりは予想もつかない。だから、やれる範囲の備えをして通りすぎるのを静かに待ちたい。

話を変える。妻が娘たちのところに出掛けている。水曜日から4日間ほど独身生活をしている。妻がいなくても、家事他なんとかこなしている。近所に住む高齢の母のことも含め、なにかとやることが多く、そのことがいい自律緊張感をいやでももたらす。すべては前向きに事を為すのだ。一日の終わり、床につき、今日もなんとか一日がつつがなく過ごせたことに、どこかで安堵する自分がいる。

台風が過ぎ去る頃には、妻が帰ってくる。わずか8日間の妻の不在は、妻の存在感のいちいちの普段は感じないすごさを改めて知る。だから偶さかの妻の不在は、私にはいい薬なのである。【おたがいに・自律してこそ・老後かな】ってな塩梅で私はゆきたいのである。

ふたたび話を変える。還暦を迎えたときには、古希の自分などまるで想像できなかったし、60代をいかに生きるかといったことに、かなり執着し、五十鈴川だよりをうちながら日々を送ってきた。そして、10年という歳月の重みを改めて感じている。この間の家族の変容は、言葉に余る。昨日妻から送られてきた、男の子二人の孫の動画に、時の流れの重さを、ひしひしと感じ、そして打たれたのである。よちよちあるく孫の姿、ブランコで幸せに揺れる孫の姿に。平凡な生活を送れることの言葉にならないありがたさ。

何度も打っているし、たぶんこれからも何度も打つであろうが、これからの先の70代をいかに生きてゆけばいいのかを、五十鈴川だよりをうちながら、どこかでなにかを手放し、諦めながら静かに生活をしたいという、明らかに老いて行きつつある自分を、還暦のときよりもずっと感じながら生活している。だがそれを言葉にするのは難しい。

あえて言葉にするなら、どう転ぶにせよ70代をひとつの元気なうちの集大成のような時間の過ごし方が、できないものかと考えているのである。このようなことを打つとどこか悲観的に思われるかたがいるかもしれないが、私はそうは考えない。死をできる限り身近に感じながら、70代をいかにいきられるのか、いきられないのかを、可能な範囲で、五十鈴川だよりをうちながらささやかにいきたいのである。無理をするのではなく、どこか楽しみながら面白く挑戦したいのである。

確実に死はやって来る。ある日突然に。60代の時より、死を身近に感じながらの生を送るための羅針盤として、一日でも長く家族の行く末、孫たちの成長を見守りながら生活できれば、自ずと己の老い行く時間が、まあ、カッコつければ意味をもつかも、と思うのである。


2022-09-14

妻が今日から一週間上京する、そして想う。

 この数日起きると西の空に残月が浮かんでいる。大昔から人々は月を歌に詠んでいるから、詩歌が大好きなこの国に生まれた、幸せをかみしめながら、私もなにか詠んでみたいきぶんになる。が起きて間もない体ではなにも浮かんでこないのだがありのまま【西の空・起きて新聞とりゆかば・秋空に月・静かに浮かぶ】

さて、今朝は今日から妻が娘たちのところに一週間出掛けるので、駅に送ってゆくためにいつもよりゆっくりと仕事に出掛けるので、五十鈴川だよりを打つ余裕がある。妻にとって大切な家族、メルと花が居るのでなかなか同時にお休みをとって、上京することが叶わないのであるが、それはそれ、よき方に考えることにして、高齢者一人時間をできる限り楽しんで過ごそうと考えている。

せんにちこうのはな

私を含め、大方の男性は定年退職後、なかなかに自立ができず、妻の手を煩わせることが多く、熟年離婚などという言葉をよく耳にする。かくあってはならじと、私は私なりになるべく妻の手を借りずに生きられるように、少しずつ自己変革を意識的に続けている。

だからなのかもしれない、なんとか付かず離れずの夫婦間均衡がたもたれているのは。夫婦なんてものは、生まれも育ちも全く異なる人間が、たまさか出会い、生活を営み、子育てし、その役割を終え、昔だったら老いて死ぬ、というのが当たり前であったのだが、思わぬ長寿社会の到来で、老後(私には今のところその言葉は無縁である)時間を共に長きに渡って仲良く生活するというのが、難しい時代だとの認識が私にはある。

元々他人なのであるから、その事をじっくりと考えてみる必要があるのではないかと私は考えている。そして私なりの結論、古希も過ぎたら過去の自分はできるだけ捨て去り、難しいことは重々承知しながらも、新しく関係性を構築し直すくらいの覚悟をもって、これからの自分時間を生きることこそが、肝要だという結論に至ったのである。

止まれ、これからの一週間、すべてを一人で自立して家事のあれやこれやができるように、努力してみるつもりである。妻が安心して上京できるように、老いのシングルライフを見つめ直す時間として、今日からの一週間を大切に過ごすつもりである。

買い物、炊事、洗濯、掃除、一切合切のつまりは生活を、いかに老いたりとはいえ、きちんとこなせるのか、こなせないのか、私はできる限り楽しんで事をなすつもりである。臆面もなく打とう。退職後、妻のすごさを度々再認識しているので、この際も含め、生活に関する一切合切は妻から謙虚に学ぶことにしたのである。あくまでその上で、自分のやりたいことを追求したいと、考えている。

2022-09-11

新見の法曽にある縄文美術館を訪ね、村上原野氏の作品群を初めて見ました。そして想う。

 昨日午後、思い立って夢が腹退職後初めて、新見は法曽という地名の、旧小学校校舎が縄文土器の展示スペースになっている、猪風来美術館を訪ねた。

初めて訪ねたのは、まだ夢が腹で働いていた頃だから、10年ぶりくらいだろうと想う。何故急に出かけたのか自分でもよくはわ刈らないのだが、風の便りでご子息があまりの若さで急逝されたことを知らされたからであると思う。

縄文世界の素晴らしさに打たれました

私は全く縄文土器については、無知であるがそのあまりの、造形の摩訶不思議な紋様の迫力というか生命力には度肝を抜かれる。急逝された、ご子息の作品をこの度初めてじっくりと見させていただいたが、私がつたない一文で伝えることは到底不可能である。

岡山の新見の山奥にひっそりと、縄文スピリットに啓示を受け、父母、そして今年2月32才の若さで亡くなられたご子息の作品が展示されている。その壮大というしかない、命の輝き、命の移り変わり、命への限りない畏敬の祈りが、渾然一体となって迫ってくる。

母は布に命の循環を祈り、織る。(その一途さに打たれる)父(この父の作品群も唯一無二)と息子(父と母の遺伝子を余すところなく原野さんは受け継ぎ、新たな世界を築いている)は土に縄文スピリットを変幻自在に炎が揺らめくように刻み込む。圧巻である。父親の天衣無縫の豪胆な作品群、ご子息の繊細で優美さにあふれた作品群。言葉を失う。村上原野という芸術家の存在を、私は初めて目にした。

父母ご子息3人の心血を注がれた作品群の足跡が、時代に置き去りにされたかのような、古い校舎のなかに、燦然と輝いている。思い立つ自分がいて、形容を越えた作品群に出会えた喜びを、わずかではあれ五十鈴川だよりに打たずにはいられない。一度だけ原野さんにお会いしたことがあるのだが、その面影がおそらく私を呼んだのに違いない。

人との出会いは、せい妙極まる。早世されたのだ、が作品は生きている。古希を迎え思うことは、人の命が数値化されるこの時代、縄文時代の人々のスピリットに全存在をかけて、打ち込んだ村上原野氏の残された作品群に足を運び、作品と対峙してほしい、と切に思う。

夕闇迫る法曽を後にし、帰路を走っていると日もとっぷりくれた東の空に、雲間から中秋の名月が暫し望めた。村上家族の作品群に出会えた喜び、命あっての喜び、村上原野さんがきっと私を呼んでくれたのに違いない。

2022-09-10

秋の到来を告げる天ノ下で、菜園場の雑草とり土いじり時間を大切にすごし、もの想うこの頃。

 休日ゆっくりと起きた。メルの散歩に行き朝食をとり、おもむろに五十鈴川だよりに向かっている。空はどんよりと曇っているから今夜の中秋の名月、愛でるのは叶わないかもしれない。だが想像力でもって、月を眺めるのは可能だから、それで良しとしよう。

この数日、満月に近づく月を何度も眺めることができたのでそれでいい。万が一眺めることができたら、もうなにおかいわんや、ただありがたいだけである。年齢と共に画面を眺める時間は減り、特に日中は天をあおぎ雲を眺めることが多くなってきた。ちょっぴり幻想的に昔人生活に憧れる私だ。

特に肉体労働をしている平日は、仕事中何度となく天を仰いで雲の流れに目が向く自分がいる。特に昨日の朝は、秋の到来を告げる鱗雲が見事で、思わずスマホで撮って家族に送ったら、娘や義理の息子から、嬉しい反応があった。

鱗雲・頭の上に・迫る秋

自分の体は密接に天と繋がっているので、肉体労働者は天候に限りなく敏感である。だから朝夕涼しくなり、天が秋の到来を告げると、にわかに私の体は元気を取り戻し、嬉しいのである。あの暑い夏をよく乗りきったという、自己満足肯定感に包まれると同時に、苦あれば楽ありを実感するのである。

それと同時に、頭の中も思考が涼しく回転し始め、昨日は仕事を終えた午後、ふたたび職場の菜園場に出掛け、耕し、秋野菜を植えるための場ならし、雑草を抜き苗を植えられるところまで、土いじり時間を過ごした。今朝の五十鈴川だよりをうち終えたら、ブロッコリー、キャベツなどを植える予定である。もう少ししたら玉ねぎも植える予定だ。

60代から少しずつ土に触れて過ごす時間を大切にしてきたが、古希を境ということもないのだが、70代はいよいよ土に触れる時間を大事に過ごしたいというおもいの深まりを体で感じている。土は手強く生半可なことでは、期待にそう作物を育ててはくれない。がしかし、水やり他、最低のことを素人なりに取り組んでいると、チャンと恵みを与えてくれる。その事の喜びは、老いてみて初めて知るといった類いの喜びである。

体を使っての全身作業は、老い行く体をいやでも活性化せずにはおかない。仕事と菜園活動でフルに使った体は、疲労度に満ちるが、心地いい疲れである。自分の好きなことをやって疲れるのだから、ある種のスポーツのようなもの、なのである。

もう何度も打っているし、きっとこれからも打つだろうが、このコロナ下の3年、肉体労働と菜園場時間が、今もどれ程有り難いか、私自身がいちばん承知している。日々目や耳に飛び込んでくる情報は、心身を萎えさせがちなことが多い時代のすうせいだが、個人的に足元で想うことは、日々の季節のうつろいに敏感な体をできる限りキープしながら、土や光や風との一人対話時間を大切にし、限りなくマイナーな人生、豊かな隠居時間を送りたい、私である。

2022-09-04

佐々木梅治先輩と、親友K氏と久しぶりに再会できました、そして想う。

 打てるときに打っておきたい五十鈴川だよりである。先の上京旅で私は二人の得難い友人との久しぶりの再会時間を持つことができた。その事の至福の心情(おもい)をわずかであれ打っておきたい。

一人は18歳で最初に入った貝谷芸術学院で(3年間お世話になった)出会った佐々木梅治先輩である。出会って52年もの間、関係性が途切れずに続いている。上京してもっとも経済的に苦しい時期、そして青春真っ盛りの悩み多き季節、私的に濃密なお付き合いを、今となってはさせていただいたのだと、はっきりと言える方である。年齢は私より7才年上だから、77才である。

その後、佐々木さんは劇団民芸に入り、今は亡き宇野重吉さんや滝沢修さんの薫董を受け、劇団の活動はもとより、他の劇団の芝居にも数多く出演し、メディアへの露出はほとんどせず、地味な舞台活動一筋の方であったのだが、氏を一躍その世界でしらしめたのは、チャングムという韓流ドラマのトックおじさんの声の吹き替えによってである。その後、声優としての出演は引きも切らず続いている。

今朝の我が家の玄関先の花

だが、なんと言っても氏の活動で瞠目されるのは、井上ひさしさんの芝居、父と暮せば(父と娘の二人芝居)を一人で語る音読を、この十数年続けていることだろう。

(岡山でも企画したことが数回ある)昨年久しぶりにコロナ下、私はこの父と暮らせばを、たまたま長女の住む稲城のお寺で、娘と共にみるという幸運に恵まれ、梅治先輩と共に3人で記念撮影ができたのだが、私の胸のなかには、青春時代のほろ苦いおもいでの数々が去来し、万感が押し寄せてきて夢のような夜であった。

止まれ、話はつきない。田舎者がいきなり上京し、数限りない迷惑をかけ、もっともお世話になったのが梅治先輩なのである。だから余程のことがない限り、上京したら連絡を取ることにしている。8月27日朝、梅治先輩から電話をもらってその夜、神楽坂の樽八という奥さまが営む居酒屋で旧交を暖めることができた。

もうこの年齢になると、お互い一期一会を慈しむかのように、語り合うのが普通なのかもしれないが、梅治先輩は相も変わらず意気軒昂精神が若い、よくしゃべる。だからなのだろう私も忙しい先輩からお呼びがかかると、またあの声に会えるのだという嬉しさから、夕食後であれ、三鷹から神楽坂まで駆けつけたのである。

お互い元気で、今を語り合えるからこそ、話に花が咲く。梅治先輩都の会話はショボい話はまったくでない。今やっていること、取り組んでいることに終始する。もっぱら私は聞き役である。そして思う、上京後の3年間、梅治先輩から受けた影響の大きさを今にして知る。

さて、次は親友k氏と。30日火曜日午後4時、神奈川は三浦に住む親友K氏と目黒の近くの武蔵小山という場所で待ち合わせ、数時間旧交を暖めた。氏とは10年ぶりの企画で、3月に横浜で会って以来の再会。あうんの呼吸という言葉があるが、気のおけない楽な関係性が、これまた途切れない友人であることは、五十鈴川だよりでも触れている。

私にも孫ができたり、手術を経験したりと、年齢を重ねながら若いときとはまるで異なる一日の過ごし方を持続しているが、たぶん現実を受け入れながら、氏もまた微妙によき年齢の重ね方をしているのが、どこかに感じられるから、交遊関係が続き深まってきているのではと、私は思うのである。

一期一会を毎回持続したいので、私もいったことがない武蔵小山で、落ち合うことにした。氏と会うときには遊び心が一番大事だからである。無思想、無節操、を自認している私である。限りなく子供に帰ったかのように遊ぶのが、氏と会う際の楽しみなのである。

午後4時3分、氏は武蔵小山商店街入口に姿を表した。時おりの小雨の中、商店街界隈を二人して回遊した。【夕暮れを・意味なく歩く・男づれ】ってな感じで。夕闇迫り、神戸鉄板焼の小さな路地裏のお店に入った。私は特別一期一会再会時間、瓶ビールをのみ、お好み焼き他の、鉄板焼に舌鼓をうった。武蔵小山でのひとときが静かに流れた【親友と・武蔵小山で・落ち合えば・秋の気配と・老いの深まり】

午後7時、再会を約束して武蔵小山で別れた。氏は夕食をご馳走してくれ、娘のお土産にお好み焼きまで持たせた。とうきょうの平日の夕刻、込み合う車内の山手線、井の頭線、京王線と乗り継ぎほっかほかのお好み焼きを手に抱え午後8時過ぎ、むすめのところに戻った。次回はいつどこになるやら、氏はいい感じで老いを迎えている、人知れず努力を続けているのである。だからだと思う、会えるのは。

2022-09-03

8月26日、加藤健一さんのスカラムーシュを観に行って、翻訳者の松岡和子先生に偶然お会いしました、そして想う。

 上京旅から戻って3日が過ぎたが、今回の旅でのこの年齢ならではの実りの多さを、改めて反芻している。上京の目的の一番は、やはり孫たちの成長をこの目でじかに感じたいということであった。その事に関しては、十分過ぎるほどに天然の美を、老いの身でしか感じ得ない喜びをいただいた。我が身の現在のささやかな幸せを綴ることに関しては、やぶさかではないのだが、能天気なせつぶんを打つことは控えたい。ただ一言だけ打ちたいのは、二人の娘家族が、新しい命と共に、懸命に生活している様子に、未来の希望のようなもの、私たちの世代とは異なるライフスタイルを、築きつつあることに打たれたことだけは、野暮を承知で打っておきたい。

松岡和子先生の翻訳

さて、今朝の五十鈴川だよりでは、45年ぶりくらいに、加藤健一さんの一人芝居を観に行った際の出来事を、ちょっと打っておきたい。8月10日の新聞でスカラムーシュ・ジョーンズという道化役者の100年に渡る激動の生涯を、一人芝居で語る記事を読んだ。20代の頃、つかこうへいさんの芝居に出ていた加藤健一さんを何回か私はみている。そして何よりも加藤健一という名前を、決定的に印象づけたのは【審判】という重いテーマの2時間近いモノローグ芝居を、その後何年にもわたって、繰り返し上演し続けてきたという稀な俳優であるからだ。

私はその審判の初演をみている。場所はどこだったか記憶にない。江守徹さんも審判に挑んでいる。この舞台は文学座のアトリエで観た。話は止めどなくなるのではしょるが、31才で富良野塾に参加し、卒塾後家庭を持ち演劇の世界から身を引き、40才で岡山に移住してからは、企画の仕事に没頭し舞台をみることはほとんどなかったのだが、何故か今回の加藤健一さんの舞台は、タイミングの巡り合わせのようなものを一方的に感じ、駆けつけたのである。加藤さんは、私より二つ年上だが、ほぼ同世代である。その事はやはり大きい。

思い付いて出掛けたスカラムーシュ・ジョーンズの一人芝居、娼婦の子供としてトリニダードトバゴに生まれ、父親が誰だかわからない、数奇極まる人生を薄氷を踏むかのように生き延び、50才で白い肌の幻に導かれるように、ロンドンにたどり着く。そこで道化師になる。それから50年の道化師人生の最後の日に、ロンドンにたどり着くまでを、一人語る芝居なのである。(道化師になってからの人生は省かれている)

スカラムーシュと加藤健一さんの人生がまるで交錯するかのように、思い込みの強い私には感じられ、徐々に加藤健一さんの語りの世界に引き込まれ、最後深く打たれ感動し、思いついて駆けつけた喜びに浸った。まったくと言っていいほどに加藤健一さんの声は変わっていなかった。ながくなるが、もう少し打つ。芝居がはね、ロビーに出ると思わぬ方と出会った。この芝居を翻訳された松岡和子さんが歩いている姿が目に飛び込んできたのである。18日から28日までの上演期間、たまたま26日金曜日松岡和子さんもこられていたからこそ、願いが叶った。

松岡和子さんは、先年、日本で初めて女性でシェイクスピア全作品を翻訳された方である。私は20代の終わりの4年間、シェイクスピアシアターに在籍していた、向こうは知らなくても、こちらは何度もそのお姿を、劇場で拝見していたので、すぐにわかった。失礼をかえりみず一方的に話しかけたのである。

先生(と呼ばせていただく)は機転全開で対応してくださり名刺をくださった。岡山から観に来た胸を伝えると、奇縁、なんと先生のお父さんは岡山の児島のご出身とのことで、またもや驚いてしまった。そして、先生は岡山で会いましょうとまでといってくださった、のである。

一期一会という言葉がこんなにもしみたことは初めてである。偶然と必然のお導きのなせる恩恵に、芝居の余韻共々私は今もどこかしら浸りたい自分がいる。思い付けることのなんというありがたさ、アクターとはアクションをやめない人のことであると、今更ながらに想い知った。松岡和子訳のシェイクスピア全作品を私は音読したくなっている。


2022-09-01

実りの多い6泊7日の上京旅、スケッチ風に忘れない内に記録する五十鈴川だより。

9月一日の夕刻である。台風の影響で午前中から雷を時おり伴う激しい雨が降ってはやんだりを繰り返し、いままた外は雨である 。さて昨日午後7時、6拍7日の上京旅を終えて帰ってきた。

記録的に、どんな上京旅であったのかを、わずかではあれスケッチしたい。印象的出来事は後日、お休みの日にまた、エッセイ風に綴れればと、考えている。大体これまでは4拍5日が普通であったのだが、今後はこれくらいの滞在がいいのではないかと、考えている。

手元において繰り返し読みたい

さて、木曜日に午後9時近く次女のところに着いた。一歳と一月の葉くんはぐっすりとすでに休んでいた。(葉くんとは翌朝しっかりと再会した一段と成長かわいくなっていた)金曜日は下北沢の本多劇場で加藤健一さんの一人芝居、スカラムーシュ・ジョーンズor七つの白い仮面をみた。素晴らしかった。

土曜日はのんびり午前中私がカレーなど作り(その日次女は仕事だった)お昼は夫のS平さんが暖かいおそばを作ってくれた。昼食後、3人で井の頭公園から三鷹まで散歩。途中コンビニでアイスを食べた。三鷹で本屋にたちより本を一冊買い、三鷹からマンションまではバスで帰った。午後3時長女がやって来て、仕事から帰ってきた次女と共に皆で夕食。

夕食を終え、私は18歳で上京後、最初に入った演劇学校の先輩であり、以来関係が続いている佐々木梅治(名前を出してもいいだろう、知る人は知っている)先輩と、奥さまが営んでいるい神楽坂の居酒屋で落ち合い二時間以上久しぶりの再会時間を楽しみ、午後11時娘の住む三鷹のマンションに帰った。

ちなみに長女は、夕食後私よりあとに次女のところを出て、その日夜9時約一月ぶりにドレスデンから夏休みで帰省していた、夫と愛息望晃君が成田から新宿にバスで帰ってきたので迎えにいった。

よく日曜日は次女のところで過ごした。午後長女と望晃君がやって来た。ノア君は時差にもめげず元気で、久しぶりの再会。次女を残して次女の夫と葉くん、長女とノア君私の5人で雨上がりの井の頭公園を散歩し、夕刻娘とノア君は調布行きのバスに乗りレイさんの待つ稲城へと帰っていった。(レイさんは時差の関係で仕事に備えて来れなかった)

月曜日4泊お世話になった、次女のところを朝食後あとにして、午前9時半に稲城の長女のマンションへ。時差の調整で一日保育園を休むノア君と一日を私は楽しく過ごした。娘とレイさんは終日リモートワークなので、私が言わば孫の面倒を、お世話をしたというわけだ。二人きりの時間を家でも外の小さな公園でも過ごしたお陰で、よき思いで時間が私のなかに残った。

爺バカを承知であえて打とう、好奇心たっぷりいい感じで4才5ヶ月のノア君はすくすく育っているのがわかった。昼食、夕食娘が手際よく作ってくれ、皆でいただいた。夕食後、ノア君とジブリのアニメ、アリエッティをみた。

火曜日はノア君が保育園にいったので、私は終日フリー午前中横浜の小さな出版社にウクライナが生んだ偉大な詩人シェフチェンコの本を買いにいった。午後都心に戻り、夕刻4時目黒の近くの武蔵小山という場所で、45年の付き合いの親友K氏と待ち合わせ、数時間旧交を暖め、古希ならではの、一期一会時間をすごした。

娘のところに戻ったのが8時過ぎ、ノア君がまだ起きていて、私が寝かせつける役を仰せつかった。元気いっぱい興奮しているノア君はなかなか寝ない、先に私が寝そうだったが、やがて深い眠りに落ちていった。寝ついたノア君は天使である。

そして昨日、朝食をノア君と共に食べ(レイさんがノア君の好きなパンケーキを作った、なんともかいがいしいパパである)お別れ、ノア君を保育園にレイさんが送って行き、戻ってきてリモートワークが始まっても、暫し久しぶりの親子娘3人で語り合いのひとときが持てた。

いい時間だった。娘たちの住む稲城から、私は東京駅に向かった。荷物をコインロッカーに入れ、身軽になり、私の好きな神田、銀座を散策。神田で昼食を済ませ、東京駅のそばの書泉グランデで佐藤優さんの最新刊を求め、午後2時3分のひかりで帰路に、家には午後7時前についた。ぐったりと疲れたが、実りの多いよき上京旅となった。

2022-08-28

8月28日午後、次女の住むマンションのリーディングルームで五十鈴川だよりをうつ。

 木曜日夜から、上京して次女のところにステイしている。あっという間に3泊して、今日日曜日午後、ちょっと時間がとれたので、次女の住むマンションのリーディングルームで五十鈴川だよりを打っている。(明日からは長女のところにステイ、来週水曜日帰ります)

もうすぐ長女が息子と共にやってくるので長い文章は打てないが、ちょっとでも忘れない内になにがしかの文章を打ちたいのである。次女のはじめての子供は昨年夏コロナ下に生まれ、今も終息の見えないコロナ下、元気に一歳と一月を迎え成長している。

次女の住むマンションのリーディングルーム

長女の子供は4才と五ヶ月で、昨日夜約一月ぶりに、お父さんのふるさとのドレスデンですごし帰ってきたばかりなのだが、時差にもめげずやってくる。コロナ渦中であれ何であれ、時は流れ、私にとって宝のような二人の孫は、ぐんぐんぐんぐん成長し、その姿の眩しさは到底言葉では表し得ない。

つくづく想うのは、この年齢ならではの果報のようなひとときを、二人の孫は存分に私に与えてくれている。その事の喜びを、わずかではあれ五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。爺バカと言われようが、なんと言われようがかまわないのだ。爺ならではの喜びとでも言うしかない、じじにならなければけっして味わえない果福を二人の男の孫はもたらしてくれている。

あるところで、現代は家族氷河期のような時代を迎えているとの一文を目にしたことがある。果たしてそうなのであろうか。そういった面も多分に時代的にはあるのかもしれないが、私は家族を持てた喜びを、限りなく時代がどうであろうと、時間の許す限りその果福を、苦楽を、共に味わい、生きてゆく覚悟を古希の体に込めたいと願うのである。

幸い、古希前の大きな手術を乗り越えた私の体は、自制心がいたについたお陰で、以前にもましての健康体を取り戻しているの。これからは一年でも長く、心とからだのケアに腐心し、東京二家族の行く末を一年でも長く見守り、お爺の役割とはなにかを自分に問いかけながら過ごしたいと、思わずにはいられない。二人の孫は私のこれからの人生の足元を照らす存在である。

これ以上打つと、限りなく野暮になるので控えるが、以前も打ったのだが二人の義理の息子の素晴らしさは親バカとあきれられても、やはり打たずにはいられない。二人の娘の夫はデジタルに強い。私はまったく弱い。そのような私ではあるのだが、五十鈴川だよりを打つのを応援してくれる。このリーディングルームで五十鈴川だよりを心置きなく打てるように、あっという間にしてくれた。心強いという他ない。

(と、ここまで打って長女がやって来たので、きょうの五十鈴川だより、本日はこれにて)

2022-08-22

島田雅彦さんの新聞記事を切り抜き、時代の足音の不穏さに耳を澄まし、思案する朝。

 ぐっすり6時間以上寝たら目が覚めたので、起きた。普段は目が覚めても床のなかでお決まりのルーティンをごそごそとやってのち、基本的には5時頃起きるのだが、今朝はなぜなのかいつにもまして早起きした。自分にとっての大切な読書と、五十鈴川だよりはほとんど朝の時間帯にしかしない。

読めないと思いますが

そのような生活をもう10数年にわたって続けている。信じてもらえないかもしれないが、18歳まで、私は本当に自分でも嫌になるくらい、持続力がなく、根気がなく3日坊主を絵に書いたような男であったのである。特に世の中に出るまでは。

だがそのような私ではあったのだが、あれから半世紀以上、世の中にもまれもまれ、少しずつ体に根を伸ばすかのように、自省反省を繰り返しながら、時にふらふらになりながら、そのようなだらしない自分を、少しでも変えたくて、今もそのような心持ちで生きている、のだ。希望の根を張り、見つける運動をやめない。

極めて取り立てての才能なんてまるでない、繰り返すが自己嫌悪に陥るくらいダメな自分であったのだが、気がつけば一番苦手であった、読み書くということが、あれから半世紀以上たって、一番好きになってしまってかのようなあんばいには、自分でも驚いている。人間は一人一人自分で考え、自分で歩くほかに道はない(歩かないことには)。

本当に人間の可能性といったものはわからない。やるやらぬの持続力の違いで、未知なる自分が掘り起こされて来る、その事は自分が一番承知している。だから面白いのだ。うまくは言えないのだが、昨日とはどこか、微かに異なる自分が、新鮮な自分を生きているからこそ、臆面もなく五十鈴川だよりを打ち続けていられるのでは、とさえ思える。

早い話、自己満足であれ何であれ、演劇で学んだ一回生の人生を、いかに生きてゆくのかいかないのか、という永遠の問いを、今もだが、これまでも自分に問い続けたからこそ、ごく普通の凡ぷも多少の変化の果てにいまをいきていられる気がする。その事を謙虚に己に問うには、静けさに満ちた夜明け前の、起きたばかりの新鮮な体に問うのが、私の場合一番なのである。

話を変える。昨日新聞記事を以前にもまして、丁寧に読むようになってきたことを打ったが、作家の島田雅彦さんが、統一協会と政治家の癒着がらみの体たらくと、国葬についての是非について鋭い意見をのべられていて感心したのだが、そのような勇気のある作家がまだ日本に存在していることに関して、どこか私はほっとする。

炭鉱のカナリアではないが、文学者や詩人といった凡ぷには遠い感性の持ち主は、ごく普通の人間には感知できないようなセンサーを持って、私のような凡ぷに知らしめてくれる。島田さんは安部前総理がテロで撃たれ、亡くなることを、事前に予告でもしていたかのような作品をかかれていたらしい。(読んでみるつもりだ)関心のあるか方は、M新聞のワイド記事をネットで読んでほしい。

詳細は省くが、島田さんは時代の不穏さをひしひし、ヒタヒタと作家のセンサーで感じるという。だが私が一番納得したのは、自分が感じる時代の不穏さが現実にならないように、との思いを込めて作品を書いている、とのべられていたことである。まったくこのような作家がいることに、私はどこかほっとする。理不尽なことや、どうもおかしいと感じるようなことに関して、勇気を持って語られる感性に脱帽する。ウクライナでの戦争、勃発から半年。核施設に変事が起きたら、と想うと凡ぷの私でさえ、いたたまれない。