今日から5泊6日上京する。タブレットを6日ぶりに開いたら、鳥取のM氏から素晴らしいコメントが届いていて一気に嬉しくなった。私の五十鈴川だよりには、ほとんどコメントがない。そのことにはなれている。でもたまにこのような勇気がわいてくるコメントをいただくと、私にしかかわからない喜びがこみ上げてくるのである。
言葉を普段からまめにやり取りしていなくても、わかりあえる関係性というのが、私の中の人財産なのであると、これも又ある種の老いの花なのだと、ささやかに風雪を感じながら生きてきたものとして、暫しの感慨に誘われるのである。
そのコメントを、何度も読んでいたら、やはりちょっと五十鈴川だよりを打ちたくなった。時間があまりないのだが(菜園場に娘たちにもってゆく、わずかな野菜を収穫にゆくから)ちょっとだけ。
松岡先生から送られてきたチラシ |
さて、上京の目的のひとつは早稲田大学演劇博物館で来年の1月22日まで展示されている、松岡和子先生の、シェイクスピア劇翻訳に関する資料が閲覧されているので、見にゆくのである。というのは、来年から松岡和子先生の翻訳で、シェイクスピア作品の音読を始めることにしたからである。詳しく打つと長くなるのではしょるが、五十鈴川だよりを読んでくださっておられるかたは、理解が及ぶと想う。
古希を迎え、いよいよわたしは、これからの人生の持ち時間の過ごし方を考えるようになってきた。焦点を絞っていきることに決めたのだ。出来るだけ義理は欠くようにきめた。まず、家族や友人との生活時間を、第一番目にすごし生活する。2番目は松岡和子先生の翻訳で、もう一度新鮮な気持ちで、シェイクスピア作品の音読をはじめる。3番目に時おり企画をする、ときめたのだ。そのような折り、実にタイミングよく、先生の集大成とも言える翻訳に関するこれまでの歩みが展示されていることを、当の松岡和子先生から、チラシが送られてきたので知ったわたしは、なんとしても機会をつくって見たいと思ったのだ。
すでに11月から、個人的に一人で読み始めている、なかなか読めないヘンリー6世3部作を1部を読み終え、2部の3幕を読み終えたところである。小田島訳とは又異なる松岡先生ならではの解釈と細かな脚注が随所にある。文庫なので手軽に持ち運べる。読み始めると、次々と情熱のほとばしり、シェイクスピアへの畏敬と愛がふんだんに感じられ、私を魅了する。
なんだかはじめてシェイクスピア作品に触れるかのようなワクワク感が今の私を満たしているのである。もう何度も打っているが、私の好きな作品を中心に、高い山によじ登るようにゆっくり、ひとつずつ汲めどもつきせぬ数々の作品をじっくりと音読するつもりである。
実は、旧遊声塾のI子さんと二人で、昨日の午後松岡和子先生の訳でハムレットを2時間ほど我が家で音読した。年が明けたらささやかに音読する塾生を募集する手作りのチラシを作るつもりである。遊声塾とは全く異なる、敷居の低いどなたでも参加できる(音読したい意欲があれば)自由自在な前代未聞の、言わばシェイクスピア作品を音読することで、今を生きる人たちが新しい関係性を紡げるような塾ができないかと、想うのである。
これはきっと災い転じて、コロナ渦中を(今もだが)生きてきたなかで自然と私のなかで発酵して生まれてきた、ポストコロナを、あるいはウイズコロナをいかに生きるか、生きないのかという終わらざる問いのなかで生まれてきたものである。私たちは、全く新しいパラダイムの変換時代を生きているといった認識が、コロナやウクライナでの、いまも続く戦争で、いやでも深まってきている。時間がきた。
というわけで今朝はこれにて。タブレットを持ってゆくので、可能なら東京の娘たちのところでも、五十鈴川だよりを日録的に打ちたいと思っている。
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