10月31日は36回目の結婚記念日である。昨年も打ったかもしれないが、36年前はハロウィンでのお祭り騒ぎなどは全くなかったと記憶する。私などの世代にはまるで異次元のお祭り騒ぎのような感じでただ傍観者的に眺めている。時代は急激にあっという間に移ろう。
お隣の韓国イテイウォン盛り場では、狭い路地に密集した若者たちが犇めきあふれ、身動きがとれなくなり坂道を転げ落ち、日本人二人も含め154人もの命がなくなるという惨事が起きている。痛ましいという言葉が、どこかむなしいほどの、現代という世相をあぶり出しているかのような出来事である。
結婚記念日日だまりの花 |
地方に住んでいて、すでにほとんど社会的な役割を終えた高齢者の私ではあるから、今の若いかたたちの群れをなした、アノ集団行動には理解が及ばないにもせよ、だからこれ以上触れることは控えたいののだが、なにか不気味な嫌な予感の暗示を、私は感じてしまう。富と人口の一極が大都会に集中し、地方は高齢者率が上がる一方の過疎化のご時世である。
充分に老人であり、ほぼ親の役割を終え、地方にすむ古希の私は思う。あらゆるところにまるで毛細血管のように、経済力始め無数の格差が、この数十年で日本社会の隅々に張り巡らされ、未来に希望の出口が閉ざされているかのような今の時代、若者たちがハロウィンという格好のお祭り騒ぎに一夜熱狂するのは、十分に理解できるような気がしてしまう。もし私が若くて、なんの希望も持てなかったら、きっとあの匿名性の熱狂の渦のなかに身を老いていたかもしれない。
政治経済始め、あらゆる分野に人間力が落ちてしまった今の日本をわたしは感じる。日本社会はこの3年にもなるコロナ渦と、ウクライナでの戦争からの物価高騰続きでで、問題山積閉塞感極まる暮らしを大多数の庶民生活者が、都会人も田舎人も抱え込んで出口が見えない中を必死で生きている、というのが私の見立てである。かくいう私もその一人である。だから唯一のこの体でもって、この浮き世の世知辛さを、いかに生きるかまさに必死で考えるのである。私の場合は、五十鈴川だよりをうちながら。
解決策や、出口は容易くはおそらくは見つけられないだろうが、置かれた状況のなかで、いかに生きて行くのかいかないのかは、非情にも聞こえるかもしれないが、古希までなんとか生き延びてきた私に言えることは、まずはやれることは体が壊れない範囲で、何でもいやがらずやってみることだ。知恵を絞って考え、動いてみること。今の若者たちにエールをおくることはこれらいしか、私にはない。
世の中は甘くない、不可解、不条理、理不尽さに満ちている、のが偽らざる実感認識ではある。だが、太陽はあまねく全人類他生物すべてを平等に照らす。土と水と光があり大きめのプランターがあれば植物は育つ、希望は持とうと思わない限り永遠に持つことは叶わない。身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、ということばに何度も救われた私に言えることは、簡単に絶望したりすることは、もったいないということにつきる。
いきなり話は変わるが、私がシェイクスピア作品が好きなのは(すべての作品ではない)多種多様な登場人物の、王様から物乞いまでの台詞のなかに生きてゆく上でのヒント、あるいは勇気をもらえる言葉がかくも豊かにちりばめられているからである。
その気に入った作品の言葉を呪文のように唱えると、気分が上向くのである。我が体は言葉でできていることがよくわかる。気持ちのいい言葉を音に出し、音のシャワーを浴びる。私もかなりお金の弊害が染み付いている、のを否定しない。がお金がすべてではない、のだ。もうこの年齢になると、必要なときに必要なことが賄えればそれで足りるのである。
足りなければ動けるからだがあり、必要とされる限り働き、足りていれば好きなことをし、疲れたらなにもしなければいいのである。お金に頼らなくても楽しみは見つけられる。要は見つけられる体と頭があるか、ないかである。畏敬する作家、佐藤優氏は拝金教といっているが、小さい子供は遊びを見つける天才である。その事をもうみんな忘れてしまったのである。
とりあえず、今日一日やることがあり、今日一日を平穏に生活できれば、ありがたいという他はない。
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