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2022-08-22

島田雅彦さんの新聞記事を切り抜き、時代の足音の不穏さに耳を澄まし、思案する朝。

 ぐっすり6時間以上寝たら目が覚めたので、起きた。普段は目が覚めても床のなかでお決まりのルーティンをごそごそとやってのち、基本的には5時頃起きるのだが、今朝はなぜなのかいつにもまして早起きした。自分にとっての大切な読書と、五十鈴川だよりはほとんど朝の時間帯にしかしない。

読めないと思いますが

そのような生活をもう10数年にわたって続けている。信じてもらえないかもしれないが、18歳まで、私は本当に自分でも嫌になるくらい、持続力がなく、根気がなく3日坊主を絵に書いたような男であったのである。特に世の中に出るまでは。

だがそのような私ではあったのだが、あれから半世紀以上、世の中にもまれもまれ、少しずつ体に根を伸ばすかのように、自省反省を繰り返しながら、時にふらふらになりながら、そのようなだらしない自分を、少しでも変えたくて、今もそのような心持ちで生きている、のだ。希望の根を張り、見つける運動をやめない。

極めて取り立てての才能なんてまるでない、繰り返すが自己嫌悪に陥るくらいダメな自分であったのだが、気がつけば一番苦手であった、読み書くということが、あれから半世紀以上たって、一番好きになってしまってかのようなあんばいには、自分でも驚いている。人間は一人一人自分で考え、自分で歩くほかに道はない(歩かないことには)。

本当に人間の可能性といったものはわからない。やるやらぬの持続力の違いで、未知なる自分が掘り起こされて来る、その事は自分が一番承知している。だから面白いのだ。うまくは言えないのだが、昨日とはどこか、微かに異なる自分が、新鮮な自分を生きているからこそ、臆面もなく五十鈴川だよりを打ち続けていられるのでは、とさえ思える。

早い話、自己満足であれ何であれ、演劇で学んだ一回生の人生を、いかに生きてゆくのかいかないのか、という永遠の問いを、今もだが、これまでも自分に問い続けたからこそ、ごく普通の凡ぷも多少の変化の果てにいまをいきていられる気がする。その事を謙虚に己に問うには、静けさに満ちた夜明け前の、起きたばかりの新鮮な体に問うのが、私の場合一番なのである。

話を変える。昨日新聞記事を以前にもまして、丁寧に読むようになってきたことを打ったが、作家の島田雅彦さんが、統一協会と政治家の癒着がらみの体たらくと、国葬についての是非について鋭い意見をのべられていて感心したのだが、そのような勇気のある作家がまだ日本に存在していることに関して、どこか私はほっとする。

炭鉱のカナリアではないが、文学者や詩人といった凡ぷには遠い感性の持ち主は、ごく普通の人間には感知できないようなセンサーを持って、私のような凡ぷに知らしめてくれる。島田さんは安部前総理がテロで撃たれ、亡くなることを、事前に予告でもしていたかのような作品をかかれていたらしい。(読んでみるつもりだ)関心のあるか方は、M新聞のワイド記事をネットで読んでほしい。

詳細は省くが、島田さんは時代の不穏さをひしひし、ヒタヒタと作家のセンサーで感じるという。だが私が一番納得したのは、自分が感じる時代の不穏さが現実にならないように、との思いを込めて作品を書いている、とのべられていたことである。まったくこのような作家がいることに、私はどこかほっとする。理不尽なことや、どうもおかしいと感じるようなことに関して、勇気を持って語られる感性に脱帽する。ウクライナでの戦争、勃発から半年。核施設に変事が起きたら、と想うと凡ぷの私でさえ、いたたまれない。


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