我が母校宮崎県立冨島高校が二度目の夏の甲子園に今日の第四試合に出場したので、応援に出掛け、帰ってきたばかりでシャワーを浴び、五十鈴川だよりを打つ。夕飯もまだなのだが、夕飯を食べたら、打てなくなるだろうから。
試合が終わる頃の甲子園の空 |
空きっ腹と、心地よい疲れがあいまって、きっととりとめなき五十鈴川だよりになるだろうが、もうそんなことはどうでもいいから、私にとっての極めて長い暑い一日の、熱い古希男のおもいをわずかであれ打ち綴りたいのである。
創部以来、我が母校が甲子園の春の大会に出るという連絡を、3年前兄から受けたときには、正直耳を疑ったのだが、事実だった。3年前と言えばまだ私は手術をする前で、元気であったし、コロナもなかったし、出掛けたこともなかった甲子園にはじめて私は出掛け、スタンドから応援した。(3年前五十鈴川だよりを打っているはずである)
あれから3年、今度は夏の甲子園である。からだが動くのだから、もちろん出掛けた。我が青春に悔いなしという黒沢明監督の素晴らしい映画があるが、若き日にその映画見て、単細胞の私は多大な影響を受け、白黒映画の原節子さんの美しさに、魅いられたことが忘れられない。
あれから半世紀も時は流れ、孫にも恵まれいいおじいさんの私なのだが、心の片隅に未だあの頃の、御しがたい天の邪鬼が棲んでいて、我が老人生活に悔いなし、でゆくのだという、血気盛んにはほど遠いのだが、まあそういう自分が未だ存在していて、クーラーの部屋で応援するのはじいさんのやること、十分に動けるのだから、酷暑のなか出掛けたのである。(熱中症にはならない自信があったのだ)
時間というものは不思議である。早起きの私はもうそう当の時間休んでいない。神戸についたのがお昼過ぎ、三宮で焼き肉のランチを食べ、美味しいコーヒーを飲み、15時に甲子園についた。内野席は売り切れ、仕方なく外野入り口に向かう。途中3塁側入口に母校の選手や父兄関係者、応援団ほかの姿が目にはいったので、半世紀前の卒業生であると名乗り、岡山から応援に来たと名のったら、皆が一気に顔が緩み喜んでくれたのには、こちらが恐縮したが、着いてそうそうふるさと人たちに会えたことで、来てよかったとの思いが込み上げてきた。
午後3時50分試合開始。高校卒業以来(3年前も聞いた)52年ぶりに聴いた校歌は古希男の奥深いところを揺さぶり、高校時代のあれやこれやの思い出が稲妻のように思い出された。青春の光と影という歌があるが、まさに人生は光と影が綾をなして、光陰矢の如し、非情残酷理不尽に過ぎてゆくのである。だがだがである。母校が甲子園に出るなんて事は、私にとっては奇跡と言えるほどに十二分な出来事なのである。
試合開始から終わるまで、時のたつのを忘れて冨島高校の後輩たちの姿を追い、青春まっ盛りが放つ輝きに、古希男は何度も感謝の言葉を胸のうちで唱えていた。18才までを過ごしたかけがえのない我がふるさと、古希の節目を祝ってくれるかのような、母校の快挙。辛いことが多いのが人生だと、私もおもうが生きていたからこそ、母校の快挙にも立ち会えたのだ。
素晴らしい後輩たちの清々しさに古希男は打たれた。球場の外に出ると敗れたので、ふるさとに帰るバスを待つ応援団や関係者の姿が、またもや目にはいった。私は応援団の高校生や、後輩の野球部員、冨島高校のマークは目にはいったので、誰彼となく感謝の言葉をかけた。
そのとき一人の私よりひとつ年上のよく知る母校の近くの港町出身の女性とたまたま言葉を交わすことがあり、名刺をいただいた。名刺をよく見る、今は神戸の灘にお住まいのかたであった。ふるさとを離れて半世紀、彼女も私と同じような思いで、甲子園に駆けつけたのであろう。きっとそのような想いの同世代がたくさん駆けつけていたのだろう。だがそのような同世代の一人の女性に出会えたこと、犬も歩けば棒に、(失礼)あたるをいまも信じている私としては、慶賀である。動く、動けること、甲子園球児の姿を見ることができることこそが平和である。その事を噛み締めながら、夕闇迫る甲子園球場をあとにした。
先日 甲子園で棒に当たった富高出身の先輩 夛田です。
返信削除五十鈴川だより拝見しました。
やはり文系ですね 素敵な文章で感動しました。この様な文章がすらすら書けるとは。
当方は、体育系で身体を動かす方が合っています。週5日ジョギンをして健康に努めています。
又、富高が甲子園出来たら嬉しいわー 必ず行きましょう
ブログ楽しみにしています